シバケンの単なる雑談NO.377


NO.376
NO.371 NO.372 NO.373 NO.374 NO.375

NO.360 NO.370 NO.375
NO.310 NO.320 NO.330 NO.340 NO.350

NO.300 NO.350
NO.50 NO.100 NO.150 NO.200 NO.250
題目一覧表

目次

雑談NO.378

NO.4140 閑話休題的、6月の墓参の話(1) 持病平癒薬師如来に参拝の話

NO.4139 当家、諸般の、命日の話(3)

NO.4138 当家、諸般の、命日の話(2)

NO.4137 当家、諸般の、命日の話(1)

NO.4136 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(10) ヤマウチさんの話

NO.4135 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(9) ウエムラさんの話

NO.4134 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(8) 話、逸れまくりの話

NO.4133 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(7) 社長との、最初の記憶してるの話(3)

NO.4132 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(6) 社長との、最初の記憶してるの話(2)

NO.4131 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(5) 社長との、最初の記憶してるの話(1)

雑談NO.376


NO.4131 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(5) 社長との、最初の記憶してるの話(1)

そんな事で、夢見の話の続きをと。
イヤ、実際問題、ほったらかしでは、延々の終わらんわと。

いやねえ。
言うてるの、ローム社長が夢に、ねえ。当方的、前代未聞の事、でして。
そらねえ。
ロームに入社して。
と、するのか、入社当時には、東洋電具製作所なる、社名でして。1981年<昭和56年>に、商標の「ROHM」とは、「R」は、電子部品の抵抗<Resistor>と、その単位<Ω=Ohm>をくっつけてるです。

要は、当世、半導体製造のロームと、されてるですが、元々は、抵抗器の製造メーカーでしたです。
当方、入社の頃には、西院<五条西大路>の、本社工場内には、抵抗器の製造してたです。

いやねえ。
その社長ねえ。
実は、立命館大学理工学部電気工学科出身。とは、当方の先輩に成るです。
言うたら、ロームには、立命館大学卒業のが、多くてねえ。ダケの話、なれど、です。

では、何故に、抵抗器の製造から、創業したかと、なればの、製造法での、特許取得が故と、されてるです。
どんなかと、なればの、文字、言葉だけでの表現難しく。
とりあえず、その昔、昔の、抵抗器の製造方法と、現在のとでは、全くの異なるです。又、当方入社の時には、その特許での、製造してませんでして。
とりあえず、旧式製造法の改善版の特許。

超の簡単、わかる、わからんは、無視しまして。
その旧式の抵抗器の製造方法とは。
とか、言うても、製造方法なるは、色んな手法があるですが。その一つに、基体<抵抗器本体>とは、小さな、円柱状の形状してるですが。その基体に、リード線をくっつけるに、その昔には、裸線を螺旋状に、巻いてたです。その巻き方が、何故かは、わからんの、外側から、内側方向に巻いてたです。モ片方も、同様にして。
尚、リード線でして。抵抗器本体の、全長に巻いてしもたら、抵抗器にならんですので、両端に、一寸ずつ。

では、社長の特許ねえ。
どんなかと、なればの、端から、内側に巻いてたのを、内側から、外側えと。
ダケの話。
なれどの、それで、よお、特許が取れたなあ的、内容なれどの、実際に製造するには、内側から、外に巻いたの方が、やり易いと。
で、そもそもが、何故に、外側から、内側の巻いてたかが、わからんです。

で、東洋電具時代に、その方法、特許の手法で、抵抗器を製造したかは、知らんです。
多分、ホンの初期には、実際に、その手法で、製造したかもと、思てるです。
がしかし、そんな方法では、そもそもがの、製造設備的、量産難しく。事実、昔々の、抵抗器なるは、北陸地方のまあ言うたら、田舎の町工場で、手作業で、製造されてたですて。

で、実際には、線を抵抗器本体に、ぐるぐると、巻き付け、リード線にしてるよりは、両端に、被せを付けて。その被せには、最初っから、リード線をくっつけておけばと。的、発想で、製造設備をば、作成してねえ。
イヤ、名案と、思うです。
それでも、手作業に、近いけれどの、作業性が、桁違いに改善出来るです。
まあねえ。
実際にも、工程では、その手法で、量産化してるです。

とかとか、まあ、言うたら、製造工程、製造方法なるは、知恵の集合体。
知恵は、失敗の連続を如何に、実用化に向けるか、具現させるか、かと。

オッとの、何の話かと。
社長ねえ。
言うてるの通りの、理工学部電気工学科出身の、技術者でして。本社工場内を毎日、毎日、うろうろしてたです。
時には、重要、品質問題について、陣頭指揮で、諸般の、実験なりを指導してねえ。

いやねえ。
当方的、入社して、即は、集合教育でねえ。社則とか、組織とか、当時、はやりの、「QCサークル」とか、品質管理手法とかを、教育されて、ねえ。
それは、勤務時間内で、終業時間後、新入社員なるは、製造工程で、製造させられたり、実験したり、してねえ。
その実験は、先刻の、社長陣頭指揮の、課題を、担当させられて。

での、時々、夢に登場するの、ツトム君。
とは、同期入社の、でして。彼、京都工芸繊維大学<国立二期>卒でして。
イヤイヤ、彼と、一緒に、金属皮膜抵抗器であったかの、工程間変動の実験したです。

どんな事かと、なればの、抵抗器本体。
これは、磁器棒に、炭素の被膜をくっつけたら、炭素皮膜抵抗器。
金属の被膜をくっつけたならばの、金属被膜抵抗器。

ここで、だけでは、わからんが故、炭素と、金属ねえ。
実は、温度で、抵抗値が、変動するです。その変動率なるが、炭素皮膜よりも、金属被膜の方が、格段に小さくて。
よて、温度で、抵抗値が変わっては、困るの場合、金属被膜抵抗器を使うに成るですが。変動が、困るの程故に、元々の、許容範囲も、上下、狭く設定されてるです。

例えばの話の、炭素皮膜の場合、±の、5%なり、10%の範囲にと。してるですが。金属被膜の場合、±の、1%なり、0.5%であったりしてねえ。
製品として、出すの許容範囲が。

が、しかし、折角の、その範囲に、納めてるのに、工程を経るの都度、抵抗値が、変動してねえ。その許容範囲を超えるの事、多々あって。
超えれば、超えたの製品は、規格外で、不良品。
まあ、言うたら、結果的、歩留まりが、極端に低かったり、してねえ。場合により、全滅とか。

では、何故に、抵抗値が変動するのかと。
この実験と、するのか、調査をば、ツトム君と、2人で、やったです。
その具体的中身までは、そら、忘れたですが。半世紀昔の事、やしねえ。

但し、概ねの結果は、覚えてるですが。諸般の組み合わせで、サンプル作成で、工程間変動の調査。つまり、工程を経るの都度、抵抗値測定してねえ。
さあ、どかと、なればの、その時の結果では、差異なくて。

且つは、我々、新入社員では、実験計画法なるの、手法なんか、知らんでねえ。
Aコース、Bコース、とか、A、B、C、Dと、分類、銘々してねえ。結果発表なるは、再度の、差異なくて。

ほならの、社長曰くの、料理屋やあるまいにの、Aコース、Bコースとは、何やと。小言言われてねえ。
新入社員の我々に。
へえの、難しい事、言うなあと。この社長はと。的、第一印象抱いたですが。ツトム君と、2人して。

オッとの、新入社員の多くは、この、金属皮膜抵抗の、品質改善実験させられたです。
されどの、何も、知らんの大学出たての、ばかり、やしねえ。成果なんか、出るのモンかと。諸般の、やり方も、知らんのに、ねえ。
但し、そんな事で、抵抗器の製造方法なら、機械を操作したり、しての、経験したです。
おそらくは、製造に配属されたのなら、当然にしても、当方なら、品質管理<QC>に配属やしねえ。基本、製造設備を扱うは、ないけれどの、品質管理するなら、工程全般、全容、承知してな、勤まらんしねえ。ええ経験した、させられたと、思たです。その当時でも。
(23/05/26)


NO.4132 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(6) 社長との、最初の記憶してるの話(2)

まあねえ。
Aコース、Bコース、云々の話ねえ。
入社早々、右も、左も、わからへんのに、あれやれ、これやれと。
は、結構なれどの、意味なんか、教えてもろてえへんし、ねえ。

とりあえず、昼間は、作業者が、製造設備を使てるし。夜の部、とるのか、作業者が帰ってからと、するのか、当時には、生産追い付かんでねえ。
そら、金属皮膜抵抗器製造工程の場合、歩留まり、めためた。それも、最後の方の工程、測定で、はねられるしねえ。不良損失、膨大。
よて、我々、新入社員に諸般、手伝わせるになったですが。再度の、入社したての、学生気分、抜けてないの面々やしねえ。当方も。

とするのか。
当然の、あれやれ、これやれは、先輩社員の指示でして。言う通りに、してるだけそれが、誰ねえ。苗字なら、承知の、イザワさん。
2年か、3年先輩かと。
矢っ張り、立命館大学出身の、化学工学科出身と、聞いたかと。

まあねえ。
理工学部の場合、とするのか、そらねえ。機械工学、土木工学科は、モノが異なるです。
そらねえ。
当方に、機械の設計云々言われたって、わからんわと。土木にしたって、家の設計ねえ。興味あらへんわと。

言うたら、電気と、化学は、親戚筋みたいな、モンでして。
言うたら、当方。堀川高校2年生の時、化学部の部長をさせられたです。
言うたら、電気分解とかは、化学やしねえ。
変な話、当方的、大学入試の時の、理科の選択は、物理か、化学かで、問題見て、化学を選んだです。イヤ、ほんと。理由、当然の、物理より、化学の方が、点数、取り易いなと、判断した故。
言うたら、立命館大学理工学部の、学科の難易度ねえ。電気か、機械が上位で、以下、化学、土木、数学物理学科の順であったかと。
よて、入試の時、第一志望、電気工学科で、第二志望なるは、化学工学科。

