シバケンの単なる雑談NO.263


NO.261 NO.262
NO.256 NO.257 NO.258 NO.259 NO.260

NO.260

NO.50 NO.100 NO.150 NO.200 NO.250

題目一覧表

目次

雑談NO.264

NO.2900 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(10) 本家の話(2)

NO.2899 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(9) 本家の話(1)

NO.2898 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(8) 叔父の棺のソバでの話(2)

NO.2897 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(7) 叔父の棺のソバでの話

NO.2896 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(6) 諸般、自覚してるの話

NO.2895 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(5) 人相が全然の違うの話

NO.2894 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(4) 葬儀会館に到着の話

NO.2893 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(3) 喪主たる大変の話

NO.2892 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(2) 葬儀詳細の話

NO.2891 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(1) 早朝の従兄妹からの電話の話

雑談NO.262


NO.2891 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(1) 早朝の従兄妹からの電話の話

<参考=「単なる雑談NO.262」NO.2889 単なるの雑談<下の叔父が入院等々の話

本日<2月2日・日>、朝5時半頃、当家、電話がりんりんと。
ンの何用かの、時刻が時刻故、又、過日、とは、言えどの、1月31日<金>の上の叔父の娘、従兄妹からの話。下の叔父が入院したと。
聞いてるが故、大方の予想はしたですが。
ンンの、もしかして、もしかしたらと。

いやね。
電話は、嫁はんが取りまして。
その話の内容より、矢っ張りかと。
いやね。
嫁はんの返答、そんなに早く。との、話声聞こえてね。

イヤイヤ、当方なら、早速にも、本日、叔父の入院先、男山病院に、見舞いに行くの積もりしてたです。
そらねえ、従兄妹の話では、顔色良かったしと。但し、入れ歯外してるが故、フガフガの、何言うてるか、わからんでねえと。
へえの、叔父が、入れ歯であるは、知らなんだですが。何分の、最早の、90歳で、さもありなんと。

とするのか、昔の人は、大方が、入れ歯してるです。
それこその、我が祖母、親父、母と、全部、亡くなってもたですが。フガフガでして。
当方なら、被せてるのが、1本あるのみ。
これは、若い頃の甘党が過ぎての虫歯。

余計なるの話の、根治水を買い求めに、会社、ローム<西大路五条>の近くと、するのか、西院<西大路四条>の方の薬局、平たくには、薬屋に行ったら、そこの小母さん申すに、根治水では、歯の痛いは、収まるけれどの、虫歯は治らへんえと。
助言されの、そらそやなあと。至って、素直に、ありがたくの、その通りに、コレ又、西大路通りの、五条よりも、上、北の方にあるの、歯医者に駆け込んだならばの、即の、歯を削られて。
神経抜かれの、被せられの、現在に至るです。

かと、申しの、現時点、まあね、甘党は替わらんけれどの、歯の磨きは、励行してるです。
結果、その1本のみ、被せで、他は、大丈夫の、この数年、10年は経つかの、ならばの、歯科衛生士に寄るの、歯の掃除をやって戴いてまして。
その都度の歯の検査では、異常無くの、至って、健康、優良なるの歯ですと。

オッとの、当家、柴田家のが、歯磨きをば、ええ加減にやってるかと、なればの、そこまでは、感知せず。
但し、結果的、皆入れ歯で、フガフガでして。
まあな、母は入れ歯とするよりは、差し歯と、ブリッジ。されどの、後年には、それが、外れたり、ブリッジが壊れて来たり。原因、他の歯がガタガタに成って来てるが為。

イヤ、何度か、歯医者に連れてってるですが。下手に弄くれば、更にガタガタに成る故、触らん方がと。触るなら、大病院と、するのか、総合病院で、した方がと。
要は、町医者の設備では、限度有りと、匙投げられたです。
そらね、実は、肝心の、歯の土台、顎の骨が、退化してるですて。一本の歯を触れば、次々と、他の歯が抜けてしもての、大惨事になるの可能性がと。

とするのか、実は、そもそもがの、1本の歯が脱落すれば、その隣の健康な歯が、支え失い、グラ付き出して。それが、グラ付き出したら、又、その隣のが、グラ付き出しての、順々に、抜け落ちるの運命がと。
それを、差し歯なり、ブリッジで、補正されてるですが。所詮は、補正故、長くは保たずで、現状があると。
当方、歯医者の説明、解説聞いて、ンの、そかの、成る程なあと。大いに納得したです。
それもありで、当方、元々が歯は健康故、保持をと、現時点では、諸般、年齢の割には、しっかりした歯ですと。

オッとの、そんな事で、早朝の従兄妹からの一報あって。
電話を替わって、詳細聞いたです。
2月2日、5時1分と。
嗚呼の、今日、男山病院に、見舞いに行くの積もりしてたんやと。従兄妹も、こんなに早くとは、夢にもでの、但し、諸般、事情あって。
とするのか、その長男<従兄弟>の、娘が、旅行中でと。帰るまで、待ってやらんとと、成ってると。

この待つが、イツまでかは、その時には、不明の、喪主に成るの従兄弟からは、斎場、葬儀は、樟葉公益社樟葉会館でと、言うてたと。へえの、さよかと。
尚、再度の、現時点、そこまでの話で、実際に、そこでするのか、又、日も、時刻も、不明也と。
そんな事で、まづは、ここまでの話をと。
へえの、ありがとうと。

いやね。
当たり前に、その時点より、寝られんでねえ。寝てられんでねえ。寝床には、入ってるですが。冴えて、冴えての、冴えまくりの、そか、行ったもたかと。
そらねえ、従兄妹曰くに、最早の、90歳。
客観的には、イツこんな事に成っても、不思議で無いの歳やしと。只、金曜日に、見舞いに行った時の様子からは、とても、とてものと。

そか、下の叔父も、90歳ねえ。
考えたら、当方も、後2年したら、後期高齢者。自分のみ、歳喰て、他は、現状のままは、有り得ず。
とは、理屈、わかってても、へえと、感心するですが。

いやね。
当世、世間に、そは、ありませんの、当家の状況あって。
中身なるは、何度か、申してるの、上のも、下のも、叔父とは、長くの一緒と、するのか、同居してたです。狭い我が家にね。
そらね、当方、小さな頃には、家の、狭い、広いなんか、全くの考えず。
兎に角、家族が多いと、ダケで、楽しい我が家であったです。叔父達なら、良く遊んで呉れて、相手して呉れて。上のも、下のも。

それが、中学生頃になって、上の叔父が出て行ってもてね。イヤ、結婚したが故で。
正直、申しの、叔父を取られたの気分。
イヤイヤ、事実也でして。そら、突然に、余所の家と、するのか、当時は、アパートなれどの、出て行ってもてね。

次ぎ、当家、2階の間に居たの、下の叔父。元々が、祖母と、2人の叔父は、2階の間でしたですが。一応は、3部屋。内の1部屋使えずなれど。物置場と、化しててね。
本日、亡くなったの、叔父なれどの、当方、大学に在学の、2回生の頃哉と。結婚するに成っての、へえと。
そらねえ、お目出度いの話、なれどの、当方的、又、家族が取られるのかと。
取られるは、盗られるに等しくて。イヤ、それ以上の感覚。

まあねえ。
結婚式は、どこの式場でかは、忘れたですが。当方なら、学生服で、参列。
当然の、学生故、それが、正装。とは、認識してるです。
この結婚式の、式場こそ、どこであったか、忘れたですが。その様子なら、現在唯今、一部始終、鮮明に覚えてるです。

まあな。
その辺りなるは、追々にの、もしかしたらの、もしかせずともの、過日、触れてるです。
触れておろが、触れてまいが、又、話をしたくの、追々にと。

いやね。
訃報聞いて、まず、思たは、しもた、なあと。
常々、叔父に会えば、聞きたいの事、沢山あるです。所謂の、「柴田家」の事を。
そもそもが、我が祖父は、どこ出身かと。冗談半分の、丹波篠山の話、聞いてるですが。それ、本当怪と。
過去帳では、その母親は、記載されてるですが、その親父様があらへんでして。どしたと。
まあな、祖母より、薄々なら、聞いてたよな、夢の中の、空想で、そと、思てるよなの、突然に、家出て、帰って来ずと。

いやね。
家出か、何か、事故<じこ>、事件にでも、巻き込まれたの哉と。
昔の事<こと>故、その辺り、あちこちで、頻繁にあった話と、聞いても居てね。

更には、当家墓石の事。
現在のは、当方が新調してるですが。昭和59年<1984年>に。
何故に新調したかと、なればの、以前のが、欠けて来て。
とするのと、祖父が建墓したと、なればの、石の状況からは、古過ぎて。

そらねえ。
祖父亡くなったは、昭和20年<1945年>に、69歳で。
当方、22年に産まれてまして。少なくともの、物心付いた時には、当方的印象、古い墓。
祖父が、亡くなるの、69歳の時、建墓したと、しても、古過ぎるに、見えて。

オッとの、可能性として、曾祖母、要は、祖父の母親が亡くなったを期してと、したならばの、大正11年<1922年>。
大正の話なら、概ねの、60年経つが故、妥当哉と。
ンの、当家には、叔母が、6歳<大正9年>に亡くなってるですが。それでも、2年の差。
兎に角、過去帳からは、最も古いので、6歳で亡くなってるの叔母に相成るです。
オッとの、下の叔父に尋ねてみたかったは、新調以前の墓石は、誰が建墓したの怪と。

そして、旧の墓には、祖父の親友が、一緒に入ってたの話有りの。
これは、祖母が、自身亡くなるまでには、決着付けたいと。意味なるは、祖父、祖母の代は、構わんにしても、将来的、当方の代になればの、知らぬのが、当家、墓に入ってるになてもてね。
諸般、平たくには、出てって欲しいと、何度も、何度も、祖母より、聞いてたです。
そして、事実、祖母亡くなるの、何年か前には、当家の墓参以外に、墓参したの形跡見つからんよに、成ったです。

