シバケンの天国
パソコン大魔神
奥の院NO.3
奥の院NO.1 | 奥の院NO.2 |
パソコン大魔神の妄想
NO.EPI エピローグ
NO.11 エピソード11「LEDランプ開発秘話(4)ボンディング編」
NO.10 エピソード10「LEDランプ開発秘話(3)リードフレーム編」
NO.9 エピソード9「LEDランプ開発秘話(2)角形ランプ編」
NO.8 エピソード8「LEDランプ開発秘話(1)丸形ランプ編」
NO.7 エピソード7「株式上場ドタバタ劇」
NO.6 エピソード6「自衛消防隊が火ダルマ」
NO.BREAK1 ブレーク1「京都の野良猫」の話
NO.5 追記
NO.5 エピソード5「LED製造部として逆転復活」
NO.4 エピソード4「LED製造係が撃沈した事件」
NO.3 エピソード3「ラッピングが窮地を救う」
NO.2 エピソード2「購買爆破事件」
NO.1 エピソード1「ロームは48年前に倒産していた?」
NO.PRO プロローグ
NO.0 <はじめに>
エピソード
NO.0 <はじめに>
<記=シバケン>
パソコン大魔神。
こと、宇梶正弘君の、何ちゅうかの、妄想<!>
尚、実名なるは、自身、記載してるです。
<参考=NO.1 エピソード1「ロームは48年前に倒産していた?」>
イヤ、
「パソコン大魔神コーナー」の、「供養塔その57」<NG−1996>
(10/02/14)
を最後に、冬眠しまして。
イヤイヤ、「パソコン大魔神コーナー」の、質問受理で、打電するも、応答無くなってもてねえ。
がしかし、「コーナー」なるは、惰性的、閉めもせず、現在唯今まで、継続して来たですが。実質的、開店休業状態。
イヤイヤ、
シバケンが返答してますので、継続の直近のが、「供養塔その58」<NG−2018>
(21/01/18)。
その以前と、なればの、「無縁仏納骨堂NO.6」<X−416>
(18/08/14)。
実は、
それ以前と、なれば、ちょく、ちょくと、受電してまして。イヤ、質問を。
がしかし、所謂の、パソコン絡みの、「Q&A」も、当世、検索、探索すれば、容易に応えなり、適切なるの回答得られるです。
まあ、言うたら、10年一昔の、更には、2000年辺りの状況とは、激変してましての、丁度良い機会也と、締めるかと。
の、次第。
まあねえ、単に、「質問箱」を削除するだけの話ですが。
にも、関わらずの、何故に、パソコン大魔神、こと、宇梶正弘君の、妄想投稿、掲載かと。
なればの、基本、現「ローム株式会社」。当時には、「株式会社東洋電具製作所」でしたが。
時代からの、話でして。
且つは、彼、辞めて、何年<?>。当方よりも、5年の後輩で、在籍8年。故に、早くに、でして。
最早の、彼をば、承知のなんか、ロームには、在籍してませんです。
申せば、当方の事でさえ、知ってるは、居てるの哉と。まあ、居てませんです。多分なら。
の上で、彼が承知の面々なら、当方も、重々の知ってるです。遠の昔に、退職なり、リストラされたり、してるですが。
での、
「先ずは、プロローグや!」
とは、彼の、メールでの、文言。
(22/04/02)
NO.PRO プロローグ
2022年1月中頃、突如「佐藤研一郎」氏が夢枕に現れた。
「佐藤研一郎」とは言わずと知れた「ローム株式会社」の創業者、亡くなって丁度2年になる。
「何の用や?」と聞くと、藪から棒に「お前、俺に内緒にしてる事が沢山有るやろ〜。」と言う。
「確かに、LEDに関しては、特許も取らず、技術標準書にもあえて書かなかった事が沢山有るで〜。
俺の頭の中にしか残っていない。それも、近々消えて無くなり、永遠の謎になる。それでエエやろ〜!」
と言ったら、「それは困る。今やっている連中に聞かせてやってくれ!」と言う。
「何でやねん?」と聞くと、「今のロームが有るのはLEDのお陰や!。ところが、会社がデカくなったら変な方向に走り出したんや!」……と。
「俺がロームを辞める時に”LEDさえやっていれば絶対に潰れへん”と言った筈や。そやし、あれから40年潰れんと大きな会社になったやんか。エラート音楽事務所とやらで好きな事もやれたやろ!」と言ったら
「イヤイヤ、最近イラン事までやってるんや。」と嘆く。
「そんなもん、知るか!。俺の知った事や無いで。」と断ったら「そんな言わんと、頼むがな。」と言って消えてしまった。
思い返せば、ロームを”円満退社”した後、京都でロームの同期社員3人とコンピュータ・ディーラを創業、
日本IBMのトップディーラになり、その業績が評価されて六本木の日本IBM本社で中小型機の商品企画に従事、
「PS/55」の在庫処理から「DOS/V」の開発、「PS/V」から「Aptiva」の商品化、
NEC「PC−98」シリーズの世界市場からの駆除、「コンピュータの巨人」と言われた巨大グローバル企業「IBM」の”サービス・ビジネスへの大転換”と大暴れしたが、バブル経済の崩壊の余波と阪神大震災で一気に失速、
会社を自主廃業し、「パソコン大魔神」としてローム時代の先輩のシバケンさんの陰に隠れていた。
それも20年程前に一匹の子猫を拾った事から、突如”京都の野良猫”の研究に嵌り、10年程前からはコンピュータの世界からも完璧に離れ、猫嫌いの同和や朝鮮人と京都市や京都府警本部や京都地検を巻き込んで、まるで「ヤクザの抗争」のような熾烈な市街戦の日々を送っていた。
すでに二人の子供は独立し、嫁さんとも別居していて、今は僅かな年金を頼りに、91歳の母親と一匹の猫とで、あまり静かでない余生を送っている。年齢も丁度70歳となり、自動車の運転免許も自主返納した。20年前に拾った猫は昨年12月のニャンニャンの日(22日)死んでしまい、残った一匹の猫と母親を看取った後は、「猫の国」へ行こうと
考えていたニャ。
そこに突如「佐藤研一郎」氏の亡霊が現れた。まったく、死んでも世話のやける迷惑な奴や。
(22/04/02)
<記=シバケン>
<参考=NO.1958 ローム創業者の佐藤研一郎氏が死去>
(20/01/24)
(22/04/02)
NO.1 エピソード1「ロームは48年前に倒産していた?」
私(宇梶正弘 当時22歳、当然独身)は昭和49年に当時の「(株)東洋電具製作所」という資本金1,600万円の薄汚い町工場に入社したんや。
人事課富沢の退屈な新人社員研修を終え、最初に製造実習で放り込まれたのが、亀位係長率いるLED製造係やった。
実習の責任者として紹介されたのが、今は亡き、若き「田中治夫」さんやった。第一印象は「こいつ、マトモや無いな!」。
これが、その後の人生の師匠となった「治夫(はるお)さん」との出会いやった。
ところが、いざ実習となった途端、部下の「奥くん」に振って、本人は何処かへ消えてしまった。結局実習とは名ばかりで、奥くんの作業に付いて周るだけやった。後で知った事だが、当時のLEDは「ガリウム砒素」という猛毒の結晶で、シリコンウエハとは比較にならないほど高価な材料で、誤って割ろうものなら給料が軽く吹っ飛ぶようなものやったそうな。その「ガリウム砒素」ウエハ、シリコンのような円形では無く、三角形やら長方形やらバラバラの形状、大きさもバラバラやった。中にはどう見ても”破片”にしか見えないものも有った。
ところで、LED製造係の実習が始まって三日目で早くも「ウ〜サン」というあだ名を頂いた。そこで以後は私を「ウ〜サン」とする。
LED製造実習で一番ヤバかったのは「拡散工程」やった。石英製のトレイの溝にガリウム砒素ウエハを縦に並べて直径10センチ、長さ50センチ程の石英アンプルに入れ、少量の亜鉛の粒を入れて真空ポンプで中を真空にする。その状態で酸素水素バーナーを使ってアンプルを封入する。それを1,000度℃以上の拡散炉に入れる。そこまでは驚く問題では無いが、問題はその後や。何故か濡れたタオルを沢山用意して、真っ赤に焼けたガリウム砒素ウエハの入った石英アンプルを炉から取り出し、その濡れタオルを石英管に一気に被せたんや。当然、「ジュ―」と湯気が上がる。
そこで治夫さんが「ここで石英管がパキッとイッたら、このフロア全員即死やで!」薄笑いしながらつぶやいたんや。
濡れタオルを取ると透明なはずの石英管の内側が銀色になっていた。これはウエハの砒素と亜鉛が置換されて、「砒素」が石英管の内側に析出したんやて!。
確かに、もしガスの状態で漏れたら「アウシュビッツのガス室」と同じや。
治夫さんがマトモで無いという「疑惑」が「確信」に変わった瞬間やった。
驚愕の拡散工程の後はアルミの電極を作り、ラッピングをした後、裏メタルの金蒸着をしてウエハ・プロセスは終わりや。
この頃製造していたLED製品は、ランプ用では無く、「8」の字を表示する7セグメントのLEDアレイで用途は電卓の表示用というものやった。
しかし、その当時日本国内で販売されていた電卓はニキシー管か蛍光表示管を使った文字通り卓上サイズの大きなもので、電池駆動の手のひらサイズのものは無かった。販売先は日本のメーカーでは無く、香港に出荷するという話やった。
さて、製造実習の終盤になって「ウ〜サン」の一生を左右するような大事件が起きる事になる。それは、チップ状に切断する前に電気的な試験をするプローバー工程での出来事やった。ウエハの状態のまま電極を当ててセグメント単位で電流を流し、ダイオードとしての基本的な電気特性を試験し、規格をクリアしなかったセグメントが一つでも有れば「不良品」と判定して赤いマーキングをするものや。ウエハの周辺部分は形状が欠けたりして
いるので、当然「不良品」として赤インクが落ちる。ところが、ウエハの中心部分は「良品」と判定されるのに、大半のチップは赤インクが落とされる。
顕微鏡で見ていると、セグメントは光っているのに、動作電圧が基準値を超えているようやった。
プローバーはチップの寸法をセットすると自動的にピッチ送りするため、最初の10個程の動作状態を顕微鏡で確認した後は機械が勝手に次々とテストを行う。終わればウエハを載せた真空チャックが自動的にプローバーから出てくるので、マスク・アライナーのように常に顕微鏡を覗いている必要は無いのだが、セグメントが綺麗に赤く光るのが面白かったので、ずっと顕微鏡を覗いていた。すると、発光している部分がプローブ針が触れた瞬間に僅かに沈んでいるように見えた。「何か変やな!」と思ってプローバーから出て来た真空チャックを横から覗いて見ると、ウエハが僅かに反り返って周辺部分が浮いていた。そこで、事務所で使っていた製図用の「スコッチ メンディング・テープ」を使って浮いている部分を真空チャックに張り付けて見た。
すると、パターンが欠けた周辺部を除いてチップの殆どが「良品」と判定されたんや。そこで、その前にテストをして真っ赤になっていたウエハの赤インクをアルコールで洗って、再度プローバーに掛けたところ、逆に殆どが「良品」と判定されたんや。
そこに、何故か治夫さんがプローバー室に入って来て「ど〜や?」と声をかけて来たので、「こないしたら殆ど良品になるで!」と説明し、ついでに、「真空チャックを改造したらイケるやろ!」と改造案を話したんや。すると、突然に怒り出して「エエと思ったら直ぐヤレ!」という。「亀位さんの許可をもらうわ!」と言ったら、「そんなもん、要らん。すぐヤレ!」と怒鳴られたんや。そこで、プローバーから真空チャックを取り外し、工作室に行って「ボール盤貸してクレ!」と言って勝手にボール盤を使い改造を始めたんや。すると、工作室の宇野さんが来て「お前、何や!」とイチャモンを付けて来た。事情を簡単に説明して事無きを得たが、新入社員が勝手に工作室に入って来て機械を勝手に使うというのは有り得ない事やったと思う。
