実録ハイテクNO.1 | 実録ハイテクNO.2 | 実録ハイテクNO.3 |
目次
その4・抵抗器製造部
22.二人の課長談 着炭課長とモールド課長
21.或る出来事 BRASIL工場実習生
20.着炭工程余談(2) 両備電子(2)
19.着炭工程余談(1) 両備電子(1)
18.試験法の集大成(8) 人事異動
17.試験法の集大成(7) サカエ電子
16.試験法の集大成(6) アポロ電子工業(2)
15.試験法の集大成(5) アポロ電子工業(1)
14.試験法の集大成(4) 東邦電器
13.試験法の集大成(3) ワコ電器
12.試験法の集大成(2) 分からず屋の上司
11.試験法の集大成(1) 教典作成目的
私にとって、二回目の人事異動があったのです。
人事異動と云うても、紙切れ一枚ナシ。上司からの口頭だけ。
入社時の配属先は、抵抗器のQC。それが、分裂して、製造技術。
今回は、それが、統合されて、元のQCになったワケで、居てる建家はナニも変わらず。事務机の平行移動。
この建家は、二階建てのプレハブで、昭和40年頃から約3年間、長野県松代地方で群発地震が発生した。その地震がキッカケで、通称、松代屋敷と呼ばれてたのです。群発地震は、私が入社する以前のこと。
それほどに建家がユラユラ揺れてたけど、風のタメ、地震のタメではナク、ヒトが歩くと揺れてただけです。プレハブやから仕方がナイ。
そんなことはどおでもヨイ。私も一緒にQCに戻ったけど、業務内容が変更された。
マズ、QCの試験責任者が、半導体製造部に移動することになったのです。
マダマダ、抵抗器が主力ではあったけど、これだけでは将来性が乏しいから、会社としては、半導体への進出を模索して、抵抗器の人材が、少しづつ、半導体のホウに移動してたワケです。
イマ、ROHM、当時、東洋電具も、現在では、半導体なるものが主力やけど、なんとか、産声が上がった頃で、ICなんか、陰もカタチもナイ。
トランジスターさえ、マダ、ナカッタし、半導体らしきものと云うたら、ダイオードの試作が開始された程度。あくまでも、試作やから、量産には至ってナイ。
どっちにしても、抵抗器の試験責任者が欠員になった。この試験は、私が入社直前の実習でやった業務でもある。
私が指名されたのは、その理由が大きいと思う。ナニも知らんヤツより、多少なりとも実務経験者が適任やからで、私がその穴埋めをさせられることになった。
私にしてみたら、学生時代の実習でやった程度のことやから、ナニも知らんのも同然。引継の時間さえナカッタ。
上司にもよるけど、モトモト、この会社はこういうことにはヨイ加減。もっとも、前任者が退職して、消えてなくなるワケでもナイから、分からんことは何時でも聞きに行けるけど。その前任者も、先輩ではあるけど、オナジ歳。
試験とは、所謂、信頼性試験、管理試験のことで、製品評価の重要な業務ではあっても、やること自体は、左程、難しいものではない。
私は、その責任者に指名されたワケで、試験の実務は、担当者がやってくれる。
その担当者の構成は、班長一名、担当担当六名。突然にして、七名の部下が出来たことにナル。しかも、女の子ばっかり。
そしたら、ウラヤマシがられる程、ヨイことばっかりみたいやけど、そおではナイ。人の管理、特に、オンナの子の扱いが、これだけ難しいとは思わなんだ。
そしたら、人の管理だけみたいやけど、私の業務は、いわば、雑用係のナンデモ屋です。
全体的な試験の量、新しい試験法の開発、試験装置の保守点検と導入。作業環境の確保、作業方法の統一と指導、等々。加えて、生産技術業務、QC業務。
勿論、主担当は試験業務やから、アトのは、従属的な業務になって、試験業務以外のことはナニをしたのかさえ、記憶してナイ。
且つ、沢山の業務みたいやけど、実際に時間を喰ったのは、試験装置の保守点検と導入。それはソレとして、私が担当することになった試験員の年齢構成は、十五歳から、二十歳そこそこ。私自身が入社三年目くらいのトキで、オンナの子は年齢のワリに、はきはき、テキパキした子ばかりです。ナカには、ドンくさいのも居てたけど。
いずれにしても、抵抗器は会社の稼ぎ頭。QC業務の女子アシスタントは、工程の班長クラスを引き抜いてたのです。
いわば、製造工程の現班長にとっては、先輩格でもあるし、製造方法も熟知してるから、ナニを依頼しても、テキパキして、素晴らしかった。
以前、カッティング工程の高倍率化の実験をやったけど、これなんか、QCのアシスタントに頼めば、十倍は、早かったハズやけど、製造装置の動かしカタを勉強する目的もあって、自分でやっただけ。
ところが、高度成長でもあって、人件費が高騰して、人材難。
京都の本社では、次第に製造を縮小して、主力の製造は、山口県の東邦電機(ノチ、解散)、岡山県のワコー電器、香川県のアオイ電子(ノチ、独立して、現在、上場企業)。これらは、製造工場として設立されて、そっちに、移管。
製造工程そのものが縮小やから、班長を引き抜くにも、人がナイ。
結局、入社試験、学業成績の優秀な子が優先的に、QCに配属されたハズやけど、それも次第に、怪しい状況にはなってました。
余談ではあるけど、この当時こそ、品質管理そのものが、米国から導入された矢先で、朝礼でも、毎日、唱和してたのや。
「我々は、常に品質を第一とする。いかなる困難があろうとも、よい商品を、国の内外に、永続かつ大量に供給し、文化の進歩発展に貢献する。」
これは、会社方針で、全員が、暗唱してたくらいです。
会社方針やから、変動することはナイけど、現在の幹部を含めて、暗唱できるのが、果たしてどれくらい居るのか、疑問。暗唱出来たからと云うて、ナンと云うこともナイけど、これが、日本の企業の原点に思える。
それが、形骸化して、コンニチの状態。
具体的には、品質そのものは、工程で造り込むもの。
こんなことは、イマでも実施されてるけど、製造工程が、地方から、更に、海外に移管され、加えて、製造装置そのものが、複雑になって、人手を介在せんよおになったから、製造装置の設計者は、装置の異常しか分からない。
本社の品質管理担当者も、製造装置が、スグそばにはナイから、扱いカタも分かってナイ。製造装置のナニをどお管理したらヨイのか、把握するのさえ難しくなってると云う意味です。
本題の主旨ではナイけど、追い打ちを掛けて、不況の時代に突入。リストラのかけ声の名のモトに、経験者が淘汰されて、長年の経験を継承する機会もナク、去って行くのが、イマの日本の現状で、当然、ホウボウに歪みが発生してる。
世界との競争と云うけど、安かろう、悪かろうは、一昔マエの何処かの国の製品を意味してたのやで。はっきりと、日本の製品の、サキまで見えてしもてるやないか。
これは、ROHMのことを云うてるのではナク、東海村の原発事故、森永乳業の食品汚染、三菱自動車のクレーム隠し等々。こんなことも、氷山の一角で、品質管理そのものが、日本から姿を消してると云いたいのや。
何処の会社の幹部も、スグに、「品質第一」と、口にはするけど、幹部が口にしても、空虚に聞こえるだけ。その体制になってナイから。
工程も知らずに、品質管理が出来るハズがナイし、頭デッカチでは、工程からバカにされるだけやし、そお簡単には、元に戻ることも出来ません。
日本と云う国は、資源がナイ。加工でしか、技術力でしか、生きられへん。これが、製造技術で、その裏付けが品質。
品質を忘れた日本の製品にはナンの魅力もナイ。そこから脱落し、堕落してしもた日本の将来は、どおなるのやろ。
エライ、脱線してしもたけど、敢えて、警鐘を鳴らすのや。
難しい理屈はイラン。原点に戻れ。
(00/10/05)
試験関係を担当したのは、三年程度です。
その三年間に、イロイロありましたが、一番最初にやったのは場所の移動。
松代屋敷が、取り壊されることになったから。
そのウエ、環境試験装置(恒温器)もベツの場所に移動することになった。
大きな試験装置は、別棟に設置してあったけど、それを、マタベツのプレハブの掘っ建て小屋があって、全部署のが集約されて、試験室と称されることになったのです。
環境試験装置を簡単に説明すると、オーブン。現在では、一つの建家全体が試験装置になった、大規模なものがアルけど、この当時には、まだナカッタ。イマでも、ロームには採用してナイけど。
それでも、人間の一人や二人くらい、ムリしたら、入ることが出来る大きさで、そんな環境試験装置を製造してたのが、田葉井製作所(現、タバイエスペック)。
イズレにしても、一抱えも、二抱えもあるよおな装置やから、素人が簡単に動かせません。そこに、イマで云う便利屋さんが、登場するのです。
この会社は、各部署の拡大縮小で、人員の変動も激しいから、レイアウトの変更ばっかりしてる。二三週間もしたら、何処かの部署が、何処かに移動してる状態。イマ、私が、会社を覗いても、ナニが何処にあるのか分からんやろ。
机、椅子、ラック等、事務業務関係の移動はその部署の面々がやるけど、簡単に持ち運びの出来ん装置もアルから、カワバタさんと云う、便利屋さんに頼むことにナル。バール、コロ、台車等を駆使して、どんな装置でも、ナンとかしてくれるのや。
それ以外にも、建家の簡単な修繕、装置の作成から取り付け等々、ナンでも頼めたのです。便利屋さんとの表現はナカッタから、その先駆者的存在と云うことにナル。スグにプロのヒトが集まって、チョイチョイと、やってのける。
本来は、部外者が、社内をウロウロするのは厳禁やけど、このカワバタさんだけは、特別で、何時も社内をウロウロしてた。ウロウロしてるから、そのタビに、色んなことを頼むことになる。
変更、変更で、継ぎ接ぎだらけの構内でもあるし、屋根裏の状況から、空調のダクトが何処を経由して、配線が、何処にアルのか。社内の人間より、このカワバタさんのホウが詳しいから、下手に自力でやると、コマルことがアル。
それと、事務関係の簡単な屋内配線は、我々が勝手にやったけど、大きな装置に関しては、電源容量の関係と、材料のこともあるから、近畿電気工事に頼んだのや。
試験装置は試験室に集約されて、それ以降、十数年は不動やったけど、それ以外の測定装置類は、事務所に置くことになる。
電子部品の製造関係の事務所には、計測機器類が付き物。その測定装置類の、殆ども試験担当の管理下にアル。
そんなことで、レイアウトの変更のタビに、ナニを何処に置くのか、レイアウト図面を書くことにナルけど、僅か、三年で、何回、変わったことか。三四回はあったハズ。
そんなナカで、社内の設備関係にも電気工事専門の小父さんが居た。モトモト、掘っ建て小屋そのものは、以前からあって、近畿電気工事に頼むこともナイから、試験室のレイアウトのための、配線はしてくれたのです。
古い建家のプレハブのことやから、夏場など、電気配線のコードにまで、虫が集まるのです。
試験担当の子が、試験室で、虫に喰われて、湿疹みたいになったりして。
何故か、私は喰われんかったから、試験室に巣喰う虫は、オスばっかりではナイのか。
その小父さんとも、冗談を云うたもんです。小父さんは、ワシは喰われると云うてました。そしたら、歳喰ったら、中性になるのやろか。
そんなこと云うて、笑てるばっかりではスマンのやから、蚊取り線香を持ち出したり、キンチョールを準備したり、バルサンを炊いたり。蚊ではナイから、蚊取り線香は、効果はナイのやし、ホカのも、気休めだけ。
虫は明るい場所が好きやろと、担当者と一緒に、私が懐中電灯を持って、虫を呼び寄せたり。
ソレでも、喰われるのは、オンナの子だけ。ヤッパリ、オスの虫なんやで。イヤ、試験室での作業は昼間やから、何処でも明るいから、懐中電灯もアカンのやろ。
原因は、電気配線が集中してる場所がある。そこに、虫が集まり易いのやないか。
設備担当の小父さんにお願いして、配線の場所を変更して頂いたのです。
これで、オンナの子の喰われるのは収まったけど、配線を変更は、一日仕事で、小父さんが虫に喰われたのや。
顔が腫れ上がってしもて、エライことになって、もお、ヤラヘンぞ。小父さんが悲鳴を上げた。
ナンで、こんなハナシをしたのか。
試験関係ではお世話になった小父さんで、想い出深いヒトやった。
この配線から約十年後、小和田さんは、他界された。
(00/10/06)
サテ、試験関係を担当することになって、ナニを学習したか。
実は、楽天家の私がヒトの人生とはナニかを考えさせられた。
社会の様々な面を見せつけられた。
エライ、飛躍したハナシみたいやけど、決してそおではナイ。
私自身も、裕福な家庭に育ったワケではナイ。はっきり云うて、経済的には、大学にまで進学したのが不思議なくらい。