オトトの、今、ハタと。
当時には、そのイザワさんも、社長も、実験計画法なるを、知らんかったんやと。
知ってたら、社長から、その手、言葉、出るやろと。
イザワさんにしたって、的なるの、話、して呉れるやろと。
されどの、何にも、あらへんわと。

社長なら、実習生のやったの、結果、悉くの、悪うてねえ。全滅でねえ。ご機嫌麗しくなくの、当方と、ツトム君の発表では、料理屋やあるまいにの、Aコース、Bコースとは、何やと。
とは、言わんやろと。
簡潔になら、実験計画法を勉強せえと。成るなら、なと。

イザワさんねえ。
当時には、生産技術部門の所属であったかと。
先輩の、その方にしたって、実験計画法をば、承知なら、再度の、それなりの説明するやろと。
それこその、指示受けたの、2人、Aコース、Bコース、云々の理解やしねえ。単に、この方法、この方法と、指示された、だけ。
それこその、結果のまとめ方さえ、教わってなくて。
まあなあ、そんな時間的余裕あらへんですが。皆に。

そらねえ。
諸般、打ち合わせして、明くるの日には、結果発表やしねえ。チャンと、レポートにして。
その、レポートの書式さえ、よ、わからんわと。
くどいけど、入社して、間なしで、配属先は、あっても、そっちに、なかなかに、顔出せずでねえ。イヤ、ほんと。
下手したら、昼間、実験、夜、作業したり、してねえ。

とかとか、その当時、新入社員時代の話、してたら、切りあらへんでねえ。
当時には、土曜日も平日。
休みなるは、日曜日と、祝祭日のみ。祝祭日も、当世より、数少ないしねえ。
の、上で、残業時間、軽くの、100時間突破でねえ。初任給33500円で、諸般の経費、差し引かれた上で、手取り5万円であったを、今日の話の如くの、鮮明に、記憶してるです。

そらなあ。
まずは、当時には、給料袋に明細書と、現金。
申せば、学生時代なら、アルバイトで、日銭を稼げるですが。入社したら、アルバイトなんか、出来ひんし。言うは、日銭を稼げず、手持ちの資金、現金、殆どあらへんでねえ。

そらねえ。
困ったです。
通勤なら、ホンダのスーパー・カブで、通てたですが。単車は、ガソリンで、走るです。そのガソリンを買うの金がねえ。枯渇。
まあなあ。
何とか、保ったですが。保ったが故、通勤出来てたですが。

この、初任給、初回の給料ねえ。待ちに待ってたです。死活問題やしねえ。
まあ、言うたら、実家から、通てるのやから、金なんか、何とか、なるやろと、思たら、大間違いの、言うてるの、基本、衣食住の、食と、住は、実家故、何とでもの、衣なんか、1箇月程度、殆ど一緒でねえ。

オトトの、食ねえ。
朝は、祖母が、元気、健在の時には、作って呉れてたです。
昼食はねえ。社員食堂で、食券でねえ。これは、給料より、天引き故、よかったですが。夜食ねえ。その当時には、21時以降まで、残業なり、するなら、うどんとかの、食券が出てねえ。イヤ、ほんと。
当然の、帰宅なら、家で、喰うけれどや。

余計なるの話の、入社1年経って、二年目の時哉の、祖母、交通事故に遭遇で、腰骨折ってねえ。
結果、以来、寝た切り状態に、なてもてねえ。
当時には、リハビリの概念あらへんでして。骨折故、安静に、安静にと。元々が、腰骨骨折では、当時の技術では、元には、戻らんでして。
イヤイヤ、結果的、そのままに、1年後哉に、亡くなってねえ。

オッとの、どちにしろ、その骨折で、入院してからは、朝抜きで、会社の食堂で、パンと、牛乳。
イヤイヤ、母なら、朝には、寝てるしねえ。よて、祖母が、食事の世話して呉れたです。

ンの、何の話ねえ。
社長に結果発表で、料理屋や、あるまいにと、小言、言われた、なあと。
であるからと、悲観も、してへんですが。そらねえ、右も、左も、わからへんし、我々なりに、必死に頑張ってたです。
がしかし、結果的には、工程を知るの、ええ、勉強、実習には、なった、なあと。全工程は、知らんでも、諸般、自身で、操作、作業出来るしねえ。
そらねえ。
工程に寄り、生産設備を触らせて呉れんのも、あるし、ねえ。

まあなあ。
だけでなく、工程の面々とも、仲良くになったしねえ。
余計なるの話の、大阪での、万国博覧会。
その、入社したの、昭和44年<1969年>の、明くるの年<1970年>やしねえ。
イヤイヤ、方々の工程から、誘われて、何回行った事かと。イヤ、ほんと。

とかとか、佐藤研一郎社長ねえ。
それが、最初でねえ。
以来、数数えられんの、諸般、あるのけれどの、そんな事、一々の、言うても、なと。

とりあえず。
何故かは、わからんの、社長が、我が夢に登場。
それこその、最初は、階段のところでねえ。降りて来て、即の余所行ったが故、とりあえずは、ダケで終わりの、されどの、感覚的、当家に泊まってると。

の、上で、突如の、家買えの話出て。家主から。
そもそもがの、居てるの場所、新しく、広いけれどの、和風ので、間違いなくの、仏光寺<通り名>の、我が家。
そらねえ。
当方の理想。
その家で、晩年を過ごしたいです。その家で、死にたいなあと。とは、常々思てるですが、最早の、その当時のは、壊され、存在せずで、実際に、売って呉れるにしたって、そんな甲斐性、資金なんか、あらへんわと。

土地だけでも、軽くの、一千万や、そこら、するやろ、なあと。10坪程度でも。
それに、家建てみい。まあなあ。それで、一千万円の建物なら、二千万円の資金になるけれどの、あらへんわと。
逆立ちしたら、今の家売るなりなら、一千万円なら、何とか、出来ても、後の生活、出来るん怪と。
イヤ、ほんと。
尚、亀岡の、この家、当世、売っても、一千万円には、成らずの、多分なら、500万円程度かと、目算してるです。
(23/05/27)


NO.4133 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(7) 社長との、最初の記憶してるの話(3)

いやねえ。
この話、社長から、料理屋や、あるまいにと、小言、苦言言われたの話。
なるは、過去、何度か、触れてるです。
それ程に、印象的でして。

そらねえ。
こちは、右も、左も、わからんのままに、先輩技術者の指示で、言われた通りの事をば、まあ、言うたら、半徹で、やって。その上で、自分等なり、ツトム君と、相談し乍らの、レポート作成でして。
まあ、言うたら、こんな具合にと。との、見本もあらへんし、ねえ。イヤ、ほんと。

今、思えば、その、先輩技術者、生産技術担当なれどの、報告書の見本でも、示してくれたら、ええのにねえ。何もなし。
で、よお、まとめたなあと。とは、自身思うです。

いやねえ。
後年、ツトム君と、この辺りの話ねえ。したか、してないか、よ、わからんですが。
言うたら、ツトム君ねえ。「芋煮会」に居てるです。
この、「芋煮会」なるは、ロームの生産システム開発部の面々を中心に、集まってるですが。要は、畑仕事を口実の、飲み会やねえ。
ツトム君が、参加は、現時点、一番の最後でねえ。

オッとの、その、「芋煮会」も、コロナでねえ。2020年から、2023年の、現時点まで、開催してませんでして。
最近になって、幹事経験者、言うても、2人と、思うですが。フサオ君と、ハルヒサ君。
この、2人共に、同期入社でねえ。ハルヒサ君は、4歳下なれど、です。
イヤ、入社して、早々に辞めてねえ。イヤ、ほんと。
以来、「芋煮会」に参加するまで、会わずでねえ。

オトトの、言いたいは、この、「芋煮会」に参加の、同期入社の面々、多くてねえ。
モ1人、トミオ君なるのが、居てるです。
言うたら、概略の、14人で、当方含めての5名、同期入社。

そらねえ。
同期入社なるは、諸般の、思い出あるです。そんな意味では、ツトム君ねえ。
よ、考えたら、時々、少なくともの、複数回、我が夢に登場してるです。
で、よ、考えたら、この、金属皮膜抵抗器の、工程間変動の調査なるが、入社して、最初の業務でしたが、一緒に、したなあと。

ででの、その結果的、差異なくて。
社長からは、料理屋あるまいにと、評されて、ねえ。
そら、Aコース、Bコース等々と、銘々した故でして。

イヤ、実習生と、するのか、同期入社の多くの面々、この手、実験に動員されて、ねえ。配属先の業務なんか、出来ずでねえ。
イヤイヤ、当方なら、抵抗器製造部QC課が、配属されたの早々に、それこその、生産技術課に、なったです。
意味なるは、元々は、QC課に配属されたですが、その中の、一部署、QC係と、言うのが、そのままに、生産技術課として、分離独立したです。
言うても、総勢何名かの、男子5名、女子3名であったかと。女子は、アシスタント業務。

とかとか、言うてたら、話逸れっ放しに成るですが。
まあ、ええやろと。

での、金属皮膜抵抗器の、工程間変動ねえ。要は、工程を経るの都度、抵抗値が変動するの現象なれど、です。
実習生、新入社員の事、なれどの、指示されたの、実験、全滅で、ねえ。
ならばの、どんな具合にと、なればの、抵抗値の変動原因、酸化。

いやねえ。
金属被膜抵抗器ねえ。
磁器棒に、金属をば、蒸着するですが。それに、リード線なり、くっつけて、被膜をば、螺旋状に、ヘリカルに、カッティングする事で、所定の、抵抗値に調整するです。
調整して、塗装して、云々の、抵抗器の、抵抗値を測定しの、良品については、カラー・コードを塗布して、完成品に成るですが。
細かくなら、モっと、工程あるですが。

