閻魔大王<NO.121>

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閻魔大王NO.122
318 林真理子著『李王家の縁談』 閻魔大王 22/01/05
閻魔大王NO.120

NO.318 林真理子著『李王家の縁談』<起稿 閻魔大王>(22/01/05)


【閻魔大王】 2022/01/05 (Wed) 23:28

<参考=NO.317 続3<失礼乍ら>愛子さまと、秋篠宮家の方とでは、違う。/両陛下をお助けしたい。
(22/01/03)

<参考=NO.299 続4<眞子・圭>歴代天皇、遂に、怒られた<!>/眞子たんの我が儘から、天皇制瓦解危機<!>
(21/11/23)


この一言が、皇族が何たるかを示すです。
「私たち皇族は、命を懸けても陛下をお支えする。この日本という国を守らなければいけない立場なのです。」

皇族だけではありませんです。
家々により、諸般あるです。

眞子たんは、一刻も早く、皇室から、出たかった。
愛子さまは、「両陛下をお助けしたい。」と。

この差は、皇室に対するの、誇りの有無也。これを、教育するは、当たり前に、その親。
詰まり、天皇家と、秋篠宮家の差。

<本>
林真理子著『李王家の縁談』文藝春秋



>女性皇族の結婚は、今も昔も難しいものだった。皇太子(後の昭和天皇)のお妃候補の一人でもあった娘の結婚に奔走した梨本宮伊都子(いつこ)妃が主人公。泣いて嫌がる長女を説得して、日韓併合後の朝鮮王族、李王家の王世子(皇太子)に嫁がせ、さらに李王家の姫の縁談もまとめていくのだが…。

>異国の皇太子と長女の縁談
>伊都子妃は佐賀藩主の鍋島家の出身。「鹿鳴館の華」と呼ばれた母を上回る美貌で知られ、宮家の梨本宮守正王と結婚した。幼い頃からを書き続けた日記をもとに、本書は書かれたので、史実に近いことが記されているという。

>皇太子妃が久邇宮良子女王(昭和天皇の皇后)に決まったとの情報に接し、伊都子は14歳の長女、方子(まさこ)が選にもれたことを知る。大正5年(1916年)のことだ。良子女王の父の久邇宮は、守正王の兄で、兄弟の娘たちはいとこだった。

>「こうなったら、まあさん(方子)のお相手をすぐに決めなくてはなりません」。出来れば皇太子妃の発表の前、方子が「選ばれなかった娘」となる前に。伊都子の奔走が始まった。

>朝鮮王の弟で王世子の李垠(イ・ウン)は少年の時から留学という名目で日本に来て、軍人の道を歩んでいた。守正王も後に元帥にもなる軍人で、李垠が何度か守正王の宿舎を訪ねてきたことがあった。伊都子は、他国といえども皇太子なのだからと、長女との縁談を進める。しかし、周囲は反対し、方子も「よその国の方に嫁ぐ気はありません」と承知しない。

>だが、「日朝融合の証」としてご裁可となり、婚約を伝える新聞を見て方子は部屋に閉じこもる。伊都子は方子にこう言って説得した。

>「私たち皇族は、命を懸けても陛下をお支えする。この日本という国を守らなければいけない立場なのです」

>方子は一言も口をきかなかったが、学校で級友が異国の皇太子に冷たいので、負けん気をかきたてられた。

>「私はつくづく王世子さまがお気の毒になりました」。方子の心が和らぎ、大正9年に結婚となる。しかし、梨本宮家にはいやがらせの電話や、脅迫状が届き、塀には「国賊」と落書きされた。また、王世子と方子を乗せた馬車に、朝鮮人の青年が手榴弾を投げつけた。不発に終わったが、朝鮮では反日の朝鮮独立運動が広がっていた。方子は男児を産み、一家3人で海を渡って京城の宮殿に入るが、将来の王となるはずの幼子は毒殺された。

>皇太后も4人のお子の縁談に苦労
>王世子の12歳になる妹が朝鮮から上京すると、伊都子はかわいがる。だが、その姫は夜中に悲鳴のような声をあげ、精神的に病んでいた。投薬で一時的に回復してきたので、伊都子は姫の縁談を考えるようになる。時代は昭和に移っていた。

>朝鮮の姫を心に留めている、もう一人のお方がいた。大宮、つまり皇太后である。伊都子は大宮御所に呼ばれ、二人は姫の縁談について話す。伊都子は李王家のために骨を折り、皇太后の里(九条家)に縁故のある華族との結婚を実現させた。

>皇太后こそ、昭和天皇をはじめ4人のお子の縁談に苦労されていた。伊都子にこうおっしゃる。

>「女親にとって、子どもの相手を決めることぐらい、難しくて楽しいことはありませんからね」

>「あれこれ考えると、夜も眠れないこともありました。(中略)子どもの相手を決めることは女の仕事ですからね。その点、伊都君(ぎみ)さんはご立派におやりになりました」

>実は、大正天皇が皇太子だった新婚の時、何度も伊都子がいた鍋島家別邸に行き、それを節子妃(後の皇太后)が腹を立てたという。そんな過去を持つ皇太后と伊都子の会話を、著者は見事に再現させている。

>これまで方子は「日韓融和のための政略結婚」を強いられた悲劇の女王とされてきたが、本書は定説を覆して、母の伊都子が主導した結婚だったことを明らかにした。女性皇族の視点に立つ大正、昭和の皇室の一面が巧みに描かれている。

>なお、この本の表紙中央に描かれたのが伊都子、その右側が方子夫妻、左側が朝鮮の姫夫妻である。

>斉藤 勝久
ジャーナリスト。1951年東京生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。読売新聞社の社会部で司法を担当したほか、86年から89年まで宮内庁担当として「昭和の最後の日」や平成への代替わりを取材。医療部にも在籍。2016年夏からフリーに。ニッポンドットコムで18年5月から「スパイ・ゾルゲ」の連載6回。同年9月から皇室の「2回のお代替わりを見つめて」を長期連載。主に近現代史の取材・執筆を続けている。

<参考=「【新刊紹介】皇族妃が奔走した娘たちの結婚:林真理子著『李王家の縁談』」(nippon.com)>


【閻魔大王】 2022/01/06 (Thu) 10:14

副題1=『李王家の縁談』についての、林真理子×磯田道史=3部構成

副題2=林真理子がふりかえる“皇族の縁談”と“身分制”

「縁談は「家」が決めるもの」
これは、上流であれば、あるの程に、そであったと。

少なくともの、家長の言を無視は、有り得ませんです。眞子、圭の如く<!>

とまあ、
失礼乍らの、この家長<秋篠宮殿下>も、世間の常識からは、外れてるですが。

<写真1>
『李王家の縁談』の主人公・梨本宮伊都子



>韓国併合後の日本の皇族と朝鮮の王太子との縁談を描いた、林真理子さんの新刊 『李王家の縁談』。


>明治時代に旧佐賀藩藩主、鍋島直大(なおひろ)の娘として生まれ、19歳で梨本宮守正(もりまさ)王に嫁いだ伊都子(いつこ)は、長女・方子(まさこ)を朝鮮王家に、次女・規子(のりこ)を伯爵家に嫁がせるなど、家柄を重んじた縁談を次々に進め国に尽くした。本作では、彼女の日記を紐解きながら、大韓帝国最後の皇太子・李垠(イウン)と方子の縁談を中心に、大正から戦後までの激動の時代が描かれていく。

>昨年ご結婚された、小室圭さん、眞子さんのように、「やんごとなき」方々の縁談は世間の注目を集めてきた。歴史家の磯田道史さんと、著者の林真理子さんに話を聞いた。(全3回の1回目。 #2 、 #3 を読む。初出: オール讀物2021年12月号 。年齢、肩書等は掲載時のまま)


>かつてない皇族・華族の内部に踏み込んだ小説

>林 昨年来、秋篠宮家の長女・眞子内親王(当時)と小室圭さんとのご結婚の話題で持ちきりでしたけど、今度の作品は、それに便乗して書いたわけではもちろんないんですよ(笑)。

>磯田 ここまで皇族や華族の頭の中に踏み込んで描ききった小説を、僕は読んだことがないので、すごく興奮しました。たとえば、林さんはこれまでも、作品の中で同族経営者やセレブ女優の内面を追求されていますが、いずれも実際にインタビューが可能な相手です。しかし、今回は情報の少ない、閉ざされた空間で生きた人々の価値観が克明にリアルに描写されていて、歴史家から見ても本当に大きな驚きを覚えました。

>林 私はある意味で、皇族華族フェチなところがありまして(笑)、昔から色々と本や資料を読んでいたんです。とはいえ、ノンフィクションではなく、フィクションとして描くのは大変でしたね。身分の高い方々は、私たち一般人とは全く異なる価値観のなかで生きていますから、その独特な感情を想像するのが難しい。ただ、今回は梨本宮妃伊都子さんの日記をまとめた『梨本宮伊都子妃の日記―皇族妃の見た明治・大正・昭和』(小田部雄次著)がありましたので、その資料を非常に参考にさせていただきました。

