不可思議の世界NO.19
京都・亀岡の良く当たる占い師の話
<京都でよく当たる占い師は?>
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目次
NO.220 桜散る散る、花吹雪の話(12) 墓の話(2)
NO.219 桜散る散る、花吹雪の話(11) 墓の話(1)
NO.218 桜散る散る、花吹雪の話(10) 祖父の話
NO.217 桜散る散る、花吹雪の話(9) 祖母の話
NO.216 桜散る散る、花吹雪の話(8) オバ婿殿との話(2)
NO.215 桜散る散る、花吹雪の話(7) オバ婿殿との話(1)
NO.214 桜散る散る、花吹雪の話(6) 祖母の葬儀の話
NO.213 桜散る散る、花吹雪の話(5) 祖母の話
NO.212 桜散る散る、花吹雪の話(4) 記憶鮮明の話
NO.211 桜散る散る、花吹雪の話(3) オバの話
NO.211 桜散る散る、花吹雪の話(3) オバの話
斯くなるでの、気が付けば、知ってるのオジ、オバ。
オジ、オバも、余りに正確、区分して、やってましたら、ややこしいしなあ。適当に致すです。
かと云うて、区別しん事には、分かりませんですが。伯父、伯母、叔父、叔母となりまして。伯父、伯母なるは、親の兄、姉でして。叔父、叔母は、弟、妹の事でして。言葉で発すれば、同じの、オジ、オバなれどの、漢字、文字にしたら、違うです。
ついでになら、小父さん、小母さんなら、赤の他人の、そこらの、適当なる人。
での、その、突然に他界のオバ。高辻通りで、見つけたのオバ。見つけて、一週間して、訃報のオバ。
良くゾ、見つけたなあの、反対側の、それも、後ろ姿をチラとしか、見てへんのに、オバと一発、自信、確信しまして。交通量の多い高辻通り。片側一車線をモノともせずの、車を駐めまして。良くゾ、一言、二言であれの、話をしたなあと。
結果、あれが最後になったですが。
ででの、当人より、鳥取から、嫁に来たの話を聞いてるですが。バスなら、分かるですが、電車も苦手で、酔うですて。事実、何の時か、市電に乗ったですが。京都に市電が走ってるの時代故、1978年<昭和53年>以前なれどです。
オッとの、それよりも、遙か以前の、私が高校生の頃でして。
オバ、カラダを堅くして。ガタガタ、震てまして。目を閉じ、うつむいて。酔わんよに、酔わんよにと、念じてたです。そんな事、ばっかり考えるし、酔うのやでと。何か、話でもしよかと、誘たですが。アカンなあ。気分的、そんな余裕があらへんわと。
それで、よお、鳥取から、京都に来られたなあと。
反対には、実家に里帰りした事が無く。兎に角、歩け、歩けの人でして。歩いて行けるの範囲しか、行けませんでして。その時は、結局、一駅で降りたの記憶があるですが。
よって、私が骨折にての、亀岡、八木の、南丹病院に見舞いに来てくれた時には、ビックリしたです。イヤ、一人で、来てくれたです。息子<従兄弟>に云えば、車ででも、送ってくれるですが。電車、バスがアカンのに、車なんか、トンでもでして。
イヤ、山陰線で、電車で来てくれたですが。
私がビックリの程が分かるかと。乗り物苦手の、里にさえ、帰れなんだオバでして。話簡単の、最長移動距離、鳥取から、京都の片道かと。
喋るの、言葉尻が、「シ」であったか、「ソ」であったかの、何とか、「シ」、「ソ」と。
これは、その地方のナマリらしく。云うたら、晩年まで、治らんかったですが。別段にの、無理して、治すの事も無いけれどや。
ソ云えば、そのオジも、従兄弟も来てくれませんの、オバだけでして。
そもそもが、親戚筋、方々には知らせんよにと、釘を刺してたですが。京都市内なら、別としての、亀岡の八木でして。そこに、母方から、オバが代表で来てくれたになるですが。父方、オバも二人で来てくれたですが。
イヤ、この二人は仲が良く。年の近いのもあるですが。諸般、我が母とは、年齢が違い過ぎてまして。私と従兄弟の年齢差と同様でして。
云い出せば、この猪熊のオバも、我が母とは、余り、仲は良く無かったかと。
理由は簡単の、オバは質素倹約主義でして。我が母、派手好みで、自慢ばっかりしてるからでして。私もそんな趣味は合わんでねえ。派手好みがでして。ここだけの話、欲しいモノは借金してでも、欲しい人でして。
私共、苦労させられたです。
そんな次第の、従兄弟<長男>から、オバの訃報連絡にての、えと。
冗談にも程があるの、されどの、こんな事、冗談にもと。大体が、私に電話も、ソレが初めてかと。従兄弟からの電話がでして。私からなら、数度してるですが。
イヤイヤ、この時にも、一週間前にと。後刻、後年、詳細の話を従兄弟にしたです。
しかるにの、この手の話なら、時折の聞くです。
めずらしく、会いに来てくれての人が、それから、数日なり、数ヶ月で、他界の話をでして。
この場合は、会いに来たのでも、会いに行ったでも無いですが。得体不明の、チカラで以て、バタリと、会わせてくれたと、思てるです。
オッとの、我が足の骨折での、オバが見舞いに来てくれたは、20年昔の話。オバが他界は、15年昔の話やわと。
でででの、話の本題。
父方、妹、オバの話。
正直、小柄で、美形。云うたら、祖母もソでして。母娘ともの、相似形。
且つは、成績優秀、利発であったらしく。
らしくとは、異な云い方なれどの、学業成績を私が知るの筈が無いの、とりあえずは、オール甲であったとか、祖母、オジ達からは聞いてまして。
イヤ、通知簿も見た可能性があるですが。これは、多分なら、後年、何かのおり、当人に手渡されたよな記憶があるです。
<注=明治時代より、昭和16年<1941年>までの、成績は、「甲」「乙」「丙」「丁」の4段階評価>
イヤイヤ、当時、小学生の我が目、感覚からは、所謂の、ハイカラなオバさんでして。
ハイカラとなれば、派手に聞こえるですが。派手では無いです。かと云うて、地味でも無く。しっかりした女性であったです。ではあるですが、あくまでもの、小学生の印象なれどの、子ども達を大切にし、主人には、ハイハイと、極めての、従順でして。一切の反抗無し。
オッとの、我が母とは、対象的でして。
我が母なら、先の通りの、派手好みで、しっかりとするよりは、勝ち気、男勝りで、云いたい放題。主人<親父>に、ハイハイとは、聞いた事、見た事も無く。話簡単の、夫婦仲も悪かったわと。
これが男なら、別段になれどの、女ではナと。
そんな意味なら、我が、オバ達、皆、女性らしいです。
云うたら、当世の女性とは、一味、二味違うです。昔人間故なれどの、我が母型女性が当世多いかと。
先の、母方、下の兄嫁のどこにも行った事が無くなんか、今時居てへんわと。体質もあるですが。酔い止め薬も飲みませんでして。イヤ、そんな意味なら、病気一つせずかと。
東京に引っ越したオバは、引っ越してからは、健康状態知らんですが。入院云々、怪我云々、聞いた事が無く。
これ又、我が母とは大違いでして。
母なら、60代頃より、何度も入院、手術、骨折なら、度々のしてましてと。
(12/06/22)
NO.212 桜散る散る、花吹雪の話(4) 記憶鮮明の話
そんな次第の斯くなるでの。