いやねえ。
何分の、金属の被膜でして。塗装なり、カラー・コードの塗布ねえ。塗膜、カラー・コードも、インクでして。固めるに、加熱するです。
その加熱で、酸化するです。

よて、あくまでもの、当時の話。
カッティングの前工程で、別途の、金属被膜酸化防止の何かを、塗布すればと。
結果的、フェノール樹脂を塗布するになって、ねえ。まあ、言うたら、成功したです。
そらねえ。
抵抗値の工程間変動するの原因、酸化であるがわかれば、対策するは、早いわと。
要するに、塗装の塗料では、厚くに、過ぎるしねえ。兎に角、金属被膜カッティング出来ねば、だめでして。とかとか、フェノール樹脂が最適と。

まあ、言うたら、生産技術、工程改善とは、こんな具合でねえ。
基本的、難しい、理屈不要の、とりあえず、問題あれば、その原因調査次第。後は、その対策で、知恵出せと。イヤ、ほんと。


オトトの、とっとの、そんな事で、多分なら、仏光寺の家の夢に、社長登場。
何故か、母も、出てねえ。
申せば、我が夢に、社長、母出たは、これが、初。

その母なら、家買えの、話ねえ。社長と、相談せよと。あのなあと。とは、当方。
そんな図々しい事、社長に相談以前の、口になんか、出来るのモンかと。そらねえ、親族でも、あらへんわと。
基本、当方的、親族が、親なり、なら、相談しても、構わんですが。叔父、叔母なりでは、なと。親族は、親族なれどの、金あるか、ないか、なんか、わかってるの、あらへんわと。
そもそもがの、我が親族に、金に縁あるの、なんか、存在せず。

そらなあ。
内実は、知らんの、祖母の妹の、長男。親父の、従兄弟に当たるですが。この方、実は、立命館大学土木工学科出身で、ねえ。一級建築士と、言うてたですが。

土建屋と、するのか、建築屋と、言うのか、当人曰くの、ビルなんかを設計しの、造ってると。
いやねえ。
仏光寺時代には、よお、来らたれてたです。自宅、大徳寺の方でねえ。工場か、会社かは、横大路の方で、それは、どんなかは、皆目の知らんですが。
大徳寺のは、まさしくの、その真ん前の家でねえ。北大路通りを挟んでねえ。そこなら、何度も、行ってるですが。そらなあ、祖母の妹宅でして。

その方、土建屋の方、なれどの、当方、立命館大学理工学部電気工学科に入ったと知って、言うて呉れよと。家建ててやるから、なと。
まあ、言うたら、学科違えどの、後輩でして。当方が。
されどの、当然の、只では、あらへんしねえ。

いやねえ。
そ、言うたら、その方、当然の、親父の従兄弟で、同年代の方故、遠の昔に亡くなってるですが。
いやねえ。
親父亡くなってからも、年賀状だけは、出してたけれどの、応答あらへんし、ねえ。出すを辞めたですが。十ン年の昔。
さての、最早の、亡くなってるとは、思うですが。

そらねえ。
親父、現在生存なら、111歳。
よりも、2歳、3歳、下と、聞いてたですが。
とりあえず、そこは、その方だけやねえ。嫁はんなんか、見た事、あらへんし、ねえ。
細々なら、その方の妹、弟なら、おられたですが。話、したは、数えるの程で、数回かと。
子どもさんの事までは、知らんし、ねえ。
(23/05/28)


NO.4134 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(8) 話、逸れまくりの話

オッとの。
その同期のツトム君ねえ。
「芋煮会」に誘われ、参加してるですが、酒は、アルコールは、駄目ですて。言うたら、ジュースも駄目で、お茶程度と。
聞いて、フウンの、そやった哉と。

諸般、その当時、新入社員の当時、応援的、実験なり、させられて。彼と、一緒にねえ。
彼、京都工芸繊維大学の機械専攻でして。要は、機械屋で、生産システム開発部に配属されたですが。とか、言うてもねえ、入社当時には、その部があったか、なかったか、よ、知らんです。

社内の製造設備は、基本的、内作でして。要は、自社開発、自社組立でして。生産システム開発部とは、その、部署。
呼称別として、その手、部署あったが故、抵抗器の製造なるは、全部、内作。
オッとの、そ、言うたら、あった、なあ。生産システム開発部なるのが。

但し、ここだけの話。
とか、言うたって、その当時の、内実なんか、知ってるの面々、極の僅少なれど、です。
言うたら、苗字忘れたですが。入社早々には、退職されまして。その方が、優秀でねえ。製造工程の設備の設計されたです。
勿論の事、工程導入では、細々の問題あっての、対応しつつでねえ。
工程には、保全係があったです。
イヤ、生産システム開発部とは、別でして。

いやねえ。
その方の苗字、多分なら、スガイさんと、言うたの哉の、基本、顔なんか、一度か、二度しか、見てへんし。喋った事もあらへんし、そこらで、ばったりも、わからんですが。
ども、社長との、仲悪くてねえ。辞めた、辞めさせられたと。とは、噂でねえ。
そして、何故か、抵抗器製造部の、QC課長であったの方、ウエムラさんと、言うですが。部長に就任されて。

この方、矢張り、立命館大学の、電気工学科出身故、当方の先輩に成るですが。
要は、当方的、配属されたは、この、QC課。
がしかし、間もなくの、QC課が、分離し、生産技術課と、QC課に成ったですが。分離以前の、課長ウエムラさんは、生産システム開発部の部長に昇格でねえ。

言うたら、前任者はどこの出身かは、知らんの、機械屋はん。
後任が、電気屋はんでして。
我々、下々、新入社員等々の間では、電気屋はんで、その手、機械の開発出来るの哉と、危惧したですが。矢っ張り、交代されて。どこからか、車の、ダイハツで、あったの哉の、から、引き抜きでと、とかの、噂で、マルヤマさんが。
結果、それで、落ち着いたですが。まあ、言うたら、ダイハツでなくともの、兎に角、どこかの、車の設計屋はんやしねえ。機械屋やしねえ。

その方が、長らく、生産システム開発部の長してて。
申せば、現の、「芋煮会」の面々なるは、その当時の、部に所属の面々。
モと、申せば、その、マルヤマさんも、途中から、なれどの、「芋煮会」に誘われて、ねえ。参加してるです。

当方と、その方ねえ。
当然の、一緒の会社故、喋ってるわと。まあ、言うたら、「芋煮会」に、参加の面々なら、業務的には、一部しか、関係せずともの、全員承知してるです。
よて、何年前か、十ン年経つのか、同期入社のフサオ君から、「会」の事、聞いた時、嗚呼と、知ってるの面々ばかりやなあと。とは、思てたです。

そこから、何年か経って、参加を誘われて、ねえ。フサオ君と、モ1人、電気屋の、モリモトさんからで。2人して、家の近所まで、来て呉れてねえ。
イヤイヤ、「芋煮会」の、畑ねえ。農園主ねえ。亀岡の方で、我が家から、なら、車で、5分は無理で、10分哉と。の、程の近くでねえ。
その収穫の帰りかと。まさしくの、芋呉れたです。豊作でと。芋ねえ。サツマイモ。何種類か、あった、なあと。

オッとの、その方、農園主の事、なれどの、存在承知してたですが。
途中入社でねえ。2、3歳、上でして。
1年、2年で、退社したかと。
その入社時の、一時だけ、実は、生産技術課で、同僚でしたです。とは、言うたって、業務上では、一緒には、ならずでねえ。
オトトの、的なるを、言い出したら、切りあらへんなあと。

只、言えるは、その方、亀岡在住で、我が家の近くであるを知ったは、フサオ君から、「芋煮会」の事、聞いたの時。
聞いて、へえと、ビクリしたですが。
いやねえ。
当方的になら、知った面々ばかりやし、農園は、近くやしねえ。酒は、まあ、言うたら、飲めるけれどの、下戸やしねえ。皆が飲んでても、気には、成らずの、飲まずにすむし、ねえ。
オッとの、飲むなら、飲めば、宜しいですが。とは、当方の事でして。車でさえ、行かんなら。となればの、タクシー呼ぶなりせねば、なと。勿体ないわと。
まあなあ、何人かで、乗れば、宜しいですが。矢っ張り、勿体ないわと。当方の車で、その程度なら、送迎して差し上げると。イヤ、ほんと。

そらなあ。
当方なんか、飲んで、ビールで、年何回やと。缶ビールなら、1個飲めば、充分かと。
特に、ここ数年、コップに、2杯程度なら、充分でして。それ以上飲めば、気分が悪く成るです。気分悪いねえ。気を害しての、意でなく、しんどくなったり、眠くなったり。
下手したら、吐きそになったり、してねえ。
よて、モ一寸、欲しいなの、程度で、打ち上げするが、無難。

いやねえ。
ツトム君ねえ。
言うてるの通りの、当方よりも、格段の下戸。言うてるの、ジュースも駄目と。アルコールなんか、トンでもと。

実は、その手に近いのが、モ1人いててねえ。イクオ君と、言うですが。
彼なら、元々が、生産システム開発部でねえ。但し、工作係と称するの、部品の製作部署。
要は、工作機械を操作の部署でして。
その面々が、何年昔か、我々入社して、5年か、6年辺りで、部署諸共の、独立と、するのか、分社して。
その分社、実際には、ロームの、子会社なれどの、亀岡に移転。