勿論、余所の家庭の中味までは分かりませんけど、隣近所でなら、一番、貧乏な一家のハズで、中学校で、もっと、貧乏な家庭がアルことを知ったけど、さりとて、その範囲なら、ビックリするほどのこともナイし、我が家に、お金持ちの子が遊びに来ても、気にすることもナカッタ。
ナンとも感じてないくらいの楽天家やったのは、性格にもよるけど、世間シラズでもあったことと、周辺の環境も極普通やったから。
そして、イマでこそ、ロームも、女子は高校生以上で、男子の新入社員など、院卒が90%にまでなってるけど、当時の東洋電具の主力は中卒の女子。そのトキの、私の部下も例外ではナイのや。
そやから云うて、私の中学時代のオトコの親友でさえも、進学しないのが居たから、特別視はしてナカッタ。
そお云い切るのは、語弊がある。語弊ついでに、その当時でさえも、ドンな出来の悪い、勉強ギライな子でも、せめて、高校くらいは、行っといてクレと云うのが親の願いやったやろ。
そんなナカでの中卒やから、ベツの理由でもナイ限り、余程、家計が苦しいのやとは、頭のナカでは分かってた。
何処の会社でも、ソオとは思うけど、新規採用の場合はマトモな子が多い。それが、退職等で、補充の場合が問題やった。
ナンでもヨイわけでもナイのに、途中採用とか、余所の部署から廻って来た子には、ホンマに振り回されたのや。
この子は、例外で、正規採用で、京都の東のホウやった。場所的には、京都のモンやったら、ダレでもスグ分かるけど、そんな場所に、家があったのやろかと思うやろ。それ以上の詳しいことは、申せません。
その子はシッカリしてて、ハキハキもしてた。ミスもあったし、一風変わった面もあったけど、面倒な仕事でも、イヤな顔一つすることもナイ子でもあった。それが、入社して、数ヶ月目のこと、突然、欠勤してしもた。
欠勤するならするで、予め連絡するのはアタリ前のこと。配属された早々に、集合教育で云われてるハズやし、私も説明した。
ところが、ナンの連絡もナイ。人事部で、身上書を見せて貰て、デンワでもしてやろと思たのに、家のデンワが書いてナイ。
仕方がナイから、場所をメモして、家庭訪問することにした。体調がオカシイとか、病気の可能性もアルから、ケーキなど持ってです。
ところが、簡単に分かるハズの場所やのに、それが分からへんのや。その近辺をウロウロ探したけど、アカンのや。と云うよりも、余り、気分のヨイ雰囲気でもナイ。
そこら中に異臭が漂ってる界隈。ナンのニオイかと云うと、屎尿のニオイ。云うとくけど、私はニオイにも鈍感やけど、その私が異臭と云うのやから、余程のことや。
これは、ヤバイけど、そおかと云うて、イマ更、引っ返すワケにもイカンから、適当なオバハンを捕まえて、訊ねたら、ヘンな顔をされた。
イカニモ、怪しげなヤツ。アンタ、ナニモンやな。そんな表情をする。
モトモト、ここに、足を一歩踏み入れた段階で、胡散臭いヤツと、数人のヒトから、遠巻きにされて、観察されても居たのや。
名刺を示して、こういうモンです。警察ではナイから、シンパイすることはナイのやで。そんな気持ちです。但し、名刺は渡してナイ。見せただけ。云うても、会社の制服のままで来てるのやから、警察やなんかと、思われるハズがナイのに。
ソレなら、ソコの三階や。案内したる。
そのオバハンが、ニヤッと笑うのも気持ちが悪い。案内された、建物は、スグそこの建物やったけど、そんな何階もアル建物かいなと云う程の、古い煉瓦造りの円筒形の建物で、入り口に入った途端に、その異臭が強烈にしてる。発生源は、ここなんや。
正直云うて、吐き気をモヨオスくらいの強烈なニオイが漂おてる。その界隈全体が異様やから、ここだけのニオイではナイのやけど。建物のナカやから、余計に充満してる。トキも夏場。
そやけど、我慢センとイカンやろ。その子のためにも、鼻を押さえたら、シツレイやで。そのオバハンも、意地の悪いヒトで、私の顔を覗き込んでやがる。こんなオバハンに、見透かされてタマルモンカと、対抗意識さえ抱いたのや。
云うても、私も、根がバカ正直な若造やったから、訊ねたトキに、見透かされてしもてるやろ。
それは、カマヘンけど、何処まで行くのやな。三階云うても、建物のナカはジメジメした、煉瓦造りの螺旋階段で、部屋も一杯あるのやで。そこらの階段でも、ヒトが寝てるのやし、エライ場所に棲んでるのや。
ここやでと、案内された、部屋には、その子が居てた。もお、二人、お母さんと、お婆さんやろか。
云うても、コレ、どれくらいの部屋か。六畳くらい。部屋の扉はナイ。単に、ヨレヨレで、シミだらけのカーテン一枚だけのシキリ。
この程度の部屋のナカやのに、カーテンがまだあって、そこに家財道具が積んである。三人もの人数が棲めるのかいな。マダ、居てるのや。身上書では、お姉さんが居たハズや。
畳の部屋やけど、その畳がメクレあがって、ボロボロで、それも、茶色に変色して、ニオイがプンプンしてる。ソラ、干す場所も無いし、干したら、崩れ落ちそおな畳です。
案内されて、サア、ドオゾ。ここやで。
ナカからは、ワザワザすみません。お入り下さい。
ソレはヨイけど、何処に座るのやな。立ったままと云うワケにもイカンからなあ。
躊躇してたら、お婆さんが、ナニも云わんと、出て行ってしもて、お母さんが、座布団を出してくれたのや。狭いし、邪魔やろと、遠慮しやはったのか。
さあ、どうぞ、お座りください。その出された座布団が、マタ、ベタベタしてるのや。
それで、ドオコオとは考えてナイ。実は、この界隈に到達した時点で、覚悟は決めてた。ナニがあっても、動じてたらアカンぞ。そやけど、ズボンが汚れそお。
それにしても、この子は、こんな場所に棲んでるのやなあ。可哀想に。
そんな感傷に更けてるヒマはナイ。
お母さんが気を遣て、お茶など出してくれた。
コレは、一瞬、迷たけど、口にさえセンとは、この一家に対して、失礼千万である。
一気に飲み干した。
(00/10/07)
その部屋で、ハナシをしてるウチには、鼻を突くニオイにも慣れたし、落ち着きもした。
部屋のナカにはナニもナイ。
デンワどころか、テレビもナイし、冷蔵庫もナイ。夏場やったけど、扇風機はどおやったのか、そこまでは定かではナイけど、ナカッタよおに思てるし、勉強机どころか、お膳もナイ。
ラジオくらいは、何処かに置いてるやろけど、天井からは、裸電球だけがぶら下がってる。
裸電球なら、何処でもオナジ。私が育った仏光寺の家なんか、オヤジが電気屋はんで、私も電気専攻やのに、似たよおな状態やった。漏電までさせたくらいやから、エラソウなことは云えません。
お布団は、押し入れがナイから、カーテンのムコウに置いてあるのやろ。この部屋で、どおやって、四人が寝泊まりするのやろ。
全体で、6畳くらいやのに、カーテンで、仕切って、居場所は4畳くらい。一畳とは、ヒト一人が生活出来る空間とは云え、禅僧やあるまいに、実際問題として、身動き出来ひんやないか。
そんなこと考えてたら、ナニしに来たのか、忘れてしまう。
イヤ、私がまだ24、5歳の頃(約30年マエ)ではあるけど、その部屋で、ナンのハナシをしてたのか、家のナカの状態までも、鮮明に記憶してる。それ程に、私の予想を超えてた。
私かて、こんな住処くらい、ソトからなら見たことはアル。映画とか、テレビの映像でも知ってます。
大抵のヒトなら、知識としてはアルやろけど、用事がナイから、ナカには入ったことがナイし、近づくことさえ、遠慮するやろな。
ここなら、雨露を凌げる屋根がアルだけ、マシやろか。中味は知らんけど、家財道具がアルだけ財産がアルと云うことや。ゴミ屋敷なら、勝手に散らかしてるだけやけど、ここにはナンにもナイに等しい。ナニかあったら、座る場所さえ、なくなってしまう。
それよりも、ダレかが、覗きに来てよる。
ソトと云うても、螺旋階段になってるけど、カーテン一枚だけのシキリだけやから、ナキに等しい。物珍しそおに、覗いてよるのが分かるのです。
覗いてるのは、エエ歳のショボくれたオッサンばっかり。この程度やったら、武道には、ナンの心得もナイけど、ナン人でも掛かって来い。勝てそうやで。相手に刃物さえナカッタラやけど、その刃物さえ、持ってるのかいな。そんなこと、やりそおな、覇気のアル、顔つきでもナイ。
あからさまに覗いてるワケではナイのや。部屋のマエを何人かが、用事もナイのに、ウロウロと、往復してるだけ。目と目が合わんよおに、意識してアッチを向いてよる。ナンのハナシやろと、聞き耳を立ててるのがハッキリ分かる。
オンナの子やのに、こんな環境では、プライバシーもヘッタクレもアラヘンやないか。オトコでも一緒やけど。そやから云うて、産まれたトキからこの状態やったら、もお、これが常識になってるのやろし、私にナニが出来ると云うのや。
イヤ、出来ることがアルから説得しに来てる。
もお一杯、お茶をどおですか。お母さんが、気を遣て、そお云うた。
これはお断りした。スミマセン、一杯で充分です。
そやけど、喉が乾いたはるみたいやし。
一気に飲み干してしもたからやなあ。そやけど、ホンマにケッコウです。アリガトウ、御座いました。
そしたら、お菓子でも。とか云うて、饅頭みたいなんを出してくれやはった。
みたいなモンとは、確信がナイからで、カタチは饅頭。ドッチミチ、覚悟はしてるし、甘党やし、頂くことにした。
笑い話ではナイ。この饅頭が、石みたいに、堅いのや。マズは、手で割れへん。一口程度の大きさやから、歯でかみ砕いてやれと、やってみたけど、歯が立たんのや。ナンやコレ、ホンマに饅頭かいな。飲み込むには、大きいし、マサカ、お茶をクレとも云いとおない。
私が口に入れたり、出したり、四苦八苦してたら、その子が笑うのや。ムリすることナイですよ。
そやけど、助け船を出してくれて、助かった。そのままやったら、意地にでも、食べてやる気やった。それにしても、何時から保管してる饅頭やな。
アトで聞いたけど、覚えてナイくらいのムカシやて。云うても、この子は15歳やで。
相当な貴重品か、ソレを出すべきお客がナカッタのか。茶菓子を出してくれたのやから、歓迎はされてるのやろけど、頼りナイ、お母さんなんです。
娘さんのハナシやのに、意見を出しません。お茶とか、饅頭を出してくれるのは、それなりに、努力をしてくれてるとの気持ちはくみ取れる。されど、私にしてみたら、肝心なハナシが進まんのや。
そこへ、お姉さんが帰って来た。
雰囲気として、このお姉さんが、一家を養おて、家長的存在のよおやけど、失礼乍ら、多寡が、17歳の小娘が家長やてか。その姉さんが、今回は、諦めてるみたいで、この妹も、年々、頑固になるとか。
「コレが、アホなこと云い出して。夢見てるのや。」
私が、ナニモノで、ナニしに来てるか、挨拶するマエに、イキナリ、そんなことを云う。ウロウロしてたオッサン連中から情報が入ったのやろ。
そんなこと、ドッチでもヨイ。当人は、会社に出社するのをイヤがってる。
その原因は、仕事がイヤになったワケでもナイ。同僚にイケズされたワケでもナイし、上司の私がイヤなワケでもナイ。
そこまでは聞いてるけど、それでは、サッパリ分からんのや。
そこに、お姉さんが、夢見てると云うた。
夢てナンやろ。
(00/10/08)
かと云うて、この狭い部屋にお姉さんまでが加わったら、息苦しい。
マタ、ナニか、奇妙な食いモンでも出されては閉口する。
お茶も、ナンですが、ヘンな味がしてたのです。酸っぱかったから、下手したら、下痢するかも分からんぞ。
ウロウロしてるオッサンも目障りやし、何処か喫茶店にでも連れ出すことにした。
「お姉さんもどおですか。」
「説得やったら、私でもアキマセンし。」
そんなことやから、その子だけを連れ出して、心当たりの喫茶店に向こた。この子の住処は知りませんでしたけど、この界隈にナニがあるかくらいは知ってます。
喫茶店云うても、会社の制服を着たママで、本来は業務時間中でもあるから、抵抗感はアル。余所さんは知りませんけど、私には、そんな概念はナカッタ。営業さんは時間調整等であるやろけど、製造関係の人間が、出張以外で業務時間中に社外に出ることは珍しい。家庭訪問は、市内やから、単なる外出で、出張扱いではナイ。出張中なら、乗り換え電車の待ち時間とか、クレーム処理の関係で、営業担当者との事前打ち合わせとか、その程度で寄り道することはアル。
私がナンで、そこまでヤル気になったのか。理由は沢山アル。
折角、育てよとしてる新人やのに、途中で辞められたら、アホみたい。ドライに云うたら、人材難ではアルけど、募集したらスムことではアル。そやけど、ナニかの縁でオナジ仕事に従事することになった。その縁を大切にしたい。
そして、この手の子の末路もウサワでは知ってます。会社を辞めて、暫くしたら、町角で、客引きしてたとか。