我がオジ、オバも沢山居てたですが。母方のは、兄二人と妹の夫婦で、六人なれどの、現時点、残ってるのは、母と、妹の、二人だけ。
父方となれば、妹一人と、弟三人なれどの、弟一人は戦死でして。妹夫婦は亡くなってまして。残ってるのは、上の弟の嫁と、下の弟でして。
高辻通りで、バッタリのオバなるは、オジ嫁故、私とは血の繋がりは無いですが。家が近くでもあっての、中学校の通学路途上での、オバ達の中では一番に会い、話もしてるし、口喧嘩もしたし。
可愛がってももろたですが。
そんな意味でなら、母の妹も、良く可愛がってくれまして。されどの、家が若干遠くてねえ。その昔には、河原町七条通りの、一寸、奥まった処に住んでたですが。四十年程の昔に、京都、城陽、富野荘の方に引っ越しまして。
富野荘となれば、遠いしなあ。早々には会えませんです。母方の年会にも、来いひんし。前回、顔を見たとなればの、オバ婿の葬式の日。
<参考=「不可思議の世界NO.6」叔母の話 葬式のハシゴの話>
変な話、母方のは、上のオジ嫁と、妹婿は、そこらでバッタリも、見過ごすの可能性があるです。左程に面と向かいの話をしたの記憶が無く。しても、瞬時、挨拶程度かと。そもそもが、妹婿は、顔を合わせたが、七条時代に、一度か、二度でして。
後年、歳喰てから、オバ<妹>と二人で、母方の年会に一度。葬儀に二度、出て来たかなあと。
イヤイヤ、妹も歳喰てから、体調悪く、一人では出て来られんよになってるかと。
オッとの、この母の妹とは、口喧嘩など、した事は無いです。そもそもが、息子<我が従兄弟>を早くに亡くしてまして。後は、娘ばっかりでして。息子のよに、可愛がってくれてと云う事でして。
での、父方のオバであるの、オジ嫁の方はとなればの、歴史が違うです。
高校生時代に、上のオジが。大学生時代に、下のオジが結婚でして。正直には、その当時の、気持ち的、歳の離れた、兄を盗られた的気分が多少はありまして。ソラ、同居してまして。
良く、遊んでもらいまして。
それこその、父の妹の子ども<男三兄弟の従兄弟>とは、その二人のオジの取り合いをしたモンでして。
三兄弟となれば、何かあれば、三兄弟、結託するしなあ。やり難い事。羨ましい事。
そんな意味ならばの、このオバ婿とは馴染み薄く。
云うたら、先の、母の妹婿と一緒でして。大阪に行っても、顔を会わすの事が少なくて。こっちに来やはっても、話をしたは、何回かでして。そらまあ、母方のと同様、その当時の、小さい頃なら、道でバッタリも、一発、分かるとは思うですが。
むしろ、私が成長しの、成人になってからは、分からんやろと。
現在唯今、顔を思い出そとするに、思い浮かばずの、出て来ませんでして。
ソラなあ、特には、このオバ婿なんか、最後に会おたが、我が祖母の葬式の時、昭和46年<1971年>での、最早の、40年の昔やゾと。イヤ、一家全員、東京から、車で駆けつけてくれたですが。
ソレ以前となれば、小学生時代の、大阪に居た頃でして。
イヤ、私が就職しの、その年であったか、葬式の直後であったかの、講習会が東京でありので、一度だけ、家に行ったですが。居たはったのかなあ。居たはったら、挨拶程度はしてるですが。
その挨拶したりの、状景が浮かばんでして。
トトトの、何が云いたいかとなればの、そのオバは、最初が大阪での、小学生時代となればの、行き来は、学校が休みの時だけでして。中学生時代以降、東京でして。その間となれば、中学三年生、修学旅行で東京に行った時。
そして、以来、祖母の葬式まで、会う機会が無く。述べ時間としたら、極めての僅少でして。
にも関わらず、あの時、この時と、その時の、姿、形は鮮明に記憶してるです。何でかなあとなれば、血の繋がりかと。
(12/06/23)
NO.213 桜散る散る、花吹雪の話(5) 祖母の話
さての、ここからは、特に断らぬ限りの、「オバ」は、父の妹を指すです。
での、私が小学六年生の時<1959年>であったか。
<注=私は1月産まれ故、早産まれです>
オバ一家が東京に引っ越しまして。
以来、オバ一家が、我が家に来たのは、祖母の葬儀の日、昭和46年<1971年2月27日>でして。私め、社会人二年生。三年生直前。
この葬儀なるは、我が家で、二度目でして。
但し、一度目は、葬儀らしい、葬儀では無かったです。理由は、我が妹が産まれて、間も無く、他界でして。要は、赤ちゃんの状態で、産院にて死亡。葬儀は内々の、親族のみが集まりまして。
私自身、当時、幼稚園児前での、「死」の意味分からんです。
イヤ、産院、梅鉢医院と申しまして。現在でもあるですが。油小路、仏光寺上ルでして。我が家、仏光寺、油小路西入ルでして。通り名の順番が異なるだけなれどの、要は、我が家は、仏光寺通りに面してまして。産院は、油小路に面してるです故、横町でして。歩いて、一分と掛からんですが。
よって、毎日のよに、産院に行きまして。見てたです。
それが、戻ると云う事で、喜んでたですが。
夢か、現か、幻かの、猪熊のオジが自転車で、リンゴ箱みたいなのに入れて、戻って来るの周囲を私が飛び回ってるの状景を思い浮かべるです。
自転車で、箱に入れてと思うですが。にしてもの、そもそもがの、自転車でねえ。そんなに重いモノで無し。距離的、二百メートルもあるか、無し。且つは、何故にオジがと。親父なら、理解するですが。
親父は自転車にも乗りませんの、我が家に所有してませんでして。オジ宅にあったかとなれば、あったかなあと。そんな時代の事は分からんです。
兎に角、見た事も無いの、親族が集まったは覚えてるです。
見た事も無い親族ねえ。誰の事かとなればの、母方上のオジ嫁の親族までが来てたです。そんな事を何故に覚えてるかとなれば、着替えを二階でしたはってねえ。階段を上がりの、コソリと覗きに行けば、母か、祖母から、酷く叱られまして。
イヤ、親族とは、小母さんでして。着替えの真っ最中ではあったですが。単に、着物合わせをしてただけの光景を鮮明に記憶してるです。
イヤイヤ、見た事の無い、小母さん故で。小母さんも、複数と記憶してるの、事実、生涯その一度だけです。実際には、そのオバの葬儀、後年の、オジの葬儀の際にも、来てたかと思うですが。らしきの姿は認識してませんでして。
何故にとなれば、参列なるは、我が承知の親族だけでして。
兎に角、沢山の人が集まってねえ。嬉しいてねえ。相当なる、ハイテンションになってたです。くれぐれもの、幼稚園児になるの前の、五歳でして。
そして、我が家での、本格的葬儀は、祖母の時でして。
祖母は車にぶつかって、転けて、足骨折で、入院。四条堀川病院に入院したですが。
「車がぶつかって」では無くの、「車にぶつかって」との表現は正しいのです。当時、加害者では無いの、被害者であるの、車の所有者の説明でして。
更になら、駐まってるの車に祖母が勝手に接触、転けたになってるです。
第三者的になら、確かに、祖母高齢<当時82歳>故、勝手に車に接触なら、転けて、足も骨折するですが。
更なる、第三者的にでも、運転手が車に乗ってても、停車で、婆様が勝手にぶつかってくるモンかと。動いた。動いてたに決まってるですが。先様の主張がまかり通ったです。