はきりとは、「ローム・メカティック」と、称してねえ。イヤイヤ、当家から、歩いて、5分、10分の場所。
オッとの、その、イクオ君ねえ。
歳なら、2歳、3歳、下なれどの、入社は、彼の方が早くてねえ。
イヤイヤ、当然の、ローム社内で、一緒の時期あったが故、重々の承知。
とするのか、当方、入社の時には、本社工場も、400名程度の規模でして。但し、既に、方々に工場なら、存在しの、全社でなら、数千人であったかと。
呉れぐれもの、昭和の、44年辺りの話やでと。
現在なら、ローム本社で、約3700名、全体で、約24000名。
と、されてるです。

イヤイヤ、イクオ君、亀岡在住。
ン十年の昔には、「亀岡シミズ病院」で、ばったりの、遭遇したり、してねえ。ここだけの話の、後部の頭の髪の毛の具合で、嗚呼、もしかしてと。
顔見に、表に回って、やっぱりと。

その時には、それだけで、終わってねえ。
次、十年前辺りやねえ。
当方、歩きの途上で、ばったり、遭遇の、へえと。この近所怪と。
とかとか、その時であったかの、「芋煮会」の話をしてねえ。そらねえ、彼、元は、生産システム開発部でして。「会」の面々なら、皆承知してるしねえ。
誘いの、参加するに成ったです。

どちにしろ、亀岡在住のは、結果的、農園主と、イクオ君と、当方の3人。
農園主は、飲むしねえ。迎えは出来ても、送るは出来ずでねえ。結果、当方、イクオ君。
そして、ツトム君が参加の時には、車で、来るし、ねえ。

オトトの、ツトム君、入社の当時には、寺田<てらだ>在住でねえ。
奈良に近く。
されどの、何年経つのか、伏見の方に、引っ越してるです。よて、寺田から、亀岡方面よりは、格段の近く。
結果、並河駅と、農園との、つなぎねえ。帰りは、亀岡駅にする事の方が多いけれどの、基本、ツトム君なら、そのままに、京都方面にと、送って行ってねえ。
当方と、イクオ君は、最寄りの適当なるの駅まで、送るにしてるですが。
そらねえ。
アルコール類、飲まず故。

オッとの、何の話ねえ。
そんな事で、ツトム君とは、入社早々、一緒に仕事したり、してねえ。
一緒に、社長から、小言、苦言言われてねえ。
そんな言い方、しんでもと。イヤ、社長に対しの、印象。

での、彼、ツトム君とは、一緒に、日本海の方に、ドライブに行ったり、してねえ。当然の、当方、入社してからの、免許取得でねえ。
取得してからの、ホンダの、NⅢ購入。
そのNⅢ買おて、即の、ツトム君乗せて、日本海に行ったの哉と。その当時には、仏光寺の家でして。

話、逸れまくりに成ったですが。
ま、ええやろと。
(23/05/29)


NO.4135 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(9) ウエムラさんの話

いやねえ。
ついでに、ウエムラさんの事を、チラと。

とか、言うても、どれ程なんやろねえ。一緒に業務したは。
とか、言うても、コチは、新入社員で、アチは、配属先の、課長でして。一緒になんか、仕事してへんわと。
とするのか、配属先の、QC課ねえ。間もなく、それこその、半年か、一年か、よお、わからんですが。先刻にも、言うてるの、QC課と、生産技術課に分離してねえ。

での、当方なら、QC課QC係でして。
で、何してた、ねえ。言うてるの、金属皮膜抵抗器の製造部署に、諸般の実験なり、製造要員として、かり出されてたです。
イヤイヤ、ええ勉強に、成ってるです。製造工程、嫌でも、わかるしねえ。工程の機械も、扱えたしねえ。扱わんと、実験出来ませんでして。
イヤ、実際には、工程の班長なりに、頼めば、ええよに、やって呉れるですが。何分の、実験品やしねえ。とするのか、この手のは、所謂の製品扱いせずで、出荷対象には、せず。
ついでの話の、ならばの、完成品にして、どするやと、なればの、原則廃棄処分。

まあ、言うたら、チャンとした、正規の流れで、製造した製品のみが、出荷対象でして。所謂の、実験品、非正規のは、当人、当方なりが、しかるべくのと。
要は、好きにするです。

いやねえ。
この当時のダケでなく、抵抗器だけでなく、ダイオード製造部にも、移籍してねえ。矢っ張り、QCで、且つは、当時のQCなるは、生産技術的業務もやっててねえ。
結果、沢山の、実験品作ってねえ。処分に困った事、多々あったです。イヤ、ほんと。

まあねえ。
何で、困った、かと、なればの、工程からしたら、正規ロットと、違うしねえ。廃棄は、不良品扱いやしねえ。正規ロットでないのを、廃棄で、数字的、不良品増えるは、嫌われたです。
まあねえ。
この当時には、何分の新入社員やしねえ。班長なり、工程責任者の言に従おたですが。ここだけの話の、年数経てば、その班長なりに、指示して、廃棄したり。
何なら、自分でと。イヤ、ほんと。


何の話をしたかったの哉の、ウエムラさんの事やねえ。
言うたら、社長の覚え宜しく、そらなあ、社長の後輩でして。
とか、言うたら、当方も、後輩に成るですが。且つは、ウエムラさんの、後輩にも、成って。

オッとの、実は、大学の4回生の時、卒業研究の、研究室にいてたら、この、ウエムラさんと、ヤマウチさんの、2名が、突然に、研究室に、入って来てねえ。
オトトの、その時には、当然の、苗字なんか、知らんわと。
入って、来て、ヤマウチさん、曰くに、今から、「東洋電具」の、工場見学しに行かへんかと。えと。

要は、入社の勧誘。
イヤイヤ、諸般、立命館大学の理工学部、電気工学科では、「東洋電具」なるは、知られてまして。理由、どの先生か、社長が、当学科の卒業生であると、授業で、言うたを、覚えてるです。
まあなあ。
知るも、その1回だけの話なれど、です。こんな事、1回、聞けば、充分。

オッとの、この、ヤマウチさんねえ。
当然の、当時、QC課の主任であったかと。オトトの、よ、考えたら、当時の、QC課長は、ウエムラさんで、標準係の主任が、タカシマさんであったの哉と。タカシマさんなるは、当方、入社の、1年乃至、2年で、退職してるです。要は、この、標準係が、本来のQCで、所謂の、「標準類」、まあ、言うたら、作業標準、技術標準等々、文書管理をしてたです。加えての、管理試験、信頼性試験を。

で、QC課が、分離して、元のQC課、実際には、標準係が独立の、係長には、このヤマウチさんやねえ。課長居てませぬ故、実質的、QC課の長なれど。
そして、言うてるの、QC課QC係が、そのままに、生産技術課として、独立してねえ。その課長が、イノウエさん。

そんな事で、大学の研究室に、QC課の、課長ウエムラさんと、主任のヤマウチさんが、入って来ての、要は、工場見学に誘われて、ねえ。
どちみちの、就職先、物色せねばも、あっての、快諾で、何名同行したか、忘れたですが。誰か、モ一名はいてねえ。

イヤイヤ、車で、来てるが故、車に乗せられて。抵抗器の製造工程をば、チラと。へえの、女子多いなあと、ビクリしたです。
何分の、理工学部なるは、全学科、全回生で、女子なんか、土木工学科に1名だけ。
最早の、女子的、感覚あらへんわと。
とするよりも、えらい、なあと、ある意味、尊敬したです。そらなあ、土木工学科も、150名と、思うですが。その4年間、1人だけやしねえ。
他を見渡しても、女子なんか、居てへんし。
まあなあ、中途半端に、人数居てるよりは、居ても、1人だけの方がと。諸般、気を使わずに、すむなあと。イヤ、ほんと。

ンの、何の話かの、とりあえず、「東洋電具」の工場見学ねえ。女子ばかりで、別世界かと。言うたら、高校の堀川ねえ。女子は、言うてるの、男子の半数で、2対1の割合でして。
モと、言うたら、普通課程<進学コース>でも、女子の場合、進学は、少ななって、ねえ。言うは、教科で、学生が教室を移動するですが。当時の、堀川高校の場合の話、なれどの、矢張り、理系の、数学Ⅲなり、物理なり、に、なればの、大多数は、男子になって、ねえ。イヤ、ほんと。

オッとの、そんな事で、工場見学終われば、人事の、トミザワさんが、入社試験申込書、とは、仮称の、適当なれどの、なるのを、持って来てねえ。しかるべくの、この場で、書いて、出せと。
イヤイヤ、至って、素直に、記載で、提出したです。
入社試験なるは、一次、二次、三次の、三次は、面接でして。この時の、面接者、ヨダさんでして。実は、抵抗器製造部長でしたです。
結果、入社で、配属先の、抵抗器製造部に行けば、そのヨダさんが、どっかと、部長席に。

オトトの、実は、夏休みねえ。
実習兼ねての、アルバイトやねえ。呼ばれてねえ。
その配属先、QC課でしたです。
イヤイヤ、先刻の、研究室に入って来て、我々を拉致の、ウエムラさん、ヤマウチさんも、その部屋にいてねえ。

オッとの、部屋ねえ。
実は、北工場2階建てのプレハブの、2階でして。
風でも、吹けば、揺れるが故、松代屋敷と、言われてたです。
今時、松代地震。とか、言うても、話、通じませんですが。長野県の松代周辺で、昭和40年<1965年>から、5年程続いてねえ。イヤ、ほんと。

どちにしろ、夏休みの実習なれどの、それが、そのままに、配属先になるとは、薄々の、わかったですが。
この、アルバイトねえ。有り難かったです。探さずに、すむしねえ。何分の、学資、稼いでまして。イヤ、ほんと。
言うてるの、衣食住は、実家から、通てるしで、いらんのけれどの、以外の一切、出してもろてえへんです。よお、やれた、なあと、自身、感心してるです。の、話まで、広げたら、逸れ過ぎ故、ここでは、ここまでにして。