事程左様に余程の信念、目標でもナイ限り、この年齢でもあるから、早々に退職する子は、腰が落ちツカン。
云うたら悪いけど、この子のお姉さんにしても、ナニしてるのか。平日の、昼の日中の中途半端な時間に帰宅してる。服装からしても、マトモな職業ではナイのやろ。
お姉さんのことはドッチでもヨイ。この子の夢とはナンやろか。一番の興味はソコにアル。
「お姉さんが云うてたけど、夢てナンやな。」
喫茶店では単刀直入に聞いてみた。
「ピアノがやりたいのです。」
ナルホド、夢や。そやけど、失礼乍ら、あの環境で、ピアノはナイで。
私にしてみたら、そんなハナシが出てくるとは夢にも予想してナカッタ。そもそも、音楽は苦手やし、ピアノみたいなもん、触る気もナイ。
「ピアノくらい、退職せんでも出来るで。」
「お金もアルし。」
これは、ヨクあることで、予測してた。入社して、数ヶ月。給料は入ったし、ボーナスも手にしたからで、この段階で、辞める子は多い。三日、三月、三年と云うけれど、この三月目が、ボーナス月に該当してる。
この年齢で、しかも、あの環境で、手にする何万円の金額は、大金。それだけあったら、夢にまで見てた、ピアノを買うのはムリやけど、教室には通えると判断したのやろ。それなら出来んことはナイ。
「友達もやってるし。」
気持ちはヨク分かる。オンナの子やったら、エレクトーンとか、ピアノをやりたいやろ。学校時代からの友達がやってるなら、尚更やろ。
私の妹も、上達せんくせして、エレクトーンをやってました。余計に、返事に困るのです。
「エライなあ。沢山、貯金したんや。そやけど、生活はどおするのやな。」
「お姉ちゃんが生活費は出してくれてるのや。」
「これからもかいな。」
そこまでのことは考えてナイのやなあ。
「そして、将来はどおするのやな。」
「ピアノの先生になる。」
「大きな夢やなあ。実現させたいなあ。
お金は貯まったみたいやけど、そのお金で、何ヶ月の月謝になるのかなあ。」
「知らんけど、一年か二年はやれる。」
「マズ、その月謝が幾らか調べてみいな。それで、何ヶ月やったら出来るか、計算してみいな。
ピアノも買うツモリか。」
「スキやし、買いたい。」
「ピアノは高いで。そのお金も貯めんならんやろ。それと、何処に置くのやな。」
「お金があったら、何処か借りて、そこに置くのや。」
相手は、ナンと云うても、15歳のオンナの子。何時の間にやら、私の部下とか、ナンとかの気持ちでは無くなってしもて、妹でも説得する気分になってしもてた。
その子はニコニコしてるから、ナンでやと訊ねたら、こんなハナシをしてるのが楽しいのやて。
ハナシくらい、幾らでもしたるけど、マズ、会社に出て来い。そのウエで、サッキのハナシを調べて来い。それからでも、遅いことはナイ。マダ、若いのやから。
そおや。私も若いけど、この子はもっと若いから、ナンでも出来る。
ここで、面白いことを云うのや。私はお兄さんにしては、歳やし。アホ抜かせ、私の妹は、高校ン年生。と、云い掛けて、辞めた。
それより、お父さんは、幾つやったのや。
ダレがお父さんか、分からんのやて。お姉さんのも、分からんのやて。
イランこと聞いてしもて、スマン。
その子は、一度は出社してくれたけど、結局は、退職してしもた。
その喫茶店は、十年マエに閉店してた。この子の住処も、二十年マエには、無くなってる。
イマ頃、四十歳過ぎの、ピアノの先生で、ヨイお母さん。
なってくれて欲しいよなあ。
(00/10/09)
学校からの紹介で、会社に就職してるのやから、無事に義務教育は卒業してるハズ。
ではあるけど、生活環境が、想像を絶するのが多かった。
環境が良ければなあ。親がシッカリしてたらなあ。そんな子は多いのや。ハッキリ云うたら、親のホウの問題ばっかりやけど。
どっちにしても、京都の東方面のピアノを夢見た子だけが特別ではナイ。云い出したら、東西南北全域にそんな環境があって、親が居た。
強いて云うたら、南が多いけど、中心部にもあったし、以外にも、有名寺院の周辺にもアル。
無断欠勤のタビに家庭訪問するのやけど、勿論、マズはデンワ。掛けても、当人が居てナイとか、ダレもデンワに出て来ん場合もアルし、デンワがナイ場合もアル。折角、家庭訪問しても、オナジことで、空振りにオワルこともアル。
モトモト、方向音痴やけど、京都市内なら、場所を聞いただけで、大凡の見当はつくから、スグにもソバには辿り着けるけど、そこからサキが分からんのや。
そもそも、表札のナイ家がアルのと、その一歩、足を踏み込むのに、覚悟が要求されることもアル。
トキには人相の悪いのが、周辺にタムロしてることもアルからやけど、マズは、どんなご両親やろと思たのや。最低限、ハナシさえ出来たらヨイのです。
当人が風邪かナンかでシンドイ場合、一人暮らしならベツやけど、家族のダレかが、連絡してくれるのが常識や。それがナイのやから、イカナル親か、もお、半分以上は、辞める気やろ。とは思てるのです。無断欠勤とは、基本的にはナンらかの理由で出社拒否の意志表示でもアルけど、風邪だけのことも何回かはあった。
それならソレでケッコウやから、お母さんにでも頼んで、連絡しなさいな。余計なシンパイさせたらアカンで。と、顔は当人に、意識は親に。
ナカには、業務時間中に、体調を崩したとのことで、お姉さん役の班長に指示して、医務室で休ませても、まだ気分がスッキリしません。
それで、家に帰りたいと云うから、私の大事な部下でもある。途中で倒れられてもイカンから、大事を取って、クルマで送ってやろと云うたら、形相を変えて、拒否した子も居る。こんな場合には、気持ちを察するよおにもした。
そんな地域も、二十数年くらいマエから、次第に姿を消してしもた。京都に古くから棲んだはる、40歳以上のヒトなら、このハナシの意味も分かるやろ。
ところが、その拒否した子が、是非とも、家に来てくれと云う。
エエのかいな、何事かいな、ナンでやな、ナニしに行くのやな。そやけど、ナンでもナイから、黙って来てクレと云うから、お招きに預かった。
イチオウは、家族と同居とは云え、オンナの子の住処やから、家庭訪問以外は、単独行動はしませんでした。どんなウワサが流れるやら、ナニを云われるか。慎重過ぎるくらいに慎重にしても、アラヌ、ウワサが流れてしまう。エコヒイキやとか、エエ仲やとか。アホ抜かせ。ナンにもナイわいな。ソレも自慢に、ナルのかナランのか。
ホカにもダレか、誘てるのかいな。そしたら、全員を呼んでるのやて。アンシンして、ミンナで訪問したら、新築のマンションに棲んでたのや。
ナンとまあ、私のボロ屋より、綺麗やし、新しい住処を見て欲しかったのやろ。それならソレで、最初っから云うてクレ。お祝いの記念品の一つでも持参するのに。
マエのが、どんな家かも、知らんのやけど、場所的には、ダイタイのことは分かってました。
桂離宮のソバにも往ったことがアル。探し当てたら、立派な新築の家なんやで。通された部屋には、金ピカの大きなお仏壇もある。それこそ、私の家なんか、恥ずかしいくらいの豪華さ。
ナンで、ここの子が中学校しか出てナイのや。出来の悪い子なら、まだ分かるけど、そおでもナイのやで。そんなこと、聞けへんからなあ。
この子の無断欠勤は、家でゴタゴタがあっただけやった。それならソレで、ベツの理由でもヨイから、連絡だけでもしておくれ。
そおかと思たら、途中入社の子で、親御さんが学校の先生。岩国からこっちに来てると云う子が居た。やたら、そればっかりを強調してたけど、これがマタ、突然、辞めると云う。しかも、来て、一週間目やで。ナンでやと聞いたら、家出してたのやて。岩国の親に見つかってしもて、連れ戻されることになったとか。
このトキは、人事担当者に文句を云うてやった。家出少女を雇うなバカ。書類審査だけで採用してたのや。親御さんが学校の先生やから、大丈夫やと思たらしい。
そおかと思たら、名だたる二枚目俳優の姪。超有名ではナイけど、有名ではアル。イマでも、ダレでもが知ってる俳優やで。当時なら、新進気鋭の若手俳優。その名は、名高達郎。
そのことを自慢してたけど、実際、美形ではあった。ナルホド、ウラヤマシイ血縁や。
それがマタ、途中入社で無断欠勤。家庭訪問したら、極、普通の新興住宅街。お母さんが出られたけど、モシカシテ、こっちの系統やろか。そやけど、姓からしたら、チガウはず。娘を高校くらい行かせてやれよなあ。その名がスタルで。勿論、そんなこと云うてナイ。
敢えて云わさせて頂ければ、全体を通じて、歳の若い程、そして、オンナの子のホウが、腰が落ち着かんのが多いのや。あくまでも、一般論やけど。
私が接したナカで、ヨクやってくれたと、イマでも感謝してるのは、三人居てるのです。
一人は中卒で、この当時の班長。アトの二人は高卒で、アトの時期のアシスタント。
私が全部やったみたいなハナシをしてますが、そおではナイのです。私が乗りだしたのは最後の段階。その裏で、班長が、苦労してたのです。
この班長が結婚するとき、私はホカの部署でした。ワザワザ、報告に来てくれたのや。そやけど、嫁入りサキが遠くで、以来、音信不通。
イマ頃は、絶対に、ヨイお母さんか、お婆さん。
(00/10/10)
約半年の長きに渡り、ご無沙汰でした。
雑談等々、掲載したいことなら沢山ありますが、ここらで、「実録ハイテク裏話」を更新です。
とは云え、QC業務としての試験関係とは、仕事の中味は簡単、且つ重要で、社内的には存在の薄い存在で、縁のナイ人に説明することは難しいのです。
そこを敢えて、説明するならば、昨年の雪印乳業の食中毒問題がヨイ例や。
返品された牛乳をナンの確認もセズ、加熱処理もセズに出荷した。世間も、専門家も、口々に、非常識なことと責めました。
それでは、ナンで非常識と云えるのか。
牛乳を真夏の屋外で長時間放置したら、腐敗菌が増殖し、飲めば食中毒になって当たり前ではナイですか。
そら、そおや。我々の世間話なら、これが一般常識として正解ではありますが、専門家がこれでは困るのです。
常温とは、何度。放置とは、何時間。どれほどの腐敗菌で、人体に影響するのか。
数字で示せるのに、それを隠した回答など、答になってナイと云うてオク。そこまで、記者団に要求するのは無理難題ではありますが。
人体に影響する腐敗菌の数を求めるには、人体実験せねばならぬから、この問題は動物実験か。動物でもヨイけど、あっちは野生で腐敗菌には滅法強いやろし、ここは、専門家に任せましょう。
さて、常温と云われても、北海道と沖縄、夏と冬、朝夕と昼間でもチガウし、個人の認識でも異なってます。
そこで、試験での常温とは5度から35度と、範囲を定めてるのです。
これは電子部品のことですし、腐敗し易い牛乳で、5度から35度を常温と見なすはずがナイやろな。
容器には、書いてあるのです。
「10度以下で要冷蔵保管し、開封後は品質保持期間にかかわらず、早く消費してください。品質保持期間は製造日より一週間」
よって、10度以上の周囲温度では、長時間の放置は保証出来ませんとなる。ならば、十度以上とは、例えば、20度なら、ナン時間まで保証してくれるのかです。
この程度の数字を求めるのは簡単です。
高温であればあるほど、腐敗菌の増殖は加速するから、恒温器に放り込み、時間を区切って、増殖度合いを計数化すればヨイ。
これだけのハナシでは、まだ具体的ではナイのです。
温度も、何度と決めてくれ。0度、10度、20度。ウエは何度か知りませんが、殺菌効果に至る更にウエの温度まで。ところが、高温では腐敗菌が死滅する替わりに、牛乳の成分までが変質してしまうこともある。これも、調査対象に入れてオケ。
時間も、最初は五分、十分、三十分で、一時間、二時間で、次第に長く、一日、二日、五日、十日に二十日とか。
生命に関わることですから、これを、定期的にやり、グラフ化された資料を作成。社長を筆頭に、従業員個々に至るまで、教育してたら、こんなことにはナランなあ。
こんな面倒なこと、定期的にやらんでもヨイではないか。
それは浅はかで、牛乳など、牛により、飼料により、場所によっても、チガウし、年月と共に、牛の体質、腐敗菌の変遷、抵抗力の変化も考えられますがな。云い出せば、もっと要因が存在する。製造会社から、貯蔵タンクから。これで、管理状態まで分かるのや。
そんな細かなことまで云いなさんな。
イヤ、チガウ。専門的資料が優れておれば、優れてる程、会社の技術力の高さを象徴するとして過言ではナイ。
せめて、品質に携わる面々が知っておれば、危険性が分かるから、そんな馬鹿なことするなと、資料を示し、どつきあいの喧嘩してでも、厳禁命令出せるがな。