「後片付けしとけよ!」と釘を刺されて許可してくれた。
真空チャックの改造が出来てプローバー室に戻ると亀位さんが待っていたので、使い方を説明した。「後はやっとくわ!」という事で、その日は終了。
後で聞いた話だが、その晩から亀位さんが毎晩徹夜で溜まっていた不良品の山を全部やり直したそうな。ガリウム砒素のウエハは猛毒なので、簡単に廃棄出来なかったため、過去の不良品はプローバー室の隅に積み上がっていて、その大半が「良品」として香港に出荷されたらしい。
これも後で聞いた話だが、香港で製品を待っていたのは当時”行方不明”と噂になっていた社長(佐藤研一郎)やった。この時期は第二次石油ショックの影響をマトモに喰らって国内の受注が激減。一部には「倒産するんやないか?」という噂も有った。実際、電気代の支払いや機器のリース料の支払いが滞り、12月は給料も危ないという噂が有った。その危機を救ったのがLEDやったというのは、何年か後で社長本人が「ウ〜サン」に話してくれた。「あの時は子供の預金まで降ろして給料に当てたんや!」........と。
(22/04/02)
<記=シバケン>
<補足>
ここに、出てるの、田中某なるは、当方<シバケン>とは、同期入社で、同年。
5年程の以前に、亡くなったです。とは、諸般の風の便りで、知ったです。
<シバケン>
NO.2 エピソード2「購買爆破事件」
LED製造係での実習の後は、ICの製造実習やった。ICはLEDと異なり拡散工程が2回有る。当然フォトレジ工程も増えるため、100を越える工程数になり、製品を持って周るのは不可能やった。そのため、見学会に毛が生えたような結構雑な実習やった。
後は配属が決まったら、そこで真剣にヤレ!という事やろ。
入社3か月目で配属先が最終的に半導体製造部の設備課となった。勿論、「半導体製造技術なら判るが、何で設備課なんや?」と不満やったが、文句を言っても始まらない。「ま、やって見るか!」と考え直して奥野課長(当時)の下の三宅係長の部署に配属されたんや。この係は、半導体製造工程の機械設備をメンテナンスするのが仕事で、メンバーは古田、下野、中谷という割合真面目な連中ばかりで、LEDの治夫さんのようなブッ飛んだ変人は居なかった。
しかし、第二次石油ショックの影響は深刻で、事務所は勿論、クリーンルームの中まで蛍光灯が間引かれて、何処も薄暗い陰気な雰囲気やった。2階クリーンルームの製造設備には「有休設備」と書かれた張り紙が張られ、半分以上のマシンが止まっていた。ただ、マシンが動いていなければ故障することも無いので、暇潰しがしんどかった。「修理に行って来るわ!」と言ってクリーンルームに入り、オペレータの女の子達と遊んでいたり、クリーンベンチの裏で居眠ったり、隠れる所は至る所に有ったが、考える事は皆同じで直ぐにバレるというのが困った事やった。
困った事と言えば、東洋電具製作所というイカれた会社に半年も居ると結構馴染んでしまうという問題やった。
とにかく、上下関係が全く無く、課長・係長・主任という肩書はみんな無視していた。例えば、亀位係長は「亀ちゃん」、田中主任は「治夫さん」
人事の芝間課長に至っては「芝間」と呼び捨てやった。神田常務でさえ「カンちゃん」やった。上司だろうが先輩であろうが、あだ名で呼ぶのが社内標準やったんや。従って「ウーサン」と呼ばれるのは或る意味誇りでも有った。
それと、仕事のやり方も常軌を逸していたんや。仕事というのは自分で探して勝手にやるのが基本。上司の指示を待っているような奴は要らない。
現場から「何とかならん?」という話が有ると、勝手にアクションを起こすんや。機械に何か問題が有れば、メーカーに相談して改良可能なら勝手に発注する。メーカー側が頼りなければ勝手に部品を調達して改造する。その時上司に許可を得るという概念は全く無い。逆に上司から「今、何してるんや?」と問われても「見て判らんか!」と言い返す始末やった。
それ程に東洋電具製作所という会社はデタラメな会社やった。しかし、この会社の異常な活力の根源は、ここに有ったと思う。
そんな悪しき慣習が馴染んでしまった頃、購買課で大事件を起こす羽目になったんや。正確な事は覚えていないが、確か加工部品の事で加工業者と喧嘩になった。要するに図面通りに仕上げて来なかったので、「ここが間違ってるやろ!」と文句を言って「やり直ししてクレ!」
と指示したところ、「材料手配からせんならんので、納期がかかる」との事、「そんなら、もうエエ!。自分で加工するわ!」という事で、業者が間違えた部品を引き取った。その時、立ち会っていたの購買の担当者(確か、大西やったと思う)に「自分、図面読めるやろ!。最低限寸法のチェックくらいせい!」と怒ってやった。後で知った事だが、購買では図面が読める奴が誰も居なかった。先輩達に聞いたら「寸法違いなんて普通やで!」との事、要するに加工部品に関しては完璧にノーチェックやったのが発覚したんや。
そんなこんなで頭に来ている時に、北工場の3階に上がったところ、吉野課長のところにベージュ色のジャケットを着たパーマ頭にサングラスという誰が見ても場違いなオッサンが立っていた。勿論、直感的に「社長(佐藤研一郎)」と判ったので、挨拶くらいはしてやろうと思い声をかけた。しかし、その直前に購買と喧嘩した足だったので完璧に言葉を間違えた。何と「社長やんか!。何処にイッとったんや!」。
それを聞くなり「お前如きに”何処行っとった”なんて言われる筋合いはない!」と大激怒。そこは平謝りをして、購買での一件を話したんや。
その中で「購買は業者と”馴れ合い”になってる違う?」という話をした記憶が有る。
すると、翌日に三宅係長の所に購買から電話が来て、「1階ロビーの会議室に来い!」との事、そこで三宅さんと二人で会議室に入ると、購買の藤原課長(藤原本部長の兄さん)を真ん中にして、購買課の全メンバーが怖い顔で鎮座していた。そこで「アンタ、社長に何言うたんや?」と尋問され、三宅さん共々陳謝する羽目になった。何せ、多勢に無勢、喧嘩して勝てる相手では無かったんや。
ところが、その翌日、また3階の廊下でパーマ頭にサングラスのオッサンと鉢合わせになった。そこで、「昨日はエライ目に遭うてな〜」と購買に吊るし上げられた件を話したら、話が終わる前に突然消えてしまった。
翌日、購買の藤原課長が人事課に飛んだというニュースが全社に流れた。
佐藤研一郎という人は良く「瞬間湯沸かし器」と言われるが、「ウーサン」に言わせると「人間手榴弾」や。
以後、社長の前で他部署の悪口は「絶対に言うまい!」と心に決めた。
(22/04/06)
<記=シバケン>
余計なるの話ですが。
ここで、半導体製造部の設備課の奥野課長(当時)が出てるですが。
この方の部署に、工作室があったです。
その工作室が、分離独立して、現在、亀岡にある、「ロームメカティック」と成りましたです。
(注=シバケン宅より、徒歩で、5分、10分程度です。)
分離独立したの当時の、元々の、工作室の面々。
基本、全員、「ロームメカティック」に移動ですが、一部は、どしても厭と、生産システム開発部に止まったり、部署毎にあるの、設備担当に、移動したりもしたです。
で、その当時、「ロームメカティック」に移動したの面々で、最後まで、居たのが、3年、4年程の前ですかねえ。遂に、嘱託契約(現在65歳まで)も、期限切れとなり、退職したです。
結果的、「ロームメカティック」で、当方承知のが、全くの、居なくなりました。
尚、
奥野課長(当時)は、その後、DIODE製造部の部長になり、簡単には、当方の上司に。
がしかし、諸般で、部署替えと成り、成ったの矢先哉に、大腸癌で、入院。
既に、部署、違うですが、何名かで、入院先に、お見舞いにと。
一旦、復帰されたですが。1年後再発で、結果的、亡くなったです。
既に、30年程の昔の事です。
葬儀には、参列致しましたです。
更なるの、余計なるの話。
当時には、癌、特には、大腸癌なるは、そは、保たずと、されてたです。
当人も、覚悟してたは、会話の端々で、伺えたです。
(22/04/06)
NO.3 エピソード3「ラッピングが窮地を救う」
半導体プロセスというのは、最初から最後までクリーンルームの中で埃などとは無縁の近代的な製造ラインやと思われているが、実は1ヶ所だけ「油まみれ」「泥まみれ」のド汚い製造工程が有ることは知られていない。いや、知らんでエエ!。
半導体のクリーンなイメージを根底から揺るがす、言わば「北川景子の肛門」とも言える有り得ない製造工程なんや。
これを、人呼んで「ラッピング工程」と言う。
半導体ウエハを機械的に削って薄くするという乱暴な作業で、何と「ウ〜サン」はその道の権威なんや。何しろ専門が「結晶材料の機械加工と加工変質層の評価」で、精密機械学会でも結構知られていた。そんな「ウ〜サン」が東洋電具製作所に招かれた筈やったが、事も有ろうに「設備課」やて!。そりゃ〜腐って当然や。しかし、実際に入社して判ったことだが、当時の東洋電具製作所には研究部門が無かったんや。それでも吉野さんや木下さん、峯松さん、山岸さんなど学究肌の人が何人か居たが「半導体技術研究所」では無く、何かトラブルが起きた時の救援隊のような感じやった。つまり、「ウ〜サン」は入社した会社を間違えたんや。それに気付いた時には、東洋電具製作所の悪しき慣習に完璧に染まっていた。
当時、ICやトランジスタは2インチのシリコンウエハを使用していたので、ラッピング工程が有ったのはガラス・ダイオードだけやった。LEDはエピ(エピタキシャル層)がウエハの裏に若干回り込むため裏メタル蒸着前にラッピングが必要やった。
何故、ガラス・ダイオードだけがラッピングをしているのかと言うと、チップサイズがICやトランジスタに比べて小さいため、シリコンウエハを薄く削っておかないと、チップがサイコロのようになって、ガラス管の中でコケてしまい不良品になってしまうからで、そのラッピング・マシンは社長(佐藤研一郎)が何処ぞで中古のラップ盤を買って来て始めたらしい。
確かに、LED用のラップマシンの隣に油でドロドロに汚れたラップ盤が有った。その場所は、南工場一階の食堂の下の明らかに”意識的に隠している”という場所やった。ラップ盤という機械は、配管継手の端面の平面度を出すための工作機械で、旋盤やフライス盤と違ってレコード・プレイヤーの化け物みたいなルックスのマニアックな機械や。
ところが、突如として、ガラス・ダイオードの製造工程を津山市の「シンコー電機」に移設するという話が持ち上がった。
そこで、ド汚いラップ盤を「何とかせい!」との指令が三宅係長から発せられた。もともと中古で買って来たマシンなので、少しは綺麗にして送り出してやろうかと考え、マシン全体にこびり付いた油を灯油を使って洗い落とし、アイボリー・ホワイトの塗料を買って来てマシン全体を塗り直してやった。そして、まるで新品のようにして「シンコー電機」に送り出したんや。