イヤ、時々には、先刻の、従兄妹が、墓参して呉れたり、してまして。
諸般、会うの機会あれば、墓参ありがとうと。
モあるし、当方、小学生頃であったかには、当家墓地で、バタリの、遭遇したり。
オッとの、当然の、祖母と、一緒に行っての話で、あの方やと。故人の親族也と、祖母から、聞いたです。言うたって、顔なんか、全くの記憶無く。お住まいがどこかも、知らず。

イヤイヤ、その方は祖父の親友とは、聞いてるですが。祖母より。
何故に、一緒の墓にと、なればの、一緒に苦労した、幼馴染み故と。
ンの、その幼馴染み、とは、どこ出身のかと。当然の、同郷と、思うですが。
これが、又、別途の誰かの、話を聞いたの、記憶ならばの、本籍地の、京都市下京区綾小路通り大宮東入るの、丸屋町と。
要は、何が正解怪と。

実は、丁度、良い機会故、本日、見舞いに行って、尋ねるに決意してたですが。
永遠の謎になってもたなあと。
イヤ、祖父母の子が以て、皆他界故。
(20/02/03)


NO.2892 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(2) 葬儀詳細の話

さての。
左足裏の魚の目の件。
なるは、一昨日<2月1日・土>の、風呂上がりで、様子見たら、ンの剥がすなら、剥がれそやなあと。
まあね。
強引になら、剥がせるは、剥がせると、思てたですが。安全見て、直径5mm程の半分だけは、既に、剥がれてましての、ハサミで、切ったです。

残り半分なるは、そのままにして、バンド・エイドで、保護。
での、何日経ったかの、一昨日、残余の、剥がれかけの、皮膚の下には、赤みが少なくなって、来てまして。ボチボチの、頃合い哉と、おそる、おそるに剥がしに掛かれば、剥がれてもてね。

まあね。
赤みが残ってるが故、コレ又、安全見て、保護のため、バンド・エイドを貼ったですが。
そらねえ、足裏でして。靴下は履いてるですが、歩けば、歩く程に、圧力掛かるし、擦れも、するやろと。
それも、昨日、辞めたです。イヤ、バンド・エイドでの、保護を。

結果、本日、午前中は、少々の違和感あったですが、時間の経過と共に、緩和されて。
オッとの、現在唯今、少々、ヒリヒリ感あるですが。
まあな、こんなモンやろと。
尚、魚の目のあったの辺り、要は、芯の箇所なれどの、少々へこみの、そこのみ、赤み帯びてるです。
かつは、剥がした周囲には、皮膚が盛り上がってるですが。大した事、あらへんわと。

オッとの、本日<2月3日>は、節分故、恵方の、「西南西」に向かいの、恵方巻き喰たです。
喰い終われば、豆をと。
イヤ、当家、毎年、節分行事、励行してるです。
まあね、恵方巻きを喰うは、近世のでっち上げ説あるですが。まあ、ええかと。


オッとの、そんな次第の、斯くなるでの。
下の叔父の件。
話、ややこしいけれどの、上の叔父は、遠の昔に亡くなってるですが。その娘、当方の、従兄妹に当たるですが。この子が、諸般、逐一の、情報入れて呉れて。

イヤ、第一報、2日の朝一番、5時半に。電話で、亡くなったと。時刻は、5時1分と。
その日、実は、男山病院に、見舞いに行くの積もりであったですが。当然の中止で、葬儀も、今日の、明日のか、とりあえず、第二報を待たねば、なと。
とするよりは、葬儀に参列の準備と、するのか、カッター・シャツとか、下着とか。礼服は、大丈夫か、等々の、点検致し。嫁はんが。
結果、一部、調達にと、買い物に出掛けたです。

オッとの、当然の、叔父の親族。とは、当家、柴田家の面々。
言うたって、従兄妹は、状況知ってるが故、我が妹と、千葉の従兄弟、三兄弟の長男に、その旨、連絡してるですが。葬儀の日程等々、後刻知らせると。
要は、叔父が亡くなったの第一報のみ、伝えてるです。
何時頃か、朝の、二番に。とは、言うても、そんなに遅くは無く。8時頃哉と。
そらねえ、訃報故、知らせを、ゆっくりも、してられず。
そらねえ、従兄妹にしたって、5時半に、いち早くの、伝えて呉れてまして。

での、諸般、出掛けてたの間に、従兄妹より、第二報の連絡して呉れてたですが。ケータイに。
当方、気が付かんでねえ。家に戻った辺りで、上手い具合に、固定電話に掛かって来たです。
内容なるは、葬儀の、詳細。
通夜2月5日<水>19時から。告別式、6日の12時半からですと。
斎場なるは、樟葉公益社樟葉会館ですて。フウンの、実は、5時半の電話の時、樟葉の公益社で、やるみたいえ。とは、聞いたが故、Web地図にて、場所をば、探索したです。嗚呼、ここかと。

場所なるは、男山病院の近くでね。
京阪樟葉駅から、徒歩5分ですて。
元々が、病院の方に、見舞いに行くの積もりしてたが故、どこを、どんな具合にと、予めの、調べてたが故、そこから、更にと。

要は、国道1号線の、洞ヶ峠<ほらがとうげ>の信号をば、右にで、真っ直ぐで、左手前方に、男山病院を見て、その左に曲がって、真っ直ぐ行けば、そこに成るです。
更に、真っ直ぐで、京阪樟葉駅。
の件をば、早速にも、我が妹と、千葉の従兄弟に連絡致し。

どちにしろ、間があるなあと。
これも、朝5時半の、従兄妹からの第一報で、概ねの話は聞いてたです。
下の叔父家の息子<我が従兄弟>の、娘が旅行でと。帰って来るまで、待っててやらんとと。そら、そやなあと。
それが、イツ帰って来るのか、今日の、明日かも、且つは、国外、国内も、その段階では、わからんでねえ。

にしてもの、娘さんが、旅行ねえ。今、何歳哉と。修学旅行哉の、そんな歳やったか、なあと。
イヤ、実は、1度しか、見てませんです。叔父嫁の亡くなったの時。
従兄弟の子は、男の子と、女の子が居てての、嗚呼、ええ塩梅や、なあと。結構やねえと、思い乍らにね。
但し、小さかったなあと。小さいからと、歳の事までは、全くの考えず。
そらね、叔父嫁、要は、叔母が亡くなったの件で、行ってるが故で。

その時には、男山病院の、病室に行ってたです。そして、移動の様子も見てまして。且つは、葬儀会館まで、行ったの哉と。
これは、叔父より、直接に、今、亡くなったの報受けて。
まあ、昼間でねえ。多分。
それまでにも、見舞いで、行ってたですが。意識無く、呼吸器付けて、ベッドに横たわってるだけでして。
イヤ、叔父からは、そんなに長くは無いと、聞いてたです。

いやね。
叔母の場合、偶々の、当方夫婦で、墓参を終えての、円山公園を、一寸、散策をと、してるの真っ最中に、叔父からの連絡受けて。ケータイに。
この時には、マダと、するも、変なれどの、まだで、葬儀の件と、お寺さんの相談であったです。
されどの、我が家に戻った時、又、電話で、いよいよやと、聞いて、即の、行くになったの哉と。
詳細なるは、当時の、掲載文をば、再読せねば、わからんですが。結果的には、臨終に間に合わず。

この日には、母方叔母婿の、訃報も、受理。要は、葬儀が2つ重なってもてね。
梯子したです。
悪いけど、当方、柴田故、叔母婿のは、顔出したですが、即の、お暇致し。その旨、そこの、連絡呉れたの、従兄妹には、予めの伝えてるです。


での、そらね。
叔父にとって、柴田家で、一番に、親しいと、するのか、親しいで、結構の、親密なるは、当方。

諸般の、葬儀の内容についての、斎場担当者との、打ち合わせにも、当方、呼ばれて、一緒に考えたですが。
オッとの、亡くなったの、その当日の、斎場での事。
まあなあ、相談出来るの相手、当方でして。ソラな、葬儀出してるの、経験者。

言うたって、親父の、でして。その時には。
それも、既に、十数年経ってたですが。
要は、何でも、タケやん、タケちゃんと、相談等々、頼り無いの当方に。
偶に行けば、熱烈の歓迎して呉れて、時間忘れてもてね。
叔母の墓、出来たの時も、多分なら、一番に呼んで呉れたの哉と。

そらねえ。
言うたら、上の叔父は、遠の昔の、我が親父の直後に亡くなってもてね。
叔父の姉なら、兄弟の中では、一番に。
まあね、一番の最初は、違うですが。6歳で、大正9年<1920年>に亡くなったの、姉福子。二番手、祖母、うみが、大正11年<1922年>、70歳。
されどの、叔父は、昭和の生まれ故、その二人の事、知らんになるですが。

三番手、昭和20年<1945年>の父亀吉が69歳。
四番手、満州にて、戦死の、次男<叔父の兄>の政治郎が27歳で。
<注=続柄等は、叔父基準>

結果的、上の叔父が亡くなって以来、この叔父にとっては、親も、兄弟姉妹も、居ておらずの、自身1人だけに成ってたです。
結果の結果、まあね、我が母であるの、兄嫁も、上の叔父の嫁も、居てたですが。我が母なら、2015年まで。
されどの、兄嫁達、血縁で無く。

変な話の、血縁者は、当方のみ。
では、無いけれどや。
我が妹、東京さ方面の、姉<当方の叔母>の息子共3人も、居てるですが。そらな、地理的遠いわと。
イヤイヤ、東京さ方面の、従兄弟達なら、その叔父宅に、時折なら、行って、泊まってたです。
と、聞いてるです。
そらな。
叔父故、頼り易く。又、心優しいの、叔父でして。

オッとの、それで、何の話をしたかったの哉と。
オトトの、諸般、従兄妹からの電話の中身、第二報なるは、それで、終わったけれどの、再度の、夜に電話があって。
諸般の、諸般で、香典お断りと、喪主が、言うてたよと。但し、お花は頼むと。
での、どするですかと。