いやねえ。
その実習時代の時から、このウエムラさんねえ。課長なれどの、朝、出勤遅くてねえ。
QC課の面々、怒ってたです。
言うたら、自分で、招集しておいて。会議に、なれどの、その時刻に、出勤しておらず。

いやねえ。
当方、実習生にまで、愚痴言われてねえ。困るの事よと。
イヤイヤ、この方、所謂の、組織を知らんの方。かと、申しの、当人曰くの、24時間、勉強してると。

いやねえ。
出勤遅れるは、本屋に寄ってるですて。専門書なり、探しに、ですて。ほならの、毎日、毎日、朝から、本屋ねえ。皆様、曰くに、ウソやろと。
てな事、実習生の当方に、言われても、なと。

で、確かに、ウエムラさんねえ。浮き世離れした、方では、あった、です。
イヤ、悪い方の印象なく。親切で、優しい方では、あった、ですが。とりあえず、社長からの覚え宜しくて。さもなくばの、遠の昔に、首になってるです。
(23/05/30)


NO.4136 閑話休題的、夢に、ローム社長が出るの話(10) ヤマウチさんの話

更に、ウエムラさんの話。
の、前に、当方をば、大学の研究室から、拉致の、ウエムラさんは、電気工学科の先輩で、当時、抵抗器製造部QC課の課長。
モ1人の、ヤマウチさんねえ。QC課標準係の主任でしたが、この方、立命館大学の、理工学部の、基礎工学科出身。とは、2部<夜間>でして。

いやねえ。
何を隠そお、隠す事もあらへんの、2部の出身者、結構多く。
いやねえ。
我が叔父、下の方なれどの、2部卒業。ンの、何学部か、聞き忘れ。なれどの、基礎工学科ではないなあと。文系と、思うです。
この叔父、コロナの何ちゅうかの、流行るの直前、亡くなったです。要は、2020年の2月でねえ。

余計なるの話の、入院したと。
と、聞いて、イヤ、左程に様態、悪いの話でなくて、従兄弟、叔父の息子なれどの、寄れば、倒れてたが故、病院に、なれどの、まあ、言うたら、数日で、退院と、までは、聞いては、ないけれどの、出来る限り、早めにの、話、あらへんかって、ねえ。イヤ、面会の事。
よて、諸般、土日にでもと、思てたならばの、金曜日やったの哉の、亡くなったの連絡あっての、ゲと。

いやねえ。
そらねえ。
思い出一杯の、叔父でして。
とするのか、上の叔父も、下の叔父も、一緒に住んでたし、ねえ。
まあ、言うたら、親父でもない、兄弟でもない。そらなあ、歳なら、離れてまして。されどの、親父以上にかわいがって呉れて、ねえ。
オッとの、まあ、言うたら、当時には、そんなモンでした、です。当世みたいに、核家族でなく、大家族で、住んでたです。

そらねえ。
まあ、言うたら、住宅ローンなるが、まだまだの時代でねえ。言うは、家建てるなんか、相当の甲斐性ないと、不可。
モ、あるし、原則、父親が、一切の面倒見てねえ。その父親に、何か、あれば、そこの、長男が、親代わりするになるです。要は、母親は、母親なれどの、大抵の場合、母親、家事専門。

よて、親父が亡くなれば、そこの長男が、一家の面倒見るに成るです。甲斐性、あろが、なかろが、です。
まあねえ。
我が親父に甲斐性なんか、あらへんけれどの、結果的には、一家を養おてたです。
但し、その当時には、皆が、倹約第一でして。当世のよな、大消費時代とは、全くのと。

オッとの、かと、言うて、一家、養うねえ。
要は、衣食住の、食と、住の確保なるが。家長たる、長男の役目でして。住ねえ。借家でしたが。
食ねえ。
まあ、言うたら、すき焼きなんか、年1回かと。

トトトの、何の話ねえ。
言うは、まあ、言うたら、経済的、金銭的には、苦しいのが、多かったです。そらなあ、出来れば、皆様、2部<夜間>でなく、昼間の、1部に通いたいけれどの、それでは、学資がと。
まあなあ、学資以外に、衣類もあるしねえ。

いやねえ。
それ、言うたら、当方にしたって、大学の、授業料なんか、親に、出してもろてえへんし、ねえ。
されどの、入学金ねえ。これが、問題やねえ。
当方、どんな具合に、調達したか、覚えてえへんわと。

但し、当たり前に、自身が稼いでの、資金では、ないです。そらなあ、大学入学前なるは、高校生でして。高校生でも、当方、アルバイトしてたのけれどの、1年、2年の時、だけやねえ。春、夏の、長期、夏休みの時だけ哉と。
一つは、日通<日本通運>の、補助員。とりあえず、助手席に乗ってたら、結構なるの、業務。
現在なら、駐車違反にならぬよに、なれどの、当時も、意味一緒は、一緒で、警察が、回って来たら、言うて呉れと。まあ、言うたら、どでも、ええよな業務。
それと、新京極の、「越後屋」と、称するの、土産モノ屋の、何やろねえ。殆ど、役には、立たずの、万引きの見張り。イヤ、ほんと。

イヤイヤ、日通のは、母と、仲良しの方のご主人が、日通に勤めてたです。配車担当、とか、聞いてたですが。但し、何故か、3日か、一週間だけの、通いでしたです。
イヤ、多分なら、最初っから、その約束で。

土産モノ屋ねえ。
親父と、そこの店主が、同級生でして。これも、母が頼んだのやろねえ。息子に、アルバイトさせて呉れへんかと。
よて、夏休みの期間、何日間か、通勤したです。当然の、あの界隈ねえ。夜が本番。よて、四条通りには、市電が走っててねえ。オッとの、堀川高校の前に、走ってたの、市電は、廃止されたですが。四条通りのは、走ってたです。

よて、電車の回数券をば、戴いて。店主から。
要は、行けば、往復のための、2枚を、手渡して呉れて。
言うたって、ねえ。17時頃から、20時頃の、3時間程度であったの哉と。店に居たのが。
そらねえ。
今時の、なら、しっかり、してると、思うですが。当方なんか、あかんねえ。意味なるは、高校生のアルバイトねえ。まあ、役になんか、立たへんやろなあと。そら、右も、左も、わかってえへんし、ねえ。

そらねえ。
土産モノ屋故、商品の売り子ねえ。こんな高校生のアルバイトで、金銭なんか、触らせえへんわと。
そらねえ。
その店の息子なり、娘なら、将来、後継がんならんし、ねえ。商売の事、覚えてもらわんとと、成るのけれどの、本来、いらんの、仕事をさせてるのだけやしねえ。万引きの監視なんか。当方的、万引き経験、あるでなく。されどの、そこらに、人がいてたら、万引きも、し難いやろと、だけ。

日通のも、助手席に、乗ってるだけの、でして。
内実、知らんのけれどの、奥さんの、知り合いから、頼まれたが故、形だけ、数日の仕事をと。あっても、なかっても、ええよなと。
で、幾ら、戴いたか、忘れたです。もしかしたら、日に、100円程度かと。
オトトの、そんな事で、高校生のアルバイトなんか、その当時には、流行ってませんです。禁止もされてえへんけれどや。

兎に角、入学金の、ン万円ねえ。
イヤ、事実、幾らとまでは、記憶はしてませんですが。5万円、6万円の範囲かと。再度の、昭和の、39年<1964年>に、大学生になったんやし、なと。
大学生の場合の、アルバイト料ねえ。時給100円の時代。

それ、言うたら、「越後屋」さんでの、アルバイト料ねえ。30日間程、通たの哉の、その期間の総額で、500円戴いたです。
イヤ、当方的、大金。

いやねえ。
入学金ねえ。
収入なんか、その程度やしねえ。後は、お年玉、やけれどの、知れてるわと。そもそもがの、金なんか、持ってえへんわと。それこその、喫茶店ねえ。
入ったは、大学生になってから。そらなあ、諸般のアルバイトで、手持ち資金、一時的にhが、潤沢になったり、してねえ。

そらなあ、再度の、大学の、入学金ねえ。当然の、親なり、祖母が、工面して呉れたと、思うです。
但し、当方的、親父から、あそこに、売り掛け金、幾ら、幾ら、もろて来い、とか、言われてねえ。イヤ、集金して来たら、それを、入学金の一部にと。
言われて、方々に行ったのけれどの、全部、不発でねえ。
オッとの、親父、「電化製品修理及び販売業」。よて、当方、電気工学科。イヤ、ほんと、やでと。されどの、後継ぐよな、商売してへんわと。してたら、継いでるわと。イヤ、ほんと。

実は、所定の、日までには、間に合わず。
期限的、何度か、延期的、伝えられたですが。多分なら、この期限で、駄目な場合、サイナラと、されたの日に、何とか、間におおてねえ。イヤ、ほんと。

この時には、既に、入学式、終わってまして。
言うたら、卒業式ねえ。
これ、何を隠そおの、隠す事、あらへんの、学園紛争真っ直中の、要は、昭和44年<1969年>の卒業やしねえ。
卒業式、出来ず。
出来ず以前の、後期試験がさえ、出来ずでねえ。試験は、レポート提出にすると。結果、助かったの面々、多かったかと。それなあ、当方的、助かったです。多分。

いやねえ。
言うたら、大抵ならばの、留年が、概略の、20乃至30%と、聞いてたですが。お陰様で、皆、無事、卒業出来たかと。
イヤ、ほんと。

とかとか。
いやねえ。
イノウエさん、ヤマウチさんねえ。
正直申しの、勉強家で、努力家でしたです。

いやねえ。
要は、当方感覚、1部と、2部の違いなるは、入学金が調達出来たか、出来んかったの違い哉と。
当然の、以外にも、生活の面倒見んならんの立場なら、それこその、働き乍らの、学業でして。

