みんながパソコン大王
雑談<NO.173>
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総 合 | 目 録 | 趣意書 |
表題一覧表 |
NO | 表題 | 起稿 | 起稿日 |
雑談NO.174 | |||
1839 | 週100時間以上働くエリートほど出世しない理由(ITmedia、3月20日) | 磯津千由紀 | 19/03/20 |
1838 | 惜しまれ愛され続ける「いすゞ」の名乗用車4選(WEB CARTOP、2月21日) | 磯津千由紀 | 19/03/08 |
1837 | 時代の風:日本人の変わらぬ中国観 自国の立ち位置、直視を(毎日新聞、2月17日) | 磯津千由紀 | 19/03/04 |
1836 | 初物の筍 | 磯津千由紀 | 19/03/02 |
1835 | 皆さんにご報告 | セツナ@凛⑦ | 19/03/02 |
1834 | ララ物資 脱脂粉乳 「統治」の味(毎日新聞、2月28日) | 磯津千由紀 | 19/02/28 |
雑談NO.172 |
NO.1834 ララ物資 脱脂粉乳 「統治」の味(毎日新聞、2月28日)<起稿 磯津千由紀>(19/02/28)
【磯津(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/02/28 (Thu) 19:39
こんばんは。
「シバケンの掲示板」でも、「美味しかった」「冷たくなってて不味かった」と評価が分かれてる脱脂粉乳ですが、子供の栄養失調防止に貢献したことは間違いありません。
「ララ物資」だったのですね、少なくとも当初は。ユニセフだと思い込んでました。
> 敗戦後、日本は深刻な食料難だった。それを救ったのが、アメリカの宗教団体や社会事業団体などが組織した「ララ」だ。ほんの1年前まで敵だったアメリカから膨大な食料が送られてきたことに、日本人は驚き、喜んだ。
> たとえば衆議院は1947年7月31日、ララに感謝決議をしている。満場起立して可決された。毎日新聞は同年8月3日の社説で「『ララ』への感謝」を掲載、貧しい人たちが寄付してくれたことを紹介し、「この愛の贈り物の一滴もむだに費やされてはならない」とした。
> 社説が説くように「人類愛」の発露だ。一方、藤原辰史・京都大准教授(農業史)が近著『給食の歴史』で明らかにしたように、アメリカによる食料支援には治安維持の狙いもあった。古今東西、飢えは民衆を怒らせ、為政者からみた「暴動」や革命にもつながる。日本を支配していた連合国軍総司令部(GHQ)、その中心であるアメリカはそれを危惧していたのだ。
> また世相を反映して、ララ物資も盗難や紛失が続発した。小学校の教員3人が牛肉の缶詰32個を盗んだ、という記録もある。敗戦後の混乱期、美談一色ではあり得なかったのだ。
> ■ ■
> とはいえ、ララが学校などでの給食を支え、子どもたちの命をつないだことは間違いない。
> 千葉県内の小学校給食でララ物資を食べた塙博さん(82)によると、教員は給食を「マッカーサーのお恵み」と言っていた。おいしかったのは「羊の肉とジャガイモの煮物」だ。ただ「脱脂粉乳はまずかった」。
> 牛乳から脂肪分を分離し、粉末化。それをぬるま湯などで溶かした。栄養価は非常に高く、保存性も優れていたため長距離を運ぶことができた。しかし味の上では不評だった。塙さんは「たくさんの子どもが教室の外に捨ててしまって、地面が白くなっていましたよ」と振り返る。教師もとがめなかったという。
> ■ ■
> さてララ物資を使った給食は46年12月23日、東京・永田町国民学校で始まった。後身の千代田区立永田町小学校は93年3月に、廃校となった。ただ、建物は残っている。同区に取材を申し込んだところ、「公開していない」と断られた。
> 戦後全国初の学校給食であり、画期的な場所といえる。横浜にあるララ記念碑のように、何らかの形でララの痕跡を伝えてほしいところだ。【栗原俊雄】=毎月1回掲載
<参考=「新20世紀遺跡:/64 横浜市 ララ記念碑/下 脱脂粉乳「統治」の味」(毎日新聞、2月28日)>
<消滅・24/03/01>
【シバケン】 2019/02/28 (Thu) 20:54
<シバケンの掲示板・おうどん・起稿【FH】さん>より。
<注=関連するの途中から、ピロリ菌の話までを引用>
【FH】2019/02/24(Sun) 13:07
シバケンさん 磯津千由紀さん こんにちは。
こちらでは幼稚園と中高時代は弁当で、小学校は学校給食でした。
中高時代は学校に食堂もありましたけどモッタイないので。