情報は、家族から勤め先の私に電話があっての、帰社後、即の、病院に駆けつけたですが。顔に、肩に赤あざがと。見て、びっくりの、泣けて、泣けて。
オッとの、何故にそんな話をしてるかとなればの、当時、年寄りが足骨折は薄々ではあれ、死を意味してたです。当世の如くの、整形外科的手術法未熟。リハビリの概念無く。兎に角、足固定で、骨がくっつくまで、絶対安静。動くな。動かせるなと。
一箇月も年寄りが足固定で、動かんかってみい。たちどころに、歩けませんです。寝たきり同然。
トハ、現在故、分かるですが。当時は、ソレでして。
えらい事になったなあと。お婆ちゃん、頑張りや。
としか云えませんでして。
イヤイヤ、その時の光景、これ又、まざまざの鮮明でして。
祖母と二人、涙ぽろぽろ、恥ずかしくも無く、ただただ、泣いてたです。イヤ、兎に角、悔しいてねえ。車にひかれたのがだけで無く。顔に、肩にの、赤あざが、でして。相当にきつく、転けた。やられたと。
又、家族で、骨折、初めてでもありまして。
ホンマやでの、当時、足の骨折では、所謂の、固定で、動かすなの指導故に、まともには歩けんよになるです。相当に若けりゃ別なれどです。相当とは、せめてもの、十代、二十代かと。三十代にもなって、足の骨折致命傷。ここで云うの致命傷とは、失礼乍らの、表現なれどの、以降、チンバです。
での、何箇月か入院してまして。
帰って来ても、事実、寝た切り状態。イヤ、足の骨折のみなれどです。表向き、生命の心配無いですが。別段の内臓疾患では無く。頭もボケてませんでして。
この状況を東京のオバに連絡してたかは、定かに非ずの、連絡はしてたとしても、当時、東京から、京都は楽では無いです。又、先の通り、別段にの、生命の心配は表向き皆無。
以来、私も朝の出勤の際には、寝てるの祖母に、「行って参ります。」と、一言、声掛けまして。
オッとの、入院以前より、常に声は掛けてるですが。別段にの、通学の際にも同様でして。
ででの、当日、朝にも、声掛けまして。
会社に着いた途端に、電話一発、祖母がと。えと。
即の帰宅の、その道中。殆ど、前は見えてませんでして。イヤ、涙のせいでして。
思うに、考えるに、時刻的、私が起きての、「おはよう御座います。」の時には、亡くなってた可能性がの。されどの、ウンと、頷いてたよに、見えてての。朝の出社の際の、「行って参ります。」の、挨拶の時には、しっかり、目は私を見てたよに見えてたですが。
嗚呼、あの時にはと。
まさかの、そんな事、夢にも考えてませんでして。
家族とは、そんなモンでして。
自分の、好きなよに、ええよに、見えてまして。見てまして。
(12/06/24)
NO.214 桜散る散る、花吹雪の話(6) 祖母の葬儀の話
いやねえ、82歳で骨折。
一年間、寝た切りとなりの、83歳で他界したですが。よ考えたら、当時としたら、長生きしたです。相当なる高齢でして。
とは、冷静に考えたらの話での、祖母がその内には、黄泉の世界に行くとは、露程にも考えて無かったです。
イヤ、車がどのこので、転けて、骨折なれどです。
骨折するまでは、一人で、どこえでもは、語弊あるですが。杖も使わず、歩いてたです。
ぶつけられたは、醒ヶ井通りでして。仏光寺通りから、醒ヶ井に。醒ヶ井通りを、綾小路通りに向こて歩くの道中でして。家から、二、三百メートルかと。入院した病院も、その近くなれどです。
イヤイヤ、我が母、現在唯今、89歳なれどの、82歳の頃を思えば、祖母が数段の元気でして。母なら、ゲート・ボール命で、頑張ってたですが。ゲート・ボール場に行くに、シルバー・カーなれどの、祖母は先の通りの、杖さえも無し。
骨折さえ、してへんかったら、当たり前に、後、5年や、10年、生存の可能性がと。イヤイヤ、冗談でも、根拠の無い話でも無くの、祖母の妹二人、一人は交通事故で、死亡したですが。モ一人の妹は、90歳代まで、生存してたです。
部屋は、二階でして。私も二階でして。
要は、急な階段を登ってたです。今、考えたら、危ない話なれどです。母なら、80代では、階段を登れませんでして。されどの、大体が横着でして。勝手に登っては、階段で、転けたりしまして。
幸いにも、数段の処故、骨折はしたですが。大事に至って無いですが。
での、祖母も晩年には、階段を上がって来た顔に、生気が無いとするのか、青ざめてた時があったです。
要は、何か、イヤァな感しまして。してまして。
そこから、暫くして、骨折したかと。この暫くとは、一週間、二週間なんか。一箇月、二箇月の事かは、今更となりの、よお分からんですが。ソラなあ、40年も昔の話やわと。
その事と、亡くなったとは、別次元の話でして。
私にとって、家族は不死身。当時の自分自身が死を身近に考えて無いのもあったですが。死ぬモノとは、考え及んでませんでして。
もしかしたらの、反対に、自分の方が早く。祖母が後のよな感覚であったかと。
理由は、妹の件があったが故に、そんな事は二度とあってはと。
とは、ジワジワと、「死」なるを認識し出しての事かなあと。
そらなあ、町内会の、面々の葬式を見るにつけ、何で、死ぬのかと。
当時は、自宅で葬式常識でして。当世の如く、葬儀場で行うはしてませんでして。そもそもが、メモリアル、何タラなんか、知らんです。家の前には、シキビが沢山に飾られまして。
誰でもが、嗚呼、葬式かと、一発、分かるですが。
葬儀社でやられたら、しかるべくの、通知が無い事には、分からんです。
ホンマやでの、その昔なら、当世でもです。自宅でされるなら、その家で誰か、死なはったんやと、子どもにでも、通りすがりにでも、分かるですが。葬儀会館でやられたら、通知が無ければ、分からんです。
云い出せば、家の前に飾られるの、シキビの数、親戚筋、会社関係のシキビによりの、お付き合いの先様、広さまでが、分かりまして。少ないと、恰好悪いなあと。
イヤ、ホンマやでの、よって、数を沢山に出すがため、親族は当然の、原則、故人の同居家族の勤め先には、連絡一発、シキビを手配してもろたりでして。会社も承知での、宜しくと。イヤ、シキビの手配をです。
祖母の時には、沢山のシキビが飾られたです。
我が勤め先は、当然の、ローム<注=当時は、東洋電具製作所>からもでして。見て、ホと安心したです。これは、早退届けの理由で、会社から、手配をしてくれたですが。学生時代なら、あらへんかったなあと。勤めてからで、良かったと。
当時、何軒もの軒先を借りまして。何軒もは、どこ様も一緒の、余程でなければ、拒否されませんです。
余計な話なれどの、親族も大変ゾと。
香典は親族として。祭壇に飾るの供花。そして、シキビもでして。馬鹿にはならぬの、金額でして。
オトトの、そんな話は結構の、東京からも、オバ一家が車で、駆けつけてくれまして。オジの話では、東名高速道路、名神高速道路を何時間も掛けて、長男<従兄弟>と、交代々々の運転でと。
これ又、当時の車では、大変ゾと。性能が全然の違うです。クラッチ式でして。高速道路なら、ギア・チェンジも殆ど無いけれどや。エンジン・ストップ、オーバー・ヒート、パンクで、沿道に停車の車は、何の、珍しくも無かったです。