ところが、一台残ったLED用のラップマシンが突如動かんようになってしもた。マシンを分解して調べて見ると、研磨剤の廃液が溝から溢れてギヤ・ボックスに入り込み、歯車を研磨して歯が無くなってしもうたんや。「アチャ〜!」と思っている所に、何と間の悪いことに、パーマ頭にサングラスのオッサンが乱入してきて「お前、俺のラップ盤壊したな〜」と喚き出した。ところが、「アンタのラップ盤はシンコーに行ってるわ!」と言う前に何処ぞに消えてしもた。また「人間手榴弾」が爆発するかと思ったが、不思議にもその後何の音沙汰も無かった。そりゃ、東洋電具製作所を救った命の恩人を爆破するわけには行かなかった筈や。
その後、LEDのラップ盤はギアボックスを交換して無事に復旧した。
その頃、やっとICの注文が増え始めたが、そこで大きな問題が持ち上がっていた。シリコンウエハが2インチから3インチになって生産量が増えたのは良かったのだが、パワーアンプ用IC「BA511」で規定の出力が出せないという大問題が発生していた。
第二次石油ショックの余波で業界全体が死んでいたが、ラジカセがヒットして突然に注文が入って来たんや。それなのに、熱暴走を起こしてトラブルが続出、出荷がままならない状況になっていた。ICの生産技術では放熱板の厚さを厚くするとか、銅板にするとか
色々と対策を施したが、どれも決定打にならず混乱状態が続いていた。
そこで「ウ〜サン」が「削ったらエエやんか!」と試しにシリコンウエハを半分の厚さにしてやった。すると、熱暴走のトラブルが一挙に解決し、「BA511」が大量に出荷できるようになった。
以後、3インチウエハのICとトランジスタは全数ラッピングをする事になり、慌てて新しいラップマシンを発注することになった。
それでも、ラッピング工程は「汚い工程」とされて、表舞台に立つ事は無かった。それでエエんや......(泣)。
(22/04/07)
<記=シバケン>
ここで、「ガラス・ダイオード」が出て来たですが。
先に、記載の通り、当方、DIODE製造部に所属してたです。
彼の言う、「ガラス・ダイオード」の事。
イヤ、
基本的、これでも、わかるですが。
正確には、「ガラス・シール・ダイオード」。
詰まり、「ガラス封止(型)ダイオード」でして。そのままに、「ガラスで、封止した、ダイオード」。
何を封止かと、言うと、記載されてるの、「チップ」を。
基本的には、DIODE製造部では、「チップ」とは、呼称しておらず、「素子」。
ここで、記載されてるの、ラッピング工程云々のです。
DIODE製造部では、2インチなり、3インチ、更には、5インチも出て来たですが、の、ウェハーに、諸般の工程経て、ダイオードの特性を出させ、ガラス管に封入<封止>出来るの大きさに切断<ダイシング>の一連の工程を、「素子工程」と、称したです。
まあねえ。
再度、「チップ」でも、「素子」でも、その辺り、半導体の製造工程なりを知識だけでもあれば、同意であるは、わかるです。
まあつまり、どちが正しい呼称かと、なれば、どちも、正解。
但し、
DIODE製造部では、基本、「チップ」とは磐言わずに、「素子」でした。理由は、上記の通り、「素子工程」と、称してた故。
での、余計なるの話の、「DIODE製造部」でも、「ダイオード製造部」でも、どちでも結構なると。
ンの、デハの、更なるの、余計なるの話の、正式なるの表記、名刺なりでは、どしてたかと、なればの、「ダイオード製造部」。
「Tr」なら、「トランジスタ製造部」で、カタカナ表記。
実際には、そこら、適当でしたです。要は、わかればと。
オッとの、ならばの、「LED製造部」ねえ。
これは、そのままの、アルファベット表記かと。
ででの、
モっと、余計なるの話の、ここで、出てるの、山岸なるは、同期入社組です。これは、まだ、生存してるです。
(22/04/07)
NO.4 エピソード4「LED製造係が撃沈した事件」
東洋電具製作所が倒産寸前やった時、陰で支えたLED製造係はひたすらマイペースを貫いていた。
いや、現実はマイペースと言うより「除け者」とか「厄介者」という扱いやった。確かに、考えて見れば当然で、そもそもの材料が「ガリウム砒素」とか「ガリウム燐」とか、シリコンの世界からするとP型シリコンとN型シリコンを作成する不純物が、それだけで固まった塊や。それが同じクリーンルームの中で作業をするという事自体、有ってはならない話なんや。
当然、使用する設備はICやトランジスタとは厳格に区別され、共通で使用する設備は一つとして無かった。
当時は北工場2階で、東側トランジスタ・ICのフォトレジ工程と西側の拡散工程に間に割り込むようにLEDの製造工程が占拠し、1階に至っては中央部に有った「クラス100」という最もクリーンな一等地に、あの驚愕の拡散工程が有った。なぜ、その様な
配置になったかというのは謎なんや。常識的に考えれば、トランジスタ・ICの工程とLEDの工程はフロアを別にするか、建物ごと別にするべきなんや。
ところで、トランジスタ・ICの製造工程が大幅な受注減で暇やった時、LEDだけは異常に忙しかったんや。
エピソード1で話した香港向けの電卓用チップを使ったハンディー電卓が欧米で大ヒットし、ほぼフル稼働状態やったんや。
あの悍(おぞ)ましい「ラッピング工程」もマシンの歯車が擦り減るほどの忙しさやった。まるで”破片”のようなガリウム砒素ウエハも”おむすび”のような大きなサイズになっていた。また、北工場の3階には新たにLEDのQC係が作られていた。
それでも、LED製造係が邪魔者扱いされていたには、幾つかの理由が有ったんや。まず、人数そのものが少なかった。所詮はダイオード。P/N接合は一つしか無いので、フォトレジ工程は発光部とアルミ電極の2回だけ、あの恐ろしい拡散工程も一回だけや。おまけに、ただ光ればイイだけなので、周波数特性もノイズも関係ない。更に、チップでの出荷やったため、組立工程が無かった。従って、標印工程もファイナル・テストも要らんかった。留めは、外国部経由の出荷やったため、営業部の目に触れる機会も無かったんや。LEDに関わっていた人数は全員数えても10人ほど、「ウ〜サン」のような設備課などの部外の関係者を含めても20人程度やった。(それで東洋電具製作所を支えてたんやで〜!)
ところがや......。
突如、「液晶ディスプレイ」なるものが、商品化されたんや。国内の電卓メーカーはこの液晶ディスプレイに飛び付いたんや。
特に気合が入っていたのは「カシオ」と「シャープ」やった。なにしろ、液晶は自分で光らないため、消費電力がほとんど無い。
単三電池4本で何ヶ月も使えるんや。これには流石のLEDディスプレイも太刀打ち出来ず、一気に墜落することになってしもた。
電卓用ディスプレイに特化していたLED製造係は作るものが無くなってしもた。そうなると、日頃の態度が災いしてか、見事に撃沈されて「LED製造係解散」が発表された。魚雷を撃ったのが誰かは定かで無いが、少なくとも数発の魚雷が命中したらしい。そんなわけで七条の「忍者屋敷」でお通夜のような「解散式」が行われた。
ただ、そこにパーマ頭にサングラスのオッサンが居なかった。
そのオッサン、北工場一階の役員室で、「大爆発」してたらしい。
藤原本部長や神田常務は瀕死の重傷、そのほかに半導体製造部の依田部長や小谷課長、黒沢課長らが木端微塵に粉砕された。
(22/04/07)
記=シバケン
このエピソードなるは、当方的、全くの知りませんでしたです。
要は、一度、お取り潰しになったんやと。
尚、登場人物なるは、重々の承知してるです。
依田部長、黒沢課長なるは、その前は、抵抗器製造部に所属。
依田部長は、当方、入社試験の最終面接の時の、面接者、でしたです。
質問、種々あったですが、1つだけ、覚えてるのは、その当時、モーレツか、マイ・ホームかと。
話題になってたですが。
当方の場合、どちらかと、尋ねられ、モーレツ派と、返答したを覚えてるです。
黒沢課長は、人の良い方で、憎めぬ方。
当方の入社当時、第五工作係の係長でした。要は、1W、2Wのモールド型の抵抗器を製造。
又、金属皮膜抵抗器も、製造し出してまして。
当方、入社早々、その、金属皮膜抵抗器の実験させられたです。
中身、抵抗値の工程間変動を抑えるの手段。
で、
昼間は、実験。
夜は、工程で、作業者させられてたです。三日、三晩、徹夜で、作業したりで、三日目、倒れたです。
イヤ、ほんと。
意識失い、気が付けば、和室で、寝てたです。
当時には、労働基準法等々、無視<!>
ですが、お陰様で、残業代が、ガッポリで、初任給33500円でしたが、手取りで、5万円あったです。
てな事、覚えてるです。
(22/04/07)
NO.5 エピソード5「LED製造部として逆転復活」
社長の「鶴の一声」で芦田さんが率いる「LED製造部」が鳴り物入りで発足した。何と、半導体製造部と同格の”製造部”や!。
しかし、何かがおかしい。
先ず、生産管理課が無い。そりゃ〜そやろ。作るものが無いんや。それとQC課も無い。品質を管理する物が無いんや。
そんな”製造部”って何なんや?.....と誰でも思うやろ!。皆が首をかしげている時、「ウ〜サン」に「LEDへ行け!」との指令が下った。「オイ!、待ってくれ!、設備の人間こそ要らんやろ!」と言ったら「イヤ、商品設計や!」やて。
それで直ぐに判った。アイツや!。パーマ頭にサングラスのオッサンや。「困った時のウ〜サン頼み」かいな!。
それにしても、「結晶材料の塑性加工」の権威に商品設計をさせるというのは、余りに「無茶振り」が過ぎひんか?。
図面が引けるからって、設計というのは判らんでも無いが、良く考えて見れば当時の東洋電具製作所には「エピソード2」の如く図面を読める奴さえ少なかったんや。そこで図面が引けるというのは「超々・特殊技能者」やった。確かに、電子部品メーカーの分類に属する企業なので電気系の人間は多かったが、メカ屋はパンダのような希少動物やった。
「.....で、何の商品設計したらエエんや?」、開発担当の神野さん(弟)に尋ねると、何と「それを考えろ!」との事。
思わず絶句したがな。要するに、「LED製造部が”何を作るか”から考えよ」という信じ難い話やった。
芦田部長は朝から新聞を読んでいるだけ、神野さんと川上くんは何やらゴソゴソとやっている。そこで「ウ〜サン」は製図板の前に座って天井を眺めて「ウ〜ン」と唸る毎日やった。何せ、何の図面を書くかを考えるというのは、過去に経験が無かった。
そんな折、芦田部長机の横に会議机が有って、そこが喫煙場所になっていた。そこには暇そうな営業が雑談をしに来ていたんや。
そもそも「ウ〜サン」は現場の人間やったので、営業という未知の動物に接する機会が無かった。煙草を吸いながら雑談話をして感じたのは、「営業はオモロイ奴が多いな!」という事やった。
そこで閃いたんや。「有りもしない製品」の図面を引いたら、コイツら真に受けて売ってくるんやないか?.......と。
そこで、海外の資料を見ながら、有りもしないLED製品を既製品として「何時でも納品可能」と思わせるような資料を作成した。
まあ、釣りで言えば「ルアー」のような疑似餌や。騙される営業もおるやろ!