ボンクラ社長も、数字に対しては反論出来ませんで。
こんな資料作成のための基礎資料を出すのが、試験業務です。
(01/05/06)
小難しい話はナンですが、少しは触れとかんことにはあきません。
小型のリード線付き抵抗器にはどんな試験があるのか。
殆どは、日本のJIS規格、米国軍用のMIL規格等で定められ、場合によっては各企業独自で制定し、それに合致しなければ取引してくれんこともある。殊には、クルマの電装関係と海外系企業です。
試験の種類なら、電子部品ですから、当然、通電試験はあるのです。そのウエで、温度や湿度を加えるのは一般的常識。
輸送中の振動で破損の度合いを調べるための振動試験。急激な温度変化に耐えるかどおかの熱衝撃試験。
部品を基板に半田付けされるトキなどの取り扱いを想定して、リード線を引っ張ったり、捻ったり、曲げたりの端子強度試験(端子:リード線)。
そのリード線は半田付けで実装されるから、熱の影響で特性が変動することがナイかの半田耐熱試験に、半田付けが正常に出来るかの半田付け性試験。
過酷な環境を想定しての塩水噴霧。これは、海で塩水が掛かっても大丈夫かの試験です。
私が面白いと思たのは、炊飯器に水を入れて、煮沸させ、そのナカに抵抗器を何時間か放り込む煮沸試験です。
これはROHM独自の生活の知恵的試験法ですから、JISにも、MILにも、他社の独自規格にも規定してなかったのが次第に普及し、取り入れらた会社もある。
抵抗器の評価試験として発案されたのが、他社の電子部品の評価試験としてやるのですから、社内的にも一般化したのです。
社内的には、まづは、私がDIODEに移動し、試験も見ることになって、採用した。それでナニが分かるかと云えば、ROHMのはガラス封入型のため、ガラスにクラックがあったり、機密性が悪ければ、水が侵入して、故障するのです。
機密性の試験なら、プレッシャー・クッカー試験法に、浸水加圧試験があるのですが、何故か煮沸試験で故障が発見されることが多い。
イマは炭素皮膜抵抗器の話です。
それでナニが分かるのか。煮沸によって、塗膜の隙間から水が染み込み、抵抗体に塩分が付着しておれば、炭素皮膜が酸化して、二酸化炭素になって飛び散ってしまうのです。
それでナンやなと云われれば、塩分とは、手垢等を意味してるので、塗装までの工程で、炭素皮膜を手で触るなどすれば、忽ちにして、炭素が消滅し、断線に至る。社内的には、炭素が喰われると称してました。
よって、人が介在しなければ、安定した品質の抵抗器が製造出来ることになる。
そんなことはドオでもヨイ。
この当時の恒温器、加湿器の精度がどおであったか。イマなら、デジタルで1度或いは1%単位で設定出来て、器内でもそんなモンです。
ところが、試験設備そのものに精度がナイから、十度前後のズレなら当たり前で、軽く二十度は有ったやろ。全体のズレなら補正してやればヨイから、そおするのですが、温度制御も範囲が広いです。器内の手前、奥、左右、上下でも異なるがな。
湿度もバラバラで、器内がナン%かも分かりません。それ以前に、装置の材質が耐湿性、機密性にも劣るから、扉が腐食したり、供試品の取り付け治具が壊れたり。ナンの試験をしてるのかと、そんな感さえありました。
思えば、加湿のための水も水道水。水垢やゴミのため、管が詰まって、床が水浸しになるのはショッチュウで、試験担当の重要な役目に、試験設備の保全と点検と、見回りがあったのです。
特に、設備は常時稼働させ、供試品には通電してるから、漏電に火災の危険性もある。
見回りなど始終してたのに、不思議に夜中の水漏れで、守衛さんから呼び出されたことも幾度か。
加湿器の水は純粋であるのはイマや常識ですが、それにしたのは、更に数年後のことで、私が抵抗器製造部から、半導体製造部に移動直前のことでした。
そもそも、引き継いだトキから水道水やから、そんなモンと思てますがな。
ナンでこんなに故障するのか、ナニか手段はナイのかと、装置購入先である田葉井製作所(現、タバイエスペック)の担当所長さんに聞いたけど、何処でもそんなモンですとのことで、水道水が常識でした。
トリアエズ、そんな時代の話です。
(01/05/09)
恒温器、恒湿器の制御範囲と精度はその程度でした。
もっと云えば、抵抗値の測定器精度もアナログの目盛りだけですから、ヨイ加減なものでしたが、基準抵抗は抵抗BOXと称するもので、精度だけは誤差0.1%以内のハズで、試験も測定も、一個づつの手作業でした。
イマなら、全自動で、試験しながら、特性変動も計測出来、記録は当然のこと、グラフ化まで自由自在に加工可能。但し、装置がそれだけ複雑怪奇となり、調整が大変。勿論、それだけの資金が要求される時代です。
抵抗器なんか、単価は安いので採用は無理として、集積回路部品なら検討の余地有りか。
そんなことはどおでも宜しい。デジタルも液晶も誕生してないから、針付きメーターが時代の常識です。
試験担当の主たる業務は、人の管理に、治具、装置の作成、保全と、試験の維持管理です。
これは時代が変わってもオナジと思う。実際には、それ以外にも雑用が待ち伏せ、種々の実験もさせられたのですが、有りすぎて、細かなことは記憶の彼方に消え去った。
この当時の出来事で一番に思い出すのは、韓国はSEOUL特別市の加利峰洞に抵抗器製造工場が設立され、管理試験も実施することになったのです。
新工場でも、管理試験は当たり前で、最初っから計画されるべきですが、韓国と日本では、物価水準と為替の問題も有ったため、生産に寄与しない試験設備など蚊帳の外に置かれたのです。
ところが、韓国工場で製造された製品は日本向けだけではナク、韓国国内販売用も手掛けることになり、顧客要求から、試験を導入することになりました。
顧客要求とは、既に、日本の主たる家電メーカーの一部製品については工場進出し、ROHMの韓国工場もそれを狙って設立された。
ナカには、日本製でなければダメとする会社もありましたが、そこでも、日本の工場の製品と比較試験して、差ナシの報告書を提出することで、次第に韓国工場製の製品が認可されたのです。
よって、韓国国内販売は、日本企業系列の会社が主たる納入先で、結果的に日本と同等の品質管理と保証を求められたのです。
そこで、先方の実習生が来日することになりました。
私は試験関係の教育を任せれたのですが、ついでに統計的手法を含む、QC業務全般も教えてクレとなり、結局は、全面的に面倒見なさいとなったのです。
新入社員に毛が生えた程度の若造にそんな指示。しかも、実習生は男性一名で、韓国工場の社長の長男さんで、実習期間がたったの一週間。
既に、QC責任者として実務はされてるとのことですが、統計的手法は知らぬから、先方から特にと要望された。
そんな短期間で試験実習と統計的手法を教育出来るのか。
試験の実務教育は、本来なら実際に試験する人のホウが現実的ではありますが、韓国から来日するには、それ相応の立場でないと出国許可が降りないとのこと。
仕方がナイので、試験供試品の収集と、簡単な実習計画の作成です。
一週間では試験実習は出来ません。寿命試験は、千時間で、作業時間を考慮し、差し引き、一日二十時間で計算すれば、五十日間を要するのですが、試験時間は無視して、作業要領と手順だけとなる。
チナミニ、韓国工場は小さくはナイのです。
当時の生産品目は抵抗器だけでしたが、従業員約四百名。
とは云え、私が渡韓の予定があるわけでナシ、社長の長男さんであれ、ナンであれ、シッカリ、覚えてもらわにゃならぬのです。
遠慮ナシの特訓開始で、これが我が弟子第一号です。
(01/05/11)
若輩者とて、外国人と接触するのが初めてではナイのです。
大学生時代、親友から頼まれ、英国人高校生と会話したことがある。
彼のペン・フレンドで、海外との文通は英語の勉強も兼ね、当時も流行ってました。その高校生が旅行で来日したのですが、親友は野球の練習があるから、替わりに面倒見てクレとのことでした。
親友は、中学時代からの同級生。私とは格段の差があって、ダントツの秀才やから、京大経済学部に合格。憧れの野球部で投手になりました。
云うたらなんやけど、大学生になってから野球をやり出して、六大学野球で投げさせてもらえるのですから、勝てるハズもナイ。
当人も云うてました。京大相手に、まともに対戦してくれるもんか。駒落としで、二軍か三軍の選手やで。そおでもなければ、間違いにしろ、勝てるかい。
運悪く、一軍選手が登録されてたら、調整を兼ねて、登場しやがることがある。そんなことはマズないから、ビリであれ、六大学から脱落セズ。
当日は、御所のグラウンドで練習があるからお願いや、面倒見てやってくれ。
大丈夫やて、英語は簡単。但し、早口ではアカンで。ユックリと落ち着いて喋ってやれば、向こうさんも適当に理解してくれるから通じるわいな。
場所は御所のグラウンドで、彼の練習を見乍らですが、私は英語が苦手で、英国人青年は日本語まるでダメ。英国人旅行者が日本語を喋るワケがナイ。
私にとっては、生の外人相手に英語で会話するのは初体験です。
ではありますが、入学試験では、ここ一番、英語が予想外に出来たから合格したのです。
よって、英単語の羅列でも多少なら通じるハズと引き受けた。それに、日本語ではあるまに、機関銃が如くに英単語が速射出来ますかいな。
一応、身の安全のため、旺文社の豆単を携えて。
ところで、私は背が低く、相手は高校生のクセしてノッポです。私がナニか云う度に、真剣な顔で、腰を屈めてまで傾聴してくれて、ナニを云うてもウンウンと頷いてくれて、反対もセズに従おてくれてねえ。
もっとも、英語で反論されても分かりませんが。
トキには英語でナニやら話をしてくれるのですが、部分的に不明なことがあるから、ここで、豆単活用で、スペルを云うてクレ。
出来れば、コレやと示してクレ。それで、会話も弾み、相手も楽しい時間を過ごせたと、お別れのトキには感謝されました。
英国人は流石に紳士のお国で礼儀正しいなあ。と、思てたら、チガウのやて。
私の話を一生懸命、聞くのやけど、英語か日本語か、何語か分からんかった。時たま、英語らしき単語がある。それと、私の動作とで内容を判断してたのやて。クソッタレ。
さて、韓国工場からの実習生は日本語は出来るのか。
私の場合、英語でさえもその調子。韓国語など、勉強したこともナイから全然知りません。漢字が通じるなら、筆談するしかナイのです。
それと、仮にも社長の長男さん。エラソオな態度されるのではないかいなあ。そんなことなら、ホッタラカシにしてやるぞ。
イヨイヨ、実習生とのご対面。会えば、品性有る顔立ちと雰囲気で、数歳は年長者。日本語も至って堪能で、言葉の面は助かった。
もっとも、町中に出ても、不自由がナイ程に、日本語が上達したから、来日したのです。
そして、英国青年も礼儀正しかったけど、実習生は物静かではありましたが、態度はそれ以上のものでした。
私など、撫で肩、猫背で、見るからに、ダラリとしてますが、実習生は常に背を伸ばし、直立不動。立ち居振る舞いからして、コレ又、一緒に居てれば余計に差があり過ぎて、私がナニを指示しても、真剣な眼差しで、ハイ、分かりました。
言語明瞭なる返事。あたかも、敬礼されてるが如くで、恐縮してしまう。
そんなにして戴かなくて、結構ですよ。ハイ、分かりました。
ナニを云うても、ハイ、分かりましたでは、ホンマに分かってるのかいなと、疑りとおもなりますが、測定等、実務をやらさせれば出来るのです。
仕事の話は別にして、毎日のよおに、夕食に連れて行き、京都見物で案内して、ホテルにまで送り届け、先生兼、ガイド兼で、一週間で、金欠病。
タマには支払わせてくださいとの申し出でも有ったけど、社長の息子とは云え、年長者でも、私が預かった実習生やから、そんなワケにはイカンのや。
イヤ、それはベツにして、社外に出ても、態度にナンら変化ナシ。
そこで知ったことは、韓国では一定期間の徴兵制度が有り、親、上官、先輩、先生の指示命令は絶対的で、尊敬の対象である。
そお云われれば、私は先生なんやで。
(01/05/12)
11.試験法の集大成(1) 教典作成の目的
実習生は、韓国工場の課長職です。
それこそ、社長の息子さんですから、いきなりの課長。
最初は製造工程課長であったのが、一週間の実習を経、間もなくQC課長となりました。
はっきりさせておけば、製造会社でのQC権限は強いホウがヨイに決まってる。私が元QCですから、余計に、そお思います。
QCたるモノ、ダメなものはダメで、ヨイものはヨイと、工程に対し、明確に指示命令のウエ、実行させなければならぬのです。
彼のよおに、工程経験も貴重で、日本本社での実習も箔がつく時代でもありました。