今時ので、故障車なんか、余程なれどです。パンクも殆ど致しませんですが。
東京から、車で来た故、へえと、感心したですが。
(12/05/25)
NO.215 桜散る散る、花吹雪の話(7) オバ婿殿との話(1)
での、当時の我が愛車は、ホンダの、NV<360cc・軽自動車>でして。
オバ一家のは、何やったか、全くの覚えてませんですが。少なくともの、普通車で、5人が乗って来たです。
葬式も、暇でねえ。
イヤ、夜伽は、皆で、夜通しの話をしてたですが。内容、状景、全くの覚えてませんでして。
喪主は当然の親父でして。
我輩、気楽なモンでして。
さりとて、うとうと、寝るも出来ず。
朝になって、顔を洗いの、外に出まして。
車はどこに置いてたのかなあ。多分なら、真向かい、酒屋でして。酒屋も、問屋であったか、建屋前は車の駐車場所になってまして。そこに、2台、軽自動車と、普通車を置かせてもろたかなあと。
イヤ、「喜多商店京都支店」であったかと。今は無いですが。
その愛車を従兄弟達に見せてたです。
イヤイヤ、就職してから、免許を取りに行きまして。仕事が終わってからの、教習所通い故、入社<昭和44年>してからの、6月頃かに、申し込みにで、その有効期間、半年であったかでして。
半年とは、学科がでして。年内に学科試験を受けなさいと。
学科試験が合格せねば、検定は受けられませんでして。
兎に角、ギリギリの、12月末の試験で、合格したですが。
但しの、バイク<単車50cc>をば、所有がため、機動力発揮の、通えたですが。一緒に通たの、同期生は、一旦挫折したです。後年、取得したですが。
余計な話なれどの、その仲間、同期生も、現在、「芋煮会」のメンバーでして。
<参考=芋煮会の話>
更なるの、余計な話の、初めての、一番最初に、エンジンを掛けまして。車が動き出した時は感動したです。
感動は結構の、先生、オイオイ、ハンドル握れ。前見よ。アクセル踏むな。ふかすな。そのまま、そのまま。速度は出すなと。
当世とは違いましての、車そのものに、慣れてませんでして。家に自家用車があるで無し。家族で、ドライブなんか、全くのと。よって、その日、初めて、運転席で、ハンドルをと。エンジンをと。
動くんやと。自分にでも、動かせるナと。
オッとの、山陰線<嵯峨野線>二条駅のソバの、二条教習所に通たですが。一番に近いからでして。
教習所費用なるは、一部か、可成りの部分か。もしかしたらの、大部分かを、祖母が出してくれてねえ。イヤ、初月給では、祖母にお小遣いを上げたですが。教習所費用には程遠く。
夏のボーナスで、一部返したのか。返すに、そんな気は使うなと、云われたのか、この辺り、定かに非ずの、これ又、祖母に費用をもらいの、感動したですが。
名目なるは、就職祝いであったかと。
その際、教習所費用は幾らかと、尋ねられたを記憶してまして。少なくともの、初任給、33500円の倍まではしてないの、5万円であったかと。相当なる費用でして。一部にしたって、大部分にしても、相応の決断してるかと。
イヤ、祖母にも、誰にもの、誰にもとは、親にもの、車の免許を取りたいとは、云うた事は無いですが。
もしかしての、寝言でなら、云うたかなあと。
どっちにしても、親に云うたって、出るの筈が無く。親から、出えへんのに、祖母に援助をなんか、筋違いでして。
よって、ボーナスでも出たらと、計画してたですが。オッとの、申し込みが、6月故に、ボーナスも加算してるかなあと。新入社員で、沢山の額が出るで無し。されどの、当時、結構儲かってまして。会社がです。
意外に沢山出たよおなと。
そんな話は結構の、普通免許取得の、即の、車屋にで。丁度、中学校えの、通学路にありましての、バイクもそこ<ホンダの代理店>で、ホンダ・スーパー・カブを買おたですが。バイクの免許は学生時代に取得してまして。
アルバイトして、買おたですが。これは、相当に活躍してくれたです。通学も、通勤も、その他、諸々のアルバイトも、これでして。
バイクが無ければ、卒業も出来てませんです。学資も稼げてませんです。
云うたら、名実共の、親には、メシだけ喰わせてもろてたかと。それも、朝は祖母からで。準備がでして。夕食は親からで。昼飯、自分持ちでして。イヤ、苦にもしてませんでしたですが。
家庭教師のアルバイト代が結構ありましてと。案外に、案外の、大した、不自由はしてませんでして。暢気な性格もあるですが。
車は、当然の、軽の中古車でして。月賦でして。車屋は、再生車と宣伝してたですが。意味なるは、シート等々、新品でして。
あくまでもの、車屋の話なれどの、その車を試乗のため、持って来てくれやはってねえ。デハと、町内会一周すると、出て行って。小30分も乗り回して、帰って来たら、当たり前に、車屋待ってるですが。心配ソに、車の外観から、中身までを点検してたです。
今思えばの、さもありなんと。免許取り立てのホヤホヤのが試乗で、乗り回されて、事故られてたら、えらい事かと。
でででの、従兄弟達との話の、諸般、あんな、こんなと、愛車、ホンダNVを見せてましたら、オバ婿殿、覗き込みの、「高尚な趣味やなあ。」と。ンと。
何がええ趣味かと、沈思黙考の、カー・ステレオの音楽を聴き、テープを見ての事でして。
当時は、大型のコンパクト・カセット・テープでして。大型で、コンパクトは異な表現なれどです。当世のは、名称、同じのカセット・テープでも、小型でして。
車を替えるに、カセット・デッキが替わってしもたりで。従前のテープが使えませんでして。
斯程に、技術革新の急なる時代でもあったですが。
での、テープの種類なるは、「アンディ・ウィリアムス」「トム・ジョーンズ」「プレスリー」「ビートルズ」「ジュリー・アンドリュース」「ブレンダ・リー」等々のを持ってたかなあと。
モノは適当に羅列しただけなれどです。どっちにしたって、日本の、演歌、流行歌のは、所有してませんでして。
ついでの話の、カー・クーラーなんか、付いてませんの、付く、付かんは別途の、夏場の車内温度尋常で無く。カセット・テープを車内に置いてましたら、たちどころに、テープがくっついてしもてねえ。
回転せずになったりの、元々が、カセット・デッキの出来も悪くの、すぐにも、テープが引っ掛かってしもてねえ。使いモノにならずの、買おてすぐにも、壊れてしもて。
夏場は油断大敵、冬場も、出し入れ、慎重にの、時代であったです。
オトトの、そんな話は結構の、結果的、オバ婿殿との、会話なるは、この、「高尚な趣味やなあ。」が最後でありましたです。
(12/06/26)
NO.216 桜散る散る、花吹雪の話(8) オバ婿殿との話(2)
斯くなる次第の、斯くなるでの。
東京のオバ一家が、祖母の葬式で、来てくれたですが。
オバが一緒は当然なれどの、印象薄くてねえ。従兄弟に会えた事の方が嬉しくて。且つは、殆ど、喋った事の無いオバ婿殿が喋ってくれたの驚きがと。
ホンマやでの、オバ婿との、会話で、記憶してるは、「高尚な趣味やなあ。」の、一件と、モ一件あるですが。