給食はそのころ脱脂粉乳でして、皆はマズイと言うてましたが私には美味しかって、皆は贅沢してるんやなぁーと、思ったものです。
それと、鯨肉のフライも美味しかったですねえ。
屋台がまわっていてラーメンを一度だけで、店屋もんなんて一度もなかったですね。
その昔は魚屋さんも自転車で回ってまして、他のは自給自足。(笑)
---
【シバケン】 2019/02/24(Sun) 14:04:15
FHさん、こんにちは。
>中高時代は学校に食堂もありましたけど
へえの、そですか<!>
当方の学校には、無かったです。高校の隣に、個人の食堂はあったですが。
入った事、無いですが。
>給食はそのころ脱脂粉乳でして、皆はマズイと言うてましたが私には美味しかって、皆は贅沢してるんやなぁーと、思ったものです。
それと、鯨肉のフライも美味しかったですねえ。
ハイ、
脱脂粉乳<!>
全くの同感<!>です。
不味い、臭いと、当世、テレビでも云うてるのが、居てるですが。贅沢なヤツや、なと。
当方、美味しく、戴いてましたです。
そ、云えば、鯨肉も、旨かったですねえ。
大体が、牛乳なんか、口に入りませんでして<笑>
覚えてるは、小学校<多分>の遠足で、松原牛乳<どこか、忘れたですが>に見学で、牛乳を戴きまして。
汚い話ですが、帰宅した頃、下痢<笑>
>その昔は魚屋さんも自転車で回ってまして
そ、云えば、豆腐も、ですねえ。竹竿も。
竹竿は、喰えませんですが<笑>
自給自足ねえ。
それが、理想ですねえ。
---
【FH】 2019/02/24(Sun) 15:30:
シバケンさん こんにちは。
>高校の隣に、個人の食堂はあったですが。
その お話で思い出しました。
学園祭のクラブ活動で遅くなったときに高校近くのお店からラーメンを出前してもらってましたね。
この小父さん、片足の膝下が無く、それでも自転車で、ホイホイと。
>覚えてるは、小学校<多分>の遠足で、松原牛乳<どこか、忘れたですが>に見学で、牛乳を戴きまして。
こちらの近所と言いますか、24号線<竹田街道>の勧進橋以南の西にありまして、同じように見学に行って牛乳を頂戴しましたです。
>そ、云えば、豆腐も、ですねえ。竹竿も。
竹竿は、喰えませんですが<笑>
お豆腐は、ココに22年前に引っ越ししてから5年ほど前まで軽のバンで回ってはりましたんですがご両親が高齢になられたことで廃業されました。
転居前は、お婆さんが木製の押し車で”タイデンプ”を売りに回られてましたです。<タイヤも木製やったような。>
物干用の竹竿ですと、やっぱり 自家製でした。
稲を干す竹を流用でぶっといこと。(笑)
---
【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/02/24(Sun) 16:46
シバケン様、FH様、こんにちは。
当方も、小学校(昭和38年~44年)は給食で、御飯は当然ながらまだでパン、牛乳もまだで脱脂粉乳。脱脂粉乳、偶に暖かいときはマシでしたが、冷たかったせいか不味かったことを記憶してます。
中学校(昭和44年~47年)・高校(昭和47年~50年)は弁当。当世と違って、食堂は無かったです。但し高校では、パンを売ってたですし、いつでも買える牛乳(テトラパック)の自販機があったです。
中学校までは、外食は、偶に近所(当時の国道1号線沿い)のラーメン屋でラーメン70円、年に一回ぐらい掛川駅前の老虎(ろうこ)という大衆中華食堂。
高校の頃は、時々学校帰りにラーメン屋やお好み焼き屋。小遣いが月に千円、頻繁には寄れませんでした。
大学(昭和50年~56年)では、半数以上が自宅通学でしたが、部活に入ってたのは大半が地方出身者(下宿に独りでいると、わびしくなるので、私も部活に入りました)。初めて喫茶店というものを知りました。学食が2つあり、カレーライスが120円でしたので、弁当は持参せず。饂飩やラーメンの値段は覚えてません。夕食も学食が多かったですが、部活の友達との外食もしばしば。店名は忘れましたが、大学正門そばにセルフサービスの安くて美味しくてボリュームがある洋食屋があり、いつも学生で一杯でした。バイトを始めてからは、外食が増えました。バイトは、月十万円ぐらいから始まり、ピークには二十万~三十万円。
---
【シバケン】 2019/02/24(Sun) 17:27
FHさん
>>覚えてるは、小学校<多分>の遠足で、松原牛乳<どこか、忘れたですが>に見学で、牛乳を戴きまして。
>こちらの近所と言いますか、24号線<竹田街道>の勧進橋以南の西にありまして、同じように見学に行って牛乳を頂戴しましたです。
へえ<!>
ですねえ。
松原牛乳は、そちらの近所<!>ですか<!>