ンの、諸般、お花の件なるは、唯今、柴田の親族4軒故、それは、連名で、出すにしてと。
但し、香典お断りは、当世流行ってるですが。親族のは、断るの事、あらへんのになあと。されどの、コレ、喪主の方針故での、尊重せねばの。
とかとか、当方見解披露で、細々詳細割愛の、このよにしたら、どかと。了解故、他の方々にも、宜しくと。ンの承知と。
要は、喪主たる、香典反し云々あって。
そんな事、気にすな、いらんの程度の話。

ほんま、やでと。
最早の、3年前に成るの、母方従兄弟の葬儀の時にも、香典お断りと。
そらな、こちは、出費少なくて済むの反面、諸般、飲み物、喰い物、出されてみい。有り体に申せば、コレ、全て金掛かってるです。
申し訳無いの気持ちで、一杯になてもてね。飲みの、喰いの、してられへんわと。
オッとの、その時の、飲みは、コーヒーなれど。火葬場での事<こと>故。

ででの、その日の何時頃やろか、ねえ。
その喪主たるの、従兄弟から、ケータイに電話があったです。
イヤ、諸般の相談と、日があるからと、来てもろても、相手出来ずの、叔父の亡骸は、当日までは、転々としての。
されどの、こちが、する事、何も無いのと、喪主は、3日<月>、4日<火>は、出勤するしと。へえの、そかと。

いやね。
諸般の手続きなるは、斎場の担当者がやて呉れるですて。へえと。
むしろの、こちは、動いて呉れるなと、言われててと。フウンと。
実は、それも、セットになってるのらしく。
(20/02/04)


NO.2893 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(3) 喪主たる大変の話

いやねえ。
喪主たる、大変やねえ。
当方も、2度経験してるですが。
まあねえ、2度なら、至って、順調、妥当、幸い也、とも言えて。
当然の、この歳で、ならの話。余りに、若くしての、2度もの経験、不幸なる事でして。

従兄弟は、少々、若いになるですが。
母親の方が、早いなあと。
叔父も、嫁はんの葬儀を出すになったは、辛かったやろと。

まあねえ。
親父が先で、母親生存なら、多くの場合、長男なりが、喪主代行勤めたり、してるですが。代行でなく、名実共の、喪主かも、なれど。
まあね、叔母の時には、喪主は、叔父なれどの、挨拶なるは、息子であるの、従兄弟がしたです。

イヤイヤ、正直、立派で、感動の挨拶でしたです。
変な話の、当方、こんなに、上手と、表現も、異の、チャンと出来るやろかと、ある意味、手本的、見本的、教本的、参考になったです。
イヤ、ほんと。
涙して、鼻水垂らしてね。実感と、するのか、感情表に出して。思わずの、こちも、涙したです。泣かされたです。

ンの、母の時、当方、どであったかと、なればの、彼のを手本、見本、教本と、申したですが。
簡単に申せば、一応の、挨拶文言なるは、錬って、錬って、検討したです。葬儀担当者からは、予めの文面作成でと、その手、用紙呉れたですが。
そもそもがの、書いてるの時間なんか、あらへんわと。まあね、時間なら、あるけれどの、書くの気持ちに成らず。

いやね。
当方、根が正直過ぎて。
感情が、どしても、顔、表面、表情に出てしまうです。
重々の承知で、挨拶の文言、言葉、考えてるの時にさえ、ウと成り、言葉に詰まってもてね。イヤ、声には出してませんですが。文言なるは、頭の中で、構築してるダケでして。

それでも、嗚呼、こんな事、口にしたら、声詰まりの、話出来んよになるぞと。且つは、当然の、涙してしまうぞと。どしょかと。
結果的、涙出すを、警戒せずで、我慢せずで、宜しいと。覚悟決めての挨拶でしたです。
よて、その場面では、声詰まりの、涙出しそになったは、なったですが。再度の、構わんわと。遠慮すなと、開き直れてたです。

まあねえ。
ええ格好なんか、するの必要性あらへんでして。
そのままで、結構也と。
葬儀で、喪主が、親の話を淡々、冷静に出来たら、反って、変やろと。
とするのと、我々なんか、常平生、その手、挨拶なんか、してませんでして。誰しも、この手、度々の、する事で無く。
要は、言うべきは、これこれと。

いやね。
お陰様で、参列者より、涙するの声聞こえたり。
聞こえたら、聞こえたで、こちも、感情高ぶってもてね。往生したですが。
更には、諸般、受付をして戴いたの我が組の方々に、御礼申しに、訪問したですが。夫婦で。
その時、誰様の奥様出て来られて、曰くに、挨拶で、感動したと。へえの、サヨですかと。嬉しかったです。

いやね。
感動させるがための、挨拶では無いけれどや。
主たる目的、中身なるは、母の日常的なるの、経緯の、転けて、転けての、転けては、その都度、杖一本が、二本に。
そして、歩行器になって。遂には、車椅子になてもてと。

衰えて行くが、そのままでして。
そらねえ、外出で、シルバー・カーでは、自力で歩けてるに成るです。結構、早足で、歩いてたです。
されどの、流石に、杖と成りの、それも、一本なら、まだしもの、二本に成れば、歩くに容易くは無いです。ましてやの、歩行器ねえ。
これでは、屋外なるは、そは、遠くに、出られんわと。
それでも、屋内でなら、自力で、移動出来てるですが。

それが、車椅子では、なと。
これでは、屋外では、移動出来ても、我々の、只の木造、狭いの、一般家屋では、無理あるです。
介助者が、一緒してやらんと、なと。

オッとの、叔父の晩年、直近の事、知らんでねえ。
知ってるの範囲、団地の、2階でありの、その階段を、自力で、登り下りしてて、ねえ。
大したモンと。されどの、心配で、心配で。階段で、転けてみい。
只では、済まず。

オトトの、親父の時、葬儀では、どであった、かと、なればの、当方、左足骨折入院中でして。
イヤ、当然の外泊で、家に居ての、喪主なれど。
挨拶なるは、ギブスで、松葉杖故、葬儀屋が代行して呉れたです。

これは、当家で葬儀したですが。
そのお当時には、家でするが、当たり前でして。以降、葬儀会館に成ってるですが。
弔問客えの、返礼、単なるの、お辞儀の事なれどの、椅子に座って、してたです。
よて、挨拶なるは、母の時のみ。


いやね。
喪主たる、大変やねえの件。
なるは、そんな話、するの積もりで無くて。
諸般の何ちゅうかの、確認、相談等々、調整が。

そらねえ。
彼の親族なるは、当家、柴田と、叔父嫁の方あるです。
叔父嫁の姉妹多く。健在でもあって。

イヤ、その辺りで、あちら様の何ちゅうかの、話あったりでの、こちは、どする、ど思うの打診があったり。
まあな、大した話であらへんですが。
とは、他家の葬儀も多く見てるの当方故、言えるの話で、当人、喪主たる、諸般、考えて当然也の。参考的、助言出来るですが、決めるは喪主。
まあな、こちは、そんなに心配して戴くの事、あらへんでと。
有り体には、喪主の指示なり、考えで、進めて戴ければと。

そらねえ。
諸般のやり方なるは、葬儀担当者に寄っても違うしねえ。その考え方で、色々あるかと。
色々も、喪主の意向か、担当者の、かは、傍目、わからんけれど。

オッとの、明日<2月5日・水>通夜。
その明日には、息子2人も、来るですて。結構なると。
長男、神戸から、車で、長岡京の次男と一緒に。明後日、告別式は、長男が来るですて。
泊まりは、我が家。

されどの、行きは、こちと、長男別々。
そらね、こちは、早めにと、考えてまして。
されどの、喪主曰くに、16時以降が安全と。意味なるは、15時辺りまで、先客と、するのか、あるですて。よて、それ以上に早くに来ても、車を置くの場所もあるしと。

いやね。
その斎場、葬儀会館の駐車場狭く。
もしかして、もしかしたらの、3台は、ど哉の、余計なるの話の、ここだけの話の、でも、あらへんですが。
「くずはモール」の駐車場が、明日、水曜日には、駐車場料金無料ですて。へえと。結構やねえ。

告別式は、どするか、わからんですが。
長男の車で、行くの方がと、思てるですが。当方は。
そすると、帰りが、こち経由になてもてね。
更には、明日、明後日と、大寒気団到来での、積雪もの、予報有りで。

まあなあ、明日は、息子共とは、別々に行くになるけれどの、天空の状況次第かと。
そらね、予測以上に雪降れば、当方の車では、ダメでして。ノーマル・タイヤ故。
その場合、嫁はんの車哉と。スノー・タイヤ故。
イヤ、基本、我が家より、車で、概ねの、2時間と、見てるです。
迷子にならねば、なと。
(20/02/05)


NO.2894 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(4) 葬儀会館に到着の話

いやね。
諸般、この2日間。
とは、叔父の葬儀の、2月5日<通夜>、6日<告別式>で、草臥れたです。
イヤ、葬儀なるは、滞り無くの終えたです。下の叔父の。

2月5日<水>の19時からの通夜。
との事で、早めに行くの積もり、してたですが、諸般で、16時以降にと。従兄弟より。
息子共も、行くになって、されどの、葬儀会館の駐車場が狭くと。2月5日の水曜日は、「くずはモール」の駐車場が終日無料と。そこに駐めて頂戴と。
とは、伝えてるです。

イヤ、駐めるが出来るかも、なれどの、安全見て。
着くのが、18時の30分前辺りになるの哉と。
そらねえ、長男は、神戸から、車で、長岡京の次男宅にで、それが、多分なら、18時頃で、そこから、どれ程の時間要するのか、多分なら、30分程度の、どちにしろ、一番に遅くに着くやろと。

いやね。
この日、2月5日から、天気予報上、昼過ぎより、亀岡方面、雪だるまマークで、明くるの、6日の、午前中まで。
降水確率的にも、結構高くの、最高では、70%。
愛車カローラなるは、ノーマル・タイヤで、積雪であったり、道路凍結では、ども成らず。イヤ、葬儀会館の樟葉辺りは、ども無くても、帰りの道中、心配でして。