その昔、祖母と一緒に大阪のオバ宅に行った際です。祖母が、私に、「お世話になります。」<注=或いは、就寝の挨拶>と、オジに挨拶せよと、云うたかで、挨拶するに、「お母さん、そんな事、宜しいでっせ。」と。
やったかなあと。
「お母さん、そんな事、宜しいでっせ。」は確かですが。
されどの、「高尚な趣味やなあ。」も、「お母さん、そんな事、宜しいでっせ。」も、どんな顔でか、覚えてませんの、姿も空白。只、それ以外の状景なら、覚えてまして。
兎に角、オジの姿、顔形が全然の浮かび上がって来ませんでして。
その大阪時代、どこにやろねえ。家のすぐの、ソコには、土手がありまして。多分なら、淀川かと。軽トラックに子ども達全員乗せられて。オッとの、荷台にでして。当時はそんなモンなれどです。
我が妹も一緒が故に、私が、小学6年生くらいなんやろねえ。この妹誕生、丁度、小学校入学式の日でして。保護者席に、親父が居たを覚えてまして。大体は母が来るですが。妹誕生故に、親父でして。
イヤ、大体が親父が学校行事に来た事無いです。
オッとの、話を戻しての、車そのものが、珍しい時代でして。
しかも、走ったのが、淀川の土手でして。鋪装なんか、されてませんの、まさしくの、ガタガタの土手でして。振り落とされたら、大変ゾと、妹なんか、半泣きでして。ソラ、6歳頃でして。抱いて、片脇にで、座ってる方がと。
そらなあ、子ども達を荷台に載せては、速度も出してませんですが。多分ならナの、こっちは、ドライブを、景色を、楽しむの気分、失せてまして。
結果、この状景、荷台が、ゴンゴンと跳ね、揺れて、妹が泣き顔になりの、事だけが、思い出されの、肝心の、海水浴か、川遊びかは、全くの記憶に無し。
又、状況からしたらの、嫁であるの、オバが助手席の筈なれどの、矢っ張り、姿、形が記憶の中で、出て来ませんでして。
イヤイヤ、云うておくの、この時代、車が運転出来ての、自家用車所有は可成りでして。そもそもがの、そこらの道、家の前で、野球ゲームとするのか、三人、四人で、バット振って、軟式のテニス・ボールを打って、遊んでても、大丈夫な程でして。
但しの、下手したら、窓ガラスを割ってしもたりの。
私め、要領悪く、逃げるが遅く、家の人に叱られたり。弁償させられたり。やったのが、年上なら、異議申し立て致すですが。年下なら、よ云わんでねえ。かと云うて、自分自身に支払い能力無し故、親に、祖母に、斯くの、然でと、代金をお願いしたりして。
での、道で、メンコ、ビー玉、ケンケン、隠れん坊、等々、そこらでやってたですが。正月になれば、羽子板、バトミントンを。タコ上げも、あの堀川通りで、やってたですが。車が少なかったから、出来てたです。
思えば、当世の子どもは可哀想でして。遊び場が、少な過ぎるです。
天下の大道で、遊んで、何がアカンのかと。道路は、車のためにあるで無しの、人間様のモノであると。その人間様が、車に乗ると、横着になりまして。エラソな態度になりまして。凶暴なる動物に変身致しまして。
思うに、何で、人間様が端を歩きの、車が真ん中かと。かと云うて、下手に真ん中を歩いててみい。クラクッションを鳴らされ、ウルサイ事でして。だけでは収まらずの、睨まれ、怒鳴られるかと。何でやナと。
牛、豚でもあるまいにの、クラクッションを鳴らされんならんかと。
さりとての、屁理屈こねて、ご幼少時代と同じに、道のド真ん中で、寝そべっててみい。警察に通報されて、パトカーに、白バイに、追いまくられるゾと。捕まったら、そのままの、精神病棟行きかと。
オッとの、そんな話は結構の、まだ、思い出があるです。
矢っ張り、一家が大阪在住の頃でして。小学生時代なれどの、我が家に来まして。何故か、円山公園の、「いもぼう」に行くになりまして。
オジ連中が口を揃えて、云うです。
「オイ、タケオ。
そこは、有名な料理屋さんやで。ワシらも行ったことがないんやで。一生に一度、行けるか、行けへんかの、処やで。
行け、行け、行って来い。」
そお云うんです。
それがホンマやったら、自分らが行けばヨイのに、行きとおなかったのが本音かと。
特には、上のオジがひつこおてねえ。にたにたして、何度も、説得しまして。私をです。
しかるにの、屋号からしての、小学生の私にでも分かるの、「芋屋」でして。芋も、サツマイモに非ずの、芋でして。ジャガイモ、小芋の類かの、自慢や無いけれどの、この手の芋、苦手でして。
されどの、オジの命令故に、嫌とも云えずの、一生に一度ねえ。仕方が無いなあと、一家と一緒したですが。
オッとの、この時、普通車故、6人ともなればの、定員オーバーなれどです。
遙か、彼方の、昔、昔の、大昔の話の、ン十年が経ちの、軽くの時候かと。
イヤ、その時が、産まれて、初めての、普通自動車に乗せてもろたの時ですが。且つは、会席料理なるを、喰たの時でして。
円山公園も、当時、我が家から、車でなら、「いもぼう」と称するの、料理屋には、30分と掛からんの、精々15分かと。
イヤイヤ、「いもぼう」なるの、存在、小学生が知る筈は無くの、円山公園には、度々の行ってるですが。近在には、当家、我が家の墓地、東大谷祖廟がありまして。
この時、夜でしたです。
夜に出る事が珍しくもあったですが。
(12/06/27)
NO.217 桜散る散る、花吹雪の話(9) 祖母の話
「いもぼう」ねえ。
上のオジが云うた通りの、一生に一度、行けるか、行けんの料亭でして。
以降、行った事が無いです。そもそもが、「芋」が苦手もあるけれどや。
その時の我が心情、分かるです。
入った事も無いの、高級料亭。円山公園なら、承知してても、その端の方でして。フウンのこんな場所に、こんな処があるのかと。
座敷に入って、出て来るのは、皆、「芋」の、芋三昧。えらい事になりに蹴りかと。されどの、嫌いやしと、食べずに、パスも出来ずの、グと、愚の我慢で、必死に食したかと。
喰うに精一杯の、従兄弟も、オジ、オバも眼中に無し。
或いは、困ったなあ、困ったなあと。
早い事、切り上げて、帰りたいが正直でして。そもそもが、そんな堅っ苦しい場所、苦手やわと。
ソレ以前の、所謂の店屋物<外食>なるは、超の贅沢品でして。年に一度か、二度。うどん屋に、うどんの出前を頼むの程度かと。オッとの、客人があった場合の話やでと。家族だけのを、出前はあらへんわと。
要は、オバ婿殿と、何かした、行ったの思い出なるは、この程度でして。姿、形も毛頭での、もしかしたら、煙たい存在であったかなあと。
そして、この時の、オバの姿形なるは、僅かに、存在してまして。「タケオ、美味しいえ。」と、云われたよなの程度でして。
問題は、車中の状況も、その前後、見事なまでに、記憶から、欠落してるです。
そもそもが、私が柴田家を代表みたいな形で、一緒したですが。その場にさえ、オバ一家の存在が不明でして。
イヤ、行く、行かんの話なら、我が家の台所に背の低いテーブルがありまして。その場には、オジ達と、祖母の姿はあったですが。他が居てへんでねえ。あくまでもの、記憶の世界なれどです。
での、話を一転の、この、オバ婿殿の事は殆ど知らんです。
知らんですが、煙たいと思てたの理由なるは、事実のみ掲載の、車の珍しいの、この当時、軽自動車、自家用車を所有しの、運転もしてたです。