イヤイヤ、
当方、
牛乳と、なればの、松原牛乳です<笑>
イヤ、
通り名の、松原通りの市場もありまして。
馴染みのある名、でも、ありまして。
トーフは、亀岡の当地でも、時々ですが、軽トラで、売ってるですねえ。
ですが、タイミングが合わずで、買う時には、店に行ってるです。
大抵は、スーパーの、ですが。
で、
”タイデンプ”<?>
イヤ、
皆目の何か、分かりませんです<汗>
磯津千由紀さん
イヤイヤ、
当方など、オコズカイを貰ってませんでして<笑>
まあ、云うたら、お年玉が全て。
そのお年玉も、そんなには、戴けずですが。
も、あり、
FHさんも、仰ってますが、こちらでは、店屋モンなんか的、考えありまして。
まあ、云うたら、贅沢。
当世なら、ファミレスも身近になったですが。
これも、実は、ささやかなるの、贅沢気分味わえるですねえ。
にしても、
>バイトは、月十万円ぐらいから始まり、ピークには二十万~三十万円。
凄いですねえ。
当方時代なるは、バイトの時間給100円です。
これでも、上等ですが。
エキストラ、祭礼とかなら、3、4時間で、千円呉れたですが。
---
【FH】 2019/02/25(Mon) 08:43
おはようございます。
シバケンさん こちらでは”タイデンプ”と呼んでますが、検索して画像からコレのことです。
<参考=「ひと手間かけた、ふわふわ鯛でんぶ」(cookpad)>
<24/08/16>
昔は黄色やピンクに着色されてて、ご飯にふりかけて、食べておりました。
---
【シバケン】 2019/02/25(Mon) 10:25:25
FHさん、おはようございます。
”タイデンプ”
わかりましたです<汗>
鯛デンプ<!>
当方も、検索したですが。
タイのでん粉<?>的、結果が出たりして<笑>
そ云えば、赤い天ぷらの粉<?>が、混ぜられてるの事、あるですねえ。
イヤ、
当方、その辺り、全くの、です<大汗>
コレ、何<?>的、考えませんでして。口に入って、旨い、不味い程度ですねえ。
我が家では、振りかけですねえ。
所謂の、「ぶぶあられ」です。
ンの、これにも、混ざってたの哉と<笑>。
イヤ、
祖母が、大好きでして。歯がありませんので、あられをご飯に振りかけ、お茶掛けて。
さすれば、あられもふやけて、柔らかくになりますのでねえ。
おまけで、少々の塩味も。
イヤ、
コレマタ、今頃ですが、1つ賢くなったです<笑>
「鯛デンプ」<!>
---
【FH】 2019/02/25(Mon) 14:29
ご両人様 こんにちは。
磯津千由紀さん
脱脂粉乳は冷めるとあきませんでしたか。
私は美味しかったので冷めるまでに飲んでしまってましたです。(笑)
食パンをちょっと、浸けたりしましてね。
タダ一つ嫌いやったのは、石鹸のようなチーズでして、食べずに持ち帰りました。
シバケンさん
お伝えしたクック・パッドのところでは、”鯛でんぶ”と なってますね。
私は耳からの情報が多いので”ぶ”が正しいのかもです。
ぶぶあられは食べたことが無いですねえ。
あられと言えば家で搗いた餅を小さなサイコロ状に切って乾燥させて保存食に。
それをホウロクで煎って番茶をジューンとかけて食べておりました。
飲み物は井戸水に砂糖を入れて、麦藁の軸をストローにしてチュー。(笑)
---
【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/02/25(Mon) 20:56
FH様、こんばんは。
小学校では、殆どの日、脱脂粉乳は冷たかったです。たまに生暖かい日があると、少しは「いけた」のですが、冷たいと不味かったです。
食パンでしたか。当地では、コッペパンでしたです。
---
【シバケン】 2019/02/25(Mon) 23:27
FHさん、こんばんわ。
イヤ、返事が遅くになりまして<汗>
これ、「ひらがな」なら、「鯛」が出て来るですねえ。
「カタカナ」では、デタラメ<笑>
まあねえ。
祖母は、何でも、お茶漬けにしてたです。
歯がありませんでして。
それでも、「おこうこ」は、切れると。歯で。フウンと<笑>。
ちくわ、かまぼこも。ソーセージも。
で、
あられ、餅系好きでして。祖母の話ですが。
まあね。
ご存知の通り、昔は、火鉢で、焼いてました故、焦げて、外が難くなり。
ンの、餅の話ですが。
これには、醤油に浸けて、お茶漬けにしますと、フヤけまして。
イヤイヤ、
当方も、好きでして<笑>
井戸水ねえ。
仏光寺時代は、裏のもの置き<注=他家>にありまして。
時々、飲んでたです<笑>
イヤ、鍵も掛かってませんでして。当家から、即の行けまして。
イヤイヤ、
隠れては、飲まずの、居ても、居てなくともの、まあ、云うたら、公認。