いやねえ。
実は、当時、立命館大学の学費は、安いで有名でしたです。
基本、貧乏人の小倅の大学、立命館で、金持ちのぼんぼん、同志社と。相場は決まってたです。
話なら、「立っちゃん」「同やん」と、言われてたです。この、言葉、当世でも、通じてるかは、わからんですが。
いやねえ。
されどの、当世、立命館大学の学資も、高なってもてねえ。貧乏人の、は、外れてるかと。


いやねえ。
言うたら、イノウエさんねえ。ヤマウチさんねえ。
余りの、細々なるは、言うて呉れませんでしたが、学資では、苦労したと。
ヤマウチさんねえ。何やら、ネクタイをば、売ってたと。とか、聞いたの覚えあって、ねえ。一緒に、配送センター<岡山、里庄>に、出張したの時、屋号、「辻与」と、称するの、岡山、笠岡の、旅館に宿泊で、その時、ヤマウチさんの部屋、訪問してねえ。
尚、笠岡には、ローム・グループの、ワコー電器があるです。

オッとの、そらねえ。
諸般、ご縁あったの方でして。ヤマウチさんには。
その時、その話、聞いたの覚えあるなあと。ネクタイ云々と。多分。
オッとの、後年、ダイオード製造部が出来て、それこその、オクノさんが、部長で、QC課の課長が、ヤマウチさんで、当方、そのQC課に配属でして。

トトトの、ウエムラさんの話するのつもりが、ヤマウチさんのに、なてもてねえ。
ま、ええかと。
(23/05/31)


NO.4137 当家、諸般の、命日の話(1)

諸般、6月8日。
なるは、母の命日でして。
亡くなったは、2015年でねえ。今年で、8年経ったになるです。早いモンや、なあと、感心するです。
それ、言うたら、親父ねえ。32年経つんや、なあと。

それこその、親父ねえ。
の、前に、まずは、祖母、当方ロームに入社で、2年目の時やねえ。交通事故でねえ。車にぶつkぁられての、骨折したのが。相手さん、アチ、要は、祖母がぶつかって来て、勝手に転けた、的、話をしてたのらしくの、あのなあと。
結果的、その件、ど、なったかは、当方皆目の、知らんです。当家代表、当たり前に、長男たるの、親父でして。
只、祖母がぶつけられ、転けて、骨折と聞いて、イヤ、会社に家から、電話があって、ねえ。電話を受けた、女子、名前失念の、姿形なら、現在でも、鮮明に、記憶してるですが。

いやねえ。
話、早速にも、逸れるですが。それこその、生産システム開発部、当時なら、ウエムラさんが、部長の時期の、ムカイさんの、彼女でねえ。
イヤイヤ、ムカイさんと、結婚したです。
して、そのままに、岡山の、井原の、シンコー電気の、関連会社、言うたら、金型なり、製造と、するのか、要は、機械屋はんに、再就職したですが。

いやねえ。
結構、社内恋愛、結婚多く。
申せば、ヤマウチさんねえ。同じの、QC課の、アシスタントの子。姓は忘れたですが、名は、サト子なんやろねえ。皆が、サトちゃん、サトちゃんと、言うてたですが。
と、結婚してねえ。

残念乍らの、子が出来ず。
オッとの、ついでの話の、当方とは、抵抗器製造部では、一緒と、するのか、まだ、大学生の時代の、実習の時、QC課の試験をさせられたですが。
その時の、上司やねえ。直接には、オトトの、苗字、これ又、失念の方から、指導受けたですが。最近、モノ忘れ、多くてねえ。特には、人名、地名、花鳥風月。
元々が、この辺り、覚えるに苦手、なれどの、尚、酷くなって来てるです。遂の、先日まで、覚えてた、よな、事、思い出さんでねえ。この方も、です。苗字、出て来ず。

での、ヤマウチさんなら、当方的、抵抗器製造部から、半導体製造部に。そして、その部が、トランジスタ製造部、LED製造部と、ダイオード製造部に分離してねえ。当方の場合、ダイオード製造部に成ったですが。そこで、一緒になったですが。
その時の、部長、オクノさん。

オトトの、てな事、触れ出したら、又、更にの、脱線するが故、その気になればの、又、するですが。
とりあえず、ヤマウチさんは、一旦、辞めて。
兎に角、家族の話、してたんやと。
その、祖母の話やねえ。ムカイさんの、奥さんになったの方から、電話ですと。出て、ビクリ仰天の、まあなあ、死んだ云々でなく。されどの、家族で、そは、こんな事故、怪我、骨折なんか、早々には、あらへんわと。

オッとの、当方が、その骨折したなあと。
足を。足首を。まあなあ、年齢的、45歳辺りでねえ。金具、外したですが。余計なるの話の、歳喰ての、骨折の場合、最早の、外すは考えずで、入れたままにする場合多く。

そ、言うたら、親父も、母も、当方も。ンの、我が長男も、手首骨折した、なあと。長男の場合、30代故、骨くっつけば、当然の、金具外してるです。
そ、言うたら、下の叔父も、骨折してたんや、なあと。イヤ、聞いてなかった、なあと。聞いてたら、当然の、見舞いに行ってるですが。
オッとの、これは、歳喰てから故、そのまんま。故に、灰にされたの時、斎場で、見たです。金具を。へえの、叔父、骨折してたんやと。
我が親族、骨折に気ぃ付けねば、なと。イヤ、ほんと。


オトトの、当家、祖母。
当方の、24歳の時、亡くなったですが。
その骨折で、結果的、寝た切りになってもてねえ。
当時には、リハビリの概念なくて。骨くっつくまで、安静に、安静にの、そんな、なあ。祖母、80代。半世紀昔の、やでと。医療は、そんなモンで、ねえ。可哀想に、ねえ。84歳で、亡くなったですが。
言うたら、母なんか、何回も、骨折してるですが。金具入れて、ねえ。リハビリも、してねえ。結果的、92歳まで、生存。

その半年経ったの辺りで、親父が、結核入院。
これ又、結果的、32年やから、当方、44歳の時やねえ。亡くなったが。親父、79歳。
ンの、まの、誕生日6月1日でねえ。その前日でしたです。モ一日、長く生きてたら、丁度の、80歳やったんやと。

オトトの、ハタと。
何と、まの、命日、今日<5月31日>でした、です。ゲと。

いやねえ。
母の命日、6月8日でねえ。
当家的、一番の直近故、そちの方考えてたです。

言い訳すればの、諸般、守ってるの、ご先祖様ねえ。結構多くてねえ。忘れてもてねえ。
オトトの、諸般、過去帳紐解けばの、曾祖母の命日、その6月の1日。やったんやと。70歳で、亡くなっててねえ。生きてたらの話の、171歳。

オッとの、諸般、年会ねえ。
過年、コロナの時期、2020年に、その曾祖母、100回忌でねえ。祖母すゑなら、50回忌でねえ。
とかとか、失念で、やらずの年会。されどの、コロナの時期やしねえ。その手、親族には、声だけ、掛けて、集まらずで、当家、嫁はんと、2人だけで、菩提寺、光圓寺に出向きの、法要して戴いたです。

その、母の命日の件で、本日<5月31日・水>、妹に電話してねえ。
いやねえ。
妹とも、2020年の、下の叔父の、葬儀以来、会おてえへんし、ねえ。
かと、申しの、年会、回忌なりは、言うてるの、2020年のコロナの時、嫁はんと、2人だけでと。

まあなあ。
そのコロナも、収まってもてねえ。最近、又、怪しいぞの、話、あるですが。まあなあと。
イヤ、特段の、大袈裟でなくの、久しぶりに、会わんかと。イヤイヤ、母の命日口実としての話でねえ。
まだ、日までは、決めておらずの、妹家の都合のええ日にと。

オッとの、親父ねえ。
更には、曾祖母、6月1日で、妹、佳江<0歳・72年>が、6月22日でねえ。
モと、言うたら、祖父、亀吉<69歳・80年>、5月23日やったんやと。ゲゲゲの、ゲと。
当家、この5月、6月、多いんや、なと。
(23/06/01)


NO.4138 当家、諸般の、命日の話(2)

そんな事で。
イヤ、ご先祖様の、命日の事で。
申し訳ないなあと。直近の、母のは、記憶してるですが。更には、分家なれどの、下の叔父の事も、記憶してるですが。そらなあ、親族と、してなら、それが直近。

とか、言うても、一周忌も、三回忌も、声掛からんかった、ですが。
まあなあ。
分家は、そんなモンかと。
当家の場合、基本、一周忌、三回忌、七回忌等々、年会してるです。但し、分家なりは、一周忌までやねえ。妹家と、息子共家までは、呼ぶですが。

まあねえ。
正直には、分家から、声掛からんは、寂しいねえ。
まあ、言うたら、従兄弟なれどの、実は、年齢離れ過ぎててねえ。
上の叔父、当方、中学生の時に結婚やしねえ。下の叔父なら、大学生の時、やでと。結婚したが。要は、両家の、子ども、従兄弟の事、なれどの、最低でも、その分、離れてるです。
まあ、言うたら、15歳も、20歳も、離れててみい、この年齢差、デカいぞと。

モ、あるし、当方なら、叔父宅には、何度も行ってるですが。従兄弟がねえ。上の叔父の娘、長女なら、家には、亀岡の、なれどの、親父の葬儀の時、来て呉れてるですが。下の叔父家の長男ねえ。家には、来た事、ないなあと。
イヤ、年会になら、声掛けてるし、参列して呉れてるです。
まあなあ。
その辺り、難しいなあと。

オッとの、それ、言うたら、母方の、方の従兄弟も、そやなあと。
当方なら、家に、寄ってるですが。下の伯父宅なら、何ちゅうても、中学校の通学途中にあるしねえ。数え切れんの程に、寄ってるですが。従兄弟はねえ。家の前なら、その当時、通過してた、かも、なれどの、家には、入ってえへんねえ。不思議やねえ。何で、やろねえ。