>磯田 父である鍋島直大侯が、イタリア特命全権大使としてローマに駐在していたときに生まれたことから、「伊都子」と名づけられたというエピソードが、小説の冒頭に書かれていますが、鍋島家が藩主を務めた佐賀藩は、先祖代々進取の気風に富んでいて、祖父の直正(閑叟・かんそう)は日本で初めて天然痘のワクチン接種を導入したり、いち早く西洋の軍事技術の導入に励んでアームストロング砲を装備した人物です。その気風が伊都子にも受け継がれたのか、美しいだけではなく、非常に聡明だったことが、彼女の日記の叙述から分かります。

>伊都子の頭の中の論理の構築を追うと、当時の世界状況も浮かぶ。江戸時代まで日本以外、東アジア諸国は、中国中心の冊封・朝貢外交のなかにいました。ところが、日本が先に西洋化し近隣諸国に砲艦外交を始めて琉球・朝鮮を従え、力関係が変わった。伊都子がその世界史的状況下で縁談を進める。歴史の授業の教科書に使いたいくらいでした。


>縁談は「家」が決めるもの
林 この本の中では、当時の皇室や宮家、華族をめぐるさまざまな結婚のことを書きましたが、最初のきっかけになったのは大韓帝国の李垠皇太子と、梨本宮家の長女である方子さんの縁談です。これまで日本では、方子さんの結婚は、韓国併合をうまく進めるための政略結婚だと見られることが多かったようです。方子さんは、好きでもない朝鮮の王世子李垠のもとに泣く泣く嫁がされたという、悲劇の女王として捉えられていたんですが、色々と調べていくうちに、実際は、方子さんの母・伊都子さんがかなり積極的に縁談を進められていたという説もあることを知りました。

>磯田 キーとなるのは、伊都子妃の日記の中に出てくる、大正5年7月25日の頁ですね。

>「兼々(かねがね)あちこち話合居(はなしあいおり)たれども色々むつかしく、はか〴〵しくまとまらざりし方子縁談の事にて、極(ごく)内々にて寺内を以て申こみ、内実は申こみとりきめなれども、都合上、表面は陛下思召により、御沙汰にて方子を朝鮮王族李王世子垠殿下へ遣す様にとの事になり」

>方子さんの結婚が上手くまとまらない。そこで伊都子が内々に朝鮮総督を通じて朝鮮王家に縁談を申し込んだ。内実は伊都子側から申し込んでいるのだけれども、表向きは天皇のお考えによる勅命という形で縁談を進めることになった。「内実は申こみ」とはっきり書いてあるところがポイントですね。

>林 伊都子さんの日記を読んでいると、理知的で魅力のある方だということを随所に感じさせます。しかも日本赤十字社で看護学も修められていることもあって、非常に合理的な面も読み取れます。今日は紀尾井町の文藝春秋からオンラインで対談をしていますが、ちょうどすぐ近くに李王家邸があり(現在の「赤坂プリンス クラシックハウス」)、往時は素晴らしいお住まいだったことを偲ばせます。

>日韓併合後の李王家は、皇室に準ずる扱いを受け、年間150万円という多額の歳費を受け取っていたそうですし、伊都子さんが「これだけお金がもらえて、皇太子の扱いを受けるならば、娘の縁談相手に良いだろう」と考えたことは、まったく不思議ではありません。

>磯田 本人同士が縁談を決めるべきだという議論は、現代の考え方であって、当時は家が決めるものだというのが共通理解だったと思います。さらに士族、華族、皇族と、家格が上に行けば行くほど「表」と「奥」が別れていて、その縁談は奥向き=母親が息子に対して指示をするものなんです。封建時代は女性の発言力がなかったと言われますが、身分制というものは「身を分ける」ものであって、男は男の、女は女の分がありました。

>僕の地元の岡山藩士の婚姻届をみても、嫁とりは嫁ぎ先の姑の養女にして嫁がせている。姑が嫁を指揮系統に入れ、奥の女の世界をつくる意識が極めて強い。そこは男性の不可侵領域で、母が息子の妻選びにも絶大な発言力をもった。


>女性が縁談で行なった政治国内戦

>林 まさに伊都子さんが考えたように、女性は女性なりに政治国内戦を縁談でやっていたわけですね。実は『李王家の縁談』のもうひとりの主人公は、大正天皇のお后である貞明(ていめい)皇后なんですが、この方は裕仁(ひろひと)皇子(後の昭和天皇)については少し違いますが、その他の3人の皇子の縁談を、恙無(つつがな)く上手に進めていらっしゃいますよね。非常に頭の良い方だったのだなと思います。

>磯田 例外はあるにしろ、近代の皇室では、次期天皇の縁談・皇太子のお妃選びは皇后である母親の仕事でした。その意向が大きく尊重されるべきだったものが、戦後から全く別の原則と方法で選ばれ始めた。米軍による占領、民主化のなかで、皇室がもっとも変わった点は、実は結婚に関しての原則だったのではないかと個人的には思っています。

>林 最終的には裕仁皇子の縁談を認められた貞明皇后にしても、良子(ながこ)女王(後の香淳皇后)をあまりお好きではなかったらしいですし、香淳皇后にしても美智子さまに対してだけは挨拶をされなかったという話もありますから、「長男の嫁」というのが嫌われる歴史は、いつの世でも繰り返されているのかもしれませんけれど(笑)。

>磯田 良子女王が皇太子の裕仁親王に選ばれる過程も、林さんはきちんと書かれていらっしゃいますね。皇太子妃にふさわしい年齢の女子は、宮家から11人、条件にかなう華族も含めて18人いたと、候補者の人数まできちんと挙げられていますが、将来のお后になる女の子の条件は、皇室典範できちんと決められていて、せいぜい20人前後でした。

>林 伊都子さんは、娘の方子さんが皇太子妃に選ばれなかったことが、相当悔しかったと思います。良子さんと方子さんは従姉妹同士で、お互いに家柄は申し分なかったはずです。

>磯田 それには長幼の序にうるさい時代だったことも関係していると思います。良子女王の実家の久邇宮(くにのみや)家と梨本宮家だと、どうしても兄の家である久邇宮家を優先せざるをえなかったのではないでしょうか。その一方で、宮中公家の世界では、妃の年齢についてはあまり気にされないようで、実は“姉さん女房”の数は結構多いんです。いつ頃から年上の男性と年下の女性の結婚が増えてきたのかということは、僕自身、社会学的に興味を持っている課題のひとつです。

>林 中世にまで遡りますが、『平家物語』の建礼門院徳子にしても、高倉天皇よりかなり年上ですものね。天皇が男性として性に目覚める頃、女性がちょうどリードしていけるということもあったかもしれません。

>磯田 事実上そうなるでしょう。女性の方が肉体的にも精神的にも成熟が早い傾向もありますから。

>林 方子さんは皇太子裕仁親王と同い齢ですが、年齢の問題ではなかったと考えると、伊都子さんが選ばれなかった娘の嫁ぎ先を早く決めねばと焦ったのもよく分かります。( #2 に続く)

>「昭和天皇は質実を叩き込まれ、華やかな方を望むのは“享楽的贅沢”と考えられていたふしがある」 磯田道史が“皇族や華族の頭の中に踏み込んで描ききった”と評した物語とは へ続く

>林 真理子,磯田 道史/オール讀物


<参考=「「梨本宮伊都子妃が娘の嫁ぎ先を早く決めねばと焦ったのもよく分かる」 林真理子がふりかえる“皇族の縁談”と“身分制”#1」(文春)>


【閻魔大王】 2022/01/06 (Thu) 12:42

副題1=3部構成の2番目
副題2=「帝」と、「王」の違いは<?>

「帝」は、「王」を従える。

<写真2>
(左から)昭和天皇、貞明皇后、秩父宮、高松宮



<写真3>
磯田道史氏



<写真4>
林真理子氏 ©️文藝春秋



>新刊『李王家の縁談』で日本の皇族と朝鮮の王太子との縁談を描いた林真理子さん。本作の主人公は、長女・方子(まさこ)を朝鮮王家に嫁がせるなど、家柄を重んじた縁談を次々に進め国に尽くした、梨本宮伊都子(いつこ)だ。林真理子さんと歴史学者の磯田道史さんが、「やんごとなき」方々の結婚について語り合った。(全3回の2回目。#1、#3を読む。初出:オール讀物2021年12月号。年齢、肩書等は掲載時のまま)


>貞明皇后はオールジャパンで

>磯田 良子女王は何事にも動じない、落ち着いた方だったようですね。

>林 お写真を見ると、本当に日本人形のようで、ああいう顔立ちが昔の美女とされていたのですか?