これが、ピロリ菌の原因哉と<笑>
何年か前に、退治したですが。
---
【FH】 2019/02/26(Tue) 11:58
ご両人様 こんにちは。
磯津千由紀さん
コッペパンというものを長い間知りませんでしたです。
ウチは農家ですので家ではお米だけでして。
田んぼに行ったときは日の丸弁当か、サンマの丸干しの焼いたのをご飯の上にです。
シバケンさん
丸餅は昨日のお昼に焼いて砂糖醤油で食べましたです。
>これが、ピロリ菌の原因哉と<笑>
アリャ! 井戸水はあきませんですか。
砂と炭を入れたところを透して飲んでたんですが、その程度で除菌はできませんね。
---
【シバケン】 2019/02/26(Tue) 12:16
FHさん、こんにちは。
ピロリ菌の件ですが。
井戸水も、可能性の1つと、されてるダケです。
で、
幼い頃、親なり、祖父母から、食べ物を、咀嚼して、与えられる場合、多々ありまして。
コレ、その親、祖父母なりが、ピロリ菌持ってましたら、そこから、感染が、大きい。
らしいです。
つまり、
井戸水は、煮沸せず、直接に、飲むこと、多いですのでねえ。
菌が居てないの水なら、宜しいですが。
分かりませんでして。
とりあえず、
当方の場合、その両方の可能性あったです<笑>
で、
FHさん、ピロリ菌検査、まだなら、一度、調べられたらと。
イヤ、簡単でして。
<参考=NO.1212 ピロリ菌・除菌の話>
NO.1835 皆さんにご報告<起稿 セツナ@凜⑦>(19/03/02)
【セツナ@凛⑦】 2019/03/02 (Sat) 13:26
私、セツナは、第一志望校である高専に・・・・・
合格しました!!!!!
【シバケン】 2019/03/02 (Sat) 16:17
オッとの、
それは、それは、
ヨカツタです。
兎に角、オメデトウ 御座います。
万歳三唱<!!>ン満開<!!>
イヤ、
ン万回<!!>です。
【セツナ@凜⑦】 2019/03/05 (Tue) 16:38
あざます!!!!
これで高専に入って色々と技術を吸収できる・・・w
【磯津(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/03/07 (Thu) 15:23
セツナ@凜⑦様、こんにちは。
おめでとうございます。
私が在学してた大学のロボット工学の教授が高専でもロボット・コンテストを始めましたが、高専を卒業する予定なら宜しいのですけど、中途で一流大学への編入をお考えなら、部活やバイトに大きな時間を割くのは無理だと、思ってください。
NO.1836 初物の筍<起稿 磯津千由紀>(19/03/02)
【磯津(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/03/02 (Sat) 20:51
こんばんは。
今日、昨日に掘った初物の筍を、食しました。
まだ皮を剥く前は10cmぐらい(写真)、皮を剥くと香の物ぐらいの量でした。
まだ柔らかく、筍といえども、消化は悪くないだろうと。柔らかく煮た饂飩に入れました。
NO.1837 時代の風:日本人の変わらぬ中国観 自国の立ち位置、直視を(毎日新聞、2月17日)<起稿 磯津千由紀>(19/03/04)
【磯津(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/03/04 (Mon) 21:56
こんばんは。
中国の内情も昔とは様変わりしてるそうで、古い中国観を持っていてはいけないといいます。
そして、日本も変わらねばならないといいます。
> 城戸久枝・ノンフィクションライター
> 上海で10年働く友人が、春節休みで帰国した。久しぶりに会って、最近の中国事情について聞いてみる。中国のキャッシュレス化がどれほど浸透しているのか、くわしくレクチャーしてもらった。レンタサイクルでも、屋台でも、現金で支払うことはほとんどなくなったそうで、最近は割り勘するときも、アプリのやり取りで決済できるのだという。日系企業で働いている彼女は言う。いまの日本は、中国の変化についていけてないように感じると……。日本と中国の関係の変化を感じさせられるような言葉だった。
> 私は1997年から2年間、中国東北地方にある長春市の吉林大学に留学していた。留学生活のなかで、さまざまなカルチャーショックを受けた。特に驚いたのは、中国の人が想像以上に日本のことを知らないということだった。そして、日本人もまた、中国のことを知らないとわかった。当時はすでに、中国の経済発展はめざましかったが、日本人の意識としては、自分たちはまだまだ、中国よりも立場は上にいるような意識は少なからずあったように思う。日本の電化製品が人気であり、日本に留学を望む人が多かった。日本に憧れている人も多かった。そんな時代だった。