イマでも箔はつきますが、箔の桁がチガウやろ。もっとも、それ以前に社長の息子さんですから、背景は充分。
されど、私は韓国工場の担当でもナシ、試験設備、治具の件で何回かの連絡は取りましたが、以来、五年間のご無沙汰です。
その五年後とは、私が抵抗器製造部から半導体製造部に異動し、その部署の移管業務としての渡韓ですが、その話はそれまで取ってオク。
私自身としては、三年弱の試験責任者業務を担当し、その間、最も大きな成果と評価出来るのは、試験法を集大成したことです。
これは、全体を通じても、誇りに思い、自慢出来る業績と信じてる。
何故なら、集大成した試験法なる小冊子は、以降、歴代の抵抗器製造部試験責任者に受け継がれ、その都度、改正され、生き残り続けた試験法の教典となり、イマ現在なら、小冊子は何処かに廃棄されてますが、思想なら、パソコンのナカで生き続けてるハズ。
集大成とはナンの為にナニをしたのかです。
当然ですが、通電試験の場合、抵抗値、品種によって、印可条件が異なるから、試験の実務担当者は、その都度、条件を計算して、設定したのです。
ナニブン、電卓がナイ時代ですから、暗算か筆算か、電気計算機。
そのマエに、担当者が必ずしも、算数が得意とは限らんのや。得意でナクとも間違うことも有るし、計算機に入力ミスすることもある。
間違う以前に数字の苦手な子も居てますし、アッサリ云えば、足し算、引き算も、ママならぬこともある。
ならば、試験以前に、条件設定ミスで折角の実験品を台無しにすることがあったり、通電試験でナクとも、各人各様の手法で試験してることもある。
特には、試験方法に統一性がナイことは、私が入社以前の実習生時代、聞く相手によって、方法がチガウから、薄々分かってたことです。
私が試験責任者となり、新人教育をするトキも困ったのです。資料がナンにもナイ。
イヤ、資料は有るにはあるのです。JISにMIL等ですが、この手のものは一般論に過ぎませんから、表現はナンとでも解釈出来るし、条件も沢山あって、そこから任意に選択セヨとなってます。
それと、予備知識のナイ、無垢の新人に対し、いきなり、JISの資料を突きつけたのでは、消化不良で下痢するで。
更には、一口に抵抗器と云うても、凄い種類がある。
大分類なら、発電所で採用の大電力用から、家電用の小電力用で、炭素皮膜に金属被膜に、塗装タイプに樹脂タイプに、固定抵抗から可変抵抗。
公に存在する規格の主旨としてなら、試験法には、これだけのものがありますから、適用範囲、形状、構造等により、応分の選択のウエ、実施しなさい。
と、そんなことになるのはショウガナイ。
そこから、各社各様に、その技術力でもって、変更を加え、或いは、独自の試験法を編み出し、評価試験することになる。
更に、各々の試験には、ナンのためにするかの目的がある。目的は試験条件で概略なら分かるのですが、ここにも、読み手の解釈も介在してしまう。
実は、韓国実習生を教育を通じ、さて、実習のお土産にと、試験関係の資料を手渡すことにしたのですが、意味が有るのかナイのか、そんな下らんモノばかり。
勿論、JISも、社内標準もありますが、社内標準など、JISの丸写しで馬鹿みたい。
実務には、ナンの役にも立つもんか。
(01/05/13)
12.試験法の集大成(2) 分からず屋の上司
試験の方法がヨイのかどおか、確認して欲しい。
こんな表現で、工場からの声も有ったのです。
確認するには工場に出張せんとアカンのですが、試験業務では、日常業務が山積みで、時間的余裕が乏しい。まともにやればのことですが。
かと云うて、大クレーム発生なら、日常業務などアト廻しにさせられて、即、ナニをやれ、コレをやってクレですから、忽ちにして、日常業務が滞る。これがQC業務の宿命ではあります。
試験責任者になるに際し、上司から、心構えについて、云われたのです。
協力工場(関係会社)の試験担当者は全員部下と思いなさい。
マッタク、その通りで、ROHMは本社機能を有してるから、本社だけのことを考えるのではナク、関係全社での試験が指示どおり、正常に実施されてるかも管理範囲となる。
或いは、試験の実施頻度、条件等、変更するトキなど、単純にヤレと指示しても、装置能力、人員の問題があるから、調整しなくてはならぬのです。
工場とは電話でなら話をすることもありますが、一度も顔を合わせたことがナイのに、部下がそこに存在するのも異なものです。
工場の場合、試験責任者は、試験責任者は存在することはナク、QC責任者が兼務してることが多いのです。
当時のQC責任者なら、私より経験者を積んだのが殆どではありましたが、工場によっては、ROHMに実習生として、一年間滞在し、業務を一緒にやってた連中が責任者のこともあったのです。
云い出せば、各社の連中を部下と見成すなら、部下の要求を理解し、処理してやることも上司としての責務である。無視し、ホッタラカシには出来ません。
加えて、試験業務とは、製造製品の品質保証の根幹のため、試験法の統一は重要課題。各社各様の判断で、万が一にも、異なった解釈で試験されてたらエライことです。
ところがです、上司に出張の件を申し出ても、急ぐのかいなと詰問されてねえ。
急ぐ、急がんなら、イツでもヨイことになる。挙げ句に、アレはドオする、コレはドオなった。余計な話に発展してしもて。
私としては、ROHM社内での問題は、おそらく、各社でも一緒やろ。
実際に試験をする試験担当者はワケも分からず、先輩、上司の指導と指示のままにやってるのではないか。
その上司との意思統一が重要で、マズは、集大成のためにも、各地の工場行脚を行い、実状を把握してから、集大成に着手し、集大成が出来たなら、ソレを各社に説明方々、再度の工場行脚で教育実施すればヨイ。これが我が構想でした。
トキの上司は、もお一つ、云うてたことが有る。
ヨイと思えば、ナニがナンでも相手を説得し、成し遂げなさい。一度でダメなら二度三度。四度でも五度でも徹底的に説き伏せ、遂行すべし。
技術者なら、その程度の情熱は要る。儂なんか、有言実行の見本なんやで。
分からず屋の上司をトコトン説き伏せ、リード線の半田付け性改善はこの儂がやったし、キャッピング金型の改善もやったからなあ。やったことはもっと有る。アレもコレも全部やで。恐れ入ったか、皆の衆。
兎に角、儂は我が社の技術力向上に大なる貢献をし、寄与して来た。オマエ等も、それをヨキお手本として見習おて、活躍してクレよなあ。
この話は、そのトキだけでナク、ショッチュウでしたから、所謂、口癖の部類です。
対象の、分からず屋の上司がダレのことかは知ってました。セイゼイ、午後からの出社で、アトはヨキに計らえの性格ですから、説き伏せることもナイ相手です。
私の場合、一度でダメなら二度三度の説得どころではナイのです。我が上司に何回説得したことか。
その度に、そんなこと、今日明日と、急ぐのかいな。
急ぐと返事しても、ナンで急ぐのや。イツでも出来るがなと、お言葉はイツも一緒です。
或るトキ、この上司が、自慢話のツイデに云うたのです。
部下の身分では、上司様の方針と性格に合わさなショウガナイよなあ。
イヤ、私にではナイのです。その更にウエの上司に対する愚痴話で、休憩時間での雑談でやってたのです。
成る程、仰るとおりで、ご無理ご尤も。上司の許可なしでは私も勝手に出張出来ません。
この上司は、自慢話がお好きなウエ、理屈っぽい。
加えて、話の途中から、説教になったり、お得意の自慢話を延々と聞かされて。それも、マタかと、オナジ話ばかりで、時間も勿体ないです。
ここで、ハタと名案です。
この上司に対しては、説得するより、どおしたもんかとご相談を持ちかけ致し、ご意向をお伺いするのが得策ではないか。
要は、私がやりたいことが出来ればヨイのです。
チナミニ、なかなか出来ませんが、この上司の話は意味深長。
確かに、上司への説得は必要で、特性に合わせるのも重要な対策です。
(01/05/15)
13.試験法の集大成(3) ワコー電器
出張の許可申請のことばかり云うてたら、余程、出たがりみたいです。
云うておきますが、三十年前のこと。
東海道新幹線の東京vs新大阪間開通が、昭和三十九年(1964年)ですから、私が高校生の頃。
博多までの開通は、昭和五十年(1975年)のことですが、この話はその直前。
抵抗器の国内工場は、岡山、山口。九州は佐賀、福岡と、四国の香川で、新幹線が開通してナイのです。
それと、生産技術所属の頃は、自由にやってたみたいですが、殆どは京都市内と山科界隈のこと。
知多半島の磁器棒製造工場にもお邪魔しましたが、交通の便が悪いから、クルマです。クルマで行ける範囲なら、出るのも自由でした。とは云え、幾らナンでも、名神高速道路は開通してました。
されど、工場行脚も道さえ知らんのに、名神も西宮までやから、クルマでともイカンので、そお簡単ではナイのです。当時の国鉄では、軽く、一週間は費やすことになり、移動も体力勝負で、それなりの決心が要求される。
そんな意味から、新幹線が方々に開通して、出張も楽になり、出張ばっかりしてる連中が増えたけど、当時なら、出たがる者は居てません。
その替わり、岡山の工場でも、日帰りは不可。最短でも、夜出発し、旅館で一泊。明くる日、一日掛けて、仕事をし、夜、京都に戻ることになる。
もっとも、最終に近かったから、岡山の笠岡駅で降りるのは、たったの一人で、旅館からも遅過ぎると苦情が出たりしましたが、出張で、立っぱなしも知りません。それ程に夜遅くの乗客も少なかったなあ。
さて、岡山の工場なら実験のために出張しましたが、それ以外は場所さえ知らずです。
そんな背景も有って、複雑な気分のまま、上司に相談を持ちかけた。
「各社から、試験法の確認に来てクレとの要望があるのですが、ドオしましょう。」
「どおしましょうやて、情けないなあ。もお、入社してナン年になる。
一年生でもあるまいに、その程度のことなら自分で判断して、行動してクレよ。」
このマエの説得が一ヶ月も二ヶ月もマエでもあるまいに、イツもとは、チガウお答えが返って来たら、こっちが面喰らう。
よって、お言葉のとおり、以降も勝手に判断したら怒るのです。まずは、許可の戴きカタが分かったら、そのよおにすればヨイ。
よおやくにして、出張許可を得られたので、手始めは、笠岡のワコー電器から。
生産技術のトキには何回も出向いてますが、目的が異なるため、試験設備が何処にあるのかも知りませんでした。
マエの責任者は退職してしもて、その部下の黒住なる人物が責任者でした。機関銃が如くに喋るヤツで、私など、ウンウンと聞いてるだけになる。
試験担当者は、女性三人であったハズ。確認結果では、設備、治具の管理はヨクやってるホウでしたが、予想どおり、責任者を始め、目的が分かってナイのと、試験法そのものが、ヨイ加減。としてしまうには語弊があって、責任者が替わり、担当者も替わってるから、継承出来てナイのです。
私自身のことならば、試験を任されたとは云え、そればっかりをやってたワケでも無いのですが、二年が経過してるから、ほぼ、精通してました。
黒住氏の要望は、試験はしてるものの、方法論には不安がある。出来れば、数ヶ月に一度でもヨイから定期確認して欲しい。
イマなら、本社のQC監査として、当然、実施するべきことですが、その概念は薄かった。
試験設備だけの定期監査で工場巡回など、早々やってられませんで。
やるのなら、ROHM本社QCの工場担当者がやるべきですが、そこまでの担当区分が明確ではなかった。
それ以前に、QCそのものが、標準書、試験、工場担当の体制がカタチに成り始めたのであって、工場担当者もクレーム関係等、社内工程の品質管理が主であって、工場のことまで面倒見てませんでした。
そんな次第ですから、試験関係に限定するならば、全工場の試験資料は管理してました。
意識こそしてませんでしたが、工場行脚遂行こそは、ROHMが実施するQCの工場監査の草分け的事業となる。
(01/05/16)
14.試験法の集大成(4) 東邦電器
話は前後しますが、組織のことについて、再度、触れてオク。
私が入社した当初は抵抗器製造部QC課QC係。
実質的には生産技術業務でしたが、すぐさま、QC課長が技術部長に昇格と、QC係も生産技術課に昇格独立したのです。
暫くして、生産技術課の人員がそっくりそのままQC課に戻った。と同時に、私だけが試験責任者となったのです。
つまり、上司も同僚も、そのままでしたが、三年弱の間に、上司だけが人事異動で、ころころ替わったから、ナニをしてたトキ、ダレが私の上司であったのかさえ記憶に定かでナイのですが、韓国実習生と各工場行脚は最初っからの上司です。