実家なるは、相応の資産家であると、聞いてるです。但し、どの程度かは皆目の、オバ一家が東京に引っ越して、間無しに、お爺さんが。このお爺さんが、何者かは、当時の私、小学6年生では、分からんですが。年齢的、親父様<オバ婿殿は長男では無いです>であったかと。コレ又、自家用車で来られたかと。
ででの、何をしに来られたかも、分からんですが。
少なくとも、我が承知の範囲、見たは、その一度だけの、多分なら、お孫さんなんやろねえ。私より、遙かに年上の娘さんが一緒でして。車は彼女が運転かと。女性で車の運転、当時希有でして。
只、覚えてるのは、お爺さんがタバコを吸おとするに、その娘さんが、やめときと、止めた事でして。ホナラの、お爺さん曰くに、おまえは、監視に来たのかと。
そんな次第の、状景、それだけが記憶にあっての、来られたの目的等々、知らんです。その娘さんは、美形で、お爺さんは、品が良く。
イヤ、只単純に思たは、小学生乍らの、この金持ち<名士>の処に、貧乏人の娘<オバの事>が、良くゾ、嫁に行けたなあと。
では、祖母の話を致すです。
祖母の話なら、時々は掲載もしてるですが。
先の大戦で、満州にての、二男が戦死してまして。戦死は、昭和20年8月9日、終戦直前の、ロシア軍の突然の攻撃に寄るですが。戦死の通知は、9年も経ってからでして。
<参考=「孫娘の話NO.5」NO.42 年末年始・雨嫁、晴孫娘(11) 何かのご縁の、お導きの、不可思議なる話(5)>
但し、お陰様で、遺族として、恩給を戴けたです。
但しの、但しで、戦死が証明されてからでして。つまりは、戦後、9年経ってからでして。
その祖母の出生なれどの、彦根の出と云うてたです。
口癖なるは、桜田門外の変の、大老、井伊直弼の、孫娘が、祖母の、祖母と同級生であったと。この同級生の範疇なるは、同じ歳の意では無く、習い事で一緒であったのニュアンスで聞いてるです。
では、祖母の親は何してたとなるですが。
医者であったと。
ならばの、全くの、出鱈目でも無いなあと。
更なる、何での、京都に出て来たかは、知らんですが。祖母は三姉妹の長女でして。三姉妹、共に京都に嫁いでまして。
一番下の妹は、万寿寺通りに住んでたですが。この大叔母の口癖なるは、私は恋愛結婚やと。されどの、主人がどんな人かは、知らんです。私が産まれた頃には、三姉妹の婿殿、他界でして。
ホナラの、我が祖母、真ん中の大叔母は、見合い結婚かと。
その下の大叔母の息子は木工業をしてたですが、家なら、歩いて行けるの場所なれどの、余りの、お付き合いはしてませんでして。イヤ、大叔母は、良く、我が家には来てたですが。
祖母はそんなには、行ってませんでして。云うたら、私と同年代に近いの子は居てませんでして。
真ん中の大叔母なるは、大徳寺の方に住んでたですが。長男<親父の従兄弟>は、所謂の建築業でして。1級建築士でして。その息子に、医療関係者が居てるですが。麻酔科医でして。
コレ又、この長男<親父の従兄弟>なるは、酒豪で、酒呑みでして。
この大叔母も、この親父の従兄弟も、ショッチュウ、我が家に来てたですが。変な話、我が家で、親子喧嘩、口喧嘩してたりと。大した喧嘩では無いですが。喧嘩の中身、発端なるは、はさっぱりなれどです。
大徳寺には、私よりも、年長の子どもが居てまして。それこその、良く、遊んでくれたしで、良く、行きもしたですが。
この親父の従兄弟は云うたら、自慢しいでして。行けば、我が家の家宝と申しまして。刀を出して、見せたりの。抜く故、怖いオッサンやなあと。
だけの話の、要は、武士の出と、云いたいだけの、その出生までは、話を聞かずの、さっぱりでして。
イヤイヤ、諸般、我が家だけが貧乏でねえ。
借家でねえ。
オッとの、祖父の代の、晩年は別としての、相応の資産を築いてたですて。持ち家で、借家も何軒も持ってたですて。
云うても、昔日での、私の知らんの話の、産まれるの前の、前でして。
(12/06/28)
NO.218 桜散る散る、花吹雪の話(10) 祖父の話
探せば、あると思うですが。
処分した覚えがありませんでして。
何かとなればの、祖母の娘時代の写真がでして。当たり前に、和服で、日本髪でして。
イヤ、美形でして。
よって、祖母の宝物なれどの、見せられてた頃、既に、祖母、梅干し婆。
悪いけれどの、そんな時代、娘時代の写真を見せられてもなあ。へえと、感心すれどの、想像するだに、難しく。写真のは、ホンマに祖母かと。
梅干しも、腰は曲がり、背中は曲がり。歯が無く。頬は痩けての、名実共の、梅干し婆。
イヤ、当時の婆様、何処様も一緒。我が祖母とは、丁度の、60歳の年齢差があるですが。ならばの、10歳の頃、70歳なれどの、当世の70歳とは全然の違うです。歯が無いだけでも、違うです。
にしては、良く動いてたです。交通事故で、足を骨折するまでは、お裁縫もしてまして。老眼鏡を掛けての事なれどの、針に糸を通すは、我が担当なれどです。
での、祖母の方は、そんな事で。
さての、母の方はどかとなればの、貧乏は貧乏なれどの、既に、母方両親、我が祖父母は居てませんですが。そもそもがの、幼くして、両親他界で、兄弟姉妹、苦労したと。まさしくの、兄弟姉妹の4人兄弟でして。
との話と、その父、近衛騎兵と云うてるです。
近衛騎兵ねえ。
要は階級は別途の、軍人でも、上等でして。ソは易々の成れませんでして。
そして、九州、熊本に一時、行った事もあったらしく。
ホナラの肝心の、我が祖父の方なれどの、祖母、親父、オジ達の話を総合するならです。
丹波篠山から、従兄弟と一緒に京都に出て来まして。従兄弟は何をしたか知らんですが。祖父は、染料屋を商いしたらしく。
そらまあ、京都は着倒れでして。着物を染めるに染料必須。
綾小路通リ大宮東入ル丸屋町に住みの、相当に羽振りが良かったらしく。要は大成功の、借家も何軒も持ちの、女中さんまで居たらしく。
この丸屋町は、産まれ育ったの地、仏光寺油小路と、そんなに離れてませんでして。且つは、同じの中学校区<郁文中学校>で、学生時代、祭礼のアルバイトで行った先、「天道神社」で、その界隈を練り歩いたですが。
<参考=「不可思議の世界NO.17」NO.191 超常現象は祝砲也<その3>(5)>
オッとの、での、その染料屋。
ドイツの染料までを扱いまして。
我が親父は長男故、ええ思いをしたらしく。親父付きの女中さんまで居たらしく。
されどの、知り合いより、保証人を頼まれまして。知り合いがどんな人かは、知りませんの、兎に角、私は影も形も無い時代の話でして。保証人に諾の、実印一発、その知り合いが、逃げてしもての、祖父の全財産、一切合切の没収ですて。
残ったのは、命と、ガラクタと、仏壇程度であった。とかとかと。
着の身着のままで、仏光寺、油小路の借家に引っ越したらしく。それがイツの事か、までは聞いてませんですが。
結果、親父以外の兄弟姉妹は、ええ思いは一切の無く。又、親父は甘やかされ過ぎまして。ボンボンのままに育ったらしく。元々が趣味で、電化製品を扱ってまして。その趣味のままに引っ越し先で、電気屋をと。
つまりは、他家で、修行せずの電気屋でして。修繕が主の、その時代でも、自転車にさえ、乗らずの、歩いての商売でして。