> あれから、20年が過ぎた。日本の国内総生産(GDP)は早々と中国に抜かれて、世界第3位になった。日本の経済は停滞し続けている。しかし、日本人はいまだに、自分たちがアジアのトップにいるという意識から抜けきれてはいないように思う。
> たまに中国に関するニュースが取り上げられていると思えば、中国のどこそこで、日本をまねたキャラクターを使った遊園地がある(最近では、汚職追放キャンペーンにスーパーマリオとそっくりなキャラクターが使われていたという話もあった)とか、壁にはさまれた子供の話、マナーが悪い旅行者の姿、爆買いなど、20年、30年前と何ら変わりがない内容ばかり。そんなニュースを見るたびに、少しうんざりする。もっとほかに、取り上げるべき中国の話題はないのかと。
> 今月9日、3月に退職される徳島大学総合科学部の葭森(よしもり)健介教授の最後の講義と謝恩会に参加するため、徳島を訪れた。徳島大学は私の母校であり、葭森教授は、私が中国政府奨学金留学生として中国に留学したときの大きなきっかけを作ってくださった大切な恩師だ。卒業してからも常に私のことを気にかけてくださっている。魏晋南北朝史を中心とする中国史を研究されていて、これまでにも、私を含め、多くの学生を中国留学に送ってこられた。中国の大学との交流も深く、徳島県日中友好協会会長もつとめられる葭森教授が、いまの日本と中国の関係をどう思われているのか知りたいと思った。
> 「日本人は、中国に対して、今もまだ、助けてあげないといけないという意識を持っている。それではだめなんです。もう助ける必要なんてない。今は時代が変わってきている。中国が変わっているということに気づかないといけないんです。日本人が変わらなければならないんですよ」
> 葭森先生はそうおっしゃった。では、どうしたら日本人は変われるのか?
> 「もっと外に出ていかなければ。今、日本国内にいると、とても居心地がいいのですよ。だから出て行こうとしない。自分たちがマジョリティーの立場にいてはいけないんです。自らマイノリティーの世界に足を踏み入れて、マイノリティーの立場から物事を考えるんですよ。そうすることで、日本人は、殻をやぶることができると思うんです」
> 教授の言葉を聞きながら、私は自分の留学生活を思い出していた。中国留学の一番大きな収穫は、自分たちとは違う環境で育ち、異なった考え方を持つ友人たちと出会ったことだった。そのときに、私は自分が母国である日本のことを知らないということを知った。そして、初めて世界が広がったように思う。
> 日本は、どうしたら変われるのだろうか。それには、まず、世界の中で、日本がどのような立ち位置にいるのかを客観的にとらえることが必要だと思う。過去のいい思い出にとらわれ過ぎないで、足元をしっかりと見極める。そうすれば、これからの日本の進むべき道が見えてくるのではないかと思うのだ。=毎週日曜日に掲載
<参考=「時代の風:日本人の変わらぬ中国観 自国の立ち位置、直視を(毎日新聞、2月17日)」(毎日新聞)>
<消滅・24/02/18>
NO.1838 惜しまれ愛され続ける「いすゞ」の名乗用車4選(WEB CARTOP、2月21日)<起稿 磯津千由紀>(19/03/08)
【磯津(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/03/08 (Fri) 23:18
こんばんは。
「117」といえば「フローリアン」のことですが、外観を変えただけの「117クーペ」は全く違う評価をされていました。
「ジェミニ」の回頭性の良さには舌を巻きました。
「ビッグホーン」は、良く出来たクロスカントリー車でした。
ところで何故「ベレル」や「ベレットGT」が取り上げられてないのでしょうか。
乗用車ではないですけど、いすゞといえば「エルフ」が他社の追随を許さない人気車ですが、私は、がさつなエンジン音が好きになれません。何故あれほどの人気があるのでしょうか。
> 2002年に乗用車事業から完全撤退
> いすゞ自動車というと今ではバスやトラックなど、働くクルマを中心に生産、販売をしており、「運ぶを支える」自動車メーカーとして知られているが、過去には乗用車も手掛けており、現在でも多くのファンがいるほど魅力的な車種を多くリリースしていた。