そして、岡山工場の次は山口県の東邦電器となるのですが、ここはROHMグループとして、最初に出来た工場で、この訪問が最初で最後となりました。
時代背景として、第四次中東戦争のため、石油が約四倍に跳ね上がり、伝説となった出来事として語り継ぐがれてる、トイレット・ペーパーが買い占めされ、店頭から消えたと云う、オイル・ショック(昭和48年、1973年)直後に解散した。
実際にトイレット・ペーパーが無くなったかどおかまでは知りませんが、新聞報道では騒いでたし、ガソリンの急騰は体験してる。
ガソリンは凄まじかったのです。一部の安売りスタンドでは、クルマが長蛇の列を成しました。
供給不足のため、早い者勝ちとなったのです。或いは、十リットルまでの限定販売とか、ポリタンクで買い求める連中も居てました。そもそも、二十四時間営業のスタンドはナカッタはずで、長距離を走るなら、予備も必要です。
私も安売り店に並んだことがあるし、日曜日など、一部のガソリン・スタンドでは売るべきガソリンがなくなって、店仕舞いも早かった。
結果的には、その直前に訪問したことになり、試験法集大成を完結したトキには会社が消滅してた。
更に、脱線しますが、東邦電器消滅の前夜には、社長がROHM本社に日参してました。
製造するにも注文がナイから、ROHMの製造工程も稼働停止。
自宅待機の習慣もないから、工程作業者は機械のソバで寝てました。或いは、在庫品の外観を選別してましたが、その在庫も山積みでした。
工場も、四社有るから、マズは、本社を停止させたのですが、そんな程度では焼け石に水。ハッキリ云えば、先輩格の東邦電器が製造停止とされたのです。それ以外にも理由はあると思いますが、私が知る由もナシ。
よって、社長が日参し、注文をクレ。さもなくば、資金を貸せと抵抗器製造部長(専務)に責め寄りました。
談判の様子など、丸聞こえ。喧嘩腰で、つかみ掛からんが如くの激しい応酬合戦。周辺には約百名が居てましたが、沈として、うつむき、息を潜めてるから、余計に響き渡る。
一番印象に残ったのは、談判が不成立の瞬間、社長が電話をされた。
「オイ、儂や。こんな会社は血も涙もナイ。銀行から、儂の預金を全額降ろせ。
そおや、構わん全部や。アトは首を吊って儂が自殺するだけや。」
くどいですが、聞き耳を立てたワケでは無いのです。そこらに聞こえよがしの大声で、泣き叫び、怒鳴り散らすが如くでした。
社長として、私財を投げウチ、裸になってでも、全社員の給料を支払うことを決断したのか、それを含めた資金繰りであったのか、私には内情不明。
兎に角、そこまで追い込まれたことを、抵抗器製造部長に分からせるがためです。
ナンにせよ、何処の社長かは分かってましたが、一介の技術者ではナンとも声の掛けよおもナシ。さりとて、製造部長もグループ存続を掛けた決断です。
この不況がイツまで続くのか。
全社的に、何処まで耐えることが出来るのかの勝負となったのですが、東邦電器はダメでした。
トリアエズ、そのマエですから、余計なことは考えてナイ。分かってたとしても、平社員には無関係。
最寄りの駅で、タクシーの運ちゃんに東邦電器と云えば分かるのです。
イマでこそ、京都駅でROHMと云えば分かってくれますが、この時代、本社は無名で、そこの信号を左に曲がってとか、道順を教えねばならぬのに、工場は土地の有望会社で、社長も名士で有名人。
(01/05/17)
15.試験法の集大成(5) アポロ電子工業(1)
次は九州福岡は羽犬塚のアポロ電子工業。
ここは、昭和45年末から抵抗器製造を操業のため、男女合わせて百名近くが実習で京都に来てました。
スタッフ部門の実習生は一緒に仕事をしたこともあり、その一員が現社長で、当時の社長は現会長。
現社長の実習生時代には、山科の京都碍子を見学したいとのことで、我が愛車、ホンダの軽自動車で連れて行ったことがある。ナニブン、免許を取って一年未満、ブレーキの踏みカタがドオとか、やたら、口五月蠅かったのを覚えてます。
それ以降も、金属皮膜抵抗器の移管実習で、数十名の実習生が来ましたから、稼働当初の人員ならヨク知ってるのです。
当然、QC責任者も当時の実習生。確認してクレとの声が一番大きかったのはアポロ電子でした。
思い出せば、実習期間中に社内盆踊り大会が開催され、実習生に対し、是非にと模擬店で善哉を出展させ、大儲けした。
その利潤で慰労会も兼ね、ボーリングも大盛況の頃でしたから、ボーリング大会を開催したのです。
平日でも二時間なら当然で、日曜日(土曜日は休みではなかった。)なら、三四時間の待ち時間は覚悟。当たり前ですが、予約を取っての開催で、私が優勝してしもたハズ。
ROHM社内でも物好きが集まり、年に何回か大会を催し、参加者百名程度で優勝したことが有る。それほど、私も好きやった。
さて、夜の移動で、羽犬塚には真夜中に到着。早速、旅館ですが、アポロ電子指定旅館が有った。そこは、アポロ電子にお勤めの娘さんが居られたのですが、実習に参加されてたかどおかは記憶にナイ。
その屋号は「恵比須屋」で、娘さんのご主人も元アポロ電子。このカタは実習されたのですが、結婚されたのは、ずっとサキで、噂では、知ってました。
さて、明くる日には、QC責任者が迎えに来てくれたのです。悪いけど、彼の名前はド忘れしてしもた。
会社に着くなり、社長室に案内されて、ご挨拶。してたら、次々と、一緒に仕事した実習生が入室して、自己紹介などして戴くこともナイのにしてくれて、ヨク聞けば、全員幹部になってるのやで。
それは結構やねえ。ところで、QCの部屋は何処ですかと聞いたら、朝一番の巡回中で、部屋にはダレも居てませんので、コーヒーでもと勧められ、嫌いでもナイから戴いて。
イヤ、幹部に余計な時間を取らせるのもマズイから、早々に仕事に取り掛かりたいのに、実習時代にお世話になった、あの人は元気か、この人はどおしてる。そんな話に花が咲き過ぎて、頃合いを見計らい、QCの部屋はと聞けば、そのマエに工程を見てクレ。
そおですねえ、されど、もお、間もナク、お昼やから、昼食でもと、食事に案内してくれて。食堂かと思えば外食やて。それが遠いのや。片道クルマで約三十分。
エライ遠いのやなあ。イヤ、田舎では、こんなモンですと、云われてしもて。
やっとのことで、工場に戻れば、マタ、社長室に入れられ、コーヒーでも。
オイオイ、外食も含めて、コーヒーも三杯目となると、チと辛いがな。それよりも、工程とQCの設備を確認したいのやけど。
心配要りません。工程も設備も、何処にも逃げません。お飲みになれば、案内します。
確かに、逃げられることはナイのですが、時間がナイ。出来れば、明くる日には佐賀のサカエ電子に往きたいのや。
さりとて、初めて訪れた会社です。社内の構造が分かってナイから、案内もナシに勝手にノコノコ工程に入ったり、QCの部屋に行くことも出来ません。
したくとも、何処にあるのかも知らんのや。
(01/05/18)
16.試験法の集大成(6) アポロ電子工業(2)
ナンやカやと、半日が経過してしもて。
イヨイヨ、QC責任者に案内され、工程見学と試験設備の確認ですが、工程の彼方此方にも実習生連中が居て、にこやかに、挨拶してくれるのです。殆どは班長さんとして、作業者を立派に指揮してる。
いきなり社長室に案内され、幹部と挨拶をし、工場全体からも歓迎されたのはアトにもサキにも、これ一回だけ。
これ以降もアポロ電子には出張してますが、工場の構造が分かれば、こっちのモノで、QCスタッフの部屋にまっしぐらです。
余所ではどおか。やっぱり、QCの部屋にまっしぐらで、幹部には、たまたま通りすがりの工程か、会議で会う程度。
いずれにしても、建物も設備も真新しく、活気に溢れ、山口の東邦電器とは大違い。
東邦電器も左程古くはナイのですが、社内の雰囲気からして陰気臭かった。ダレが幹部かも知りませんし、紹介もナシ。イヤ、紹介して欲しいとは思てません。エライさんに会うのは気疲れしてしまう。基本的には、出張先の習慣に従うだけです。
マズ、社長にご挨拶するのがキマリであれば、ソレに従わねばナラヌ。受付で身分を名乗り、面会者が連れに来てくれるまで待つことになっておれば、それに従うのみ。
もっとも、私共平社員の身分で、工場の社長さんに挨拶しに往くなどの習慣は有りません。
アポロ電子初訪問のトキは、京都での実習を終えて以来、タマタマ、ROHMからのQCスッタフとしては私が最初であったため、社長の指示と思われる。
そおでもナイ限り、何百名もの社員を擁する会社です。畏れ多くも、QC責任者がイキナリ、社長室にまで案内しますかい。
それに引き替え、東邦電器など、工程の作業者も見も知らず。QCの部屋にも入りましたが、設備の確認をしたら、忽ちにして、その場所から遠ざけるが如くに室外に案内され、廊下の片隅に置いてあった机で、打ち合わせになったのです。
QC責任者も、物静かな性格で、工程の実状、品質状況、作業者、工程長の品質意識等、ゆっくりと話をして、私が質問した試験関係の事項には、暫し、沈思黙考、噛み砕くが如くの話し方で、余計に陰気臭かったのです。
次回の訪問のトキは、工程もジックリ見せて戴きたいと思てましたが、東邦電器消滅のため、その機会は訪れませんでした。
さて、アポロ電子では、試験担当者が五名居て、折角やから、試験のことについて、講義してクレとの要請を受けた。
丁度ヨイので、時間の許す限り、応じることにしたのです。
とは云え、集大成はマダですから、概要だけを簡単に説明し、サテ、質問は有りますか。
その途端、次々と質問の総攻撃に遭遇した。どのよおな弾丸であったのか、ン十年もマエのことで、細かなことは覚えてませんが、不思議に一つだけ記憶してる。
供試品を試験して、測定まで、何故、三十分も常温放置せねばならぬのか。
成る程、そんなことが疑問であったのかと、大いに参考になった。
温度サイクルや、高温状態での通電試験した場合、測定までには最低三十分待てと規定してるのです。
これは、専門用語的に説明すれば、電子部品なら、通電しても内部発熱するし、加熱、或いは、冷却しても、供試品そのものの温度が変化するから、その温度が室温で熱平滑状態になるまで待つための三十分と云うこと。
小型抵抗器の場合なら、熱容量も小さいので、三十分も待つこともナイのですが、世間には、色んな形状の抵抗器が存在する。
JIS等で定められた試験法とは、種々の形状を考慮しなくてはナラヌから、そんな表現となり、実務的に、三十分と規定されてるのです。
それを明確にしとかんと、個人差もあって、或る人は、数十秒、或る人は、十分とか、一昼夜とか。ハタマタ、保管場所が、温源のソバであったり、まさかとは思うけど、炎天下に、積雪を見ながら、屋外やったりして。
笑い話ではナイのです。文章化し、規定して、初めて、そんな馬鹿なと云う行為が制限出来るのです。私が描く常識の範囲が、世界中の常識の範囲とは限らんのや。
これらは全て、試験条件以外の要因です。そんな要因でも、特性値(この場合、抵抗値)が変動しないよお、常温、これにも、定常状態なる専門用語が存在して、一般的には十五度から三十五度で、その場の湿度も気圧の範囲も定められたウエの室内放置三十分と規定されてるのです。
何故、温度によって、特性が異なるか。小型炭素皮膜抵抗器の場合、温度係数なる特性があって、抵抗値は周囲温度によって変化するのです。
こんな具合に説明したかドオかは覚えてませんが、日常作業で山積みされた疑問点が熱気溢れる程に、噴出した。
勿論、そんなことまで、JISにも、社内規格にも、明記されてナイ。
諸般の状況から総合すれば、私の説明は正解であると信じてます。
されど、何処にも記載されてない、この一つを取ってさえ、実作業する者にとっての日常業務で、疑問を抱いてる。
しかも、奥は深く、その気になれば、何処までも議論の対象となる事柄です。
他社、他人さんの考えはどおでもヨイ。我が社内的には、こおであると、断言してやらねばナラヌと意を堅くした。
(01/05/19)
17.試験法の集大成(7) サカエ電子
アポロ電子では、すっかり予定の時間が延びてしもて。
その日のウチに移動するつもりが出来んよおになったのです。
挨拶に終始した半日が誤算と云えば誤算ですが、試験担当者との中味ある質疑応答で、成果は大きく、試験法集大成の骨子が出来てしもたとして過言ではナイ。
我々が実施してる試験項目の目的とその背景、設定条件、注意事項等を網羅したものを試験に携わる者なら切望してることを痛感した。
それはヨイとして、次の目的地は佐賀の鳥栖にあるサカエ電子で、細かなことは忘れましたが、鳥栖で乗り換え、更に進んだハズです。