>磯田 そのようにも考えられますが、昭和天皇は幼時から質実を叩き込まれ、地味で実直な感じの方がお好きだったのではないかと思います。目鼻が大きくて目立つ華やかな方を望むのは“享楽的贅沢”と考えられていたふしがあります。

>林 続いて貞明皇后の次男の秩父宮の妃となった、松平勢津子(せつこ)さんは会津の松平容保(かたもり)の孫ですから、これはすごい。かつての朝敵の子孫を皇室に迎え入れるという発想もなかなかできません。

>磯田 維新に功績のあった薩長との力関係も含めて、貞明皇后は「オールジャパン・ノーサイド」を考えられた。政治方面の男性方とも相談をされた上でしょう。久邇宮家と梨本宮家の父である中川宮(朝彦親王)は、実は明治元年に徳川慶喜に使いを出して維新政府の転覆を企てたとして、一時、親王位をはく奪されて広島に幽閉された皇族です。要するに、朝敵にされたり、けん責されたりした一族にも不満を持たせぬよう、名誉回復して体制に取り込む機能を、皇族の縁談はもっていたわけです。

>林 伊都子さんから見れば、勢津子さんは平民の外交官に嫁いだ妹の子です。身分としては自分の次女・規子の方が高いにもかかわらず、ここでも選ばれなかったという悲憤があったでしょうね。縁談の話がきた時、勢津子さんのご両親も、「地味で不器用で普通の子です」と何度もご辞退したそうですが、勢津子さんも決して派手な雰囲気はなくとも、本当に品よくまとまっていらっしゃって、貞明皇后にも可愛がられたそうですね。


>上流階級の女の子たち

>磯田 世間からの注目度が高いぶん、上流階級のお嬢様たちは、縁談に際して色々な悩みを抱えていらっしゃったと思います。そのひとつは嫡出子と非嫡出子の問題です。つまり、母親が正妻かどうかで縁談にも如実に差が出る時代でした。

>林 学習院はそういうことで差別はしない建前だったということですが、華族の庶子、柳原白蓮も最終的には東洋英和女学校に通いましたし、実践女学校を出ている方がいるのも、母親の出自によるところが大きかったようですね。

>磯田 もうひとつ差別の問題があって、それは容姿です。現代は世の中の女性たちは美しい女優さんに憧れを抱きますが、当時、女優は地位が低くイメージが今ほどよくない。皇族華族の令嬢こそが憧れの的でした。肖像写真が雑誌や新聞に載り、大衆の注目を集めたわけです。

>この小説のなかでも、貞明皇后が、色黒であることから「黒姫さん」というあだ名をつけられていて、ご本人も内心気にされていたことは有名な話です。さらに林さんの小説の中では、夫の大正天皇が新婚にもかかわらず、若く美しい伊都子さんに懸想気味だったというエピソードが出てきますね。

>林 大正天皇が皇太子時代、日光の田母沢御用邸に滞在されていた折、鍋島家別邸にいた伊都子さんにダックスフントを押し付けていかれ、鍋島家が大層困惑したというのは本当の話です。ただ、伊都子さんは大名の娘ですから、皇太子に嫁げる身分になく、貞明皇后のライバルだったわけではないんですけどね。

>磯田 明治天皇の時代までは側室を置きましたが、条約改正もあって、欧米のキリスト教国に野蛮の王とされぬよう表向きは一夫一妻制にする必要が生じます。大正天皇は皇后のある身で有力な侯爵の令嬢を後宮に入れることはできません。西欧化のせいで伊都子が手の届かない、高嶺の花になっていたのが面白い。

>林 結局、伊都子さんは梨本宮家に嫁ぎ、娘の方子さんは皇太子に嫁げる身分を手に入れたわけですが、嫁ぎ先は朝鮮の皇太子の李垠ということになりました。この縁談が調ったとき、方子さんは学習院に通われていましたが、嫁ぐ前日荷飾りに同級生たちがわらわらと方子さんのところに集まってきたそうなんですね。「よその王子に嫁ぐあの人を見に行きましょう」という、上流階級の女の子たちの残酷さが表れていると思いました。


>悲劇の王妃は真実か

>磯田 もっとも母親の伊都子さんは考えが違う。今は異文化との縁組でも、いずれは朝鮮も「もうひとつの日本になる」とみた。方子さんの縁談は国のためにもなると本当に信じていました。さらに、李垠が皇太子として扱われるのであれば、宮中席次、位階の高さの点でも申し分ないとも考えていたでしょう。幕末の鍋島閑叟の血をひくだけあって、まったく先見第一の合理主義者です。

>よく「薩長土肥」と言われますが、実は佐賀(肥前)藩は鳥羽伏見の戦いには加わっておらず、戦ったのは薩長土と因幡・伯耆の鳥取藩でした。後から倒幕に加わった肥前は自慢の海軍力とアームストロング砲を提供。上野の彰義隊と会津若松城をその火力で制圧し、維新のお手柄順位で四番目に滑り込んだわけです。薩摩の島津家に連なる良子さんが日本の皇太子の妃に内定し、鍋島系の方子さんが朝鮮王世子の元に嫁げば、序列的にも座りが良いと思われたこともあるでしょう。

>林 当時の日本には、朝鮮人は3000人しかいなかったそうです。ですから、李垠と方子さんの結婚は、日朝結婚の第一号のようなものだと言われています。伊都子さんの朝鮮に対する偏見のなさは、もっと評価されるべきだと思います。

>磯田 日本と韓国についてはあまりにも複雑な問題が横たわっていますが、もともとは日本の天皇が「王」ではなく、「帝」を名乗ろうとしたことが根本にあり、この小説の通奏低音としても流れていると思います。帝と王の違いは、帝は王に王たるもの。つまり、帝は子分にあたる王国を下にもつのが条件なんです。中国は人口も多く、周王朝は天子が、秦から皇帝が周辺の王の国を従えてきた。

>しかし日本は中国との対抗上、ひとりぼっちでも帝を名乗り続け、ようやく明治の時代になって琉球王国を自分たちの版図の中に入れた。さらに日韓併合でふたりの王を従えた状態になり、さらに清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を連れてきて満州帝国を作り、これを傀儡状態におきます。2人ないし、3人の王を従える、あるいは連携している状態の帝国を一時的に作っていったのが、明治から戦前にかけてで、帝国の実態を作る作業も同時に行われました。そのひとつが日本の皇族と朝鮮王朝との縁組に関する法律規定であり、方子さんと李垠皇太子の婚約前にそれが作られています。(#3に続く)

<参考=「「昭和天皇は質実を叩き込まれ、華やかな方を望むのは“享楽的贅沢”と考えられていたふしがある」 磯田道史が“皇族や華族の頭の中に踏み込んで描ききった”と評した物語とは 林真理子×磯田道史 #2」(文春)>


【閻魔大王】 2022/01/06 (Thu) 16:43

副題1=3部構成の3番目
副題2=なぜ皇室には“野心家”たちが近付くのか 林真理子×磯田道史 #3(文春)

圭君が、「野心家」かは、わからんですが。諸般、その一端、皇室利用は伺えるです。
眞子たんがわかって無いだけ。

<写真5>
大韓帝国最後の皇太子・李垠(前列左)と李方子(同右)



>新刊『李王家の縁談』で日本の皇族と朝鮮の王太子との縁談を描いた林真理子さん。主人公は、長女・方子(まさこ)を朝鮮王家に嫁がせるなど、家柄を重んじた縁談を次々に進め、国に尽くした、梨本宮伊都子(いつこ)だ。彼女の日記を紐解きながら、大正から戦後までの激動の時代が描かれた本作を、“皇族や華族の頭の中に踏み込んで描ききった”と評した歴史家の磯田道史さん。「やんごとなき」方々の縁談について、歴史家の磯田道史さんと、著者の林真理子さんが語った。(全3回の3回目。#1、#2を読む。初出:オール讀物2021年12月号。年齢、肩書等は掲載時のまま)


>日本と朝鮮、互いの反発心

>林 少し意外だったのが、朝鮮の王太子・李垠(イウン)と梨本宮方子さんの縁談が決まった当初、朝鮮の方ではそれほど大きな反対はなかったそうですね。

>磯田 朝鮮の歴史を見ると、モンゴル帝国時代、高麗王朝の王にはモンゴルの皇族女性が連続して嫁いでいます。つまり、朝鮮半島では、隣りの軍事大国が王に后妃を押し付けてくる状況はすでに経験ずみでした。西洋化の時代になり、周辺国を従える“帝国”の確立を急ぐ日本が、かつてのモンゴルのように王に妻を押し付けてきた、と捉えたかもしれません。

>林 その視点は考えたことがなかったです。ただ、李垠と方子さんの最初の息子が朝鮮で亡くなり、これが毒殺だったと根強く言われています。やはり日韓併合の歪みが顕れてしまったということでしょうか。

>磯田 日本はそもそも“併合”という形をとった上に、李垠を東京で教育し、長期的に住まわせています。徳川幕府が大名の子を江戸に置いたのと同じです。朝鮮もここまで外国に、自国の王を取り込まれたのは稀でした。さらに、日本は神道、朝鮮は儒教の国ですから、宗教的な共通点もないわけで、日本に対する反発心は間違いなくあったと思います。

>林 最初は子供の頃に伊藤博文に無理やり連れてこられて、おいたわしい人質の王子様だったわけですが、そのうち日本の女性を娶った上、東京でいい暮らしをしている――このように国民の感情が変化していき、戦後、李垠夫妻の結婚は歓迎されず、長らく韓国への帰国も許されませんでした。日本が朝鮮の国民感情を無視したことを色々とやっていたことは事実だし、それを今も引きずっているわけですから本当に難しいですね。


>大韓帝国最後の王女・徳恵姫と宗武志夫妻

>磯田 ヨーロッパではキリスト教を共通の土台とした王室間の縁組が脈々と行われ、ポルトガルからロシアまで幾重にも縁戚関係が築かれています。一方、東アジアは違う。柏手を打つ日本の神道は、朝鮮はもちろん、中国や東南アジアにもありません。顔は似ていても、玄界灘を隔てて、大陸アジアと島国日本の間には大きな隔壁があります。『李王家の縁談』は深い問題提起を含んだ作品です。