> いすゞの乗用車は1992年に小型乗用車の自社開発を中止。2002年にはSUVモデルの製造販売とOEMモデルの乗用車の販売も終了し、日本国内での乗用車部門から完全撤退しているが、これは企業力強化のため経営資源を得意とする商用車の分野に集中するための苦渋の選択であり、その結果見事V字回復を成し遂げたというわけなのである。
> 業績が回復した現在でも、現状は乗用車部門に復帰する予定はないということでそれを残念に思うファンも少なからず存在すると思うが、今回はいすゞが生み出した魅力的な乗用車を振り返ってみたい。
> 1)117クーペ
> カロッツェリア・ギアに在籍していたころのジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたことでも知られるいすゞのスペシャリティクーペ。デビューは1968年だが、その後2回の大幅な改良を受け1981年まで生産された息の長い車種でもあった。
> 当時の新車価格はクラウンを大きく上回るほどの価格だったが、それ故か発売開始以来の10年間に1台も廃車が出なかったとの記録があるほど大切にされた車種でもあった。
> 2)ピアッツァ
> 117クーペの実質的な後継車種となるのが、1981年に登場したピアッツァだろう。117クーペと同じくジウジアーロがデザインしたエクステリアは、1979年のジュネーブショーに参考出品された「アッソ・ディ・フィオーリ」をほぼそのまま市販化したようなものだった。
> いまだにテレビCMで覚えている人も多いモデルも
> 3)ジェミニ
> ふたご座を表すジェミニと名付けられた理由は、初代モデルが当時業務提携していたゼネラルモーターズの世界戦略車として多くの国で兄弟車が販売されていたことにほかならない。いすゞではベレットの後継車種として1974年に登場。ベーシックカーとしてはもちろん、スポーツグレードのZZシリーズも存在し、モータースポーツでも活躍した車種だった。
> 85年に登場した2代目モデルはFFレイアウトとなったが、一番印象的なのは「街の遊撃手」のコピーとともにジェミニがパリの街中を走り回るCMだろう。
> 90年には3代目となり、1.6リッターながら180馬力を叩き出すイルムシャーRが話題を集めたが、前述する92年の自社開発の中止に伴い93年夏で販売を終了。以降はOEM車として車名が残ることとなった。
> 4)ビッグホーン
> パジェロ(1982年登場)やハイラックスサーフ(1983年登場)などが登場し、RVブームが巻き起こった80年代だが、それよりも前にデビューしていたのが1981年に登場したビッグホーンだった。
> 4WDピックアップトラックであるロデオのシャシーを流用し誕生したビッグホーンだけに、当初デビューした2ドアバンモデルの正式名称はロデオビッグホーンだった。87年にはRVながらレカロシートやモモステアリングを装着したイルムシャーも追加されており、今考えればかなり時代の先を行っていたRV車だったのである。
<参考=「惜しまれ愛され続ける「いすゞ」の名乗用車4選」(WEB CARTOP、2月21日)>
NO.1839 週100時間以上働くエリートほど出世しない理由(ITmedia、3月20日)<起稿 磯津千由紀>(19/03/20)
【磯津(寫眞機廢人)@ThinkPad R61一号機(Win 7)】 2019/03/20 (Wed) 22:48
こんばんは。
エリート社畜は報われない(?)。
> 名門大学を出て大手一流ファームで働くエリートたちは、働く量も半端ではない。中学校から大学院まで、第一志望校に片っ端から落ちてきた筆者は自分のことをエリートなどとは決して思わない。しかし、「この人、学歴からキャリアまでピカピカですごいな」と思えるエリートたちとは、勤め先でご一緒する機会に多く恵まれた。
> そして彼らの多くは、まるでスーツをまとった“奴隷”だった。クライアントと上司の都合に合わせ、早朝なら早朝、夕刻なら夕刻で、長時間のミーティングを仕切る。当日、高額報酬を払ってくれるクライアントの前で迷惑をかけたり恥をかいたりしないよう、事前準備にも相当な時間を使う。
> 犠牲を払ってもねぎらわれないエリートの実態
> コンサルや投資銀行、そして外資系法律事務所では、海外オフィスのエキスパートに確認をしないといけない事項が多い。とりあえずメールをするが、重鎮のエキスパートで返信をくれる人は皆無だ。ましてや、クライアントでもない社内の若手社員からくるメールならなおさらだ。
> 従って、自分が帰宅した後も深夜まで起きて待ち構え、時差を考慮しても失礼でない時間帯に国際電話でフォローし、論点をつぶしていく。楽しみにしていたデートや飲み会はキャンセルせざるを得ない。もし、参加できたとしても、時計ばかり気にして全く楽しめないまま、頃合いをみて中座する。