まあなあ。
事程左様の、当方ねえ。
その当時には、昔には、他家に寄るは、何とも、思てえへんかった、なあと。
反対には、歳下の従兄弟ばかりでねえ。何の意識もしてへんかった、ですが。あちから、こちは、えらい、歳上の、お兄さんかと。近寄り難かったん哉と。
表面的には、そは、感じさせて、ませんですが。あっちが、こっちに。
されど、その手、意識あった、やろなあと、今、思うです。

特には、柴田の方では、当家、長男家やしねえ。当方、その長男やしねえ。
母方の従兄弟なら、まだ、年齢近かったけれどの、矢張り、何歳か、当方、年長。
対して、柴田家の、叔母家。当然の、結婚して、姓異なるですが。そこの、従兄弟、3人の、長男だけが、当方よりも、1歳上。
まあ、言うたら、そんなには、会う機会あらへんのけれどの、一番に仲がええなあと。とは、当方的、勝手に思てるです。

まあなあ。
それは、千葉在住で、遠いけれどの、叔父家の葬儀に、声掛けても、来て呉れて、ねえ。
イヤ、声掛け役、当方。

まあなあ。
その直近の、叔父の葬儀ねえ。2020年やねえ。2月の。
まあ、言うたら、2人共に、70代やしねえ。されどの、千葉から、来るが出来るの程に、健康で、元気。とは、言えて。結構、なると。
そらなあ。
当方にしたって、細々、言い出したら、諸般、あるですが。健康上の問題が。されどの、何ちゅうても、呆けてえへんし、車の運転出来てるし。
何でも、喰えるし、その気なら、どこえでも、行けるです。

そらまあ。
まだ、70歳代やしねえ。
昔の、70歳代とは、違うわと。

いやねえ。
どんな風な方かは、全くの知らんですが。曾祖母70歳。その当時のなら、超の長生きした方かと。
祖父69歳ねえ。
男で、当時、昭和の20年<1945年>の、終戦の年に亡くなってるですが。これ又、男としたら、長生きでして。

言うは、当方、子どもの時代には、町内に、高齢の男なんか、居てへんわと。そらなあ、偶には、居てるですが。珍しく。
言うは、同級生でさえ、この辺りの年齢の子の親ねえ。お父さんが亡くなってるの家、可成りの多さでねえ。
子どもの頃、当方的、お父さん居たはらへん、とか、なんか、全くの考えてえへんかった、です。それこその、諸般、会おて、ウチは、母子家庭やったし、なあと、言われて、初めて、嗚呼、そ、言うたら、そ、やったんやと。

オッとの、いやねえ。
親父なら、79歳で。母なら、92歳で。
されどの、親族を見た場合、言うてるの、現千葉従兄弟の母親、当家親父の妹なれどの、64歳で、亡くなっててねえ。今更乍らの、へえの、若かったんやと。これは、1986年の事、やしねえ。

その叔母が亡くなって、間もなくと、するのか、の、前に、そもそもが、その叔母の、5年前に、祖母亡くなってるです。
言うたら、叔母の母でして。
そして、叔母から、5年経っての、1991年に、親父。その1年経って、上の叔父。要は、親父なり、叔母の弟に成るですが。
当方の立場からは、祖母以来、次々と、血縁親族がと。これ、寂しいぞと。

オトトの、それで、言いたかったの事ねえ。
その親族の、享年をば、知るに連れ。又、過ぎるに連れ、自身、一体、何歳まで、生きさせられるのかと。
イヤ、特段の、長生きしたいと、とは、思てえへんけれどや。
さりとての、今日の、明日のと、突然も、困るしねえ。
さりとての、介護されるの身になりの、延々も、嫌やしねえ。

いやねえ。
とかとか、今死んだら、一寸、早いなと、言われ、そ、なれどの、次第、次第にの、80代にでもなてみい。まあなあと。
更に、90代にも、なてもてみい。こいつ、まだ、生きてるかと。思われたり、してねえ。
イヤ、ほんと。

とかとか、佐藤社長とは、無縁の話になてもてねえ。
されどの、その夢には、母も出たし、ねえ。
オッとの、表題なるは、「当家、諸般の、命日の話」にしてるですが。
(23/06/02)


NO.4139 当家、諸般の、命日の話(3)

いやねえ。
過日、5月の31日<水>ねえ。
イヤイヤ、親父の命日の、日。

諸般、あって、ねえ。
一つには、タカラ・スタンダード製、洗面台の、栓の、開け閉めするの、ノッチと、するのか、ボタンの表現も、おかしいなあの、箇所が、壊れてねえ。
サービスに連絡で、連絡は、28日の、日曜日なれどの、日曜日やしねえ。
受付だけして呉れて。明くるの、29日<月>に、その手、修繕担当部署の方より、電話あっての、31日の昼からにと。諸般の説明より、既に、部品手配で、30日着故、その明くるの、31日にと。ハイ、承知と。
まずは、当日、昼から、来るのやなあと。タカラ・スタンダードの、修繕屋はんが。

オッとの、その31日には、妹に、母の命日の件で、とするのか、コロナもあっての、2020年の2月の、下の叔父の、葬儀の時、以来、会おてえへんし、ねえ。
イヤ、その明くるの、2021年には、当家、ご先祖様の、法要をば、菩提寺に行って、やって、戴いて。

いやねえ。
母の、七回忌なるは、2021年なれどの、皆で、集まっては、一寸、なと。
されどの、妹には、声掛けてみたけれどの、そらなあ、コロナでねえ。遠慮すると。こちも、サヨかと、あっさりと。来て、感染でもされたら、えらい事、やしねえ。イヤ、ほんと。

更には、祖母の、50回忌でもあって、ねえ。
曾祖母も、2021年が、100回忌でねえ。
変な話の、曾祖母、祖母、母と、回忌が重なっててねえ。

オトトの、どちにしろ、妹は伏見在住なれどの、叔父の葬儀以来、コロナもあっての、顔見てへんしと。この、6月8日が、母の命日故、顔でも、見るかと。
久しぶりにと。

イヤイヤ、特段の、何回忌でもあらへんしで、命日であるからと、お寺さんに来て戴くも、しませんです。
単に、妹夫婦の顔見て、一緒に昼飯でもと。までは、考えてても、言うては、ないけれどや。
されどの、来いと、会おと、呼んで、お茶の一杯しか、出さずに、ハイ、さいなら、とは、なと。そらなあ、しょっちゅう、会おてるなら、それこその、お茶の一杯程度、飲めと、出したり、してねえ。

イヤ、ほんま、やでと。
祖母健在の時、頃、その妹が、よお、来たです。
イヤイヤ、大徳寺の。中手やねえ。来ては、土間に立ったのままで、延々の、姉であるの、我が祖母に、愚痴言うて。
それこその、数日に一回、来てたの哉と。当方、そばに居てねえ。基本、台所で、居間兼用の間やしねえ。広い家でも、あらへんし。話、一緒に聞かされて。
されどの、子どもの当方に、理解出来ずの話の中身でねえ。イヤ、ほんと。

兎に角、愚痴話と、思うです。
そして、言うては、泣いて、泣いて。お姉さん、聞いてえなと。言うては、又、泣いて。
当方、陰で、泣きの、小母さんと、言うてたですが。陰ねえ。祖母にも、そのままに、言うてたですが。泣きの小母さん、又、来たと。

いやねえ。
祖母の下の妹も、よお、来てたですが。ここは、富小路の方やし、近いけど。大徳寺からなら、市電やろねえ。歩いては、一寸、なと。
大変でして。時間も、掛かるしねえ。

いやねえ。
それ、言うたら、仏光寺時代なるは、近所の方々、町内の方々、親族も、よお、来たです。基本、皆様、京都市内在住でして。されどの、借家なりのが、多くてねえ。
それ、言うたら、祖母の妹宅は、持ち家。可哀想に、長女の祖母だけが、借家やったんやと。今、思たら、なと。

されどの、京都の家、なるは、入り易くてねえ。それこそ、一寸、腰掛け、話するに、丁度、宜しくて。イヤ、ほんと。
よて、当方でも、町内の、又、親族の家にも、寄ってねえ。
まあなあ。
家々の、構造と、するのか、間取り、承知してたしねえ。

対して、現の、亀岡の家ねえ。
当家に上がったの方、どれ程かと。
まあなあ、親族なら、上がってるですが。さりとての、柴田の方ねえ。叔父達なら、親父の葬儀関係での、1回か、2回。
その、連れ合いの、叔母ねえ。オッとの、1回あった、なあと。矢張り、親父の葬儀関係で。
言うてるの、柴田の従兄弟で、上がって呉れたは、上の叔父の、娘のみ。矢っ張り、葬儀関係で、ねえ。

いやねえ。
母方の従兄弟ねえ。
1人も、上がってえへんなあと。上の伯父なんか、来て呉れたの事、あらへんぞと。仏光寺の家にさえ。

そ、言うたら、母の妹ねえ。
リキ叔母さんなれどの、最早の、亡くなってるの、やろなあと。年賀状出しても、応答なく。応答ないだけなら、まだしもの、遂には、返って来てねえ。
そこは、娘ばかりで、当方的、年齢的にも、離れてるがあっての、そんなには、行き来してへんし、ねえ。正確、正直には、名さえ、知らんわと。
そのリキ叔母さんなら、仏光寺時代、よお、来てたですが。亀岡には、一度も、来ず。まあなあ、富野荘と、称するの、奈良に近い方でして。家が。
その昔には、河原町の、八条の方に居たですが。引っ越したです。

イヤイヤ、そのリキ叔母さんねえ。
何故にリキねえ。誕生日が、「陸軍記念日」のたけ、「陸記」で、カタカナの、「リキ」に成ったと、聞いてるです。
とかとか、こんな話、現在なら、その娘と、当方しか、知らんわと。ここで、言うたって、なんぼの値打ちも、あらへんの、けれどや。