結果、スタッドレス・タイヤ装着の、嫁はんの車で、行くにしたです。
選択肢的には、電車で、行くの法あるですが。帰りは、長男の車で、一緒にと。イヤ、実家であるの、我が家に泊まるにしてるです。結構なると。

いやね。
当家の予定なら、通夜は、我々夫婦と、息子共の、4人。
告別式の日は、次男出勤で、当家からは、3人と成るです。

どちにしろ、当方的、5日の日には、慣れぬの、嫁はんの車、MOVE。イヤ、運転は当方。
予めの、Web地図で、調べてまして。葬儀会館の場所と、経路を。
基本、京都縦貫道で、沓掛<くつかけ>で降りて、洛西ニュータウン経由、向日町競輪場のところから、何ちゅうかの、東土川から、赤池方面<国道1号線>に向かい。
あとは、1号線を、大阪方面。

木津川を超え、洞ヶ峠<ほらがとうげ>の交差点で、右折。真っ直ぐ進めば、左前方に、「男山病院」で。そこは、叔母の入院の時、見舞いに行ったりしてるですが。
それは、2008年の事。
そこの信号を、左折で、樟葉駅方面に進めば、駅の手前の方の、左手に、目的地、「樟葉公益社樟葉会館」があると。

イヤイヤ、必死。
慣れぬの車で、まあ、言うたら、赤池までは、何度も行ってる故、どて事、無いけれどの、そこから、大阪方面と、するのか、八幡の方には、当方運転では、最近では、行ってませんです。息子共の車で、息子共の運転で、息子共任せ故、道の状況、道順なんか、覚えず。

まあね。
14時半から、14時45分我が家出発目標にしてたですが。あれこれ、これあれ、準備等々してるの間にも、実際に出発したは、15時になてもてね。
まあね。
それでも、1時間から、1時間半で、到着出来る筈。迷子にさえ、ならねば、なと。

イヤイヤ、何とか、一ノ坪の交差点見付け。その先の、洞ヶ峠もあって。
イヤ、その信号の手前には、叔母の葬儀をした、葬儀会館見て。嗚呼、ここやった、なあと。要は、12年ブリでして。
オッとの、目的地は、そこでは無いです。モッと先。

いやね。
「男山病院」も見付けまして。
イヤ、間違い無く、何度か、来てるですが。少なくともの、2度は。
されどの、全くの、記憶無く。とは、こんな病院やったか、なあと。やったんやねえ。多分。

兎に角、そこの信号左折で、さての、左手に注意の、ここか、ここかと、ゆっくり、ゆっくり、走ってねえ。
まあね、この界隈、そんなに沢山の車は走ってませんでして。ゆっくりも、邪魔には、成らずで、ア、ここやと。発見したです。
正式名称、「樟葉公益社樟葉会館」は、「公益社」としか、文字見えず。それで、充分なれどです。
時に、16時15分頃故、案外に早くに着けたなと。迷子せぬ故。

有り体には、想像してた、よりは、綺麗で、立派。
オッとの、入り口なるは、表通りの方にあっての、正直には、若干、行き過ごして、止まり。バックして、建屋に突入致し。
ンの確かに、建屋立派な割には、駐車スペース少なくて。イヤイヤ、駐車場なるは、建屋内。
まあねえ、ここは、京阪樟葉駅に近いがため、京阪で来られるの、ならばの、その方がと。
イヤ、妹夫婦なら、京阪が便利と。

さての、車は、5台程が駐められるのかと。
1箇所、身障者用で、1箇所、霊柩車の方向転換スペースとされててね。実質的、3台かと。駐めるが出来るが。
少ないなあと。

イヤ、一台先客で、誰やろねえ。
どちにしろ、駐めるの場所あるが故、駐めまして。駐めてから、諸般、礼服整えて。
そらねえ、礼服の上衣来ては、運転してませんです。ネクタイも、せず故、その辺りと、靴も、履き替えて。

申してるの、立派と、するよりは、新しい分、綺麗な建屋でねえ。ええなあと。
エレベーターのところに、2階が、「柴田家」と、されてるが故、エレベーターで、上がれば、ンの真正面には、上の叔父<故人>の、娘<従兄妹>と、その弟が、受付の場所に居てまして。

いやね。
弟の方、大分の方に、この20年在住してましての、この以前、会おたは、下の叔父嫁の葬儀の時。
要は、2008年故、12年ブリ。
イヤ、我が母の葬儀の時<2015年>には、来て呉れてませんです。

いやね。
正直には、大分から、こちに戻るの予定は、予定と、年賀葉書には書いてたですが。その姉の言では、年内にはの、話えと、聞いててね。
此度、居てるは想定外の、へえと。
戻ってたのかと。久しぶりやなあと、開口一番。

そして、そのままに、控え室の方えで、そこには、喪主と、ンの、上の叔父嫁、叔母さんが居てて。ンンの、喪主の二人のお子さん。言うたって、最早の、23歳の男の子と、21歳の女の子。
この21歳の女の子が、台湾に旅行で、戻るまで、待っての葬儀と、相成ったですが。
ここだけの話の、昨日、一昨日なら、快晴で、雪の心配無くの、我が愛車カローラで、来てたぞと。
再度の、ここだけの話故、一切の口にはせず。

いやね。
叔母の葬儀の時には、当然の居てたですが。逆算では、11歳と、9歳の時故、小学生。
その時には、姿見たのみで、特段の紹介もされず。されるよな、してもらうよな、状況でも無く。話もしてませんでしたです。

あらためて、此度、紹介されて。真正面にての、しかと、見ての、正直なるの話、どこから、ど見てもの、美男、美女。
イヤ、ほんと。
いやね。
女の子の方、美女と、するよりは、可愛らしい系で、モテるやろ、モテてるやろなあと。その辺りの実際は知らんけど。
どちにしろ、平均値以上の外観してるです。

まあな。
場が場、場所が場所で、場面が、場面故、相応の服装してての、派手な格好出来ずもあるけれどの、所謂の、パンパラのパンには、見えず。
まあ、言うたら、一言でなら、ええ子やなあと。
そらなあ、モと、申せば、人生で、一番に、ええ時でして。再度の、23歳、21歳やでと。
こんな時期が、当方にも、あったの筈なれどと。

事実あったけれどの、その当時には、人生で、一番のええ時期也と。
なんか、夢にも、思てませんでしたです。
当方の、23歳の時ねえ。確かに、ええ時期ではあったですが。社会人2年目やったんやと。
その年に、祖母が交通事故で、転けて、入院。以来、起きるが出来ずで、明くるの歳、亡くなったです。

言うてもたらの、その後、直後辺りには、親父も、結核にて、強制隔離入院。
結果の結果、仏光寺の家が壊れ出し。イヤ、ほんと。
借家であったが故、宇治、槇島の中古物件をば、住宅ローンで、買いまして。
ある意味、当方的、柴田家にとって、激動の時期でもあったなと。
まあな。
祖母は亡くなったけれどの、親父は、亡くなったでは、あらへんでして。
入院故、いつかは、戻ると。
(20/02/08)


NO.2895 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(5) 人相が全然の違うの話

いやね。
ある意味、こんな時にしか、親族が顔合わせるの機会、僅少になりて。
イヤ、上の叔父嫁、叔母さんには、我が母の葬儀<2015年>以来。
その長男、従兄弟とは、2008年の、下の叔父嫁の葬儀以来。
長女、従兄妹とは、母の一周忌<2016年>に来て呉れて。
ここ、下の叔父の長男、従兄弟は、その従兄妹と、一緒に、一周忌に来て呉れて以来。

まあね。
従兄妹と、ここの従兄弟は、葬儀にも、来て呉れた故、ここ最近、数年で、2度会おてるに成るですが。
上の叔父の従兄弟なんか、12年ブリでして。
ましてやの、ここの、従兄弟の息子、娘なるは、12年ブリも、当時には、小学生やでと。喋りもせずの、遠目で、見てたのみで、全然の、記憶しておらず。

オッとの、叔父ねえ。
叔父も、もしかしたらの、母の葬儀以来。
結果的、亡くなってもての、顔見ておらず。葬儀以前には、チラと、八幡の団地に会いに行ったりしてたですが。

その叔父を見たいと、従兄弟に申しの、棺の窓を開けてもらいまして。
ンの、正直なるの話の、顔が全然の違うなと。従兄弟曰くに、祭壇に飾られてるの、遺影を示し。
イメージはこれですねえと。ンの、そやなあと。

いやね。
亡骸の人相、別人。
3年前、母方、下の伯父の長男の葬儀に出向いたですが。その従兄弟の、人相がまるきりの異なりまして。
それこその、母の葬儀<2015年>には、来て呉れて。一昨年<2018年>に亡くなったが故、そんなには、間が空いてませんですが。人相別人。
これは、丸坊主にしてるもあって。顔もふっくら感ありまして。
その嫁、その弟<従兄弟>曰くに、自宅で亡くなったが故、死因調査で、解剖したからと。フウンと。

ならばの、叔父の場合、自宅で倒れたですが。
男山病院に搬送され、3日後故、病院で、亡くなってるですが。イヤ、解剖はされておらず。
にしては、晩年、こんな顔に成ってたのかと。へえと。

いやね。
余りに、人相違い過ぎたら、何ちゅうかの、そらね、亡骸見て、亡くなったは実感するですが。こみ上げて来るの寂しさが、激烈で無く。
むしろの、人相が何でと、そちに、気が行って。

いやねえ。
ハタと、その従兄弟の顔見たら、従兄弟が、叔父の若い頃に相似。
当然の、当方が、叔父達と、一緒に暮らしてたは、従兄弟が産まれるの前。
それ申せば、この従兄弟の、長男、長女は、従兄弟に似て無いなあと。
オッとの、くれぐれもの、子ども達、美男、美女で、その親父であるの、従兄弟も、男前の範疇也と、思てるですが。男前とか、イケメンとかも、範囲広く。
要は、野性的、優しい系等々。