そもそも、九州なる地に足を運び入れたのは、高校二年の修学旅行以来二回目で、修学旅行なら団体行動ですから、ナニも考えることはナイ。
目的地は観光目当ての旅行でも、町中でもナク、郊外にある工場です。
それでナクとも私は方向音痴。鳥栖駅で乗り換えるのは覚えてましたが、そんなに大きな駅でもナイのに、ドレに乗り換えるのか、駅員さんに聞けばヨイのに、ナニ行きかも分からず、ウロウロしてしもて。手っ取り早く、電話で聞いた。
ダレに聞いたのかは、最初に掲載してます。サカエ電子には、大学の同期生、時尾クンが居るからで、京都にも実習しに来てました。それ以外にも、実習生として、スタッフ数名と、作業者多数も来てることだけは承知してましたが、私が新入社員の頃ですから、金属皮膜抵抗器の改善実験兼夜間作業者要員として、こき使われてたから、炭素皮膜抵抗器製造工程の実習生との接触は皆無。
兎に角、時尾クンが、管理部門の長として活躍してたから、それ連絡を取り、無事、最寄りの駅まで、到着。迎えに来てもろた。
このサカエ電子も東邦電器のアトを追い、解散したのです。よって、サカエ電子についても、この訪問が最初で最後となりました。
この時期、事程左様に、世界の何処かの政情激変のため、日本経済が翻弄されてましたが、私など、一介の技術者ですから、世界どころか、日本の政治経済さえ、マッタク、無関心で、興味すら持ってませんでした。
マスコミ報道が五月蠅いから、トイレット・ペーパーが消えたとの噂は知り、ガソリン価格急騰と、入手困難なら、体験したから、イヤでも分かる。
ガソリン問題にしても、それ以前から、じりじり、上がりっぱなしやで。この時だけは、一気に倍額になったのかなあ。
私など、商売で動き廻ってるワケでナシ。無闇やたらに長距離を走ることもナシ。期間的にも、ナン年と続いたワケでもナシ。
それよりも、学者知識人なる連中は、地球規模として、クルマの氾濫がこの調子で継続すれば、石油資源そのものが、埋蔵、アト二十年、イヤ、十年や、イヤイヤ、五年ですと、期間限定の枯渇説で賑わしてました。その二十年は過ぎ、三十年後の現在も、ナンとか石油は供給されてますがな。
そんなことはドオでもヨイ。サカエ電子のことですが、彼が工場内を案内してくれ、QCの設備も説明してくれましたが、ナニやら雰囲気がチガウ。
同期生ではあっても、既に社会人。立場上、有り体に表現すれば、本社と、下請け社員の関係にはなるのですが、えらく、謙り、私は呼び捨てにしてるのに、さん付けで呼び返され、言葉使いも丁寧過ぎて、余所々々しい。
はっきりと、そお云うてやったら、云うてくれるなよ、ホカの連中の手前も有るがな。
と、その時から、昔の表情に戻ってくれたのです。それまでは、固っ苦しいから、こっちまで、遠慮してしもて。
それでも、言葉使いは替わらずですが、表情だけは軟らかくなり、打ち解けて、裏話をチラっと披露してくれた。
「柴田さんが来られると云うことで、昨日から、大変でしたよ。」
ナニが大変かと尋ねたら、どの範囲を案内するか、道順を決め、そこは綺麗にしておくこと。試験室が本命やから、特に念入りに、床掃除、拭き掃除、整理整頓、万端準備したのやて。
成る程、そお云えば、何処の工場も綺麗やったなあ。東邦電器は、準備出来ずに片隅であったのか。
私みたいな、平社員でさえそんな調子なら、エライさん、ご来訪ともなれば、大騒動。
これも、交通事情が悪い時代のことですよ。
往来激しい、イマ時なら、毎日が大騒動になってしまうがな。
(01/05/20)
18.試験法の集大成(8) 人事異動
サカエ電子が解散したこともありますが、それ以来、時尾クンには合ってナイ。
ところが、私がDIODE製造部に所属してた頃ですが、外国部と称する海外市場担当の営業部門に途中入社で配属された、八田と名乗る人が面会に来たのです。
実際には、面会などと大袈裟なことではナイ。
私の席に見知らぬ人がやって来て、八田と申しますと名乗られた。その八田氏が云うには、時尾クンとは高校時代の同級生で、私のことを聞きましたとのこと。と云うことは、八田氏と私はオナジ歳。大柄やから、第一印象では、更けて見えたけど、大人しく、柔和なカタでした。
その八田氏とは仕事上では関係することはなかったのですが、時々、ぶらりとやって来ては、面白いことを云うのです。
ナカでも、クルマにナニかの電子部品を付けて、お互いの車間距離が測ることが出来ないものか。或いは、狭い駐車場でも壁にぶつからんよおにする手立ては無いものか。
などと、雑談か相談か、得体の知れんことを云う。
ナイことはナイなあ。LEDと検知器(センサー)を取り付ければ可能ではないか。
その当時なら、百貨店では、自動扉をやってましたが、あれは、入り口に設置された踏み台がスィッチとなり、扉を動かすだけの簡単なもの。すでに、LEDもセンサーも、開発されてたから、それで可能ではないかと答えたりしてました。
マタ、暫くして、その特許がどおこお云うて来たのです。出してもヨイものかとの意味で、それはアンタの自由にしておクレ。そちらの発案やがな。
ここまでは知ってますが、米国営業所に出向してしもたから、特許のハナシはどおなったのかは知りません。
果たして、イマなら、高級車でやってます。このハナシは、約二十年マエの雑談でした。
彼、八田氏は出向解かれ、日本に戻り、エライさんです。
私のホウは、後年、センサー製造部門に配属された。イヤ、八田氏とは無関係ですが。
さて、本来なら、サカエ電子の次として、四国は香川県、高松市のアオイ電子(現在、東証二部上場企業)にも訪問するべきでしたが、日程が苦しいので取り止めた。
されど、縁とは不思議なもの。アオイ電子には、私が半導体製造部に異動して以来、一時など、クレーム対策としての工程改善のため、常駐に近い状態で出張したのです。
それも、宇高連絡船の時代までのこと。本四架橋が完成し、往来が便利になった頃には、会社としての縁が切れました。
アオイ電子の話題は、山程あって、イヤでも触れねばならぬから、それまで、待ってクレ。
肝心の試験法集大成ですが、ナニブン、ワープロさえ、影、形もナイ頃のことですがな。
鉛筆舐め舐めとまでは云わんけど、近代兵器として登場のシャープ・ペンシルを握り締め、ボロボロの消しゴム常備で、片脇には物差し置いて、社内箋に書き込みを開始した。
がしかしです。如何セン、日常業務と飛び込みの応援要請と雑用の合間やから、遅々として進まず、進められず。新機種の開発もあって、その都度、追加もして、約一年を要してやっとこさ完成したのです。
イマなら、パソコンが存在する。真っ直ぐの罫線なんか一発で引けるし、FORMにしても、コピーが可能。誤記入したところで、ゴシゴシと、消しゴムで消す手間もナイし、力余って社内箋に穴を開けることもナシ。シモタなあと、書き漏らした文言を行間に挿入するのもイト簡単やで。
最初っから作成したとしても、セイゼイ、ニヶ月もあれば、完成させられますがな。
イヤ、社内箋がどれくらいの枚数になったのかとなると、二百枚近くは有ったハズ。
これを社内関係者用と関係会社分のコピーをして、ホッチキスでは間に合わんから、パンチで穴を開け、紐で綴じ、チョッとした小冊子になったのです。
題して、「抵抗器信頼性試験法」
ナンとまあ、その小冊子完成数週間後には半導体製造部に異動を命じられたから、抵抗器製造部に残せた我が遺産みたいなもんでした。
お陰様で、後任者、田中クンへの業務引継は楽やったなあ。
さりとて、これ一冊読んでオケとはイカンけど、その田中クンが、この集大成を継承してくれて、新製品の追加等、改訂もしたのです。
ナンとまあ、その改訂版を作成して、承認印をクレと申請しに来たのですが、もお、所属がチガウがな。
私のデート印など、ナンの価値もナシ。ご自分のものとして次の世代に継承してクレ。
この田中クンは新入社員ではナイ。半導体関係のQA(品質保証)部から移籍した。
以来、交流があって、一緒に旅行したりしましたが、私の一年マエに退職し、現在、社長様やがな。
(01/05/21)
19.着炭工程余談(1) 両備電子
半導体製造部のハナシ突入マエに、抵抗器製造部余談。
まずは、QC課の組織がギクシャクしたハナシですが、その背景のから。
最初は生産技術がそっくりそのままQC課と合併、元の状態になったのですが、組織変更で、着炭工程の課長がQC課長としてやって来たから、元の課長は私が移動のトキには戻ってましたが、その間、何処か忘れましたが、席を移動です。
ではありますが、新任課長のことなんか、悪いけど、アト廻し。
そもそも、この時期を総合すれば、抵抗器製造部門の関係会社が次々と設立され、解散もしたのです。
実習中は、工程にも一時的には人数が増え、職場全体に活気が溢れてました。
がしかし、有る段階からは、実習を終えれば、設備移動と、社員の移動も慣行される。
後工程のホウは女性作業員が主力。前工程である着炭工程は、準社員(当時は二年契約の男性社員)が主力で、それだけに、次の職場になじめず、自主的契約解除が殆どでした。
試験関係にも、準社員が一名配属されたのですが、一ヶ月、持たずに、辞めました。
着炭工程なら、同年輩の職場ですから、ナニかと発散出来たのに、新しい配属先には、私みたいな若造の責任者と、うら若き女の子ばかりでは、ハナシも合わんし、やってられん。
私にしても、親父年代のオッサンが配属されたら、気も使うがな。
いろいろと、事情と云うか、ナニが得意か、ナニなら出来るのか、尋ねるのに、考えとくわなあと云うだけで、回答ナシ。ハナシさえ、まともには聞いてんのです。
おそらく、配属された段階で、職場も職種も気に喰わんから、辞める意を決したと推測する。それなら、余所とも相談のウエ、お好みの業務に替わって戴けるよお、私も最大の努力をしてみます。
とまで伝えてたるのに、イキナリ、退職届けを提示されてねえ。されど、相手は年輩者です。説得するだけ無駄なこと。すんなり受け取りました。それと、当世如き、イツ果てるのか、最悪の雇用情勢でもない。その気なら、ナンとでもなるのです。
ところが、私の知る範囲では、多くの準社員退職者がは、数年後には他界されました。
それほどに、着炭課は活気有る、男の職場として、皆さん、誇りを持って作業をしてました。イヤ、正確には、作業標準なるものは存在してたけど、それは役立たずで、感と経験がモノ云う作業でもあった。
私も、チョコチョコと雑談などしに行けば、兄ちゃん、よお来たなあと、歓迎され、可愛がられたモンですわ。
そんな人間関係でしたから、実験依頼しても、気前ヨク、ヨッシャ、やっといたるで。軽く、二の返事で応じてくれた。
解散直前など、そこの班長である準社員の小池さんが、冗談か本気か、オイ、イザとなったら、儂を引き取ってくれよなあ。
それなら、小池さんが何処に配属されたのか。解散と同時に中風になり、退職され、間もナク、他界されました。
不思議なことに、配属されて来た小父さんは、顔見知りの作業者ではないのです。着炭課の何処におられたのか、知らんかった。私はそれほどにヨク顔を出し、高々約二十名の職場やから、詳しかったつもりです。
それでです。着炭工程は岡山に両備電子が設立され、全面移管されたのですが、工場の前身は銀行屋はん。ナニ銀行かまでは覚えてナイ。
私は試験責任者兼磁器棒関係の技術担当でしたから、両備電子のQC責任者については、材料である磁器棒のことを教育した。
強いて云えば、弟子第二号になるのですが、このスタッフとはべったりでもナク、実作業をマズ覚えるのが先決で、接触も少ないため、弟子感覚ナシ。
いやまあ、スタッフ全員が元銀行屋はんですから、表情から、態度まで、至って真面目。感覚も、世界も違うのです。
磁器棒の単価を聞かれたり、一個当たりの重量はとか。
一個ナン銭か、単価なんか知らんがな。購買部に聞いてクレ。
重量なら、工程に換算表が有るから見てクレよ。米粒みたいなモンやから、ナン万個単位のロット辺りの重量管理や。
あのですねえ。計量は重要なんです。一個幾らで磁器棒屋が僅かにでも誤魔化せば、大変な損失にあるのです。
元々、銀行屋ですから、計量には自信があります。硬貨は、重量測定ですよ。計量器の校正は、重要なことです。
それより、磁器棒のことを覚えてクレよなあ。されど、云うてることは尤もで、勉強にナル。
両備電子では、磁器棒を購入して、着炭加工のウエ、抵抗値の荒選別を行い、アト工程担当工場に出荷納品となる。
その加工代だけが儲けで、そこから、管理費等差し引かねばならぬから、計量誤差は収支に直結する。