結果、そら、儲からんの、私なんか、小遣いも貰う事も無く。
当時、幼い頃、紙芝居があったですが。大体は、10円で、飴玉なんかを買いの、紙芝居を見せてもらうの方式なれどです。その10円が無いしで、紙芝居は見たいしで。家の者に頼み込みの、1円を手に、飴玉はいらんし、紙芝居だけ、見せて頂戴と。
イヤ、1円で、見せてくれたです。
そんな次第の斯くなるでの、とりあえずは、中学生時代から、夏休みには、近所で、アルバイトをしてたです。西洞院通りに、市場があってねえ。八百屋で、配達の用事を手伝おたりしてたですが。
高校生時代には、新京極の、えびす屋、土産物屋なれどの、通いまして。イヤ、店番でして。
一体、幾ら、戴けたのか、定かに覚えてえへんけれどや。土産物屋では、行けば、往復の電車賃、市電なれどの、回数券をくれまして。一夏で、500円やったかなあと。
イヤイヤ、別段にの、苦にはしてませんですの、自分のお小遣い銭稼ぎでして。
今思えば、中学生の配達なんか、対して役に立ってませんでして。但しの、配達先が近所やしで、住所さえ、苗字さえ、聞けば、自転車で、運べたですが。問題は、量が多いと、重いと、四苦八苦。
落としたら、大変でして。
高校生時代の店番なんか、モっと、役立たずかと。
万引きを見張ってくれてたらええでと。要は、注文を取って、客に引き渡すの役はやらんで宜しいと。そんなモンなあ。万引きなんか、見つけた事が無く。居てた期間、万引きがあったか、無かったかも、知りませんでして。
云うたら、居てただけの存在かと。
イヤ、そこ様は、郁文中学校区の、猪熊の、仏光寺が、本宅でして。夫婦に、子どもが居て無くて。可愛がってくれてただけでして。まあ、小父さん、既に、ええ歳でして。
オッとの、アルバイトなるは、土産物屋故、夜でして。多分なら、18時から、20時頃までの、2時間程度でして。帰りは、真っ直ぐに帰りやと。
そらなあ、新京極なるは、所謂の繁華街でして。ゲーム・センター等々、誘惑一杯の、ヤクザみたいなのも、居てまして。
よって、アルバイト代なるは、期日が終わってからの、本宅に戴きにでして。店では、先の通りの、市電の回数券を毎日、戴きまして。金は持たさんよにと、厳重でして。
当人、私自身にしたって、ゲーム・センターが如き、非生産的なモノにビタ一文使う気毛頭無しの、そんなために、アルバイトなんか、してへんわと。超の真面目の誘惑に駆られるは一切の無く。
文字通りの、脇目振らず、真っ直ぐ、土産物屋で、真っ直ぐに帰宅してたです。
イヤイヤ、ホンマやでの、ゲーム・センターに入って、遊ぶなんか、トンでもの、あれは金持ちのボンボンがやる事でして。一銭も持たずに行けるモンかと。
事実、ポケットには、精々の、回数券と、あっても、10円玉1個程度の、チンピラに、強請られたって、無い金出せへんわと。相手が違うわと。どっちにしたって、一直線の、チンピラに遭遇せず。
あんなモノは、繁華街にて、ウロウロしの、ゲーム・センターを覗いたりの、チャラチャラしの、恰好も派手の、モノ欲しソにしてるから、集られるです。
私め、派手も、チャラチャラも、着てるは、学生服一丁。オトトの、夏場なら、白のカッター・シャツ一丁。
当時の、高校生なんか、そんなモンやと。他に服を持ってませんでして。
(12/06/29)
NO.219 桜散る散る、花吹雪の話(11) 墓の話(1)
当時の我が家、異質でして。
貧乏は貧乏なれどの、正直には、そんなに貧乏とは思てなかったです。強いてなら、贅沢は出来ぬ程度かと。それなら、どこ様も、ソやけれど。単純には、贅沢の解釈、範疇が異なるかと。
ご馳走は喰てないですが。
さりとての、喰いモノ無く、ひもじいの思いした事も無く。かと云うて、おかずの無い時もあったですが、別段にと。バターがあれば、バター・ライス。バターが無ければ、梅干しだけでも充分でして。玉子でもあれば上等かと。
正月には、家族全員にての、お雑煮を祝い。ミカンもあったし、餅もあり。寒い時には、火鉢に火は欠かさず、夏には扇風機も回したしと。
おかずが云々も、突然にも、上のオジが帰って来たりしたら、たちまちにして、足らんわと。イヤ、下のオジは家に居たですが。私が高校生になるまではで。上のオジは出たり、入ったりの、入ったりの時。時々には、友達を連れて来たり。泊まったりもしてまして。
上のオジの友達、木戸さんと称するですが。親父に云わせたら、香具師、詐欺師ですて。金を借りては、返さんかったりした故でして。私からしたら、悪い人には見えなんだですが。借りたモノは返さんとナと。
木戸さんも、苗字を知ってただけで、オジとの関係も、どこに住んでたかも知りませんでして。最後に見たは、高校生時分やったかなあ。四条、烏丸辺りを歩いてましたら、血相かいて、走る人有り、フと見たら、木戸さんで、「嗚呼、木戸さんや。」
声に振り向き、頭を下げての、そのまま、人混みに消えて以来、見てませんでして。
での、異質の話なれどの、電話が珍しい時代に、電話があったです。気が付けば、あったです。壁に掛けるの方式のがありまして。
又、気が付けば、所謂の卓上式黒電話に替わってたですが。
電話 | |
壁掛け式 | |
卓上式 | |
蓄音機 | |
<注>写真は例示です |
理由なるは、商売してるからと、聞いてたです。されどの、殆ど、鳴る事の無い、電話でして。
オッとの、飾りで無いの本物での、故障でも無いです。
先の通りの、電話が珍しい時代やでと。当世の如く、隣にでさえ、電話するの時代に非ずの、少々の距離なら、歩け、歩け。行け、行けの時代でして。電話代が勿体ないわの、隣に電話なんか、トンでもの、何を考えてるの時代でして。
多分なら、祖父の代で買おたモノを、持ってかれるまでに、持ち出したかと。
そんな意味なら、ガラクタとして、蓄音機の、ラッパ部分だけがあったりと。折角なら、本体部分も一緒なら、値打ちやのにと。
イヤイヤ、二階の物置。とするのか、中二階の一室、片脇には、ガラクタが一杯、置いてあったですが。馬であったか、比較的大きめの、土粘土の置物があったり。まともなら結構の、欠けだらけ。その他、「ラジオ技術」であったかの、雑誌が、シミだらけ、破れカブレで、押し込んであったかなあと。
その他、諸々の、要は、何が何やら、分からんの、ガラクタでして。
大切なモノをそんな場所に押し込んでえへんやろと。
での、上のオジはいつも云うてたです。勿体ない話やなあと。私も、同感でして。
オッとの、そんな中でも、先の通りの、オジ二人が同居でして。
所謂の飯代(はんだい)を出してるの様子は無く。自分達の事は自分達でと。よって、私自身も、自分の事は自分でと。お小遣いが欲しいなら、自分で稼げと相成ってまして。欲しい分だけ、アルバイトをしただけでして。
それを云われたのでもありませんでして。そんなモンと、思てたですが。
特には、上のオジは親父をぼろくそに云うてたですが。兄貴のクセにと。私も同感やったですが。イヤ、自分は結構の、諸般、兄として、オジ達に、出来る事はしてあげて欲しいなあと。してあげるが、何をと云うのでも無いですが。