>林 ヨーロッパの融和的、発展的縁組と違い、傀儡政府の満州帝国へ嫁いだ嵯峨浩さんも含め、方子さんの結婚が、現代では女性の犠牲的悲話としてのみ捉えられているのは残念でなりません。今回、李王家について調べていくうちに、李垠の異母妹にあたる大韓帝国最後の王女・徳恵(トケ)姫と宗武志(たけゆき)さん夫妻についても、色々と知ることになりました。夫の宗武志さんは対馬藩の旧藩主の家柄で、東京帝国大学文学部出身、北原白秋にも師事していた上に、写真を見るとすごくイケメンで背が高いんです。

>磯田 宗武志さんはまるでドラマにでも出てきそうな美貌の持ち主ですよね。この縁談も伊都子さんが積極的に関わられたようですね。

>林 貞明皇后の実家の九条家とのご縁も宗武志さんは深く、和歌も詠むし、詩にも素晴らしく造詣が深い。ところが、韓国で出ている本や映画を見ると、まるで彼に監禁されたせいで、徳恵姫が病んでしまったかのように本当にひどい描かれ方をしています。私が調べた限りでは、徳恵姫は統合失調症を患ってしまっていたにもかかわらず、徳恵姫のご実家から離婚を要請されるまで、宗武志さんは献身的に姫に尽くしていたといいます。この事実は韓国の方にも、きちんと知ってほしいと思いました。


>皇室の縁談と権力闘争

>磯田 本作の中では日韓関係はもちろんですけれど、もっと広く国際関係をみても、中国型の秩序から西洋型の秩序へ、さらに国内の政治関係では、かつての大名家の地位が華族とはいえ落ちていく一方で、皇族の地位が上がっていった事実が書かれていることも、重要なポイントだと思います。

>林 その通りで、江戸時代の宮家というのはさほど重く扱われていません。戦後に11もの宮家が皇族の身分を離れましたが、そのほとんどが維新後に新たに創設されたものなんです。

>磯田 明治以前の宮家は、公卿筆頭の五摂家(近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家)の方が家格が高く、近衛家などは天皇の実子を養子にしています。実質的にも皇族であって、たとえば、五摂家と宮家がすれ違うときは、宮家の方が遠慮しました。これを「路頭礼」というのですが、林さんはそこまでよく描き込まれましたね。

>林 明治39年に創設された竹田、朝香、東久邇の各宮家はいずれも、明治天皇の内親王の嫁ぎ先として創設されました。そもそも伊藤博文や山縣有朋らは、宮家があまりにも多すぎると苦言を呈していたらしいです。

>磯田 おそらく彼らにとって本当の宮家は、以前から続く四家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)のみというイメージもあったでしょう。さらにここでも問題になるのが、西欧化による一夫一妻制です。皇位継承を安定したものにするため、宮家を増やすことになったものの、伏見宮の直系ということが重視され、朝彦親王(中川宮)が久邇宮家の創設を許され、さらにその子供たちが、賀陽宮(かやのみや)、梨本宮、朝香宮、東久邇宮と、次々に新たな宮家を興すことになった。当時はまだ朝彦親王が、薩長政府を裏切って徳川慶喜と共謀しようとしたことも記憶に新しいわけで、自分たちが奉った宮家ではないという意識は当然あったと思います。


>今に始まったことではない、縁談をめぐる皇族の問題

>林 本作のスピンオフとして、久邇宮家を継いだ邦彦(くによし)王の長男であり、良子女王のお兄様、朝融(あさあきら)王の縁談について「綸言汗の如し」という短編を書きましたが(「オール讀物」9・10月号掲載)、そこでも長州出身の元老・山縣有朋は、島津家の男系の血筋に視覚障害があることを理由に、良子女王へ婚約辞退を迫ります。父の邦彦王による貞明皇后への上奏により無事に婚約は成ったものの、今度は朝融王が伯爵家の酒井菊子との婚約を破棄するスキャンダルが発生し、大きな波紋を華族界に投げかけます。皇族の縁談をめぐる問題は、決して今に始まったことではないんだなと、調べていて非常に面白かったです。

>磯田 とりわけ前近代社会では、縁談と凄まじい権力闘争が密に繋がっていたと思います。歴史上、縁組しようと自分から皇室に接近した人をみると野心家もかなりいるわけです。歴史家としては、いつも欲のない心の綺麗な人ばかりが皇室に接近してきて縁組が成り立つようなイメージは、絵空事のような気がします。

>林 なるほど。すごく深いお言葉だと思います。とはいえ、梨本宮妃伊都子さんは、やはり時代をよく読んで、周囲の人々を注意深く見定めながら、さまざまな縁を取り結んだのだと思います。94歳まで生き、美智子さまの代まで見届けられて、パワフルで魅力的な方でした。こういう日本の貴婦人がいたことを、多くの皆さまに知ってもらえたらうれしいですね。

>(文:「オール讀物」編集部)

>はやしまりこ 1954年、山梨県生まれ。86年「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞、『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞受賞。最新刊『李王家の縁談』発売中

>いそだみちふみ 1970年、岡山県生まれ。歴史学者。国際日本文化研究センター教授。『武士の家計簿』『無私の日本人』『感染症の日本史』ほか著作多数

<参考=「「心の綺麗な人ばかりが皇室に接近して縁組が成り立つイメージは、絵空事の気がする」 なぜ皇室には“野心家”たちが近付くのか 林真理子×磯田道史 #3」(文春)>


【閻魔大王】 2022/01/06 (Thu) 22:04

副題1=婦人公論記事=2部構成
副題2=愛子さまの天皇即位は?ご結婚相手は?揺らぐ皇室の継承問題。眞子さん結婚の影響も〈前編〉(婦人公論)

とりあえず、愛子さまの天皇即位は無いです。
次は、秋篠宮殿下で、その次ぎは、悠仁さまであるは、決まってるです。

その上で、想像逞しく、想定するは、ご自由。


で、
辛酸なめ子さん、冒頭の言、
「10月26日に行われた、秋篠宮家の長女眞子さんと小室圭さんの結婚記者会見を見て、びっくりしました。それまで、小室さんは《眞子さまのフィアンセ》という立場で上り詰めようとしているのかなと思っていたんですけど、実は眞子さんがけっこう小室さんをプロデュースしていらした。小室さんがニューヨークに行ったのも、眞子さんが海外に拠点を作ってほしいとお願いしていた、というのは驚きでした。お姫様として、生まれた時からかしずかれる皇室の女性を羨ましく思う気持ちが私にはあったんですけど、そうまでして飛び出したいほど重圧のある環境なのだと思い知らされた気がします。」

これは、考え過ぎかと。
圭君は、「眞子さまのフィアンセ」の立場で、上り詰めようと、するのか、所謂の皇室利用は事実。
簡単には、眞子さんは、利用されてるのダケ。

海外に拠点云々なるは、基本、圭君の希望である。パラリーガルとして、やってるよりは、NYの司法試験を受けてと。
がしかし、弁護士なりに成るが目的では無く、自分探しであると、奥野総合法律事務所の方が当初に言うてたです。

資格はあるに越した事、ありませんですが。
要は、圭君が、自身の夢、希望を眞子たんに伝え、眞子たんは、それを支援。

フォーダム大学に留学ねえ。
NYでの、生活資金も、入学資格も、学費も、ねえ。
圭君は、自身の実力と、取得単位で、入学出来、返済不要の奨学金も得たと。
生活資金は、奥野総合法律事務所からと。
眞子たんは、その通りであると。圭君の努力であると。
そんな話、誰が信じるの怪<?>


小田部雄次さんの言
「僕は眞子さんが子どもの頃からファンでしてね。おしとやかで、いかにも深窓の令嬢というイメージを持っていたけれど、実はしっかり者だった(笑)。皇族として30年生きてこられたわけですから、ご発言やその存在感による影響力は大きい。これからはもう少し、そのことを自覚されたほうがいい気がしますね。一般人になるとはいえカルチャーギャップはあるだろうし、元皇族という立場を利用しようと近づいてくる人もいるでしょうから。」

小田部雄次さんの言
「小室さんが今までのお相手と比べて特殊すぎたのもたしかですが。」

これが一番の正解かと。


<写真>
左から小田部雄次さん(写真提供:読売新聞社)辛酸なめ子さん(撮影:本社写真部)山下晋司さん(撮影:藤澤靖子)



>いまだ議論が続く皇位継承問題。愛子さま、悠仁さまの将来はどうなるのでしょうか。歴史学者の小田部雄次さん、エッセイストの辛酸なめ子さん、皇室ジャーナリストの山下晋司さんが今の皇室をめぐるさまざまな課題について語り合います(構成=篠藤ゆり)


>◆眞子さんの結婚が明らかにしたこと 

>辛酸 10月26日に行われた、秋篠宮家の長女眞子さんと小室圭さんの結婚記者会見を見て、びっくりしました。それまで、小室さんは《眞子さまのフィアンセ》という立場で上り詰めようとしているのかなと思っていたんですけど、実は眞子さんがけっこう小室さんをプロデュースしていらした。小室さんがニューヨークに行ったのも、眞子さんが海外に拠点を作ってほしいとお願いしていた、というのは驚きでした。お姫様として、生まれた時からかしずかれる皇室の女性を羨ましく思う気持ちが私にはあったんですけど、そうまでして飛び出したいほど重圧のある環境なのだと思い知らされた気がします。