まあね。
当世、イケメン、イケメンと、何でもイケメンでして。
女の子に対しても、美人、美女と。
テレビで、そんな言い方してるの実物出たら、この程度のなら、どこにでもと。まあね、確かに、最低限の、ブスでは無いけれどの、美人、美人、美女、美女と、何度も何度も、形容する程の、でもあらへんでして。
失礼乍らの、その程度のを、褒め称えられてたら、世間一般、皆、安心するの哉と。これで、美人、美女なら、自分の方が上と。

いやね。
この従兄弟も、気の優しい面、多々あって。そもそもの、叔父が気が優しくて。
それを申せば、上の叔父の長男も、その叔父と、相似。
2008年、叔母の葬儀の時、久しぶりに、会おたの時には、ビクリしたです。
イヤ、叔父が、そこに居てるの錯覚覚え。そらね、瞬時のみの、まさかの、叔父が居てる筈が無くの、嗚呼、従兄弟かと。
それ程に酷似してるです。

コレ、当たり前に、ジクリと、見れば、部品、部品は、細かくに異なるわと。そもそもが、親子と言えどの、別人。
そやけれどの、その細々、所作、言うてる事等々、まるきりの一緒。とするのか、考え方が、良く似てて。
それ申せば、下の叔父の方は、諸般、気遣いするの方。
対して、上のは、まあ、言うたら、合理的考えしてて。ドライとも、申すですが。又は、我が道を行くと。
確かに、その息子は、独自路線で、大分に行ったです。行って、何してるかの、中身知らんですが。ンの、そのやってる事の、中身も、一遍聞かんとと、思いつつも、聞いてませんです。
そもそもがの、会うの機会、超の僅少。

そら、前回、2008年と、申してるです。
イツから、大分にと、なればの、20年経つと。当人申したです。ならばの、20年前に会おたかと、なればの、多分なら、会わず。
30年以上の前になら、年始で、我が一家、5名様で、叔父宅に行きの、一緒に会おてるですが。
イヤイヤ、申せば、上の叔父、平成2年<1992年>に亡くなってもてね。67歳で。
その前年の、1991年には、我が親父。その5年の以前の、1986年に、親父の妹<叔母>が亡くなってまして。

ンの、何の話をしてるの怪と。
いやね。
叔父達とは、長年、結婚するまでは、同居で、年の離れた、兄貴的存在。
その子とは、そんなには、会う機会無く。

されどの、血は、水よりも、濃く。
まあね、旧知は、旧知なれどの、会えば、昔話に花が咲き。
とか、言うたって、当方とは、年代が違い過ぎて。
されどの、されどで、アチから、こちは、「チャン」。
コチから、アチは、「チャン」であったり、「君」付けしたり、何とか、「ボン」と、言うたりの、バラバラ。
オッとの、「ボン」なるは、上の叔父の従兄弟の方に対しの、親であるの、叔父がそのよに、申してたが故。
或いは、内々で、そんな呼び方してたの哉と。
(20/02/09)


NO.2896 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(6) 諸般、自覚してるの話

オッとの、左足裏の、魚の目の件。
なるは、「イボコロリ」で、剥がれ出したの、皮膚、直径5mm程度のを、半分、ハサミで切って。
更に、半分、要は、半分は容易に剥がれるも、剥がれ難い箇所は、無理せずと。
その残、半分も、取るが出来て。
現在唯今、どんな状態かと、なればの、円形に剥がれたの箇所、ホンの僅か、赤みを帯びてるですが、特段の、痛い等々ありませんですが。
正確には、一寸だけ、違和感。

まあね。
若い頃なら、1週間も経てば、跡形消えてると、思うですが。
当然の、その箇所、ベコりと、へこんでまして。まあ、その内には、平滑に成ると、思うです。その内が、月単位に成るのではと。
自身、少々、やり過ぎた感あるですが。芯は、消滅故、目的達成かと。
やり過ぎとは、年齢的なるを、考慮しての事。

まあね。
どちにしたって、皮膚科で、処置して戴いたのは、芯が残存してまして。
先生も、又、出来ますよと、太鼓判押されてては、又、再発で、医院通い故、市販の、「イボコロリ」でと。
イヤ、「イボコロリ」は、初めて、では無いです。
過年、ン十年の昔に、一度だけ、やってるです。部位どこかは、忘れたですが。多分なら、足裏であったの哉と。


オッとの、そんな次第の、斯くなるでの、柴田の、下の叔父の葬儀の話。
ほんとにねえ。
こんな時にしか、親族一同、顔会わさず。

母方の方、一世代上の、伯父、伯母達、皆、亡くなってもてね。1人だけ、母の妹であるの、叔母が、わからんでして。こちらは、血のつながりあるです。
イヤ、当方を、タケオちゃん、タケオちゃんと、呼んで呉れて。

その婿殿<叔父>が亡くなったが、柴田の、此度、葬儀の、下の叔父嫁、叔母と、一緒の時故、2008年。
この母の妹、叔母とは、その葬儀以来、会わずの、音信不通。
そこの子、娘達なれどの、問おても、元気にしてるえと、ダケ。
元気にしては、音信不通。
そもそもが、富野荘<地名>に、住んでたですが、年賀状はくれた事は無く。一方通行は、一方通行で、遂には、宛先不明で、戻って来てね。

まあねえ。
他家の事故、根堀の、葉堀は、聞けず。
そもそもがの、そこの従兄妹達、そんなに親しくも、してませんでして。そこらで、バタリと、遭遇しても、まあ、わからんの程度。
先刻の、問うも、何のついでか、電話で、でして。
コレ又、電話も、ン十年に一度。

そらねえ。
29年前の、我が親父の葬儀<1991年>の時には、母が連絡で、そこの長女が来て呉れて。
あちらの、親父様が、2008年。その時、初めて、三姉妹を一同に見てね。その婿殿も。

次女であったかは、そやねえ。50年程の昔に、母と一緒に、伏見の、大手筋商店街の、アルバイト先かに、行って、会おたですが。文房具屋と、記憶してるですが。
当時には、高い、高いの、電卓を買おたです。手帳サイズの、最新鋭機。
その子にしたって、その間、とは、親父さんの葬儀までの、30年やでと。どれが、どれと、なんか、わかるのモンかと。
イヤ、長女、次女、三女と。多分なら、これが、長女やろと。葬儀の通知、連絡して呉れたの子かと。挨拶したですが。何とは、無くの、大手筋でのは、この子かと。

まあねえ。
その叔母には、長男が居たですが。早くに亡くなってもてね。当方、小学の低学年の時でして。あちらは、2歳、3歳下であったの哉と。
その従兄弟が、そのまま、生存してたら、又、違うですが。
他が皆、女の子では、会いもせず。話もせず。
まあ、言うたら、叔母とは、時々会いもしの、話もしてたですが。その婿殿、叔父も、殆ど、顔会わさずの、まあ、言うたら、社交家で無くて。

コレ又、変な話の、母方の年会で、1度。
下の伯父の三男坊が亡くなったの時の1度しか、まともには、会おてませんでしたです。会わず故、話もせず。当然の、従兄妹達も、現れず。
オッとの、母方の年会は、結構やってたですが、出て来るは、その叔母1人だけ。
当方なら、母と一緒に全部参列してたですが。当然の、伯父家の従兄弟達は、顔出してまして。

ンの、何の話哉の。
結果的、母方のは、2人の、伯父家の従兄弟達とは、よっく、会おてたです。
特には、下の伯父宅、当方、郁文中学校の通学路にあって。
まあねえ。
当方、一番の年長で、長男でも、3歳下故、一緒には、成らず。

がしかしの、昔には、皆が、京都市内で、近くでして。
その気なら、いつでも、会えるの距離。
用事も無いのに、会わんですが。それ、言えば、年会、葬儀でしか、会うの用事無くなってもてね。
次第、次第に、皆がばらばら、遠方になってもて。
まあねえ。
細々申すも、面倒臭く。何がと、なればの、現住所の事。

オッとの、触れておかねばの。
母方の下の伯父の場合、再婚してまして。従兄弟達、三兄弟なれどの、それは、後妻さんの子。
イヤ、その後妻さんも、当方の事を好いて呉れて。大切にして呉れてたです。

先妻なるは、早くに亡くなってもてね。
その先妻との子が、その伯父、伯母の、葬儀なりでは、来て呉れてるです。
イヤ、年齢的、当方と、一緒か、一つ下の、女の子。
当家、親父の時は、どであったか、とする以前の、下の伯父が来て呉れたです。
母の時には、伯父亡くなってる故、その子も、来て呉れて。子も、当方と、ホボの同年故、婆様世代なれど、です。

何故に、柴田の叔父の葬儀の話で、母方の事、言うてるのかなあと。
そらね、諸般の理由あるですが。

祖母は、当然の、自身の、子のところえ、当方、連れてって。子とは、叔父宅、娘<当時大阪>宅。
そらねえ、祖母が、嫁の兄弟宅には、連れてかんです。

母なら、主たる、自身の兄弟姉妹宅えと。当方を。
親父は、社交的で無く。どこえも、連れて呉れんでねえ。
どちにしろ、祖母は、その他、自身の、妹宅にもと。皆、近所は、近所。でも無いけれどの、京都市内。

いやね。
親戚付き合いとは、そんな事かと。
親に、祖母なりに、連れられて。
連れて呉れん事には、疎遠になって。要は、親次第。距離次第。
それでも、従兄弟達とは、旧知故に、又、血は、水よりも、濃くて。

そんな事で、当方の場合、母に、祖母にと。
結果的、親戚付き合いの大切さも、体感してて。
又、当然の、当方の立ち位置もあるです。
そらね。
柴田家を代表してるです。
てな事も、自然と、認識させられて。又、言われても、来てるです。
面と、では無くの、何とは、無く。