すると、早速引っ掛かった営業が何人か出て来たんや。
あくまで、「既製品」というのは餌や。要するに「やってるで!」という意思表示に過ぎん。最初はカスタム品として商談を始め、相手の本気度を探りながら話を具体化するという、詐欺にも等しい危ない手法を取ったんや。
ところが、当時の日本市場で真面目にLEDを商品化していた企業は皆無で、「東芝」と「シャープ」と「松下」が遊び半分でやっていただけやった。今では当たり前のリモコン用の赤外線発光ダイオードだが、当時はリモコンが無かった。
増して、ただ光るだけのLEDなど「ミツミ電機」のパイロット・ランプの代替えに過ぎず、真面目に商品化しようと考えるメーカーは居なかったんや。
ところが、電池駆動のラジカセは真空管アンプと違って、電源がONなのかOFFなのか判らない。そこで、電源表示の豆ランプが必要になった。何せ電池駆動なのでネオン管は使えない。米粒電球の豆ランプは消費電力がネックになった。そこで、動作電圧が低く消費電力も少ないLEDランプが必要になり始めていた。
その頃、電卓需要を失って死んだと思われていた「治夫さん」が、「こんなもん、出来たで!」と持って来たのが、ガリウム燐結晶でやたら明るく光るLEDチップやった。最初は赤だけやったが、オレンジ色とか黄色とか、更に黄緑色とか濃い緑色とか。
さすが人生の師匠「治夫さん」や!。不死鳥のように蘇ったんや。LEDは赤しか無いと思っていた我々には衝撃やった。
明るいのはガリウム燐の結晶が透明で、ガリウム砒素と違ってチップ表面だけで無く、側面からも光が出て来るからや。
すると、暇を持て余していた営業が、色々ヘンテコな話を持ち込んで来たんや。
勿論、この時点でLED製造部の売上高はゼロや。
(22/04/08)
記=シバケン
ここに記載されてるの事、当方的、部外者故、わかりませんです。
但し、人物は、承知してるです。
芦田部長ねえ。
社長の妹さんと、結婚されたです。ここでは、ダケで、止めるです。
神野さん(弟)ねえ。兄弟で、居てたです。
そして、川上くん。これ、当方的、不明。
当方、承知の川上なら、入社同期で、LEDには、所属せずで、部署異なるです。又、宇梶君から、くんは無いやろと。
他に、川上なるが思い当たらんでして。
再度の、川上くんねえ。
ンの、もしかしての話、見上くんの事<?>
なら、承知してるです。
それで、正解なら、後年、当方、DIODE製造部のQCから、センセー製造課のQCに異動で、部下の1人になったです。センサーも、LEDを使うです。
そんな事で、ここでの、川上くんが、見上くんでは無いなら、当方、全くの知らんの方。
(22/04/08)
<NO.5 追記>
上記、当方記載の件について、パソコン大魔神こと、宇梶君からの応答あったです。
それを、引用する形で、記載するです。
<注=一部修正なりしてるです。>
芦田さんは、その妹さんと離婚して、綾部に帰らはった。
ロームを辞めてからしばらくは年賀状のやりとりをしていたが、ある年突然に住所が綾部市になったので、何でかいなと思っていたんや。
離婚云々は後刻、風の便りで、聞いたと思う。
川上くんは、背が高くヒョロっとした感じの奴や、確か高卒やったし年齢的には変らん筈や、三浦さんは年上やったので「三浦さん」とさん付けやったが、川上くんは「おい、川上くん」てな感じやったで。
見上くんは後から入社して川上くんの下に居たエエ子や。
風の便りでは、川上クンは神野さんの会社に行ったという話や。ついでに営業の浜ヤンもそこに行ったと聞いたで。
(22/04/09)
(22/04/10)追記
<記=シバケン>
結果、彼の言うの川上くんなるは、当方全くの知らんの方でしたです。
ついでいなら、神野さんの会社に云々の、川上くんの件。
当方、今まで、見上君の事と、勘違いしてたです。イヤ、諸般、その辺り、風の便りで、聞いてるです。
会社とは、実は、LEDの製造会社。
での、そのLEDの製造会社に行ったのでは、彼の話で、出てるの、ロームLEDに所属してた、三浦。
当方的には、入社はこちが先で、年齢同年故、三浦はんと、「はん」付けで、呼んでたです。向こうも、こちを、「はん」付けでしたです。
更なるの、営業の浜ヤンねえ。重々の、承知してるです。正確には、浜口くん。
業務には、無縁でしたが。
(22/04/09)
(22/04/10)追記
NO.BREAK1 ブレーク1「京都の野良猫」の話
長くなったが「スターウォーズ」で言えばアナキン・スカイウォーカーがダースベーダーになる部分に相当する。
社名も「ローム」になる前の「東洋電具製作所」の時代、言わば紀元前の話やな。神話の世界と言ってもいい。
後に「半導体のローム」として京都のハイテク企業の牽引役になる前、現在のロームの社員が誰も知らない仰天のエピソードが山ほど有るんや。それを知る事が良い事なのか、悪い事なのかは、各々で判断してクレ!
しかし、これだけは言っておく。「事実は小説より奇なり」なんや。
そんな仰天のエピソードはまだまだ続くが、ここで「コーヒー・ブレーク」や。ちょっと頭を休めてクレ!
こんなペースで続けて行くと、普通の人間なら頭がおかしくなる筈や。何でこんなデタラメな会社が京都の一流企業に名を連ねているのか、いくら考えても判らん。
そこで、頭の体操を兼ねて「京都の野良猫」の話をしてやろう。
ただし、「ウ〜サン」の話なので、それなりに覚悟して読んでクレ。壮大な歴史スペクタクルなんや。野良猫を見る目が変わることだけは保証してやる。
「京都・野良猫物語」
京都の街中をウロついている野良猫は、昨日今日来たものでは無い。増して、ペットとして飼われていた猫が逃げ出して野良になったものでも無い。今から凡そ千年前、平安時代の中期に中国大陸から渡って来たのが半野生化して現在に至っているんや。現在のような猫が地球上に登場したのは、今から二千三百万年前、恐竜が絶滅したとされる(実際には鳥に進化して絶滅はしていないが)六千五百万年からずうっと後の二千七百万年前に生存していた「ミアキス」というイタチのような動物から分化したものや。この猫、実は二千三百万年前から殆ど変化していない。従って、哺乳動物としては、ほぼ完成形に近いものなんや。
猫の祖先は「リビアヤマネコ」。アフリカ北部で発生している。地中海のキプロス島で丁重に埋葬された猫の墓が発掘されているので、凡そ一万年前からの付き合いや。その後、エジプトのファラオの墓から多数の猫のミイラが発掘され、猫と人間の関係が密接になった事が判る。その猫が中東からイラン(ペルシャ)、インド、タイ(シャム)、ベトナムを経て中国南部に生息するようになったんや。
その間、約五千年、或る時はラクダの背に乗り、或る時は象の背に乗って、農耕技術と鉄製農機具と共に遥々中国にたどり着いたんや。シルクロードが出来る遥か昔の話やで。
日本では奈良時代の「万葉集」に猫の記述は無い。ところが、平安時代中期の「枕草子」や「源氏物語」には猫が宮中でイタズラをして困っている様が記述されている。他にも平安貴族が残した日記や物語に猫が登場している。しかし、どう考えても猫が海を泳いで渡って来たとは思えんのや。白鳥や鴨はシベリアから飛んで来る。
ツバメはインドネシアから島伝いに飛んで来る。しかし、猫は飛べないし、泳ぎも苦手や。そうなると、誰かが船に乗せて連れて来たという事しか考えられんのや。
そこで、この時代に何が有ったのか、中国の歴史を調べたんや。すると、中国の統一王朝「唐」が滅亡し、「宋」王朝が成立する間の「五代十国」時代という混乱期に当たる。栄華を誇った「唐王朝」がガタガタになり、一部が中国南方に逃げ、そこで「南唐」を作ったが、それも「北宋」に叩かれて滅亡した事になっている。しかし、この「南唐」の人達が船で日本に逃げたとすればどうや。唐王朝に恩義を感じている上海・南京・武漢の人々、更に雲南省の少数民族の人々が船に乗って日本を目指す時、飼っていた猫を置いては行けんやろ。
学校の歴史の授業では習わないが、平安時代の初期と源平合戦の平安末期では大変な変化が有る。先ず甲冑の形が大きく異なる。次に、剣も青銅製の直剣から現在の日本刀に変化している。建築も伊勢神宮のような掘立小屋から、壮麗な社寺建築になっている。この技術は、大型船の船大工の技術なんや。農業では、中国南部の棚田の技術が流入し、それまでの陸稲から水稲に代わって米の収量が格段に増えている。また、雲南省の養蚕技術が流入し、貴重品とされた絹織物の国産化が始まった。「南京豆」や「豆腐」「納豆」「湯葉」「味噌」もこの時期に中国から渡って来ている。清水焼も見様見真似で出来るものでは無い。中国から来た超一級の陶工がやったとしか考えられない。さらに、治水技術が流入し、賀茂川の流れを変えるような大規模な治水工事が可能になった。
平安時代の高々四百年の間に大変革が起きているんや。同じ四百年有った室町時代とはえらい違いや。
つまり、日本に難民として逃れて来た「南唐」の人々と、それに従った周辺の人々を、当時の朝廷は快く受け入れ多くの先端技術を彼らから学んだと考えるのが自然やろ。そして、そのお礼として「祇園祭」を始めたんや。
折しも貞観大地震でショックを受けていた朝廷に、返礼として豪華絢爛な行列を披露したものと考えられる。
その証拠に、「山」(「鉾」は当時無かった)の殆どは中国の故事が題材になっている。
こんな事はネイティブ中国人で無ければ無理やろ。
実際、京町屋の燻し銀の瓦は「唐」の時代の様式で、現在の中国には残っていない。
これは非常に重要な事だが、「日本文化」と言われている様式は、実は「唐の時代の中国文化」なんや。
「京料理」も唐の宮廷料理、着ている服も「京呉服」すなわち「呉」の服(中国服)や。
その生き証人が「京都の野良猫」なんや。野良猫を粗末に扱うと必ず祟りが有るで〜!。
ただし、可愛いからと言って家に連れて帰るのは考えた方がいい。何せ基本「肉食の猛獣」なんや。
普段は「猫を被っている」が、キレると「豹変」するで〜。
(22/04/10)
NO.6 エピソード6「自衛消防隊が火ダルマ」
当時の東洋電具製作所は、毎月のように抜き打ちの避難訓練が有ったんや。その理由は創業当初に工場を全焼するというアクシデントが有ったためで、それだけに気合が入っていた。その先頭に立つのが「自衛消防隊 初期消火隊」や。