>山下 結婚によって一般国民となった後は、皇室の延長上での生活はしたくない、という思いが強かったんでしょうね。だからこそ海外での生活を求めた。皇族の「公」と「私」の問題において、今回の結婚はエポックメイキングなものになると私は見ています。公の部分をできるだけ排除して、私人として結婚するという宣言でもあったのでしょう。

>小田部 僕は眞子さんが子どもの頃からファンでしてね。おしとやかで、いかにも深窓の令嬢というイメージを持っていたけれど、実はしっかり者だった(笑)。皇族として30年生きてこられたわけですから、ご発言やその存在感による影響力は大きい。これからはもう少し、そのことを自覚されたほうがいい気がしますね。一般人になるとはいえカルチャーギャップはあるだろうし、元皇族という立場を利用しようと近づいてくる人もいるでしょうから。


>◆愛子内親王殿下の時は、眞子さん以上に……

>山下 眞子さんの結婚は、愛子内親王殿下にも少なからず影響を及ぼすことになるでしょう。結婚に際して支給される一時金のあり方も、変わる可能性がある。本来、どんな結婚相手であれ支払わなければ、制度として成り立ちません。でも眞子さんが「辞退」という前例を作ってしまった。今後は、ちょっとでも批判があると「受け取るな」みたいな意見も出てくるでしょう。今回の小室家の《金銭トラブル報道》で、週刊誌は相当、味をしめたはずです。販売部数も伸びたでしょうし。愛子内親王殿下の時は、眞子さん以上にお相手のあら探しをするんじゃないでしょうか。

>辛酸 眞子さんがお心を痛めた原因の、《いわれのない物語》が、どんどん増えるわけですね。

>山下 それを危惧しています。

>辛酸 佳子さまが少し前に、「好きな人ができても、いざつきあおうとすると、いなくなっている」みたいな寂しいことをおっしゃっていたとか。

>山下 ふつうの価値観を持った人なら、腰が引けてしまうでしょうね。

>辛酸 お相手候補として報道されると、あわてて別の方と婚約する人も多いですよね。小室さんのことで、お相手選びのハードルが上がってしまっただろうし、内親王方のご結婚は大変そうです。

>小田部 小室さんが今までのお相手と比べて特殊すぎたのもたしかですが。

>山下 もともと家どうしのおつきあいがあるなど、皇室の周辺にいらっしゃる方なら、どんな生活になるか想像がつくかもしれません。そうでないと、相当苦労すると思いますね。とくに愛子内親王殿下とご結婚される男性は、生涯にわたって行動を制約されるはず。相当な覚悟が必要だと思います。


>◆「私」を前面に出した恋愛

>小田部 愛子さまの将来に関わることで避けて通れないのは、皇位継承に関する議論です。現在の皇室典範では「男系男子が継承する」と規定されていますが、悠仁さまがお生まれになる2006年以前の男系男子は、当時皇太子でいらした天皇陛下、秋篠宮文仁親王、常陸宮正仁親王、三笠宮崇仁親王、三笠宮寛(右下に点)仁親王、桂宮宜仁親王の6人しかおられなかった。将来的に女性天皇を認めるか否かの議論が急務でした。

>辛酸 当時、大変なことだ、何とかしなくてはというムードだったのを覚えています。

>小田部 これまで、安定した皇位継承のための会議が小泉、野田、菅(義偉)の3つの内閣で開かれてきました。第1回は05年の小泉政権時で、女性天皇を容認する方向へと行きかけた。ところが安倍政権下では、「やはり男系がいい」という意見が強くなってしまいました。

>辛酸 悠仁さまがお生まれになったことも大きいですね。

>小田部 以来、女性天皇の話は立ち消えになってしまった。

>山下 その代わりとして、「女性宮家」創設という妥協案が出てきたわけですよね。でもそれは、あくまで皇族数の減少対策に過ぎない。しかも今般、内親王だった眞子さんが「私」を前面に出した恋愛で結婚し、皇室を離れた。このことは、内親王には結婚後も皇室に残ってもらうという案に大きな影響を与えたと言ってもいい。

>辛酸 たとえ女性宮家が誕生しても、それが一代限りなのか、何代も続くのかも議論が必要だと思います。たとえば、もし眞子さんと小室さんの家が女性宮家になっていたとしたら、イギリスの王朝みたいに「小室朝」ができたかもしれないということですよね。黒田朝、小室朝……などと無数にできていくことを想像すると、ちょっと受け入れにくいです。(笑)

>山下 男系天皇論者にも、そう考える方が多いですね。系統が分かれることに抵抗が強いのでしょう。

>小田部 ただ、女性宮家のお相手は婿なので「小室朝」とはなりません。

>辛酸 現在の皇室典範のままだと、愛子さまはご結婚されたら皇室を出て、一般人として生きていかれることになりますよね。

>小田部 法律的にはそうです。けれど、将来の天皇として期待されている間は、皇室を出ていきにくいでしょう。


>◆「男性天皇までの中継ぎ」は時代錯誤

>山下 今もお立場が不安定と言っていいでしょうね。幼稚園へお入りになる前からこの議論が始まっていたのに、とうとう成人されてしまう。ご本人とご両親のことを考えると、本当に申し訳ないことをしています。ご本人の人生をどうするかを、ご本人抜きで周りが議論しているわけですが、これは国家による人権侵害だと思います。

>辛酸 結婚せずに、天皇家にとどまる選択肢もあるんでしょうか。

>小田部 皇位継承権がないのに皇室に残れというのは、説得力もないし、強制できないと思います。ただ、愛子さまは天皇陛下の血を引いておられるので、男系女子。だから男系論者にとっても、愛子さまが天皇となることに問題はないはずです。

>辛酸 歴史上にも、女性天皇は8人いましたよね。

>小田部 女性天皇を、次の男性天皇までの中継ぎだと考えている方は多いですね。でも、天皇家において、そもそも男性であっても次の天皇までの中継ぎという方は多いのです。男性優位できた日本では、世継ぎは男性が当たり前でしたが、ジェンダー論の観点からみても、現代社会でその考え方は時代錯誤だろうと思います。

>辛酸 愛子さまの立ち居振る舞いを拝見していると、大変な人格者のようにお見受けしますし、器の大きさを感じます。ご即位されたら、国民のことを考えるすばらしい女性天皇になられるのではないでしょうか。占い師の人たちにきくと、愛子さまの顔相は格が違うんだとか。「竜の子孫だ」と褒めていた人もいました。

>山下 ただ、愛子内親王殿下が天皇になるとしても、どんな方とご結婚するかのハードルは高いままです。

>辛酸 お相手はやんごとなき方でないと、納得しない人は多いでしょうね。

>小田部 かといって、勝手に結婚相手を探してきて「はいどうぞ」というわけにはいきません。僕は有識者会議に出席したさいに、「ご結婚なさるなら、まず愛子さまのお気持ちとお相手のお気持ちを尊重する必要がある」と発言しました。

>山下 同感です。報道を見ていると、ご本人のお気持ちはまったく忖度されず、外野が好き勝手言っているように見受けられます。


>◆アイドルが好きな普通のお嬢さん

>辛酸 愛子さまは体重の増減を繰り返されているのが気にかかります。精神的にストレスが多いのかな。雅子さまも、男子出産という重圧があったわけですよね。

>山下 そばで働いていた職員に聞くと、愛子内親王殿下は、御所の中ではとても明るい普通のお嬢さんだそうですよ。

>辛酸 お心の中では好きな方がいらっしゃるのかも。そういえば、愛子さまが小学生の頃、那須の御用邸に遊びにきていた『ドラえもん』ののび太くん似のボーイフレンドが、成長してカッコよくなっているという話を聞いたことがあります。その彼から、ネックレスをもらったとか。

>山下 それは知りませんでした。(笑)

>辛酸 アイドルグループのジャニーズWESTをお好きだとも聞いたことがあります。女子校に通っていらっしゃったから、周りの影響もあってジャニーズにハマったのでしょうか。

>山下 昭和時代の学習院には、旧皇族や旧華族の家のお子さんもいましたけれど、今はほとんどいないらしいです。現代に生きるひとりの女子として、一般の女の子たちと同じような感覚を持っていても不思議ではないでしょう。

>辛酸 最近はジャニーズも高学歴の人が増えていますし、やんごとないお家の方もいるかもしれない。そういう人の中からお相手が見つかればいいのですが。

>小田部 ほかにも、仮に愛子さまがお父上と同じようにイギリスに留学して、イギリス人を好きになって結婚を望まれたらどうするのか、という議論も出ました。

>山下 制度的には、問題ありませんよね。

>小田部 まあ、国民の間に多少は動揺が走るでしょうけれど。いずれにせよ、外国に行けば周囲の目を気にしないですみますし、日本の窮屈さから解放されるのでしょう。眞子さんも留学経験でそう感じて、海外に拠点を作りたいという思いにつながった可能性があります。