いやね。
実は、東京さの。とするのか、千葉なれどの、親父の妹の子で、祖母の娘。
要は、何かあれば、主たる、叔母と、その長男<従兄弟>が、でして。
当家、冠婚葬祭では、必ずや、叔母と、その長男<従兄弟>が、来て呉れて。
東京に引っ越しても、来て呉れて。

叔母亡くなってからは、長男と、次男が手分けしてるです。
此度、叔父の葬儀には、通夜には、弟。明くるの、告別式、長男来るになっててね。
ここ様、大方は、そんな式で、来て呉れてるです。兄弟仲、ええのやなあと。
そらね、兄より、弟に、諸般、先に行って呉れと、話あれば、そのよに、してまして。弟が。
ええねえ。えらいねえ。
(20/02/10)


NO.2897 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(7) 叔父の棺のソバでの話(1)

いやね。
諸般、説明が難しいねえ。
登場人物沢山で。
それを、なるべくの、正確にと、思うが故、余計に、でして。

言いたいは、以前には、我が親族、皆が近く故、往来結構してたですが。
次第、次第に、距離離れ。
次第、次第に、疎遠にと。
又、一世代上のが、居てたら、又、違うですが。コレ又、次第、次第に、亡くなってもてね。
こちも、次第、次第に、歳喰てもての、行くにしても、距離あって。
特には、柴田の方、年齢差もあって。

話するなら、当然の、柴田の事の方が、多く。
そら、叔父達とは、長年、一緒に暮らしてまして。結婚以前の事なら、よっく、承知してるです。
されどの、そんな話、するの機会もあらへんわと。こんな時にしか。
とか、言うたって、延々のそんな話も、してられず。

いやね。
母の葬儀の時。又、一周忌の時には、従兄弟達が来て呉れてたですが。母方のと、柴田の方では、又、違うしねえ。
話の中身が。
それも、あるし、母方のは、柴田の方の従兄弟達を知らんし、柴田の方は、母方のを知らんしねえ。
此度なら、柴田家のばかり故、話はそれに集中して、出来るです。
そらね、上の叔父も、下の叔父も、皆が承知で、共通の話題に出来るです。

通夜の日、5日<水>なれどの、この時には、3人して、棺の叔父のそばで、ダベリング。
イヤ、我々の祖父母の代の話。
当方、承知の話と、従兄弟達の話に喰い違いが生じ。

イヤイヤ、わかってるです。
祖父、亀吉の出生、出身地の件。
丹波篠山説、極めての有力。
なれどの、本籍地説あって。本籍地とは、綾小路、大宮東入るの、丸屋町。

いやね。
下の叔父の息子曰くに、株で大損したと。当方、聞いて、えの、違うでと。
これは、確信持って、正確なるを示すが出来るです。
祖母より、聞いてたの話、なるは、連帯保証人に成って、保証した先のが、夜逃げして。全財産没収。

祖母、度々の、当方に申すに、保証人には、成るな。実印押すなと。
コレ、親父からも、言われてましての、謂わば、家訓化してるです。
とか、言われたって、保証人になら、何度か、成ってるです。妹家が、家買うの時の、保証人に。コレ、実印一発、押印してるです。
その家、売りの、現在、伏見に住んでるが故、保証人の件、消滅してるですが。

いやねえ。
兎角に、上の叔父が、その手の冗談、誠しやかに申すが故、一時、当方もそと、思てたです。
これは、祖母に確認で、連帯保証人に成って、破産したと。とは、シカと、聞いてるです。

それと、丹波篠山の件。
イヤ、これこその、叔父に聞きたかったの一つでね。
本当怪と。本当は、どこなんやと。

いやね。
それは、別としての、まずは、旧の墓石の件。
昭和59年<1984年>に、墓石を新調したですが。当方が。
何故に新調かと、申せば、欠けて来て。

コレ、見たら、わかるの、そんなに新しいの、墓石で無くて。所謂の、年代モノでして。
そらねえ、ボロボロ、欠けて来てるの程で、そもそもがの、祖母が、困ったなあと、言うてたです。
あれ、あの石、ン十年とは、言えず。さりとて、何年経ってるかも、わからんですが。
当初、祖父がと、思たりもしたですが。とても、とてもの、そんなに早くに、ボロボロに成るの怪と。

がしかしの、過去帳からは、祖父の母。要は、我々の、曾祖母が入ってるですが。それ以前が記載されておらず。それ、言えば、曾祖父があらへんでして。
いやね。
ややこしいけれどの、親父世代ので、福子なる、長女に該当のが、6歳で、亡くなってまして。
但し、我が親父、亀太郎の妹に成るですが。
要は、過去帳では、それが一番に古く。二番手、曾祖母の、「うの」<「の」は、旧かなで、「み」に似た字。>。これが、70歳で。

どちにしろ、祖父亀吉は長男で、一人っ子かと。
祖母からも、亀吉の、親族、兄弟姉妹の話、聞いた事が無く。
祖母のなら、妹が二人。
祖母、すえ。次女、すて。三女、とめ。
とまでの、話はしてませんですが。叔父の棺の前では。

してないけれどの、この手の話をしてやりたいなあと。従兄弟達に。
そらな、興味あると、思うです。
されどの、結果的、叔父から、息子えも、こんな話はしてへんやろと。するの機会、あらへんです。聞かれて、初めて、するの話故。
イヤ、当方なら、その、妹達を承知してるです。家にも行ってるし、当人達が、当家に来たりも、してるです。
特には、次女、すてさんは、何度も、何度も、来てまして。愚痴こぼしに。

さての、祖父が、実際問題、どこ出身かは、わからんよに成ったです。
その気で探すなら、戸籍謄本でも取ってに成るですが。さての、どするの兵衛哉と、相成って。
まあね。
その前に、我が親父、亀太郎の戸籍謄本を取れば、ある程度の事、わかるですが。
想定出来るは、亀太郎の本籍地、丸屋町であるは、わかってまして。結果、当方の本籍地も、柴田の従兄弟達の本籍地も、下京の、綾小路、大宮東入るの丸屋町。
であるは、承知してるです。
そらね、親父も、当方も、本籍地の移動しておらず。
今や、知りたいならばの、戸籍謄本で、遡らねば、わからんわと。

での、祖母の出生で、新説、異説が出たです。
上の叔父、下のの、従兄弟曰くに、滋賀は、滋賀なれどの、近江八幡と。えと。
コレ、実は、告別式の日に、来て呉れたの、千葉の従兄弟も、同説の、近江八幡と、聞いてるでと。ンの、彦根と、当方的、聞いてるけれどと、申せば、皆、ンの自信は無いと。

ででの、祖母の親、親父様なるは、御殿医也と。
とは、上の叔父の息子が申しの、それは、一致。
いやね。
御殿医と、なればの、城主は誰かと。城はと、相成って。
近江八幡なら、安土城。彦根なら、当然の、彦根城。他にも、山城<やまじろ>等々、あると、思うですが。

いやね。
当方、祖母より、聞いてたの話の、井伊直弼の、孫娘と、祖母の祖母が、同級生。
との、表現、異なれどの、一緒に勉強したと。
よて、出身地、彦根と、思てたと。
さもなくばの、井伊直弼が出て来ませんです。
(20/02/11)


NO.2898 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(8) 叔父の棺のソバでの話(2)

いやね。
本日<2月11日・火・建国記念日>、月参りの墓参。
ご先祖様には、ヒサオ叔父さん亡くなり、これで、祖父母<亀吉、すえ>の子が、全部亡くなったと、ご報告致し。
イヤ、寂しいねえと。

いやね。
母方のは、母の妹、リキ叔母さんの、消息不明で、よお、わからんですが。どちにしろ、その1人以外、亡くなってまして。
それ、言えば、父方のも、シゲオ叔父さんの嫁以外、全部、亡くなったです。
この、叔父嫁なるは、チズコと、申しの、ヒサオ叔父さんの葬儀にも、参列して呉れてたです。

更に、申せば、母方の従兄弟達。
ケイスケ伯父さんの子は、長男のヨウイチと、一番下の次女が亡くなってまして。次男の、ヨシノブと、長女ケイコが残ってるです。
カクノスケ伯父さんのは、長男の、ノブオと、三男の、キヨシが亡くなってての、長女の、ヱミと、次男のヒロムが残ってるです。
リキ叔母さんの子は、三人の女の子、皆、居てるですが。小さな頃に、そこの長男がと。

対して、柴田の従兄弟なら、配偶者、甥、姪まで、含めての、全員、生存。
オッとの、正確には、我が妹、ヨシエが、生後一週間で亡くなってるですが。

にしてもの、リキ叔母さんは、どしてるの哉と。
母の葬儀には、当然の来て呉れず。そもそもがの、2008年の、リキ叔母さんの連れ合いの葬儀で、顔見て以来、声すら聞かず。
申してるの、年賀状なら、出してるですが。あちらからは、届かず。
がしかしの、何年前哉に、宛先不明で、戻って来てね。
よて、その娘に尋ねたですが、元気にしてるえと、だけ。

元気ねえ。
元気にしてるとは、思てませんでして。三十年の昔に、何であったか、失念の入院しまして。母と一緒に見舞いに行ったりしてたです。
その時には、諸般、入退院を繰り返してると。
元々が、人一倍、太った叔母が、普通に成ってたです。食べたらアカンと、されてまして。要は肥満症。
当然の、連れ合いの葬儀の時も、普通の状態でして。

いやね。
その時、色々話をしたかったですが。柴田の、ヒサオ叔父さんの嫁、フミコさんの、葬儀と重なってもてね。何と、まの、葬儀の梯子をした程でして。
あちらが、午前で、柴田のが、午後故、梯子が出来たですが。
反対なら、悪いけど、当方、柴田故、あちらは、遠慮するに成ってたです。
そらねえ、葬儀会館なるが、あちら、京都文教大学のある、宇治槇島<まきしま>の、「向島宇治ブライトホール」。
フミコ叔母さんのは、国道1号線沿いの、八幡<やはた>の。枚方<ちらかた>に近いの、「南八幡シティホール」。