> そうしてこなした会議のあとは、会社に戻って作業に取り掛かる。こなしてもこなしても減らない仕事に没頭していくと、だんだん集中力が低下し、自分が空腹であることに気が付く。ふと外を見れば、さっきまで朝日がさしていたはずの大手町のビルが、夕日に照らされている。
> とっくの昔に飽きてしまった料理の出前を秘書に頼み、夕食を自分のデスクで食べる。深夜以降にタクシーで帰宅するが、そのころには疲れと睡眠不足で顔はふやけてボロボロだ。翌朝目を覚ませば、メールボックスは新着メールでてんこ盛りである。布団にくるまりながらそれらをチェックし、今日1日のタスクの優先順位を頭で決め、むっくり起き上がる。また、怒涛(どとう)の1日が始まるのだ。
> こうした努力をしても、プロジェクト終了後、クライアントはファームを代表する自分の上司に感謝し、苦労をねぎらう。自分には直接言葉を掛けてくれない。そして上司は、自分にメールなどで「(プロジェクト完遂)おめでとう!」くらいは言ってくれるが、それ以上のねぎらいはない。それでも人間味のある上司なら、これまで頑張ってきた部下が週末にゆっくりと休み、リフレッシュしたタイミングを見計らってから新規プロジェクトを任せてくる。しかし、エリートファームの大部分の上司たちには、そのデリカシーすらない。
> 3000円の弁当を5分で食べる
> 筆者自身、大手企業の株式上場やM&Aのアドバイザーをしていた時期があったが、案件が動いているときには週末返上で働いており、1日の平均睡眠時間は3時間弱だった。スマートフォン内蔵の目覚まし時計を「2時間47分」後に鳴るようにセットしていたのは、1分でも長く寝ていたいからだ。また、寝過ごしてしまう場合に備え、別のタイマーを「3時間10分」後に鳴るようセットしていた。歯磨きとシャワーの時間を犠牲にしたら出社に間に合う時間を計算していたのだ。基本、ずっと事務所や客先の会議室に缶詰め状態だった。
> 仕事中、空腹になれば3000円くらいの出前を会社経費で頼むが、期限に追われてゆっくり味わう時間などない。届いたら書類とにらめっこしながら(でもタレやしょうゆが書類に飛ばないかドキドキしながら)まるで牛丼をかきこむように5分程度で食べ終える。有名店の出前もあったが、それをおいしいと感じた記憶は、一度もない。
> 常に眠気に襲われているのだが、仕事を終えてから床につく前に、早朝まで開いているBARか自宅で強めの酒を30分ほど飲む。酔いたいからではなく、起きたらまた怒涛の1日が始まるからこそ、「精神的なワンクッション」をおいてからその日を終えたいがためだ。
> 2011年、ニューヨークを訪れた母が私のありさまをみて、「葬式みたいな顔をした鬱(うつ)の人」などと半分冗談めかして、でも心配そうに言っていたのを今でも思い出す。
> 出世するエリートとしないエリートの分かれ道
> 今の時代、「エリート」はもはや誉め言葉ではなく、いわゆる「英才教育」に飼いならされている人のことを指すのかもしれない。小学校4年から週3回、夜10時まで塾に行き、中高一貫の進学校に通い、大学や大学院もトップスクールを出る。そして当然のことのように横文字の名門ファームに就職するのだが、その時に知っている「処世術」はたったの1つしかない。「出された宿題は、100点満点を目指して期限内にこなすのは当たり前。さもなくば落第」という、強迫観念に満ちた処世術だ。
> 驚いたのは、私が見る限り、そういう「型にはまったエリート」こそがたいして出世できていない事実だ。昇進できず、組織やクライアントに対する愚痴を言いはじめ、それでいて勇気を出して独立や転職もせず、うだうだしている。
> そういう彼らも、「外資系コンサル」や「弁護士」といった職種自体にはある程度のやりがいを感じており、自分の地頭の良さや体得したスキルがあってこそこなせる仕事だという自負も持っている。ただ、完璧主義を貫きすぎて心身が疲弊してしまい、仕事と自分の困憊(こんぱい)状態とをセットにした「日常全般」を、嫌いになってしまっているのである。
> 無限に仕事を与えられても、学生時代に長らく自分を支配してきた強迫観念により完璧を目指そうとする。それでも、限界に達した身体と心はだんだん言うことをきかなくなり、「あれ、自分が生きてる目的ってなんだったっけ?」という素朴な疑問を抱くようになる。結果、目的意識を失った疲労困憊のエリートは、可でも不可でもない、「そつない仕事」を期限だけは死守してこなすようになる。
> そして「そつのない」出来栄えだからこそ、社内や業界内で存在感がかすんでしまう。クビにはならないが、昇進にも結び付かない。
> 「逃げる人」ほど「勝つ」?