>山下 高円宮家の承子女王殿下も、イギリス留学中はかなり自由な毎日を送っておられた。その時のミクシィの日記が流出して話題になりました。

>辛酸 ヤモリのタトゥーを入れたい、とか大胆なことも書いてらっしゃいましたよね。愛子さまも留学されたいというお考えはあるのでしょうか。

>山下 ご両親も留学なさっていますし、お母さまに至っては海外の大学を出ていらっしゃる。1、2年程度の留学の可能性はあると思います。

>辛酸 皇室外交では、語学も必要ですしね。

>山下 ただ、留学しても、愛子内親王殿下のお気持ちやお振る舞いはとくに変わらないと思っています。外国での経験を、公務に活かしていかれるんじゃないでしょうか。

>(構成=篠藤ゆり)小田部雄次,辛酸なめ子,山下晋司

<参考=「愛子さまの天皇即位は?ご結婚相手は?揺らぐ皇室の継承問題。眞子さん結婚の影響も〈前編〉」(婦人公論)>
(22/01/05)


【閻魔大王】 2022/01/06 (Thu) 23:09

副題1=婦人公論記事=2部構成の2部目
副題2=愛子さま、悠仁さまの将来は?皇室の未来を左右する「教育」と国民との関係〈後編〉 皇室座談会 愛子さまの歩まれた20年 小田部雄次 辛酸なめ子 山下晋司」(婦人公論)


>いまだ議論が続く皇位継承問題。愛子さま、悠仁さまの将来はどうなるのでしょうか。>歴史学者の小田部雄次さん、エッセイストの辛酸なめ子さん、皇室ジャーナリストの山下晋司さんが今の皇室をめぐるさまざまな課題について語り合います(構成=篠藤ゆり)
愛子さまの天皇即位は?ご結婚相手は?揺らぐ皇室の継承問題。眞子さん結婚の影響も〈前編〉からつづく


>昭和天皇だけが受けられた特別な教育

>辛酸 悠仁さまは、槍ヶ岳などに登っていらっしゃいますね。それを帝王学だ、と書いている記事がありました。

>山下 年配の方がイメージしている「帝王学」とは、昭和天皇が受けてこられたような教育のことなのかなと感じます。当時は御学問所という特別な教育機関があり、そこに優秀な先生方が集まって、歴史や軍事などについてご進講したわけです。でも、そういうカリキュラムを修了されたのは、昭和天皇だけです。

>小田部 近代の天皇は、江戸幕府から政権を奉還されて、立場を突然決められてしまったようなところがあります。明治天皇は14歳で即位していますし、じっくり教育を受けている余裕もなかったでしょう。

>山下 大正天皇はお身体が弱かったので、勉強より健康だと方針を変えた。昭和天皇は、政府や軍部の希望にかなうような教育を受けてこられた。その次は上皇陛下ですが、終戦時は学習院初等科6年生で、その後も特別な教育機関ではなく、一般の生徒と同じ学習院に通われた。

>辛酸 じゃあ、帝王学というのは都市伝説みたいなものですか。

>山下 ご自身の置かれた立場や宮中祭祀などへの使命感や責任感といった精神的な部分を引き継ぐことを、今は大事にしているのではないでしょうか。

>小田部 天皇陛下は、水の研究をなさっています。世界に目を向け、水害や水がなくて苦しんでいる人たちをどうやって助けるか、という内容です。私は陛下が書かれた論文やご著書を読み、これぞまさしく治世の要を学ぶ帝王学ではないかと感じました。海外で陛下の研究は高く評価されています。深い知性とご業績があるからこそ、世界が日本の皇室を好意的に見てくれている。


>われわれ国民が皇室に与える影響

>辛酸 皇室の存在意義などが問われることもありますが、やはり天皇陛下が代々いらっしゃる国ということで、世界から敬意を払ってもらえるのかな、と私は感じます。

>山下 それと、天皇や皇后の人柄も大事でしょうね。今後、しょうもない天皇が出てくる可能性も、ないとは言えません。

>小田部 天皇といっても聖人君子ばかりではないというのは歴史が証明していますから。悪だくみをする側近に左右されてしまうこともありました。

>辛酸 雄略天皇みたいに、残虐な人が現れてしまったり。

>山下 立派に育っていただくためには、教育はもちろんのこと、国民も温かく見守らなくてはいけない。国民の感情や言動は、皇室の方々に大きな影響を与えています。私たちの尊敬の念や信頼の気持ちが皇族の方々の勇気や自信となり、国家国民のために働こうというモチベーションにつながると思いますから、皇室と国民が良好な関係を保つのは、大事なことです。

>辛酸 悠仁さまは、宮内庁の文化祭で精巧な信号機の模型を出品されていました。あれはなにか国民のために、道路事情を変えたいとか、今後そういう思いにつながっていくでしょうか。

>山下 さぁ、どうでしょう。これからやりたいことを見つけていかれるのかな、と思っていますが。

>小田部 直近の有識者会議(21年7月26日に開催)では、皇位継承について「歴史や伝統は大変重く、有資格者がいる現状を踏まえ、大きな仕組みの変更は十分慎重でなければならない」という指摘がなされました。悠仁さまの次代以降については「将来、判断すべき事柄ではないか」と、結局すべて先送りです。

>山下 男系男子を維持すべきだという人は、今の法律を変える必要がないから、普段は黙っている。そして、女性・女系の議論が出た時に、反対すべく声を大にする。この20年近く、ずっとその繰り返しでした。安定した皇位継承は喫緊の課題だと言われていたのに、10年後、20年後も「喫緊の課題」と言い続けている気もします。要するに議論だけして結論を出さない。

>小田部 そうなりそうですね。

>辛酸 愛子さまも、20代で結婚される可能性は大いにありますよね。

>山下 佳子内親王殿下にしても愛子内親王殿下にしても、10年先には皇室にはいらっしゃらないかもしれません。

>小田部 とにかく、愛子さまと悠仁さまがまだお若いうちに将来の基礎を固めないと、皇室存続は危ういと思っています。

>構成: 篠藤ゆり
>出典=『婦人公論』2021年12月14日号

>小田部雄次:おたべ・ゆうじ
1952年、東京都生まれ。立教大学大学院博士課程単位取得退学。2018年より現職。専門は日本近現代皇室史。著書に『華族』『皇族』『皇族に嫁いだ女性たち』など

>辛酸なめ子:しんさん・なめこ
1974年、東京都生まれ。アイドルからスピリチュアルまで、独自の視点で取材し執筆。皇室ウォッチャーとしても知られる。著書に『新・人間関係のルール』『辛酸なめ子の独断! 流行大全』など

>山下晋司:やました・しんじ
1956年、大阪府生まれ。宮内庁に23年間勤務し、おもに報道機関対応を担当。2001年に退職後、皇室解説の第一人者としてメディアで活躍。著書に『いま知っておきたい天皇と皇室』など

<参考=「愛子さま、悠仁さまの将来は?皇室の未来を左右する「教育」と国民との関係〈後編〉 皇室座談会 愛子さまの歩まれた20年 小田部雄次 辛酸なめ子 山下晋司」(婦人公論)>
(22/01/05)


【閻魔大王】 2022/01/08 (Sat) 21:48

副題=当事者の話、ご意向は、全くの聞かず。

これが、そもそもの、人権蹂躙では<?>

まあなあ、
心配すな。多くの旧宮家は、本家たるの、天皇家を大切に考えてるです。
そもそもが、養子とは、何ぞや<?>
これこそが、意向を考慮せずの、人権蹂躙也。
はっきり、申しの、秋篠宮家の教え、教育方針よりは、しっかりされてると、推測するです。

<写真>
「新年祝賀の儀」で「松の間」に入られる天皇、皇后両陛下と秋篠宮さま、皇族方=2022年1月1日、皇居・宮殿[代表撮影] - 写真=時事通信フォト



>安定的な皇位継承の在り方などを議論してきた政府の有識者会議は、昨年12月に最終的な報告書をまとめた。弁護士の堀新さんは「皇族数を確保する方策として提出された2案は、どちらも現実的ではない。皇室が途絶えることを想定して、ポスト皇室を議論するべきではないか」という――。


>■悠仁親王が天皇になるまでは現在の制度を維持

>眞子さんが結婚して皇室から離れた現在、皇室の人々の人数はわずか17名になりました。このような状況を踏まえ、昨年12月22日、政府の有識者会議が皇族の人数の確保に向けて報告書を発表したところです。

>まず有識者会議は、皇位継承の在り方については特に変更を考えないこととして、踏み込むのを避けていることに注意してください。

>現在の皇室典範では、父親が天皇か皇族である男性皇族(いわゆる「男系」)だけが天皇になれることになっていますが、この点については変更せず、悠仁親王が天皇になるまでは現在の制度を維持するものとしたうえで、差し当たって皇族の人数を確保する案を示しただけなのです。


>案を簡単に紹介すると、

>①女性皇族が結婚しても皇族の身分にとどまる。ただしその夫と子は皇族にはならず、一般国民のままとする
>②皇族が養子をとれるようにする。具体的には1947年に皇族から離れて一般国民となった人(旧宮家)の子孫を養子にすることを主に考える。

>という2案です。

>(他に、旧宮家の子孫を皇族の養子という形ではなく、直接的に皇族にするという案も発表されていますが、有識者会議は他の2案より困難なものとみているので、ここでは省略します。)