まあねえ。
相当に離れてるですが。我が家からしたら、離れついでの、遠回りなだけで、そこから、約の、1時間強で、梯子が出来たの哉と。方向が、モっと、違えば、梯子は出来ず。
てな事をば、ハタと、思い出したり。
所詮、このところなるは、親族も、この手、葬儀なり、法事でしか、顔合わせませんでして。
コレ又、寂しいなあと。
オッとの、ついでになら、ヒサオ叔父さんの葬儀なるは、叔母さんの、近くの、枚方になるの、「樟葉公益社」。


での、過年の、母方、下の伯父、カクノスケの長男ノブオの葬儀の時。
この時にも、ノブオの棺のソバで、その嫁はん、長男、長女。そして、ノブオの姉ヱミと、弟の、ヒロムと、当方が、諸般、思い出話をしたですが。
姉とは、再度の、腹違いの姉なれど。
まあね、思い出話なるは、夜伽に相応しく。

その時には、当方からの電話。
母の一周忌の連絡の件なれどの、知ってて、出ずの話を嫁はんから、聞いたりしてね。なあんやと。
その辺りの話も、その姉にはしたですが。ノブオが捕まらんでねえと。連絡出来て無いが故、現時点、来るのか、来んのか、わからんけれどと。
まあね、以て、背景一致したですが。

此度、柴田の叔父の葬儀でも、一緒。
棺のソバで、従兄弟同士で、諸般の話を致しまして。ここには、我が嫁はんも一緒してたですが。
要は、ヒサオ叔父さんの亡骸のソバで、話、盛り上がってもてね。延々のしたかったですが。ズと、立ちっ放しも、しんどくて。あっち、控え室で、しよかと。

移動したの矢先に、東京さ方面、イヤ、これも、千葉の習志野なれどの、アイコ叔母さんの次男、ヨシオが現れまして。
嗚呼、こっち、こっちと、今度は、そっちの話に成って。
そっちとは、予定の件。
兄の、キヨシは、どするの怪と。明日来ると。自身は、通夜で、兄貴が、告別式にと。
で、明日、用事があるの怪と、問えば、無いと。されどの、奈良に宿取ってると。こっちより、奈良の方が詳しいですて。へえと。

ややこしいですが。
母方の下の伯父の三男、キヨシで、柴田の、叔母の長男キヨシ。
それ、言い出したら、ケイコも、母方、上の伯父の娘も、ケイコで、柴田の、上の叔父、シゲオの長女も、ケイコ。こちらは、漢字が違うですが。キヨシは、漢字一緒で、遭遇せず。
されどの、母の葬儀の時、ケイコは、場に居たですが、紹介等々、する間無く。一周忌の時には、あちらのケイコは、来てませんです。


いやね。
ヨシオも、ヒサオ叔父さん宅には、良く行って、泊まってるです。
元々が、大阪でして。東京さ、イヤ、実は、大阪から、東京の、北多摩郡の、ひばりケ丘の方に一家が、引っ越してるです。
当方、小学の6年生の時でして。
ンのヨシオ曰くに、70歳ですて。へえと。オマエも、そんな歳になったの怪と。ならばの、キヨシは、当方の1歳上故、74歳かと。
ンンの、自分自身の年齢忘れてもてね。

いやねえ。そらねえ。
母の葬儀の時には、長男のキヨシが、両日来て呉れて。
されどの、自身の親の時には、その手の話、思い出話等々、する気に成れず。
又、緊張感あるです。気も張ってるです。諸般、葬儀屋担当者との件等々、諸般あって、落ち着かんです。
当然の、告別式での、挨拶の文言も、考えててね。

されどの、変な話、ヒサオ叔父さんの葬儀は、当方、喪主で無く。
されどの、何ちゅうかの、本家。
本家故、相応の、緊張感あるけれどの、喪主であると、無いは、大違い。

オッとの、此度、名を出し出したですが。
言う方も、その方が、やり易く。
(20/02/12)


NO.2899 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(9) 本家の話(1)

いやね。
本日<2月12日・水>、喉が痛くてね。場所、右の首の付け根辺りが猛烈に。
どんな具合かと、なればの、首回すに、痛おて、痛おて、とても、とてもの、回せず状態。
更に、申せば、一寸、横になるに、首にチカラ入れるに、ンの、どしょかと、成る程に痛くてね。一旦、横になりての、すぐにも、起きるに、同様にしての、痛とて、痛とての、ども成らず状態故、コマツタなあと。

多分なら。
イヤ、必ずや、喉の右の方が、腫れてると、するのか、真っ赤っかなんやろなあと。
ンの、耳鼻咽喉科には、過日、7日<金>に行って、薬は処方して戴いてるです。ンンの、薬はキチン、キチンと、服用してるかと、なればの、少々、サボってるですが。
余りに痛いが故、別途の、内科で、処方して戴きの、保管してるだけの、「ロキソニン錠60mg」をば、一発。

イヤ、頓服として、戴いてるです。
頓服ねえ。
服用は、疼痛あるいは発熱時<37.1度以上>に服用とされてるです。内の、疼痛に該当と判断致し。
結果、痛いは、痛いけれどの、相当にマシに成りての、首は回せるよに成ってるです。嗚呼、ヨカツタなあと。
されどの、コレ、この状態では、困るが故、明日、明後日の様子見にて、ダメなら、耳鼻咽喉科に行くかと。
そらねえ、頓服は、頓服での、根本的治癒には、成っておらず。
元々が、風邪薬なるは、対処療法薬で、根本治癒で無いは承知。

まあね。
明日も、首が痛くて、回せんよなら、様子見してるの場合で無くの、内科に行くです。
イヤ、明日は、耳鼻咽喉科医院休診日故。
いやね、ここ様、月、水、金と、土の午前のみでして。内科は、原則毎日。


オッとの、いやね。
ヒサオ叔父さんの、葬儀の話。
こっちとして。こっち、とは、柴田家の方。
対して、あちらは、フミコ叔母さんの方に成るですが。

まあね。
こっちも、我が妹夫婦が来て呉れて。ヨシオが来て、これで、全員集合に相成って。
まあね、姓の、「柴田」としては、上の、シゲオ叔父さん家。下の、当人、ヒサオ叔父さん家。そして、その兄であるの、当家。
我が妹は、嫁ぎ先の姓で、叔母家は、ヨシオが来て呉れて。結果、姓は、3つ。

オッとの、通夜には、我が息子共2人来て呉れて。
結婚で、独立故、柴田姓のは、5家に成るですが。余りに細々も、なと。
イヤ、我が息子共も、通夜には、2人が。明日の、告別式には、長男が。その長男は、実家、当家に、泊まるが故、明日は、車に乗せてもらおかと。結構なると。

言うたって、通夜の日、積雪心配で、嫁はんの車で、行ったですが。
結果的、2日共に、走行無理な程には、雪降らず。無理どころか、チラとは、降ったけれどの、積もるよなでは、全くのと。当方的になら、しもたなと。
こんな事なら、2003年式愛車カローラで、来た方がと。そらな、慣れぬの車を運転してるよりは、数段の気楽。
且つは、自力で、迷う事無く、葬儀場、「樟葉公益社」には、到着してるです。
意味は、帰りも、迷う事無く、戻ってましての、道なら、心配無用。
されどの、そらな、息子の車に乗せてもらうの方が、コレ又、数段の気楽。

いやね。
次男は、薬剤師で、通夜の日が、休日。明くるの日は出勤故、告別式には、参列せず。
長男なら、忌引休暇が取れたらしくの、結構なると。

そして、フミコ叔母さんの方の親族。要は、お姉さん達。多分。
叔母が一番の下と、聞いてるですが。もしかして、もしかしたらの、更に、妹が居たはったの可能性あるですが。
どちにしろ、その姉妹達も、来て呉れて。
当然の、皆様、婆様でして。

いやね。
そのフミコ叔母さんの葬儀<2008年>の時、皆様とは、お会いしてるです。
イヤイヤ、当然にして、お顔は覚えてるです。されどの、誰が、一番の姉で、等々なるは、聞いたよな、聞いて無いよなでして。

いやね。
この日、通夜の時には、当方的、会釈のみ。
ンのあちら様、こちを、覚えて呉れてるのか、失念かは、わからんの、無反応。多分なら、当方を誰かが、わかって無いかと。ンの、そらね、当方にしたって、あちらは、フミコ叔母さんの姉妹さんとは、承知も、どれが、姉か等々、当方、失念してるです。
されどの、ご尊顔程度、皆記憶してるですが。
そらな、12年経ってるが故、その分、歳喰てもてね。それは、どちも、一緒。
イヤイヤ、その一年後の、一周忌で、顔合わせてるぞと。よて、正確には、11年ブリとなるですが。

そんな話をしても、意味あらへんでして。
本家の話。

いやね。
当家、柴田の本家と、相成るですが。
言うたって、祖父の代からの話。かどかは、わからんけれど。

それで、です。
祖父亀吉、祖母すゑの、祖父の方は、今一、よ、わからんと、申してるですが。出身地が。
丹波篠山説、本籍地説の2つ。
それは、別途の問題で、置いといて。置くも、何も、わからん故で。

確実にわかってるは、祖父の母親、当方の曾祖母が、過去帳に。
されどの、曾祖父の法名があらへんでして。何故かと。問うに、問われるの、対象、皆、故人になてもてね。
まあねえ、ヒサオ叔父さんにしたって、知ってるかと、なればの、五分五分。

ならばの、当方、祖母から、聞いてたの記憶を辿るしか、ありませんですが。それが、曖昧。
そらねえ、現在唯今なら、その手の話、聞けば、根堀の、葉堀の、聞くですが。聞くべくの、ネタ、疑問が沢山あって。
されどの、祖母なりから、聞いてるの話なるは、断片的。
そらねえ、何かの、おり、チラと、或いは、当方の質問に答えての事と、思うですが。当方の質問ねえ。時期なるは、小中学生時代が主で、高校、大学生の頃になれば、その手の事に、余り興味無くなってもてね。