三菱自動車や島津製作所のような大企業ならともかく、町工場に毛が生えた程度の会社には似つかわしく無い装備を持っていたんや。その自衛消防隊の隊長が神野さん。初期消火隊小型動力ポンプ隊の隊長が川上くんやった。
そこに何故か動力ポンプの操作員として「ウ〜サン」が居た。この「ウ〜サン」、大学時代は「体育会自動車部」に所属していて、見掛けは細いのに体力は半端で無かったので、入社当初からこの精鋭部隊に配属されていたんや。
ところが、仕事の上では真逆で、神野・川上コンビは商品を設計する度にトラブルを起こし、常に火ダルマになっていた。
実は「ウ〜サン」も同様で、商品を設計する度にトラブルを起こして火ダルマになっていたんや。つまり、自衛消防隊の中心的メンバーが、仕事となると「放火犯」で、かつ、自身も火ダルマになっていたというシャレにならない話やった。
先ずは、神野・川上コンビの話や。カメラの「旭光学」からカスタムLEDの依頼が舞い込んだんや。用途はカメラのファインダー内に適正露出の表示をするもので、「赤−黄−緑−黄−赤」と点灯するまるで信号機のようなLEDアレイでファインダーの中に入るサイズの小さなものや。試作段階ではエッチングでリード・フレームを製作し、5個のLEDチップを銀ペーストで一直線に接着、金線を用いる熱圧着ボンディングで配線するという至極単純なものやった。外形はIC用のモールド金型でたまたま余っていたものが有ったので、その金型を流用。いとも簡単に試作品が出来上がったんや。
当時のカメラの世界は、現在の真逆で完璧なメカ屋の世界で、シャッター速度(露出)と絞りの設定は「露出計」という光量を測定する別の機材で計測するものやったのを、カメラに一体化するという単純な発想や。
そこで、いよいよ量産開始となってエライ事になったんや。
何しろカメラのファインダー内で光るので、明る過ぎると目潰しになってしまう。ボンヤリと光らなあかんのや。
もともと、そんな事を想定してLEDチップを開発したわけでは無いので、実際に装着して見ると明る過ぎるものや全く光らないものなどバラバラやった。しかも、モールド・タイプなので工程途中でのチェックが出来ない。樹脂モールドが終了しリード・フレームを切り離して最終の段階でアウトとなる。結果、不良品を大量に生産することになってしもうた。
そして、神野・川上の両名は「火ダルマ」になってしまった。問題はその火消しや。ワイヤ・ボンディングをする前に、針に電線をつないで点灯試験をするという方法と、ウエハの段階でプローバーの規格を厳しくして、何とか歩留まりを上げる事が出来たが、カメラ用のディスプレイでモールド・タイプというのは二度と設計しない事になったんや。
この「旭工学(ペンタックス)」のカスタムLEDを皮切りにして「キャノン」「ニコン(日本工学)」等のカスタムLEDの雪崩現象が起きたんや。勿論、その度に「火災」が発生したが、そこは自衛消防隊初期消火隊、火消しはプロやった。
ここから世界のカメラ業界の急激な電子化が始まったんや。カメラにバッテリーを搭載することで、後の内臓ストロボや自動焦点など技術革新につながった。更にフィルムの代わりにCCD素子を搭載したのが現在のデジタル・カメラや。
まるでコンピュータのようになってしまったカメラの電子化の原点が、このカスタムLED搭載の「ペンタックス」なんや。
それにしても細かい製品ばかりで大変やったんや。
これとは別に、「日本電装」から新型車のスピードメーター・タコメーターのディスプレイを受注した。勿論、新型車なので極秘やった。今だから言えるが新型車というのは「トヨタ」の「ソアラ」、スポーティー・セダンという新シリーズで、オッサン向けの「クラウン」とガキ向けの「セリカ」の中間に位置する年齢層をターゲットにする「トヨタ」としては相当気合を入れて企画したものやったんや。
形状はトルク曲線と同じような形で1000回転毎に「緑−緑−緑−緑−黄」とチップを並べ、8000回転から先は「赤−赤−赤−赤−赤」とするカメラ用とは真逆のダッシュボードに収まる大型のディスプレイや。
その大きさ故に、基盤はフェノールの単層片面基板という安価な材料としたんや。そのため、ワイヤー・ボンディングはアルミ線を使った超音波ボンダーに限られた。これが、後々に大トラブルの原因になった。
超音波ボンディングというのは小型のセラミック・パッケージ用に開発されたもので、熱圧着ボンディングの様な300℃程度の過熱が出来ないパッケージに限られ、「TTLロジックIC」の前の「DTLロジックIC」に使われていたんや。
間違っても、フェノール基板やガラス・エポキシ基板の様な超音波を吸収してしまうような柔らかな基板に使用するものでは無いんや。それを、しっかり固定することが難しい大型の、しかも安価なフェノール基板に使うというのは、本来であれば言語道断な話。大トラブルになって当たり前なのだが、知らないという事は恐ろしい事で、つい「やっちまった!」わけや。
実際、超音波が逃げてしまうため、超音波のパワーを上げなければならない。外見上は正しくボンディングが出来ているように見えても、基盤のボンディング・パッドとアルミ線は融着していない。そこで、神野さんが考えたのは、50cmほどの板の先端にボンディングを行った製品を取り付け、まるで「布団叩き」の様に机にバンバンと叩きつけて中途半端な接続のアルミ線を浮かせてしまうというオソマツな方法やった。ところが、このオソマツな方法は、更なる悪夢を生むことになったんや。
そもそも、理想的なボンディングが出来ていないものに強烈な衝撃を加えたため、50ヶ所以上あるワイヤーが次々と外れていった。
つまり、叩けば叩く程に断線個所が増えて行くんや。例えば、1ヶ所断線していたものを修正してから叩くと更に3ヶ所断線する。
その3ヶ所を修正して叩くと、更に5か所断線するという感じやな!。そんな事をしている内にチップ側のボンディングパッドが取れてしまい、チップを交換しなければならなくなる。すると、色や明るさがそこだけ変わってしまう。
そんな感じで、アッという間に「修正品」の山が出来て、良品が全く出て来ないという最悪の状態になってしまった。そうなると、「日本電装」からのプレッシャーは半端で無く、ついにミサイルが飛んで来るまでになってしも〜たんや。どんなミサイルかと言うと「トヨタのラインを止める気か!」という最高レベルの脅しやった。「トヨタ自動車」のラインを止めたら、どないなるか考えて見て頂きたい。当然「ゴメン!」で済む話では無くなるんや。家電業界やカメラ業界と比べると、影響力は雲泥の差や。
LED製造部総掛かりで火消しに走ったが、余りにも火勢が強く鎮火不能の状態や。そこで、考えたのが「布団叩き」をやめて、樹脂で固めてしまうという可成り強引な策や。チップ一つ一つにエポキシ樹脂を滴下しオーブンに入れて固めてしまうという、これもまた中途半端な対策やったが、やらんよりはマシやったので、「トヨタのラインを止める」という大惨事は防いだんや。
この「ソアラ」用のディスプレイの次に「クラウン」用のディスプレイも受注したが、その後はカラー液晶に代わったため、新規の注文は無くなり東洋電具に平穏が戻った。後になって言える話やけど自動車業界に関わる怖さを思い知った事件やった。
もし、トヨタ自動車の生産ラインを止めていたら、東洋電具製作所そのものが木端微塵に粉砕され瓦礫の山と化していた筈や。
そこで「ウ〜サン」の番だが、こちらでも大火災に見舞われたんや。こちらはカーステレオ業界で自動車業界に近いが「トヨタ」に比べれば危険度は少なかった。製品は時計表示のための4桁の面発光ディスプレイでカセットテープの蓋の部分に取り付ける小さなものや。多少は色々な経験が積み上がったため理想の製品を作ろうと考えに考えたんや。
先ず、基盤は理想の熱圧着ボンディングを行うために多層セラミック基板とした。エポキシ基板に比べるとベラボウな値段だが品質には代えられない。製品の外形になる反射ケースは高温に耐える「PBT(ポリブチレン・テレフタレート)」を帝人と共同開発した。封入するエポキシ樹脂は高温で硬化させるもので、やや弾力の有る特殊な樹脂を開発した。
(実は、これが大失敗やった)
試作では一発で見事な製品が完成したので、量産は四国のアオイ電子観音寺工場に決まった。実際に量産段階になると断線で不良になる製品の数が予想を超えていたんや。そうなると、完成品としてユーザーに納品されたものでも僅かながら断線不良が発生しクレームとなった。原因を調べると、封入に使用した軟質エポキシ樹脂の熱膨張係数が高かったためにボンディング・ワイヤーを切断していた事が判明。これも、前記の「日本電装」の対策と同様、樹脂で固めて、一度ワイヤーを固定し、軟質エポキシ樹脂をダウ・コーニング製のシリコン樹脂に変更して鎮火した。実は、この火消し作業は、日頃新聞を読んでいるだけやった芦田部長が一人でやったんや。「ウ〜サン」は部長に「休んでおけ!」と言われただけで、何のお咎めも無し。芦田部長が自ら一人で工場に飛んで行って対策をやってくれた。サスガ、火消しの親分のLED製造部長、この瞬発力には驚愕した。
LED製造部のオープン戦は惨憺たる結果やったが、それでも成果は有ったんや。
先ず、超音波ボンダ―は絶対に使わないという貴重な経験を得たこと。
次に、LEDモジュール製品ではモールド・タイプで作らないということ。
次に、熱圧着ボンディングの条件に耐える銀ペースト、米国製「Able Bond(エイブルボンド)」を発見出来たこと。
更に、高温に耐える反射ケース材料「PBT」の開発に成功したこと。
これが、後々の世界一の高信頼性LED製品につながる「初めの一歩」やった.......と思う。
(22/04/11)
NO.7 エピソード7「株式上場ドタバタ劇」
LED製造部の立ち上がりは、予想外の大波乱から始まったが、資材の手配や協力工場への指示などの業務が必要になり、ついに兼松課長と佐藤くんが生産管理課として実戦配備された。また、ユーザーとのトラブル対応として、元ブラジル工場長の尾原課長と精鋭の杉村さんがQC課として実戦配備され、設備開発として安村さん、計測器の堀くんも加わり、やっと「製造部」としての体裁が整った。