今思えば、オジ二人を、喰わせるだけでも、大変やったんやと。
別段にの、特別に何かをしたのでも無いですが。邪魔にしてたのでも無く。そこには、祖母も居たですが。ちゃんとオジ達の寝床もありまして。但し、くれぐれもの、上のオジが結婚したり、私が高校生になるまでの、下のオジが同居してた頃までの話なれどです。
ではあっても、長男は辛いなあと。どこの長男も、弟達からは、ぼろくそでして。そでないの兄弟もあるですが。
万事、長男たるの事をば、やって、やれて、当たり前。やらんと、ぼろくそでして。ぼろくそに云われて、グと、愚の我慢の、云われてるの事にも、一理はあっての、愚痴をこぼすの処、先がありませんでして。結果、私にチラと、愚痴をこぼされたりで。単純に、同じの長男故かと。
での、一枚の写真を見たですが。
ここでは紹介致しませんですが。どこに行ったか失念での、祖母のと一緒で、処分はしてませぬ故、我が家のどこかにあるですが。
丸屋町の家に居た当時かなあ。年齢的、ええ歳になってる故に、こっちの、喜吉荒神町に来てからかなあの、和装で、首から、皮ケースに入ったカメラを首からぶら下げての写真がありまして。
話簡単の、誇らしい表情にて、カメラを持った姿を、別のカメラで撮してもろてるの、親父らしい写真でして。
話を若干戻しまして。
祖父の話。
イヤ、殆ど、聞いてませんでして。
祖母から、一番に聞いてたは、墓に、その従兄弟であったか、親友かの、丹波篠山から、一緒に出て来た人。同郷でありの、極めて、仲が良く。
それは結構なれどの、死んだら、一緒に墓に入ろなとなってたらしく。祖父が建てた墓に、その人が一緒になってたですて。
正直、よお分からの話でして。
理由は簡単の、その人にも、家族が居られる筈でして。事実、その昔、祖母と一緒に墓参の際、時々はあったです。新しい、樒(しきみ)がです。その都度、祖母が、この問題は、自分が生きてる内に、ちゃんとしとくしと。
意味なるは、しかるべくの、跡継ぎの、長男の私が引き継ぐまでに。祖母の存命中には、責任持って、処理しとくの意でして。
イヤ、苗字は聞いて知ってるですが。苗字だけでの、名も、住所も一切の知りませんでして。聞かされてませんでして。
云えば、実印一発、全資産没収の張本人の件なるは、苗字さえ、聞いてませんでして。
只々、祖母に云われてたは、相手が誰であれの、断じて、実印押してはならぬと、だけでして。
或る意味、立派とするのか、確かに、下手に教えてもと。過ぎたるの話の、私が知っても、どもしよがなく。意味無く、覆水盆に戻らず。
オッとの、墓の件、「桜散る散る、花吹雪の話」の、オバに関連してるです。
(12/06/30)
NO.220 桜散る散る、花吹雪の話(12) 墓の話(2)
ホントにねえ。
幾ら、親しく、従兄弟か、親友か。戦友であってもです。
仲が良く、同じ墓に入るの約束はせぬ方がと。約束なら、墓石を隣同士程度になら、宜しいですが。
そらねえ、当事者は、重々承知の間柄であっても、その子、その又、子、孫、曾孫と、代々続くに、厄介になるです。
既に、その子の代から、知らんの人が墓に入ってるになりまして。
下手して、勘違いの、そちら様の家族、子々孫々が、入られてみい。厄介も、度が過ぎての、訴訟問題になるの可能性もありまして。
イヤ、心配無用の、証書<借地権>は当家にあるです。管理費も、当家に通知がありの、負担してましての、名実共の、「柴田家」の墓地なれどです。疑義あらば、東大谷祖廟寺務所で調べれば、即の判明致すです。
祖母が非常に気にもし、私も同様に変やなあと。
祖母が、オジ達に、墓参りをしたかと、尋ねたりしてたです。してる事もあったり、してへん事もで、してへん時には、先様が墓参してたになるですが。祖母が処理しておくと申しの、さての、イツ頃になったか。
申してたは、私が、高校生時分であったかで。
これが、不思議、摩訶不思議、不可思議の、祖母が、他界の直前かと。正確なるは、分からんですが。時期を同じくの、祖父の知り合いの家族の墓参は無くなったです。
そらなあ、云われて、即の対応無理かと。
その気なら、遺骨だけでも取り出しまして。しかるべくの、寺にでも預けるとか、自宅に保管も理屈的には出来るですが。実は、紛らわしく無いよに、即刻にも、ソするべきなれどです。
紛らわしくとは、新たな遺骨、骨壺が入って来てみい。多少なりともの、場所が変われば、分からんよになるです。
当家としたって、そんな事は好まんですが。こればっかりは、意のままに成らずで、現に、肝心の、祖母が他界したです。
他界の当時、余所様が云々、紛らわしい等々、微塵も考えてませんですが。
まあなあ。先様の家族も、気にされてたの可能性がと。遺言により、入れたはええけれどと。日が経ち、年月が経つに連れ、気にしたはったかと。
での、その墓石。
祖父の代で、建墓したかとなれば、にしては、古くてねえ。「柴田家」と刻んであるの箇所も欠けて来てまして。
この辺り、誰にも聞いてませんでして。この辺りとは、祖父が建墓したのか。先祖代々の墓石を祖母がこっちに移動させたのかと。
イヤ、変な話、こんな事に気が付いたも、最近でして。理由なるは、墓石をほったらかしの、ン年、ン十年に非ずの、ソラ、月参りを出来ぬ月があったにしたって、年に数回は必ずの墓参で、掃除もしてまして。
既に、旧の墓石は、魂抜きして、処置してもろてるですが。どんな墓石かは、記憶してまして。
そらまあ、正直には、御影石ではあっても、左程に上等でも無いですが。
イヤイヤ、実は、昭和59年<1984年>に、新調してまして。理由は先の通りの、あっちが欠け、こっちが欠けと、見栄え宜しく無く。又、当時、周辺の墓石も、新しいのに、新調するの動きがありまして。
要は、背が高く、上等の石で、新調され出してまして。周辺、ソレで、迫られて来てみい。一段、低いと、一寸なあと。
鋭意決断の新調するにしたですが。
只なあ、思うに、祖父亀吉、昭和20年5月23日68歳で他界でして。仮に祖父の代にとしたら、30年、40年で、ボロボロとまでは申さんの、欠け、汚れるかと。古びるかと。少なくとも、私が気が付いた頃には、古い感じの墓石でして。年季が入ってまして。
されどの、そんな話、聞いた事も無く。誰が建てたかの話をでして。
この件、聞くなら、聞けるなら、知ってるかは、分からんの、下のオジだけでして。まあ、覚えてたら、後刻、会うの機会があれば、尋ねてみよかの範疇なれどです。
ホンマになあ、この手の話。先祖の話。
今なら、諸般、聞くですが。質問、疑問、興味も多々あれどの、当時、祖母存命の際には、祖母からするの話を聞いてるだけでしての、結局は、これ以上の詳細不明でして。
但し、現在の墓に入ってるのは、過去帳に寄れば、祖父の代からでして。祖父の代とは、祖父が最初とは、限ってませんでして。親父の妹<福子>が幼くして他界<6歳>の、それが最初かと。そして、二番手、祖父の母親<うみ・69歳>も入ってまして。不思議な事に、父親が入ってませんでして。
この二人、他界は、大正時代でして。
我がオジ、昭和の産まれでして。微妙やなあと。
(12/07/03)