私にはそんな経理的金銭感覚まるでナシ。
(01/05/22)
20.着炭工程余談(2) 両備電子(2)
抵抗器製造に関わる生産設備では、着炭工程だけはやってナイ。
理由は、ド素人が作業すれば着炭に失敗することがあるのと、着炭用の石英管が高価なため、破損でもされたらエライことと、触らせてもくれませんでした。
それと、磁器棒の実験品もサンプルとしての量で貴重です。失敗したら、私が大変やがな。
それはそれとして、最近とは思うのですが、両備電子もイツの間にやら、グループ会社から除外されてます。
生産品目的に、炭素皮膜抵抗器の製造が縮小廃止され、イマやチップ抵抗に置き換わってるからでしょう。
ハナシを戻して、両備電子の実習生は、元が銀行屋はんですから、金勘定の専門家ではあっても、技術屋さんではナイ。
磁器棒の理論なんか、教えるにしろ、教わるにしろ、畑違いで、どちらも一苦労。そんなことなら、私も電気屋はんで、窯業など専門外ですが、ここには文系理系の大きな壁があったのです。
とは云え、一通りは覚えてもらわんとイカンから、てっとり早く、二度、三度と、山科の京都碍子に連れて行き、現場でクドクド説明した。
それにしても、女社長から、そこまで覚えたなら、手伝おてクレと冗談が出た程やで。
更に、実習期間、一ヶ月のウチ、一週間は毎日一時間、現場実習後にスタッフ全員集めて、初等品質管理講座を開講。ここでも、元が銀行屋さんですから、数字には強いけど、なかなか分かってくれんのやなあ。
両備電子には二度往きましたが、場所が何処であったのか、方向音痴ですから、すっかり忘れてしもた。
さて、初めて工場内を見たとき、びっくりしたのです。工場の前身は銀行ですから、大きな金庫が鎮座してるのは不思議ではナイですが、そのナカには札束ではナク、材料の磁器棒が保管されてました。
作業などしたこともナイのに私が着炭の工場に出張しても仕方がナイよおですが、その材料である磁器棒の受入検査、着炭された初抵抗の出荷検査指導と、外観検査用限度見本の作成応援です。
或いは、磁器棒の品質問題が発生して、どおすればヨイのかと、呼ばれただけの二回です。
ところで、実習生から聞いたのか、社長は当時、六十歳で、松下幸之助の遠縁で、資産家で、それで、銀行屋はんを開業したらしい。遠縁とはどの程度かは知りません。
何処の旅館に宿泊してたのか、それも忘れたけど、朝晩、社長のクルマに同乗させられてねえ。運転手付きの高級車です。
隣の社長の手をフと見たら、運転もしてないのに白手袋されてるから、ナンでですか。聞かんでもヨイことを聞いてしもてねえ。
ロッキード事件の国際興業社主小佐野賢治ホドではナイのですが、みたいな相貌で、ニヤリと笑われ、答えは、皮膚がヨワイから、絹の手袋してるのや。丈夫なアンタが羨ましいやて。
イツも帽子で、クルマのナカでも被ってるのですが、頭はツル禿。非常識な私でも、流石にこのことには触れてません。皮膚が弱いと禿るのかなあと思ただけ。(注:ロッキード事件の小佐野賢治が証人喚問されたのは、昭和五十一年。このハナシは昭和四十六年です。)
そのワリに、食事には連れてくれんから、旅館の食事ばっかりで。
この社長さんは、岡山から、ROHMに来社されるトキもクルマです。余程、クルマが好きなんか、運転手も大変やなあと、内々で、噂してました。
外見はそんな社長ですから取っつき難いのですが、ハナシすると、ニコニコして、冗談の多いお方でした。
あるトキ、どんな具合に見えるのかと聞くのです。答えに窮したら、聞いてますよ。裏社会のボスみたいらしいですなあ。
光栄なことですが、私はそんなに大物でもナイし、この通り、髪の毛も黒々として、禿てナイですがねえと帽子を取って頭を見せるのです。
くどいけど、どお見ても、社長の頭はツルツルのツル禿。
(01/05/23)
21.或る出来事 BRASIL工場実習生
私の抵抗器製造部時代、BRASILにも現地販売用の抵抗器製造工場が設立された。
半導体製造部に異動したら、更に、DIODEを製造開始することになって、スタッフ教育を全面的に面倒見たのです。
ではありますが、諸般の事情により、地球の裏側に位置すると云う、BRASILには飛んだことはナイ。
抵抗器のトキも、QC担当者に試験と磁器棒の教育を任された。タダシ、完成品工場のため、磁器棒に関しては、一般知識のみ。試験も設備はイツになるやらで。馬鹿抜かせ、サッサと予算に組み込めよと激怒したけど、そんな事情も有って、教育も許された期間がたったの一日だけやて。
さて、実習生は現地採用で、全員、日系一世か二世です。QC担当者は一世でしたが、何故か感覚のズレが大きかった。
そのことは、DIODEのハナシでやることにして、ここでは、抵抗器のQC責任者の話に絞り込む。
名前を槙と称し、当時三十歳。岡山出身ですが、何故、BRASILに永住決断したかまでは聞いてナイ。
そんなことより、BRASILは元ポルトガル領のため、日常語はポルトガル語である。
電圧なら、ボルテージをボルタージェと発音する。などと、そんなハナシばかりをしてました。
この槙氏とは、実習期間中にしか会ってない。
実習直前にBRASIL工場に入社。日本での実習約一ヶ月で、BRASILに帰国し、数ヶ月で退社で、唖然呆然。
云うたらナンですが、一世では、そんな不届き者が多いのです。
それは別にして、槙氏はヤクザな性格には見えなんだ。一見、至って真面目で、礼儀正しいから、退職したと聞いたトキ、我々とは価値判断、行動規範が異なるのやろと、思ただけ。
そんなこともドオでもヨイ。両備電子の実習生は印象にさえ残ってナイから、名前さえ忘れたのに、槙氏はあることがあって、鮮明に記憶してる。
それは、実習期間中のことで、時期もお花見の季節。歓迎会は、円山公園で夜桜見物。
されど、正式なものではナイ。やろか、そおしよかと、適当に有志を募り、行き当たりバッタリの宴会なれど、場所だけは確保せねばならぬから、業務が終われば、即、円山公園に馳せ参じたのです。
多分、実習生槙氏と、QC仲間五六名が参加したのかなあ。兎に角、槙氏を囲んで酒盛り宴会です。云うてオクが、私は下戸である。ビールも飲みはしましたが、適当に、コーラを盗み飲み。
皆さん、酔いが廻るにつけ、隠し芸に、歌など出して。云うてオクが、私は無芸で音痴。
ただ、ヒタスラに、焼き鳥などを買いつけて。さすれば、私一人が茅の外みたいやけど、そんなことはナイ。
飲めぬなりに、多少は飲み、それでもほろ酔い加減で、もっぱら、槙氏をつかまえ、リオのカーニバルはどんなんやな。BRASILの世情、観光地のことなど、聞き出しはしたけど、内容はサッパリ覚えてない。昔のハナシやからなあ。
そんなことはドオでもヨイ。この槙氏、お酒が強いから、勧められるがままに、ガバガバ飲んで、顔色一つ替わることナシ。ふらつくこともナシ。当人も、お酒には大いに自信有りと豪語してました。
そこまでは、まだ、宜しい。
ボチボチ、解散やなあと、三々五々。おそらくは、槙氏の宿泊先が我が家の途中に有ったのか、それとも、ラーメンでもとなったのか、その返りであったのか、タクシーで送ったのです。
流しのタクシー捕まえて、タクシーのナカでも、馬鹿騒ぎ。
私が騒いだのではナイ。もお一人と、槙氏が騒いでた。運転手さんのご機嫌麗しくナク。
それも、宜しい。
宿泊先に到着して、イヤ、ここで結構です。時間も遅いことやから。
それなら、申し訳ありません。ここで、失礼致します。おやすみやす。
これで、オシマイなら、ナニもナイ。
イヤ、クルマのナカが異様に臭い。酒臭いのではナイ。鼻も鈍感な私が臭いと判定出来る程の相当な臭さで、糞尿の匂い。
槙氏が座ってたシート付近を手で触れたら、ナニやら、べったり、手にくっついてなあ。
ご招待とは云え、酒に強いからとて、そこまで、飲むなよなあ。
そやから、酒飲みは嫌いなんや。槙氏のイヤな匂いも思い出す。
(01/05/24)
22.二人の課長余談 着炭課長とモールド課長
一般的には、課と称する部署に課長は一人。
ところが、我がQC課に課長が二人になった。
社内の抵抗器製造部門が関係会社に順次移管され、縮小解散された結果です。
トリアエズ、着炭課長が新任となり、間髪入れずに、モールド型抵抗器の製造課長が加わった。
モールド型抵抗器は、1/2W、1W、2Wのものが対象で、前工程はオナジで、形状も小型抵抗と比較すれば形状が若干大きく、保護膜は塗料の替わりに樹脂成形されてます。
この工程がワコー電器に全面移管されたから、解散となり、課長がQCに配属された次第。
ド素人ではQCは勤まらんのですが、どちらも、途中入社組。前の会社では、QC業務もしてたから、それが売りで入社されたとか。イヤ、ナンやとか。
当時のROHMはQC手法など、マダマダ発展途上段階で、標準書もトリアエズ、体裁を整えられただけで、手つかずのも多数存在してました。
私はQCに所属とは云え、生産技術的な業務もしてたから、関係した標準書は作成したけれど、それ以外の標準書には参考とのため、目は通しても、実体からは乖離し、実用的ではナイとの印象でした。
エラソオな表現をしましたが、この時期なら、書き物と、工程での実体の差も見分けることは出来ました。
よって、課長二人制の意味は、公式論的には、着炭とモールド工程の標準類を整備見直しと、その他のものも、完備したウエでの本来のQC業務の推進です。
QC業務とは、クレーム処理、標準書管理、関係会社の品質監視ですが、実体は、生産技術的業務が主体になってました。
正直な処、やる者にとっては、技術改善のための生産技術的業務が数段面白いです。当然のこと、私もその口や。
それはそれとして、二人課長の展開はどおなったのか。
当然のことですが、覇権戦争の勃発です。
そんなことで、ウロウロさせられたり、或いは助かるのは、私共若手です。何かと、用事を仰せつかったり、面倒を見てくれる。
特に、着炭課長など、暇になったのか、何処へでも、くっついて来るのです。クレグレも、邪魔と云うワケではナイのです。
ナニかの用事で、小型トラックに磁器棒を積み、知多半島は知多電子に向かうトキ、一緒に連れてってクレと申し出があり、片道二百キロを走ったことがありました。
これがナンの用事か思い出さんのです。購買担当でもあるまいに、不良返品をQCが運ぶハズがナイ。実験品にしろ、小型とは云え、トラックに積む程は作成依頼しませんがな。
それにしても、私の運転が余程怖かったのか、そんなに速度を出すことナイよ。着炭課長は運転免許を持ってナイのに五月蠅かったなあ。
或いは、無断欠勤の試験担当者の家庭訪問にも、ついて来たのです。くどいけど、邪魔とは思てません。ナニかと心強かった。
片や、モールド課長に連れられて、岡山は里庄に出来た、配送センターに出向いたことが有る。これも、ナンの用事であったのか、皆目、思い出せんのや。
配送センターの創業所長は、ROHMの倉庫責任者が移籍したのですが、モールド課長にとっては、先輩格の社員です。
私などの若輩者からすれば、近寄り難い存在で、夜会社を出発し、宿泊先の旅館、「つじよ」に到着したら、そのカタが来られたのです。
ワケも分からんのに、私も同席させられ、ナンの用事かと様子を伺えば、表敬訪問。
別会社に移籍したとは云え、大先輩が、モールド課長を持ち上げ、モールド課長はふんぞり返ってねえ。私からしてみれば、立場が逆ではナイかと混乱した。
勿論、私共にしてみれば、双方、大先輩。タダタダ、ハイ、左様で御座いますと相づち打たさせて戴くだけですがな。
そして、両先輩でハナシが決まり、食事になど。と云うても、一杯飲み屋です。私は遠慮もあるし、飲めもしませんから、返りは、所長が乗って来た車を旅館まで運転させられて。
「オイ、柴田クン。このクルマ、音は静かで、ギヤも軽いから、運転もし易いやろ。一晩、旅館に保管して、明日、それに乗って来いよ。一週間前に納車の新車やからな。」
余計に固くなりますがな。
そんなこともあったりしました。がしかし、事程左様に、着炭課長は大人しく、モールド課長は強引な性格で、会社組織では、大人しいホウは損をする。
全ての会議にモールド課長が出席、情報も握るから、着炭課長は、邪魔者扱いにされ、間もナク、退職されました。
イマ、中国に時折訪問して、品質管理を教えてるとか。
モールド課長は、その職務を忠実に果たし、標準書については抵抗器QC課の在籍は一二年のハズですが、かなりのものを作成したハズです。
方々の部署を転々とし、1994年、無事に定年退職(五十五歳)を迎え、ゴルフ三昧。
これで、抵抗器にのハナシは終わり、次からは半導体製造部に異動です。
(01/05/25)