更に、重光課長と矢崎さんが設計の支援に動員され、鉄壁の布陣となった…………かに見えた。
ところが、のっけから重光さんが「何でオレがLEDなんや!」と荒れまくって鎮めるのが大変やった。
確かに、IC・トランジスタの製造工程を設計した精鋭中の精鋭が、突如LEDに配置転換というのは、本人にとっては不本意やったと思うが、これがパーマ頭にサングラスのオッサンの意思だとは思ってもいなかったんやろな〜。
社長の意思は、「ウ〜サン」と「ヤ〜サン(矢崎さん)」をガードする”お役目”で、商品設計としては誰も期待なんかしていなかった。実は、LED設計1課としてLEDランプ製品の開発に特化した新体制は、社長直属の特別な部署でLED製造部の中でも独立した特別な存在やったんや。それだけ重光さんは社長から信頼が厚かったのだが、本人はその事に気付いていなかった。そやし、荒れまくっていたんや。
ちなみに、神野・川上組の凸凹コンビは”その他諸々”のカスタム品を開発するという棲み分けやった。
世は第二次石油ショックの不景気から抜け出し、ラジカセ・ブームからウォークマン・ブーム、カー・ステレオ・ブーム。
更にVHS対ベータのビデオ・ブーム大変な事になっていたんや。この時代、まだCD(コンパクト・ディスク)なる物やカーナビは存在していない。カセットテープ全盛の時代や。
当時の東洋電具製作所の生産能力を遥かに超える注文が殺到し半導体ウエハ・プロセスの増強が急務となった。
ところが、銀行とは余り縁が無かったために設備投資資金の確保が困難となった。
そこで、株式を上場して証券市場から資金を調達しようと考えたまでは良かった。
しかし、上場条件に適合するには程遠いデタラメな経理処理が発覚したんや。
当時の東洋電具製作所は、まるで役所のような収支決算の感覚で経営されていたんや。もちろん、税務上は企業会計原則に従った、貸借対照表と損益計算書の複式簿記だったようだが、感覚的には歳入・歳出の考え方が支配していた。
早い話が、材料を購買が購入して「仕入」、営業がユーザーに製品を納品して「売上」、社員の給料やその他諸々が「経費」、「売上」から「仕入」と「経費」を引いたのが利益や。ここまでは一見正しそうに見えるが、大きな見落としが有るんや。
つまり「資産」という奴が見事に抜けているんや。ここを監査法人に叩かれた。
半導体製品というのは、ユーザーと取り決めた規格がミソで、厳しい仕様の取り決めをしてしまうと途中の検査で大量の「規格外品」が出来てしまう。仮に最終検査:FT(ファイナル・テスト)の歩留が50%とするとコストが2倍になる。
ユーザーに対しては「規格が厳しいので高くなった」と言って価格交渉をする。ところが、規格外れで不良品扱いになった製品でも、「なす」や「キュウリ」や「大根」と違って腐らない。従って、捨てずにストックしておいて別のユーザーに売るということが出来てしまう。例えば、ノイズ・レベルが「SONY」でアウトでも「ビクター」ならOKという事は普通に有る。
「エピソード1」で起きた大量の不良品が一夜にして宝の山になるような事は幾らでもある。
従って、ICのFT工程には「不良品」という名前の「お宝」が山のよう有った。勿論、ICに限らず抵抗器・ダイオード・トランジスタ・LEDでも相当数有った。それを「棚卸資産」として勘定すると大変な額になる筈や。
そこを公認会計士に見抜かれてしまった………と言うか、公認会計士が仕組んだ資産の水増し策と考えるべきやろ。
ただ、税務署では無いので税金が増えるわけでは無い。資産勘定が増えれば株価が高くなるという、逆にプラス効果になる。
株式上場前に右京税務署に申告した決算書と、上場時に大阪証券取引所に提出した決算書は、まるで別世界の数字やったと考えるのが普通やろ。株価が実力より高く算定されれば、金儲けのために購入する投資家も増えるので、そこが証券市場のイカサマの一端やと思う。そもそも、証券市場というのは「絵に書いた餅」を売り買いして、その手数料で成り立っている金融市場なので、仕方が無いのかも判らんけど、それで被害に遭うのは恩恵を受けない一般社員なんや。
実際に悲惨やったのは清水俊三さんのIC・FT工程で、不良品として無造作に段ボール箱に入れられていたものが山積みになっていたんや。そもそも、不良品という扱いやったので、マトモに数も勘定もされていなかった。それをカウントするのに、FTのメンバーでは手に負えず、全社員が休日出勤させられて「大・棚卸大会」となった。
その後、株式上場するという事で、「ローム株式会社」という社名が知らされたんや。
勿論、大方の社員が唖然とした筈や。何故なら東洋電具製作所の商標「R.ohm(アールオーム)」の「.」を取っただけや。
「幾ら何でも脳が無さ過ぎるやろ!」と思わず耳を疑ったがな!。
しかし、社員の不審をよそに「ローム株式会社」として大証2部に上場してしまった。
(紀元前の話はここまで。この後は紀元後の話になる)
(22/04/12)
<記=シバケン>
「兼松課長と佐藤くんが生産管理課」
兼松課長は、知ってるですが、佐藤くんねえ。知らんです。同期のなら、承知してるですが。
部署異なるです。
「元ブラジル工場長の尾原課長と精鋭の杉村さんがQC課として実戦配備され、設備開発として安村さん、計測器の堀くんも加わり、やっと「製造部」としての体裁が整った。
更に、重光課長と矢崎さんが設計の支援に動員され、鉄壁の布陣となった…………かに見えた。」
尾原課長なるは、一時、抵抗器製造部のQC課長に成りまして。一緒に成った事、あるです。
矢崎ねえ。杉村ねえ。
半導体製造部が出来まして。当方、抵抗器から、そちらに移動で、一緒に成ったです。
更に、申せば、矢崎ねえ。大学の同期生で、後年、センサー製造課で、再度の、一緒に成ってるです。
イヤ、大学の同期生故、同窓会で、顔会わすです。この2年<2020年、2021年>、新型コロナ・ウィルスで、開催してませんですが。
安村さんねえ。
よ、考えたら、この安村さん<年長>、途中入社でねえ。当方、抵抗器の生産技術課の時、一瞬なれどの、同僚に成ったです。
申せば、現の、芋煮会の農園主も、この時、一緒に成ったです。要は、2人が、一瞬、同僚に。
がしかし、その2人共に、生産システム開発部に異動。元々が、機械屋はんでして。
トトトの、
その安村さんねえ。
センサー製造課で、再びの、一緒に成ったです。
尚、ついでになら、この安村さん、退職して、画家となりての、日展には、何回も、入賞してるです。
「実際に悲惨やったのは清水俊三さんのIC・FT工程で、不良品として無造作に段ボール箱に入れられていたものが山積みになっていたんや。」
この、清水俊三ねえ。
慶応ボーイで、入社同期生。
とかとか、細かくに言い出せば、切りが無く。
(22/04/12)
NO.8 エピソード8「LEDランプ開発秘話(1)丸形ランプ編」
ローム株式会社のホームページに「ロームでは、1973年にランプLEDを生産して以来、45年にわたって業界に先駆けた製品開発を行ってきました。」.......とサラリと書かれている。実際にランプ製品の開発を開始したのは1978年(昭和53年)頃や。その前はモールド形の小型チップLEDだけやった。
その1978年頃どれだけの危ない橋を渡り、どれだけ苦心惨憺したかを開発した本人が話したるわ。確かに「業界に先駆けた」というのは事実で、それだけに随分アホな事をやっていた。「先駆ける」というのはエラいんやで!。簡単に言わんといて欲しいわ!。
兎に角、仰天エピソードの連続なので、心して読んでクレ!。
そこで、「東洋電具製作所」の紀元前の世界にチョットだけ戻るで!。
「ウ〜サン」が4桁の面表示ディスプレイで火ダルマになり、芦田部長が火消しに走った直後の事や。何処からとも無く、「ランプを作れ!」という指令が舞い込んだ。そこで、購買に「LEDランプに使えそうな材料を探してクレ!」と頼んだところ、ヘンテコな物が集まって来たんや。松下電器(現:パナソニック)の下請けのメッキ屋からリード・フレームの試作品、社名は判らなかったが注型用のテフロン型、東芝の下請けの成型屋からLED用のキャップ、等々。意味不明な物も色々有った。
「LEDランプ」と言っても一般の方にはイメージが湧かないと思うので簡単に説明すると、「ガリガリ君」を小さくしたような構造の電子部品や。二本の割り箸の先端にLEDチップを接着し、細い金線で配線するような感じで、ICやトランジスタと違ってリード・フレームを縦にして、端面にチップを銀ペーストで接着するのが特徴なんや。
そこで、先ず、テフロン製の型から試して見ようと考えたが、サンプルが一つしか無かった。せめて10個でも有れば試験的に製作できるのだが、テフロンの場合金型を製作しなければならない。試作の段階で大きなコストは掛けられないので、内作が可能な鉄製の型を製作する事にしたんや。鋼鉄の丸棒に下穴を開け、先端を球形に加工したフライス用エンドミルで成形、それを磨いて鏡面にし、更にクロムメッキを施して、更に青砥で鏡面に仕上げる。そこにエポキシ樹脂を流し込んでLEDチップを取り付けたリードフレームを挿入、オーブンに入れて硬化を待つ。さあ〜、「光るガリガリ君」の完成や!。
ところが、何をしても型から外れない。そこで「ハタ!」と気が付いたんや。エポキシ樹脂が強力な接着剤やったという事をや!。見事な迄の「大失敗」やった。
そこで、次に試したのが樹脂製のキャップにエポキシ樹脂を流し込む方法や。これなら、型から外れないという心配は無い。当然、見事に成功、光る「ガリガリ君」が出来た。それを、芦田部長の所に「出来た!、出来た!」と持って行ったんや。
実は、これが次の大失敗やった。
それから一週間もしない内に、何と「日立製作所」から大量の注文が舞い込んだんや。まだ、試作も試作、品質評価も出来ていないものや。それを事も有ろうに品質に厳しい「日立製作所」に売り込むとは!。そんな事をする大馬鹿野郎は東洋電具製作所に一人しか居ない。また、アイツや!。