社会人に成って、尚、その手の事、薄れてもての。
変な話の、自身、この辺りの歳に成って来て、真剣に考え出したです。
まあな、正確になら、常々、思てる、考えてるですが。叔父達なりが、生存してる時には、顔合わせて、そんな話題になるのモンかと。
ましてやの、祖母なら、昭和46年<1971年>でして。当方24歳。
社会人に成って、年数経っておらずの、ましてやの、祖母が死ぬと、なんか、夢想だにせず。
話簡単、我が親族なるは、永遠に生きると、までは、大袈裟も、それに、限り無く、近いの概念で、居てるです。居てたです。

亡くなってもて、初めて、嗚呼、亡くなったかと。
祖母の時には、諸般、聞きたいの話云々よりは、残念で、残念で。信じられずが本音。
されどの、享年84歳。
当時の話の、長生きでは、あったです。オッとの、その一番下の、とめさんなるは、90代まで、生きてたです。言葉選ばずなら、化け物的存在、印象。

いやね。
生前、会いに行ったり、してるです。仏壇が、古くて、あちこち、破損で、新調してるですが。そこの、息子さんを介してるです。まあな、住所、富小路の、寺町通り近くでね。
意味なるは、寺町界隈なるは、寺が多いと同時に、仏具屋多いの、界隈故。

話、ややの、逸れたですが。
祖母なら、三人姉妹の長女。これは、次女、三女共に、重々の承知で、皆、京都市内で、何度も、何度も会おてるです。
それ、申せば、祖母の兄弟姉妹で、男子不在かと。聞いた事、あらへんでして。且つは、滋賀県の事をば、近江の国、江州<ごうしゅう>、江州と、申してまして。
出生、当方には、彦根と、申してたです。記憶正解ならの話。
御殿医とも、言うてたです。井伊直弼の、孫娘が、祖母の、又、祖母と、同級生と。同級生の表現、先様に失礼なれど、です。まあね、一緒に勉強してたの意。

旧姓、「豊田<とよだ>」であると。
されどの、その実家の話、聞いたの事、あらへんでして。且つは、三姉妹、皆、京都に来てもてね。
今なら、何故にと、問うですが。小中学生では、そんな事、全くの考えずの、聞いたまま、あるがまま。

そらねえ。
家業なり、家継ぐなら、養子迎えてでも、でして。当時なら。当世でも。
相応の家ならばで、御殿医の家なら、相応の、哉と、思うですが。
それが、何故にと。
これこそ、永遠の謎になてもてるですが。
(20/02/13)


NO.2900 下の叔父、ヒサオが亡くなったの話(10) 本家の話(2)

首が回らん。
右の方が、回すと、痛くて、痛くて、どもならず。
これは、喉の炎症に寄るですが。
本日<2月13日・木>、首回すに、痛いは、痛いも、その程度可成りのマシ。要は、回すに恐怖感覚えるの程で無く。

イヤ、昨日は、恐怖でしたです。
咳や、懇々でも、首に響いてねえ。どしょかと。
どするも、こするも、痛みを抑えん事にはと、「ロキソニン錠60mg」をば、一発。服用で、少々、収まり、現在に至る。

いやねえ。
ご先祖様の話をと。
言うたって、イザ、聞きたい、知りたいと、思たの時には、しかるべくのが、居てませんです。
叔父達なら、居たですが。親父も居たですが。祖母も。
居てるの時には、そんな話、全くのと。

そらねえ。
祖父は、すれ違いで、会おてませんですが。あちら、昭和20年<1945年>の終戦の年に亡くなってまして。
当家で、我が家で、一番に早くに亡くなったは、祖母。
当方、24歳の時でして。それまで、ズと、一緒に暮らしてるですが。祖母に、こんな事、あんな事をと、聞きたいと、なんか、微塵も考えておらず。

車に事故られ、足骨折で、寝た切りになてもてね。
当時には、リハビリの概念無くて。安静に、安静にで、結果、寝た切りでして。
それは、結果論で、当方的になら、その内、元気に成ると。成るに決まってると、信じ込んでたです。

勿論の事、別途の自分、祖母の歳が歳故、いつかはと。
覚悟めいたものも、あったですが。それは、それ。
それ、言い出せば、自身もわからんわと。

まあね。
どしてもなら、戸籍謄本でも取って、遡れば、或る程度の事、わかるですが。そこまではと。
よて、与えられたの、記憶してるの範囲で、勝手推量するのみ。

兎に角、祖父は、スレ違い故、実態、知らんです。
祖母にしたって、おりにふれ、チラとは、話をして呉れたですが。何分の、小中学生の頃でして。当方が。
まあねえ、以降も、おりにふれ、話をしたり、聞いたり、してると、思うですが。

にしたって、当方以外、祖母の出生、近江八幡と一致で、ビクリしたです。
イヤ、近江八幡なるは、当方的、記憶に皆無。
頭っから、彦根。
近江八幡と、聞けば、嗚呼、ロームの時の、アイツが、近江八幡出身と、聞いたなあと、ダケ。

彦根には、母方の上の伯父ケイスケの長女の嫁ぎ先となりの、その結婚式に、母方親族皆で、車で行ったですが。
我が愛車、何であったか、までは、失念の、下の伯父カクノスケと、母載せて、行ったを覚えてるですが。
彦根に行くに、嗚呼、祖母の、出生也と。
祖母なら、亡くなってたですが。当方なら、既に結婚してたです。
その時、本来ならば、彦根城を見たかったですが。時間が無くて。そらな、日帰り故で。

対して、近江八幡の、安土城ねえ。
これも、見にと、するのか、ここは、城は無く、城跡なれどの、行った記憶あるです。
イヤ、わざわざの、では、無くての、目的、失念してるですが。多分なら、独身時代にドライブがてらかと。初代の、ホンダの、NⅢを買おたのばかりの時かと。イヤ、わからんですが。城跡に、行った事、ダケは確か。
なあんや、城はあらへんのかと。ガクリとしたの記憶あるです。

にしてもの、三人の従兄弟達、叔父家2人、叔母家1人が一致の、近江八幡は、どこから哉と。
皆目の、見当付かず。
いやね。
3対1なら、近江八幡が正解に成るですが。当方的になら、その祖母と、一緒に暮らしてたの、実績強く。
加えての、祖母の口から、井伊直弼の、孫娘と、祖母の、祖母の繋がりの件、大きくて。御殿医であったの話なら、皆一致してるです。
イヤ、井伊直弼の件なるは、当方以外、知らんかったです。

いやねえ。
こんな話、こそが、夜伽でするが相応しく。
何故に今頃になってと、思うですが。
そらねえ、フミコ叔母さんの葬儀の時には、基本、フミコ叔母さんの思い出話が主の、その姉妹が居てるのに、柴田の話、してられず。
ヒサオ叔父さんの、葬儀故、従兄弟達が、棺の周囲取り囲みの。或いは、控え室で、近況報告、請求したり、してられるです。

での、墓石の事。
先にも、申してるの、当方、昭和59年<1984年>に新しくしたですが。旧のが、欠け出しての、ボロボロになって来て。
ヒサオ叔父さんの息子曰くに、あの石、残ってえへんのですかと。残ってたら、古さがわかるのにと。あのなあと。
新調の際、旧のは、しかるべくの、魂抜き致し。新のに、魂入れ致しまして。
そして、諸般の費用には、旧の墓石の処分して戴くも、含まれてると。先は、「河波忠兵衛」。
と、までは、申してませんですが。

いやね。
祖父の出生も、不明点ばかり。
コレ又、叔父達の、息子は、丹波篠山で一致で、当方、その話も承知の、されどの、本籍地説もあると。
そもそもがの、東本願寺祖廟の、その旧の、墓石が古かったと。
されどの、過去帳からは、祖父母の、第一子の、福子で、二番手、曾祖母の、「うの」<「の」は、旧かなで、「み」に似た字。>。これ、精々が、大正の話でね。古さ、知れてるです。
まあ、言うたら、高々の、百年。
墓石の古さ加減なるは、軽くの、ン百年。まあな、石が粗悪もあるですが。多分。それでも、なと。

ここで、申せば。
祖父亀吉なるは、一代で、財成し。一代で、没落。コレ、連帯保証人に成りての、実印一発。
結果、借家で、綾小路から、仏光寺の家に引っ越して来て。

まあ、申せば、無一文かは、わからんにしても、親父亀太郎以外、まともに、進学出来ずの状態で、建墓出来るのかと。
ましてやの、東本願寺祖廟なるは、借地権高額。
仏壇も、当方、新調してるですが。旧のは、ボロボロ状態故で。この仏壇も、安いの買い物に非ずの、結構なるの高額。

ハキリと、申しの、墓地の借地権、現在唯今、幾らするかは、知らんですが。約の、30年前の相場で、150万円見当。
墓石も、仏壇も、同額程度故、綾小路時代の、祖父が絵の具屋で、ボロ儲けしてた時代の、哉と。
その時代に、墓石新調してるのならばの、モ一寸は、上等の石でと、思うです。

よて、元々が、東本願寺祖廟にあったと、するのか。
もしかしての、丹波篠山なら、そこから、先祖代々の墓石を移動させたに相成るなあと。
移動ねえ。
ならばの、何故に、過去帳が、福子が最初かと。
謎ばかりでね。

イヤ、祖父亀吉の親が記載も、母親のみで。
その兄弟の話、全くの聞いておらず。当方が。
亀吉の、従兄弟と、されるのなら、聞いてるですが。実は、その方やろねえ。その墓に入ってたのが。
或いは、従兄弟で無くの、大の親友がと、聞いてるですが。どっちやろねえ。
どちにしろ、それは、亀吉の時代は、その意志でと、成っても、後生、親父亀太郎の時代はまだしもの、その子、当方の時代になればの、知らぬの方が、当家、墓に入ってるになてもてね。

祖母すゑが、自分が生きてるの間に、その方に出て行って戴くよにすると、常々申しの、事実、出て行ってもらうになったです。
この事、話の続きで、するの積もりが、諸般、時間切れで、出来ず仕舞い。
(20/02/14)