>以下、これらの案とその問題点を簡単にご紹介しましょう。


>■現在以上に女性皇族が結婚困難になるのがオチ

>まず①の案については、女性皇族が結婚しても夫と子は一般国民のままで皇族にならない想定ですから、夫と子は、財産権も営業の自由も政治活動や信教の自由も保障されることを意味します。

>つまり皇族の夫と子が、その立場やイメージを営業活動に利用したり、新興宗教を立ち上げたり、政治運動に利用するのも自由だということになります。

>実際にはそういう事態が起こらないように、女性皇族の結婚相手については今以上に厳しい「身体検査」が行われるようになり、メディアの追及も激化するでしょう。

>結婚して皇室から離れる眞子さんの時ですら小室圭さんに対してあれほどのメディアのバッシングが起こったのですから、結婚しても女性皇族が皇室から離れないということになれば、どれほど過酷な取材や報道が行われるか、容易に想像がつきます。

>果たしてそういう状況を覚悟して女性皇族と結婚する人が現れるでしょうか。

>現実的に考えてみると①の案は、結婚した女性皇族が活動するようになるというより、単に現在以上に女性皇族が結婚困難になるのがオチだと思われます。


>■想定されていない女系皇族

>なお、仮に女性皇族の夫と子も皇族になるという制度にした場合、新たな難問が出てきます。現在の制度では想定されていない「母親は皇族だが、父親が一般人である皇族」(いわゆる「女系」の皇族)が現れることになるからです。

>現在の皇室典範では、父親が一般人である皇族というのは想定されておらず(だからこそ女性皇族は結婚すると皇室を離れることになっている)、天皇になれるのも、父親が天皇か皇族である男性皇族(前述の「男系」)に限られているのです。


>■誰が皇室の養子となるのか

>一方②については、現在は認められていない養子制度を皇室に導入することが前提になっています。養子といっても誰でもいいというわけにはいきませんから、有識者会議としては、基本的には過去の天皇の子孫の一般国民を養子にする仕組みを考えています。

>具体的に案として挙がっているのは、いわゆる旧皇族とか旧宮家の子孫と呼ばれている人々です。

>あまり詳しくない読者の方のために、この「旧宮家」についてここで簡単に解説しておきましょう。旧宮家とは、第2次世界大戦後の1947年10月14日まで皇族であった11の宮家のことですが、今の天皇家や秋篠宮家との血縁はかなり遠いのです。

>戦後の1947年10月14日に皇族の身分を離れて一般国民となったのです。

>公職についた有名な人の例としては、終戦直後に首相を務めた東久邇稔彦氏や、JOC元会長の竹田恒和氏がいます。

>若干ややこしくなりましたが、旧宮家の子孫は、現在の皇室の室町時代のご先祖である後花園天皇の弟の子孫というわけです。しかも父から父へと代々継承されてきた、男系子孫です。


>■旧宮家が皇族になることの難点

>この旧宮家の子孫の人々に皇族になってもらえば皇族不足の問題が解消できるということで話題になっているのですが、この案もいくつか重大な難点があります。

>まず、現在の旧宮家の子孫の人々は、あくまで先祖が天皇や皇族だったというだけの一般国民でしかなく、憲法により完全な基本的人権を保障されているということです。

>選挙権や被選挙権もあれば、職業選択の自由、居住移転の自由、信教の自由などが保障されており、何らかの職業に就いて社会生活を送っている人もいくらでもいます。

>このような人々の意思を無視して、勝手に一般国民としての自由や権利を奪い取って皇族にすることなどできるわけがありません。

>そこで同意をしてもらって養子にするという案が出てきたのです。


>■たとえ養子になることに同意しても…

>仮に養子として皇族になることに同意する人がいたとしても、その人が既に結婚して子もいる場合、妻や子はどうするのかという点がまず問題になります。

>妻と子がすんなり同意するとは考えにくく、また妻と子が反対して本人だけが皇族になることに同意するなどという事態も常識的にみてありえないでしょう。ちなみに有識者会議の案としては、既に子がいる場合、子は皇族とならないことを想定しています。

>そうなると独身の人(しかも若い人)がふさわしいということになりますが、人生これからという立場の人が、果たして不自由な身分にわざわざなろうと思うでしょうか。

>さらに、既に会社員などの職業に就いていたら辞めねばならないのかとか、住宅などの私有財産がある場合はどう扱うのか(憲法上、皇室財産は国に属することになっています)など、難問がたくさん出てきます。


>■メディアにとって格好の標的

>何よりも、仮に皇族になることに同意するとなったら、メディアにどのような扱いを受けるかは(先ほどの女性皇族の結婚相手の場合と同様)想像がつくでしょう。

>あらゆることが暴き出され、何かトラブルでも見つかれば(というより、トラブルでなくても、話題になるネタさえあれば)徹底的なバッシングを受けることになります。

>とりわけ旧宮家の子孫といっても1947年10月14日(大正天皇の皇子たる秩父宮・高松宮・三笠宮を除く11宮家51名が皇籍離脱した)より後に生まれた人は、すべて生まれた時から一般人として生活して社会の中でさまざまな経験をしてきたのであり、別に一般の世界から切り離されたお屋敷みたいなところで特殊な生活をしていたというわけではないのです。


>■一般国民の中に身分差別を持ち込むのか

>また、皇室典範の条文をどのように書くかという点も問題です。皇室典範も法律の一種ですが、法律の条文に「昭和22年(1947年)10月14日に皇族の身分を離れた者の男系の子孫については、養子とすることができる」みたいな感じで書くのでしょうか。

>しかしこれは、法律の中で、一般国民の内部に、生まれによる差別(「皇室の養子になれる身分」と「そうでない身分」の差別)を明確に持ち込むことを意味します。

>日本国憲法の次の条文をここで見てください。

第十四条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
② 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。(以下略)

>旧宮家の子孫も現在は「国民」です。先祖が過去の皇族だろうと武士だろうと農民だろうと、「国民」はすべて「法の下に平等」でなければならないのに、先祖によって扱いが違うことを法律の中にハッキリ書き込んでしまうことが許されるでしょうか。

>日本国憲法が認めている唯一の身分差別は、天皇・皇族と一般国民の間の違いだけであり、一般国民同士の中では、先祖が誰であろうと、「法の下に平等」でなければならないはずです。

>この問題を避ける方法としては、皇室典範の条文では特に血筋を限定せずに誰でも養子になれるかのような書き方にしておいて(つまり「法の下に平等」)、実際の運用のレベルで旧宮家の子孫が養子となってくれる話が持ち上がった時だけ皇室会議で承認する(それ以外の人が「皇室の養子になりたい」と言い出しても、ただ単に無視すれば良いだけ)ということが苦肉の策として一応は考えられるでしょう。

>ちなみに皇室会議とは、男性皇族の結婚などについて審議する機関であり、内閣総理大臣、衆議院議長、最高裁長官、皇族2名などによって構成されます。


>■現在の天皇家と血筋が離れすぎている

>さらに別な問題としては、旧宮家の子孫の人は現在の天皇家とあまりにも血筋が離れているという点も指摘されています。先ほど述べたように、旧宮家の子孫の人々の父方(男系)の祖先をさかのぼっていっても、さきほどの室町時代の伏見宮貞成親王までさかのぼらないと、現在の天皇家と共通の男系祖先に至らないのです。

>遠い祖先のところで過去の天皇から分かれた子孫でいいというのであれば、別に南北朝時代の天皇の子孫に限る必要もないのではないでしょうか。

>例えば平安時代の桓武天皇や清和天皇や村上天皇などの子孫は、桓武平氏や清和源氏や村上源氏であり、その血を引く人を探せば日本全国に膨大に存在するはずです。

>有名な例としては、細川護熙元首相が挙げられるでしょう。細川元首相は大名の細川氏の子孫ですが、細川氏というのはもともと清和源氏ですから、清和天皇の子孫なのです。

>こうしてみると、実際問題として旧宮家の子孫の人に皇族に戻ってもらうというのも多くの難点を抱えた選択肢のように思われます。


>■皇位継承の避けられない困難

>このように皇族の数を確保するといってもなかなか容易な話ではないのですが、さらに今回の議論で避けてきた将来的な皇位継承をどうするかという問題にもすぐに直面しなければならなくなることも明らかです。

>どのような形をとるにしても、皇室が続いていくには、とにかく皇族が結婚して子を産まなければなりません。その結婚相手が見つかる保証はあるのでしょうか。

>一般国民としての自由や権利の保障を全て捨てて、皇族と結婚して皇室入りしてくれる人がいなければ、もうどうにもならないのです。


>■お妃を選べる立場なのか

>現在でも、悠仁親王について「お妃選びをどうするか」という話題が出ることがありますが、そもそも皇族は結婚相手を「選べる」立場なのでしょうか。

>天皇が皇太子時代に雅子さんと結婚するまでどれだけ大変だったかを覚えている人は、皇族の結婚について決して楽観的になることはできないでしょう。

>皇族の人数の確保にしても、皇位の安定的継承にしても、もはや非常に困難な状況といわなければなりません。


>■「ポスト皇室」を考えるべき時である

>より根本的な問題として、一般国民とは違う不自由な身分としての「天皇・皇族」をいつまで、そもそも何のために維持する必要があるのでしょうか。

>また、皇族の人数の確保について考えるのも結構ですが、逆に自由になりたい皇族がいたらどうすればいいのでしょうか。

>皇室の人々は、2000年生きてきた人間でも古代人でも聖人でもなく、われわれと同じ時代を生きる生身の現代人なのです。

>皇族の人数の確保や皇位の安定的継承を考えるだけでなく、ここは発想を転換して、逆に皇族の人数が確保できず、皇位が継承できない事態になっても混乱しないような仕組みづくりも考えてみた方がいいのではないでしょうか。