兎に角、当方をば、タケオちゃん、タケオちゃんと、可愛がって、呉れてねえ。
そらまあ、リキ叔母さんにしたら、姉の子でして。その上なるは、皆、と、するのか、2人は兄で、当然の、歳、離れてるしねえ。姉であるの、我が母が一番に、近かった、かと。


とかとか、いつの間にやら、又、話、逸れまくってるですが。
まあ、言うたら、その手、親族の話ねえ。
その昔には、皆が近所やしねえ。又、柴田の、叔父達なら、同居の時期あったしねえ。そらなあ、言うてるの、上の叔父で、中学生まで、一緒。

下の叔父ねえ。
ここは、高校生に成るの時、引っ越したです。上鳥羽の方に。間借りして。
多分なら、当方の事、気に掛けてかと、推測するですが。
そらなあ、狭い、我が家で、当方の部屋なんか、あらへんしねえ。それこその、妹も居てるしねえ。
まあ、言うたら、下の叔父が、家出て、当方、2階の、叔父の部屋にと、部屋もろたです。
そして、その叔父の結婚が、当方、大学生の時、やしねえ。

言うは、当世の、家族構成とは、全然の違うです。
されどの、仏光寺時代ねえ。近所、町内でも、そんな面々、家々、案外に、多かった、わと。
そらなあ。
言うてるの、大家族時代やしねえ。
兄弟が、即の、家出たりは、なかなかに出来ずの、遠くに就職も、なと。

そらなあ。
上の叔父にしたって、結婚して、九条の烏丸の方であったかに、アパート借りて、ねえ。
そこなら、自転車で、でも、行けるしねえ。諸般、祖母から、用事頼まれ、何度か、自転車で、行ってた、なあと。
そして、田辺の、マンション借りて、引っ越したですが。

イヤイヤ、諸般、親族の話ねえ。何かと、話、聞いての、承知してたです。
当世とは、えらい、違いや、なあと。
それも、これも、皆、まあなあ、近いわと。家の距離が。
(23/06/03)


NO.4140 閑話休題的、6月の墓参の話(1) 持病平癒薬師如来に参拝の話

いやねえ。
昨日<6月3日・土>には、月参りの墓参。
その帰途。

とするのか、当然の、用事、あって。四条河原町の高島屋。
用事の本題、お中元の時期故、その注文をと。
更には、そのついでの、話の、嫁はんの健康上の件で、新京極の、「坂本漢方堂」に行きたいと。何やら、ラジオで、言うてたと。
イヤ、鼻汁が云々と。これで、諸般、集中出来ずで、寝不足にもなってと。そこで、ええ漢方薬が、あるのみたいでねえ。

いやねえ。
高島屋に寄るなら、その近くやしねえ。
まあ、言うたら、お中元の件なんか、そんなには、時間掛からんし、折角やし、行こかと。
当然の、墓参を済ませたらの話でねえ。それが、大本命の用事。

オッとの、そんな事で、9時半一寸前、家出てねえ。
tantoで。
道中、案外に早くに、着いてねえ。東本願寺祖廟の駐車場に。

イヤイヤ、何故か、年会なり、納骨の方、多くてねえ。
オッとの、そ、言うたら、先月の、墓参でねえ。まあ、言うたら、当家墓地、墓石の、左隣の墓地の方。当然の、苗字なんか、知らんし、初めての、遭遇。

オトトの、言いたいは、納骨に来られてて、ねえ。
イヤイヤ、ところがや。係と、するのか、担当の方。要は、お骨、骨壺をば、墓石内に納めるの方。
中年男性なれどの、当方的には、一発で、わかるです。そらなあ、その墓石のそばに来て、待機されててねえ。

そらねえ。
当方にしたら、記憶の範囲で、祖母、親父、母をば、納骨してるです。妹、佳江は、当方的、幼稚園児で、死の意味、わかってえへんしねえ。
細々なるの事、知らんです。
まあなあ。
そんな意味でなら、祖母の時には、喪主、父やしねえ。当方的、社会人には、成ってるですが。漠の、されどの、次、父の時、母の時には、当方、喪主かと。こんな風に、やらんならんのやと、思てたですが。

オッとの、どちにしろ、その男性、我々に。
とするのか、当方に、ここの墓地の方ですかと。尋ねられの、当然の、違うしねえ。イヤ、違いますと、返答。
そ、こ、してたら、女性2人。まあ、なあ、年齢的、丁度、ええ時期、二十歳辺りかと。但し、所謂の、私服でねえ。言うは、礼服着てませんでして。えと。

イヤイヤ、当方的、察しつけてるの、多分なら、この女性2人、その故人の、近い親族なんやろと。例えばの、娘さん。
とか、思てたの矢先、まあ、言うたら、そのお母さんかと。故人の連れ合いかと、思しきの、ややの高齢女性が、来てねえ。さすがに、この方、礼服なれどの、あのなあの、遅れて、来るの怪と。担当の方、多分なら、指定されたの時間、時刻に、来ておられるですが。

いやねえ。
それにしたって、若き女性、若いとは、言えどの、成人女性が、礼服も、着ずの納骨かと。あのなあと。
その親、母親にしたって、何をどしてよいのか、わからんのみたいでねえ。誰しも、精通なんか、してませんですが。

いやねえ。
まあ、言うたら、こんな具合に、立派に、先祖代々の、墓石所有で、納骨の件、事務所に話をしてて、ねえ。後は、しかるべくの、担当の方に、聞けば、わかるですが。それ以前の、まずは、墓参をと。ご先祖様に。

と、思たならばの、案の定の、そんな具合に、担当の方から、言われてねえ。イヤ、墓参をと。
そらなあ、そやろなあと。
どちにしろ、この一家、娘にも、しかるべくの、教育指導しとかんとと。
オッとの、当家ねえ。
特段の、あせえ、こせえと、指導なんか、してへんのけれどや。諸般、年会なり、してるしねえ。祖母なり、父なり、我が妹なり、要は、ご先祖様の。
その時、しかるべくの、礼服でして。そんな事、わかってるわと。

オッとの、いやねえ。
それは、言うてるの、前回、先月の墓参の時の話でねえ。
此度、墓参では、我が、墓地えの、道中で、2軒も、あって、ねえ。年会か、納骨かは、知らんですが。しかるべくの、礼服着たの方々と、お坊様が、読経されて。

いやまあ。
その手、光景なら、場所が、場所で、墓地でして。大墓地でして。何等、珍しくもあらへんの、前回みたいに、礼服着ずのは、初めて見たなあと。
要は、それ程に、この一家、墓参には、来てへん。特には、娘やろねえ。来てへんのやろねえ。来てても、何等注意して、観察もしてへんかったんやと。諸般の、服装を。
オトトの、くれぐれもの、前回、先月の話でねえ。隣の墓石の方の話は。

での、墓参終えたならの、毎回の、寄ってるの、「薬師如来雙林寺」。
実は、その参道の横手に、お堂あっての、「持病平癒薬師如来」と、してあってねえ。
言うたら、何か、お堂みたいなのが、あるは、知ってたけれどの、「薬師如来雙林寺」が、主たるでの、そちに、お参りで、横手のは、失念してたです。

いやねえ。
此度には、認識で、先に、お参りしてと。要は、2箇所の薬師如来さんにと。イヤ、ほんと。
イヤイヤ、気がついたら、これも、ご縁でねえ。特段の手間暇掛かるであらへんでして。お賽銭が、一寸、増えるのだけでして。

お参りしたなら、まあなあと。いつもの通りなれどの、円山公園経由で、八坂神社に。
いやねえ。
来月には、「祇園祭」やしねえ。と、するのか、八坂神社、本家本元の、粽が売ってるかと。売ってたら、諸般、買おても、ええなあと、思いの、周辺見渡せどの、置いてあらへんしで、巫女さんに、尋ねた、ならばの、7月1日から、ですて。サヨかと。

まあなあ。
来月の、墓参までに、長男家、次男家の、意向、尋ねて、いるなら、買おとくかと。
まあなあ。
結果、毎年、買おてるですが。


そんな事で、その辺りの用件、終えて。
さての、高島屋ねえ。
さての、この段階で、11時45分辺りでねえ。
言うは、高島屋に着けば、12時でして。時分時で、ねえ。

まあなあ。
いつも、墓参の帰りしなには、どこかで、昼食してるですが。まあ、言うたら、プチ贅沢をと。
での、高島屋ねえ。
以前なら、コロナ以前なら、地下の、カレー・ライス屋、「サンマルコ」に、行ってたですが。コロナ以来、何ちゅうかの、通路の一角で、人数も、数人、5人程度に成ったの哉と。席が。

これねえ。
一寸なと。
結果的、7階の、「京回廊」の、トンカツの、「恵亭」にしてるですが。結構、安くてねえ。うまいしねえ。お漬け物が、出るしねえ。お変わり、自由やしねえ。
内容、重々の処置故、安心感あるですが。さりとての、毎回、毎回、高島屋に来たら、「恵亭」も、芸がないなあと。
まあ、言うたら、中身、値の問題あるのけれどの、他店も、見てみるかと。そやなあと。
まあ、言うたら、結果的、「恵亭」でも、結構なれど、です。ここまでは、余所なんか、余り見てませんでして。
以前、「ロイヤル・キッチン」に入った事、あるのけれどの、所謂の、ファミリー・レストイランと、変わらんし。
京料理の、「田ごと」も、一度か、二度、入った事、あるのけれどの、何ちゅうかの、高いだけでねえ。

オッとの、そんな事で、高島屋にと。
あくまでもの、お中元の、注文目的が、主たるで、寄ったですが。
(23/06/05)