「キャップ方式LEDランプ」の問題点は、試作段階から判明していたんや。先ず、キャップの材質がポリカーボネイトだったのでエポキシ樹脂の硬化温度を高くすることが出来ない。100℃以上に温度を上げるとキャップが変形してしまう。かと言って常温硬化の樹脂は使えない。そこで、アミン系の硬化剤と使った割合低い温度で硬化できるように樹脂を配合する必要が有った。すると、作業中でも徐々に反応が進んで、2時間程で粘度が上がって注入作業が出来なくなる。それとアミン系の硬化剤はやたら臭かった。凡そ量産で使えるもので無い事は、最初から判っていたんや。しかも、あくまで試作やったので、信頼性試験など1秒たりとやっていない。
そんな物を採用した「日立製作所」の側にも、実は大馬鹿野郎が居たんや。それまでテレビのチャンネル切り替えは「ガチャガチャ」と回すのが当たり前やったのが、12個の押しボタン式に代わったんや。その事で、テレビ・リモコンが可能になった。それまで、テレビのチャンネル切り替えはコタツの中から四つん這いで這い出して「ガチャガチャ」とやらなければならんかったが、リモコンでコタツから出ずにチャンネル切り替えができるという「大革命?」が起きたんや。それを年末の商戦の目玉にしようと企んだ「日立:キドカラー」、信頼性試験なんかやっている時間的な余裕が無かったんや。電球なら「玉切れ」の心配が有るが、LEDなら大丈夫やと早トチリした奴が居た。要するに「日立製作所」にも負い目が有ったんや。
案の定、「キドカラー」の製造工程でLEDの点灯不良が発生したが、そこは「日本電装」と違って「頼むから何とかして〜な!」と泣きが入った。そこで、信頼性試験に使用する点灯治具に出来上がったLEDランプを並べ、遠赤外ヒーターで樹脂部分だけを加熱し、切れたものを除外するという「スクリーニング」を行う苦肉の策で逃げる事にしたんや。勿論、そんな方法は邪道やけど、背に腹は代えられへん。そうして選別したLEDランプをLED製造部のメンバーが交代で毎日早朝に「日立製作所:岐阜工場」の守衛室に届けたんや。ところが、そのドタバタ劇が日立から「対応が素晴らしい」と逆に評価され、後々、「日立製作所」の全てのLED部品を、後の「ローム株式会社」が供給することになったんや。ただし、こんな事は絶対に真似したらアカンで!。
東洋電具製作所の最高権力者にして「最高の馬鹿」のお陰で、皮肉にも5ミリ径の丸形LEDランプは「東芝」の寸法と「松下」のリードが世界標準になってしまったんや。何と恐ろしい事や!。
(22/04/13)
NO.9 エピソード9「LEDランプ開発秘話(2)角形ランプ編」
丸形ランプで火ダルマになっていた「ウ〜サン」に更なる難題が降り掛かって来た。
関西の営業の誰かから、角形ランプのカスタム製品の生産を依頼された。サイズは2×5oの長方形やった。勿論、そんなキャップは何処にも無い。そもそも角形のランプなんて見た事も無い。
ついに、その時が来たんや!。先行する他のメーカーの後を追うのでは無く、先行メーカーになるという覚悟を決めなければならないんや。これから決める事は、後を追って来るメーカーの手本にならなければならない。中途半端な物を作ると、後のメーカーにも影響するんや。..............で、覚悟を決めた。
ここから先は、何処ぞの真似では無い。すべて自分の頭で考えて決めなければならない......と。
エポキシ樹脂を型で成形する場合、「金型」が使えないことは最初の「鉄ピン」で痛い目に遭っている。そやし、材料にする樹脂は、エポキシ樹脂が接着剤として機能しない材料や。候補は「軟質塩化ビニル」「ポリエチレン」「ポリプロピレン」「ナイロン」「シリコン樹脂」「フッ素樹脂」など、割合柔らかくて表面がツルッとした感じの樹脂や。この中で100℃以上の高温に耐えるのは「ポリプロピレン」「シリコン樹脂」「フッ素樹脂」となるが、あくまで樹脂型なので耐久性は求めない。ただ、1回だけの使い捨てという訳には行かない、せめて10回位は使いたい。そうなると、価格が安い「ポリプロピレン」で型を作れば十分可能という結論になった。
LEDのリード・フレームは7oピッチの25連で1本としている。しかし、25連の樹脂型を作るより、5連の型を5個並べるという使い方の方が金型代が安くなる。そこで「5連のポリプロピレン型」を製作することに決めた。
そこで、製作を依頼された2×5oの角形ランプの樹脂型用と、「東芝」のキャップから一刻も早く脱却しなければならない都合で5o径の丸形ランプの樹脂型用の射出成型金型を発注した。ネーミングは最初の大失敗の戒めとして「鉄ピン」の後継としての「PPピン」とした。「ピン」では無いのに「PPピン」としたのは、そういう理由からなんや。
次に決めなければならないのは一番肝心の「エポキシ樹脂」や。そこで、幾つかのエポキシ樹脂メーカーに無理難題を吹っ掛けた。提示した条件は150℃以上の高温で硬化させる事、常温では反応しない事、透明度が高い事、熱膨張係数が少ない事、光の屈折率が高い事、等々。依頼した樹脂メーカーはすべて大手化学メーカーやったので、「こいつ、何とクソ生意気な奴や!」と思ったやろな〜。
そこで、トコトン食い下がって来たのが大手工業テープメーカー「日東電工」やった。そこで、この「日東電工」にメーカーを絞って「LED封止用エポキシ樹脂」として徹底的に共同開発した。
今回は仰天エピソードは無いが、一つだけ面白い話が有る。実は角形ランプを製作する段階で思わぬトラブルに遭遇しているんや。角形ランプの場合、丸形と違って「角(かど)」が有る。エポキシ樹脂を注入してリード・フレームを挿入し、オーブンに入れて硬化させると、この「角」の部分に気泡が残ってしまう。角が取れてまるで面取りのように見えるが、良く見ると気泡なんや。この問題を解決するために、PP型に樹脂を半分注入し、真空ポンプで減圧して気泡の原因になる未充填部分の空気を抜くことを考えたんや。そこで、設備課に有った予備の真空蒸着装置用のロータリーポンプを盗んだ。それと、ICのQC課に有ったガラス製の大きな乾燥器を「ちょっと貸して〜な!」と言って盗んで来た。当時の東洋電具製作所では、「返せ!」と言われなければ自動的に所有権が移転するという暗黙の決まりが有ったんや。何せ全社的に資産管理が出来ていなかったので、社内窃盗が横行していた。「ウ〜サン」は元々設備課やったんで、何処に何が眠っているかは熟知していた。こういう能力も商品開発には必要なんや。(大きな声では言えんが......。)
(22/04/14)
NO.10 エピソード10「LEDランプ開発秘話(3)リードフレーム編」
多少前後したが、ここからは「ローム株式会社」になってからの話や。
角形ランプを世に出し、5o径の丸形ランプも「東芝」横流しのキャップから脱却し、やっと「ヤーサン(矢崎さん)」の本業の信頼性試験が可能になった。そうなると、営業の連中も調子に乗って色々な話を持って来たんや。丸形では2o径、いや3o径、いや4o径やとか、角形では1×5oとか、2×2oとか、中には三角形が欲しいとか。「お菓子屋じゃね〜!」と言いたい程、色々な話が来たんや。色も「赤」「橙」「黄」「緑」(まだ、「青」は無かった)など、そこに明るくクリアな物とかボヤッとした物とか、エライ事になってしまった。そこで樹脂の色を決めなければ、「もっと薄い色」とか「濃い色」とか言い兼ねへん。
そこで、一番美味そうに見える「フルーツ・ゼリー」の色に決めたんや。染料の配合を決め、エポキシ樹脂の硬化剤に染料を混ぜ、作業バッチ毎に色目が変化しないよう標準化し「日東電工」と取り決めたんや。しかし、結局「お菓子屋」になってしもた。
ランプ形状は5連の「PPピン」を作るだけの事なので、出来るだけ営業の好き勝手を聞くことにした。そうなると、サンプルを作るだけでも大変で、LED製造部開発1課は本当に「お菓子屋」のように、「仕込み」「焼き」「仕上げ」「包装」とか、何をやってるのか判らない状態になったんや。しかも、営業には冗談で「サンプルやけど売って来いや!」と言ったら、本当に有償サンプルとして売った奴が居た。そんなこんなで、開発1課が売り上げを計上するというアホな事が起きてしまった。
「ウ〜サン」は「仕込み」と「焼き」、「ヤ〜サン」は「仕上げ」と「包装」を担当、信頼性試験どころか、ほぼ菓子職人になってしまった。さすがに「エエ加減にせい!」という話になったが、ほかにサンプルを作る部署は無いので続けるしか無かったんや。
そんな中、「仕込み」担当の「ウ〜サン」のところでLEDチップのボンディング・パッドは剥がれるという問題が頻繁に発生したんや。開発業務やと言っても、時として現場作業もやらなアカン。そこで見えて来る”発見”こそ大切なんや。ただし、余りにも職人仕事になり過ぎてもイカン。そこは、適当に!.......や。
そのボンディング・パッド、ガリウム燐結晶に「金−チタン−金」の三層構造の電極が真空蒸着されている。裏メタルも同じや。それが、1stボンディングをした時にパッドが剥がれてキャピラリにくっ付いて上がってしまうんや。そうなると、チップをピンセットでホジクリ出して、銀ペーストを塗って新しいチップに交換せんとアカン。そんなのが頻繁に出ると「仕込み」が大変なんや。何より、思いっ切りムカつくんや。その事を、我が師匠「治夫さん」に言うと、「そ〜か〜!」と深刻に考えてくれへん。そこで、色々と海外の文献を漁って、「金に微量のベリリウムを添加するとガリウム燐結晶面とのコンタクトが改善される」というズバリの論文を見付けたんや。そこで、再度「治夫さん」に「ベリリウムを入れたらどや!」と言ったところ、「アホか!そんな毒性の高いもん使えるか!」と怒り出したんや。そこで、その英語の論文を渡して「読んどいて!」と言っておいた。すると、その後ボンディング・パッドの剥離がパッタリと無くなった。そこで「治夫さん」に「何かやったん?」と聞いたら「金ベリリウム−チタン−金」に変更したとサラリと言ってのけた。サスガ、我が師匠や「エエと思ってら直ぐやる」という治夫哲学は健在やった。これで、LEDのチップの問題は解決した。
チップの問題が解決して「菓子職人」の仕事に勢を出していた頃、「パンチング・フレームを設計せよ!」と天の声が下った。
多分、重光さんが社長に「最近、職人仕事ばかりやってる」とタレ込んだんやろな。