> 対照的に、本当にトップに立つ人ほど、ある意味うまく自分の「逃げ道」を用意している。自分がそのキャリアを愛し、うまくやれる自信があるからこそ、「仕事を嫌いになってしまわないような環境」を自らつくっているのだ。
> 人生の伴侶との記念日があれば、上司にも譲らず事前に掛け合って時間をつくり、エンジョイする。重要プロジェクトで忙しかろうが家族の有事には必ず立ちあい、親友の結婚式にも駆け付ける。そして、自分が切羽詰まってしまい「何もしたくない」と感じたときには、無邪気なウソをついてでも、自分だけの時間を設ける。
> 皮肉な現象だが、エリート社会ではこうして「逃げ方を知っている」人ほど「勝って」いる。降ってくる仕事を何の疑いもなく完遂しようとするのではなく、その仕事を含めた「トータルとしての日常」を長く愛し続けられるよう、自分の環境を積極的にマネジメントしているのだ。公私ともに楽しみな目標を掲げる。そして体調に関しても、疲れてはいても「慢性的な困憊状態」に自分を追い込まないよう、良い意味で自分を律している。結果、頑張るときには頑張りきって最高のパフォーマンスを発揮しているのだ。
> 筆者は現在、調査から買収まで、日系企業のアジア展開支援をする「Asia Disruptive」をマレーシア拠点から、社会課題解決型の投資ファンド「ミッション・キャピタル」を東京からそれぞれ展開しているが、社員がどこで何時間何をしながら働いているのかについては一切詮索しない。これまでの人生経験から、社員が最高のモチベーションで仕事をすれば、クライアントが満足すると確信できるからだ。極論をいえば、「自分が最高に頑張れる環境のマネジメント」に資するなら、彼・彼女らがハワイやイタリアに住んでくれても良いと思っている。
> 因果関係は「努力」ではなく「成果」
> 本コラムでは、「週100時間以上働くエリートが出世しない」と問題提起した。ただし、100時間以上働いたことと、彼らが出世できなかったことに直接の因果関係はない。根底にある因果関係は、「期日内に合格点をもらえる成果物を提出する」ことを自分を押し殺してまで目指すばかりに、最高のパフォーマンスを発揮できるような環境づくりをないがしろにしてしまうところにある。
> 人の幸せは、何もキャリア上の出世ばかりではないのは承知の上だ。しかし、ここまで働き方改革に関心が寄せられる今の日本でこそ、画一的・根性論的な「努力」ではなく、個々人の「成果」にフォーカスすることの是非を国民的に議論できれば良いと思う。オンとオフをトータルで愛せないまま、全身全霊で「オン」のみを頑張り続けられる人はいない。
> 著者プロフィール
> 金武偉(キム ムイ)
> 調査から買収まで、日系企業のアジア展開支援をする「Asia Disruptive」及び社会課題解決型投資ファンド「ミッション・キャピタル」でマネージング・パートナーを兼任。1979年生まれ。UCLA、ゴールドマン・サックス証券、JPモルガン証券、ボストン大学ロースクール、サリヴァン・アンド・クロムウェル法律事務所、企業買収ファンドのユニゾン・キャピタル、国内外の複数AI/IoTベンチャー経営を経て現職。
<参考=「週100時間以上働くエリートほど出世しない理由」(ITmedia、3月20日)>