>備えあれば憂いなしといいます。これまで表立って議論されてはこなかったのですが、いわば「ポスト皇室」の事態に備えることも検討すべき時期のように思えるのです。

>堀 新(ほり・しん)弁護士
1963年生まれ。1987年、東京大学教養学部教養学科第三(相関社会科学)卒業。1987年、株式会社東芝入社、主に人事・労務部門で勤務。2001年~2003年、社団法人日本経済調査協議会に出向。2006年、司法試験に合格、2007年、最高裁判所司法研修所にて司法修習。2008年、弁護士登録。「明日の自由を守る若手弁護士の会」会員。主な著書に『13歳からの天皇制』(かもがわ出版)。

<参考=「「いまのまま皇室を続けることは困難」眞子さん結婚で明らかになった"不都合な真実"を考える」(PRESUDENT)>


<参考=NO.320 <皇位継承問題>愛子さま/秋篠宮家/旧宮家


【閻魔大王】 2022/01/25 (Tue) 23:04

参考=林真理子氏インタビュー 最新作は女性皇族の数奇な人生を描く『李王家の縁談』(NEWSポストセブン)


<写真1>
林真理子さんが最新作『李王家の縁談』を語る(撮影/政川慎治)



>【著者インタビュー】林真理子さん/『李王家の縁談』/文藝春秋/1760円

>【本の内容】
文藝春秋連載時から話題を呼んだ作品の単行本化。梨本宮家に生まれ、朝鮮王朝の皇子に嫁いだものの戦後、王族の立場を剥奪され、「悲劇の王女」と語られることも多い方子妃の結婚は、母・伊都子妃が主導したものだった。その内幕を、伊都子妃の残した日記などをもとに赤裸々に描き出す。時代に翻弄されながらも強く生きた女性たちの姿に胸が熱くなること請け合い。

>きっかけは李垠の異母妹の徳恵と宗武志夫妻の写真
>梨本伊都子(なしもといつこ)という女性がいた。

>旧佐賀藩藩主の鍋島家に生まれ、梨本宮守正王に嫁ぐ。長女の方子(まさこ)は朝鮮王朝の王世子李垠(イウン)に嫁いだ。

>侯爵である父が特命全権公使として駐在していたイタリアの都ローマで生まれ、「伊都子」と名づけられた娘は、結婚によって皇族になり、戦後は皇籍離脱により一般市民として生きた。数奇な運命をたどったひとりの女性の人生を、林さんは「縁談」をキーワードに描き出す。

>「30年ほど前に『ミカドの淑女』を書いて以来、皇族・華族関係の本が出ると、手に入れて読み込んできました。本棚の一角にはそのコーナーがあります。李王家に関心を持ったのは、李垠の異母妹の徳恵(トケ)と宗武志(そうたけゆき)夫妻の写真を見たのがきっかけで、一種異様な印象で、心に残っていました。徳恵の結婚も伊都子妃が世話をしたと知り、『縁談』というテーマでまとめられるかな、と思ったんですね。『李王家の縁談』というタイトルもすぐ浮かびました」

>林さんに取材したのは東京・千代田区紀尾井町の文藝春秋本社。すぐそばにある赤坂プリンスホテルの旧館が、かつての李王家邸だ。

>執筆には、伊都子の日記が役に立ったという。

>「少女のころから昭和51年に亡くなる直前まで、80年近く日記をつけているんです。誰が訪ねてきたとか、どういう収入があった、いくらお祝い金を渡したとか、事細かに記録しています。日記そのものは宮内庁が『保管する』と持っていって所在がわからなくなってしまったそうですが、小田部雄次先生(『梨本宮伊都子妃の日記』著者)が全部コピーを取っておられたんです」

>貴重な史料が後世に残ってよかった。それにしても、なぜ伊都子妃は「記録魔」になったのだろう。

>「研究好きの鍋島家の血を引いて、頭も良く、時代が違えば女医さんになったんじゃないかという人なんですね。『最新の月経帯』を考案したりもしています。探求心が強く、何か起こればその原因を突き止めようとする。それから、皇族に嫁いだので、誰にも愚痴を言えなかったのでは。恨みつらみは書かれていませんが、日記に書くしかなかったところもあると思います」

>『李王家の縁談』の読みどころのひとつは、李垠と方子の結婚をめぐるいきさつだ。併合された朝鮮と、日本との関係を融和させるための政略結婚で、方子はその犠牲となったと見られ、戦後は「悲劇の王女」と呼ばれた。林さんは、「この結婚は、伊都子から持ちかけたものだった」と見る。

>「方子さんにふさわしい相手が当時の皇族男子にはいなかったので、朝鮮王族を相手に選んだんです。伊都子さんから頼まれた、と宮内省にいた人が戦後、講演で話しています。磯田道史先生からも、伊都子の日記にそう読める箇所があると指摘していただいて、私もなるほど、と思いました。

>朝鮮滞在中に長男が命を落としたり、戦後もなかなか朝鮮に帰れなかったり、方子さんが大変な思いをされたことは事実です。方子さんも、満洲国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟に嫁いだ浩(ひろ)さん(嵯峨侯爵長女)も、政略結婚と見られた相手に嫁いで、逃げずに最後まで寄り添ったのはすごいなと思いますね」


>天皇陛下から「史料が大変でしょうね」と
>伊都子と、大正天皇妃である貞明皇后とのあいだの緊張関係が描かれているのも面白い。

>「大正天皇が皇太子のときに、日光で静養中に、ダックスフントを方子の実家に押しつけて、何度も遊びに来たというのが日記に出てくるんですよね。しょうがないから紐をつけて散歩に出たら、皇太子が外で待ち構えている。おそらくひとめぼれで、伊都子さんは本当に綺麗だったし、お后の貞明さんとしたら、面白くはないですよね」

>貞明皇后の、どこか伊都子を疎ましく思う気持ちが、もしかしたら弟宮の結婚相手を選ぶ際に影響していたかもしれず、のちのち伊都子はそれで翻弄されることにもなる。

>方子の妹規子(のりこ)や、李垠の妹徳恵の縁談でも、伊都子の剛腕は発揮される。徳恵は精神を病んでいたが、貞明皇后の強い望みもあって、対馬の宗家を継いだ武志と結婚することになる。

>「伊都子さんのキャラクターってすごく面白くて、果敢にいろんなことに挑戦して、だめでも別の打開策を探してみる。見ていて胸がすくようなところがあります。お姫さまだから、身分が下の人間を人と思わないところがある一方で、(その後、朝鮮の人への差別意識が社会に広がった中でも)朝鮮の人だから、という差別意識は全然ないんですね。自分自身も精神を病んだ時期があったので、徳恵に対してもとても優しい」

>飛行機が好きで、新しいもの好き。美男で知られた歌舞伎俳優市村羽左衛門が大のひいきと、ミーハーなところもあり、戦争中に「たまには歌舞伎もみとうございます」とこぼしたりする。

>戦争が終わり、待ち望んだ平和が訪れるが、戦後は伊都子にとって暮らしやすい時代ではなかった。

>伊都子の夫、梨本宮はA級戦犯に指定され、巣鴨プリズンに拘置される。半年後に不起訴で釈放されるが、臣籍降下し、経済的にも財産の切り売りでしのぐことになった。

>小説は、皇太子妃に正田美智子さんが内定したというニュースを見て、伊都子が衝撃を受ける場面で終わる。皇族にとっての縁談の重要性は、小室眞子さんの結婚で大揺れに揺れたいまの時代にもつながる、改めて考えさせられるテーマだ。

>この小説の執筆中、林さんは即位の礼や饗応の儀、園遊会など、皇室行事に参加する機会が何度もあったそうだ。

>「行事の間じゅう、どなたも微動だにされないので、すごいと思いました。話し方に、かすかに京なまりが残っているのを感じましたね。天皇陛下からは、『いま何を書いているんですか』とご下問がありまして、『梨本伊都子さんのことを書いています』とお答えしたら、『史料が大変でしょうね』と仰ったんですよ」

>【プロフィール】
>林真理子(はやし・まりこ)/1954年山梨県生まれ。1982年、エッセイ集『ルンルンを買っておうちに帰ろう』がベストセラーに。1986年「最終便に間に合えば」「京都まで」で直木賞、1995年『白蓮れんれん』で柴田錬三郎賞、1998年『みんなの秘密』で吉川英治文学賞を受賞。近著に『綴る女 評伝・宮尾登美子』『美女ステイホーム』『Go Toマリコ』『美女の魔界退治』『小説8050』などがある。

>取材・構成/佐久間文子 ※女性セブン2022年2月3日号

<参考=「林真理子氏インタビュー 最新作は女性皇族の数奇な人生を描く『李王家の縁談』」(NEWSポストセブン)>