何れは「やらんならん」と思っていたパンチング・フレームやったが、何せ千万円単位の金が掛かる金型を作らんとアカンので、「ウ〜サン」からは言い出せへん代物やった。そこで「天の声」となれば話は簡単や。早速、設計に掛かった。
LEDランプのパンチング・フレームとは、帯状の金属板を写真のフィルムの様に送りながら少しづつ打ち抜いて作るリード・フレームで、かつ、チップを取り付ける端面にパラボラ状の反射器を作るという、リード・フレームとしては世界でも例が無い「超・超・難度」の打ち抜き金型を製作する必要有る。しかも、その板厚が0.5ミリというICのリードフレームの2倍の厚板を打ち抜くという化け物を作らなアカン。こんな金型は日本でないと絶対に出来へん。勿論、ロームの工作室では絶対に無理や。
そんな事で、リード・フレームの設計は出来た。最後に「材質」の欄に何と書くかや。そこで「ウ〜サン」は「SPC−C」と書き込んだんや。常識的には銅系の材料を使うが、何と「純鉄」としたんや。その後、世界一の高信頼性LEDになるフレーム材質が決まった瞬間やった。勿論、これがどう言う事なのかは、重光さんも芦田さんも社長も知らない。「SPC−C」の意味が判る奴は、誰も居なかったんや。
図面が完成して重光さんに「出来たで〜!」と言ったら、「稟議書を書け!」と言うんや。「俺の名前でエエんか?」と聞くと「そうや!」と言う。そこで稟議書を作成して重光さんに渡そうとしたところ、突然にパーマ頭にサングラスのオッサンが「ウ〜サン出来たか〜」と現れたんや。そして、「重光クン、ハンコ押せ!」と言って課長欄に重光課長のデート印を押させ、次に最後の社長欄の「マル・サ」のサインをしたんや。次に、芦田さんの所に行って「芦田クン、押せ!」と言って芦田部長のデート印を押させて稟議書を持って行ってしまったんや。何のための「稟議書」のなのか、全く意味が判らん行動やった。
その後、「九州松下電器」から電話が入り、「あの材質では自信が無い」と言って来た。何とパンチング・フレーム金型の発注先は「九州松下電器」やったんや。「いや、オタクの技術なら絶対に出来る!」と励ましてやった。
そして、ローム株式会社のLEDランプは、何と「松下電器グループ」を下請けにして邁進(まいしん)する事になったんや。
(22/04/15)
NO.11 エピソード11「LEDランプ開発秘話(4)ボンディング編」
前回の「リードフレーム編」の補足になるが、リードフレームには必ずメッキ処理が必要なんや。「SPC−C」は炭素を含まない鉄なので、一般的な炭素鋼のように簡単には錆びない。針金が錆びないことでも判るように、鉄に含まれる炭素が多いほど錆び易くなるんや。それでも、鉄板のままというわけには行かない。しかも、ワイヤー・ボンディングをする部分が有るので、そこは金か銀かアルミにする必要が有る。大抵は、フレーム全体を銅メッキして、その上に銀メッキを施すが、リードの部分は最終的にハンダ・ディップ(ハンダ槽に浸ける方法)するため、銀メッキは無駄になる。そこで、全体に銅メッキを施し、エポキシ樹脂の中に入る部分だけを銀メッキするという部分メッキ方式とした。メッキの作業工程は複雑になるが、大幅なコストダウンになるんや。
ところで、LEDランプの最大の問題は「断線」や。
構造が簡単なLEDランプでは断線の可能性が有る部分は4か所しか無い。最初はダイ・ボンディングの銀ペーストが剥離する可能性や。第二はチップ上のボンディング・パッドの剥離、これは前回の「金ベリリウム−チタン−金」で解決済みや。第三はボンディング・パッドとファースト・ボンディングの剥離。そして最後がセカンド・ボンディングとリード・フレームの剥離や。そこで最も可能性が高いと考えられるのが、最後のセカンド・ボンディングや。
ボンディングというのは、細い金線(約25ミクロン:0.025o、髪の毛の1/4の太さ)を変形させる事で起きる表面のスベリで薄い合金層を作り融着させる方法で、金の融点が1,000℃チョットなのに300℃程でも融着できるんや。それだけに、金属表面の状態が悪いとボンディングが不安定になる。ちなみに、チップの表メタルと裏メタルが「チタン」を挟んだ3層構造になっているのは、「チタン」という金属が実は不安定な金属で、ガリウム・イオンやリン・イオンが表面に出て来て酸化物などの化合物を作らないよう、防御壁として機能している。もし「チタン」層が無いと、ボンディング・パッドの表面に不純物が析出して、金線の融着を阻害するから不可欠なんや。従って、LEDに限らず、トランジスタやICの裏メタルでも「チタン」層が必ず存在するようになっている。ただ、それでもメタル表面に何らかの不純物が形成される場合が有る。その場合、ボンディングそのものが出来ないので、製造作業の段階で判るんや。
そこで最後に残ったセカンド・ボンディングの脆弱性だが、構造上回避策が無い。「ウ〜サン」と「ヤ〜サン」が頭を抱えていると、そこに芦田部長が通りかかったんや。「何を悩んでるんや」という事で訳を話すと即答で「大居クンの所に行ってみ!」との事、トランジスタでも同じ問題で悩んで「大居さん」がボール・ボール・ボンダーを作った.......との事。
早速、トランジスタの大居さんの所に行き、その意味不明なボンディング・マシンを見せてもらったんや。すると、構造はアホほど簡単で、ベースの金線を立てて水素トーチで切り、横から棒のようなもので張り倒す。次にエミッタの金線を立てて水素トーチで切り、反対側に張り倒す。それを上からフォークの様なものでフレームに押し潰す。.......てな感じやった。
早速、実験機を作ろうという事で、LED用に若干アレンジして試作機を設計し、試して見るとテンション・ゲージを振り切るほどのボンディング強度が得られたんや。これで、すべての問題が解決した。出来上がったサンプルを「ヤ〜サン」が滅茶苦茶な信頼性試験に掛けても、何をやっても断線しない。これで完璧や。
.......と、思ったところで、何故か藤原本部長が実験機を見に来たんや。そこで、韓国工場とブラジル工場への移設が決まり「設備を揃えよ!」という事になったんや。
更に、社長命令で抵抗器の設備開発「古川課長」の全メンバーを投入し、ワコーにLEDランプの全自動ラインを作る事になった。いよいよ、「ローム株式会社」を挙げて本気モードになって来たんや。
「マジかよ!」と一番仰天したのは「ウ〜サン」と「ヤ〜サン」やった。
(22/04/17)
NO.EPI エピローグ
「ウ〜サン」はその後3o径の丸形ランプを商品化、不可能と思われた世界初の小型の反射器付パンチング・リードフレームを設計・商品化する、更にこれも世界初の反射器付2色発光ランプのパンチング・リードフレームを設計する。そして、ローム株式会社を退社し、コンピュータの世界で更に大暴れをすることになる。
「ウ〜サン」「ヤ〜サン」コンビで商品化した「ロームLEDランプ」は、その後、カスタム・ランプ・アレイから文字表示アレイ、信号機用ランプ・アレイ、更に青色LEDの商品化、そして大型LEDビジョンへと爆発的に用途が拡大した。また、青色LEDと黄色蛍光剤の組み合わせによる白色LED、その延長でLED照明へと見覚ましい発展を遂げた。現在では、かつて電球や蛍光灯だったものの大半がLEDに置き換わってしまった。
我が師匠「田中治夫さん」は、その後、半導体レーザーを開発し、レーザープリンタとしてコピー機やプリンタの世界を変え、また、CD(コンパクト・ディスク)の商品化でレコード屋からレコード盤が消え、コンピュータの世界ではフロッピー・ディスクが消え、DVDの商品化でビデオテープが消えるという社会変化をもたらした。
ローム株式会社の「オプト・エレクトロ二クス・ディバイス」は明らかに世界を変えた。48年前に「ウ〜サン」がプローバーの顕微鏡を見ていて「ン?」と思わなければ、違った世界になっていたかも判らない。(エピソード1)
今は亡き「田中治夫さん」が、もし他社に勤務することになっていたら、果たしてどうなっていたか、それも判らない。何れにせよ、京都の地に「ローム株式会社」は存在していないし、世界中の「ローム・グループ」は無い。
最後に最も「仰天」する話をするで〜。
「ローム株式会社」の創業者にして「最大の馬鹿」、「ウ〜サン」が最も敬愛する「佐藤研一郎」は本名では無い。
彼は、中国人なんや。「ウ〜サン」は本人から直接身の上話を聞いた数少ない社員の一人で、余程でなければその話はしない。父親がバイオリニストで、太平洋戦争終結後に「近衛文麿」が結成した「新交響楽団(NHK交響楽団の前身)」に招かれて中国から一家で来日、毛沢東率いる「中国共産党」に危機感を感じてのことや。その事が有って、政治に対しては強烈な拒否反応が有ったんや。従って、「商工会議所」とかの政治的な集まりには一切参加していない。東洋電具製作所が倒産寸前だった頃、半年以上行方不明だったのは、香港の市民権を得るのが目的やった。今の香港の状況を知ったら、さぞ落胆したやろうと思う。その社長が中国に沢山の拠点を作った理由は、良く判らない。まさか「習近平」がここまで強権になるとは思っていなかったのかも判らない。故郷に錦を飾ろうと思ったのかは「本人のみぞ知る」や。
彼の見ていた「世界」は我々日本人とまるで違っていたと思う。あの決断力は、時として大失敗も有ったが、大抵は当たっていたと思う。
それと、彼の本性は行動とは真逆で「デリケート」で「ロマンチスト」やった。美的感覚は鋭いものが有って、抵抗器でさえ「美しくなければならん」という拘りが有ったんや。それはLEDに対しても同じやった。「ウ〜サン」が決めた色に社長は一切文句を言わなかった。恐らく、同じような美的感覚を持っていたのだと思う。
ちなみに、「ウ〜サン」も時々ピアノを弾いている。一番好きな曲は社長と同じ「ショパン:ノクターン作品9−2」や。勿論、下手くそやで。時々エレキギターでヘビ・メタ風に弾く事も有る。社長が聞いたら多分「大爆発」するやろな〜。
< 完 >
おっと、「ウ〜サン」まだ生きてるで〜。夜遅く新町御池あたりで野良猫に餌をやっているオッサンが「ウ〜サン」や!。
(22/04/18)