雑談<NO.397>

みんながパソコン大王
総 合 目 録 趣意書

表題一覧表

NO 表題 起稿 起稿日
雑談NO.398
3374 <激戦を生き抜いた、日本海軍有数の戦闘機乗り>が語る、気持ち。 シバケン 24/02/12
3373 灘中学校の入試問題・算数 磯津千由紀 24/02/11
3372 <訃報>小澤征爾 クラシック音楽家 88歳 心不全 磯津千由紀 24/02/11
3371 古希過ぎて大学、傘寿でYouTube 萩本欽一さんが池上さんに託した遺言 磯津千由紀 24/02/11
3370 <前立腺肥大症・新手術法>但し、病院により、出来る、出来ないがある<!> シバケン 24/02/07
3369 <枕の向き>寝るときに避けるべき「枕の向き・位置」(shufuse) シバケン 24/02/04
3368 <小惑星>2月2日夜<!>直径約290mの小惑星が地球付近を通過<!> シバケン 24/02/02
雑談NO.396

NO.3368 <小惑星>2月2日夜<!>直径約290mの小惑星が地球付近を通過<!><起稿 シバケン>(24/02/02)


【シバケン】 2024/02/02 (Fri) 19:34

2月2日。
とは、今日<!>の事。

<想像図>
Getty Images



>スタジアムサイズの小惑星が日本時間2月2日金曜日の夜に地球の近くを通過する。そして、そのサイズと地球への接近距離のため、NASAの科学者らは危険がないか監視している。

>直径約290mの小惑星が、秒速約18kmで地球から約270万km(月までの距離の約7倍)以内のところを通過するとNASAのジェット推進研究所は発表した。

>「2008 OS7」と呼ばれるその小惑星は、太陽を962日周期で周回しているため、次に戻ってくるのは2026年となるが、その次に地球へ接近する2037年では、地球から約1600万kmの距離を通過する見込みだ。

>NASAは、地球から約750万km以内に接近する直径140m以上の天体を「潜在的に危険な小惑星」に分類しているため監視している。

>地球付近を通過するのは日本時間2月2日金曜日の午後11時41分頃と予測されている。肉眼で見えることはできないが、NASAがバーチャル小惑星トラッカーを提供して小惑星の位置をリアルタイムで伝えているほか、Virtual Telescope Projectがライブ中継を行う。

>小惑星は惑星と同様に太陽を周回している岩石質の天体だが、惑星よりずっと小さいとNASAは説明している。約46億年前に太陽系が形成された時の残骸からできている。小惑星2008 OS7は、アポロ群と呼ばれる地球軌道と交差する可能性のある1万8232個の小惑星からなるグループに属している。

>近年NASAは、地球に接近する小惑星の脅威をより深刻に捉えている。2022年のDARTミッションでは、小惑星の軌道を変更するテストを行った。NASAは探査機を宇宙に飛ばして小惑星に衝突させ、その公転周期を32分短くした。さらにNASAは、地球に接近しているベンヌと呼ばれる小惑星を研究するミッションで探査機OSIRIS-RExを送り込んだ。同探査機は小惑星の標本を採取し、2023年9月に地球に届けたが、発見内容は未だに公開されていない。科学者らは、ベンヌが2182年に地球に衝突する可能性を信じており、それがベンヌの探査が行われている理由だ。OSIRIS-RExミッションの科学者チームは、ベンヌが2182年に、テキサス州サイズの領域に2700分の1の確率で衝突する可能性があると考えている。Icarus誌に掲載された2023年の論文による。

>2月2日に地球近傍を通過する小惑星は2008 OS7だけではない。あと2つ小惑星が近づいている。小惑星2024 BJ3は今年発見された直径約21mの飛行機サイズの小惑星だ。2008 OS7よりもずっと近い86万km以内に接近する。小惑星2024 BP1も飛行機サイズだがやや大きい直径約40mほどで、この中では最も遠い340万km付近を通過する。

<参考=「2月2日夜、直径約290mの小惑星が地球付近を通過 NASAも監視中」(NEWS PICKS)>
(24/02/02)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2024/02/03 (Sat) 02:28

 こんばんは。


 最近トンと聞かぬが「Space Guard」は何してるんだろう。


<副題=スペースガード(Wikipedia)>


NO.3369 <枕の向き>寝るときに避けるべき「枕の向き・位置」(shufuse)<起稿 シバケン>(24/02/04)


【シバケン】 2024/02/04 (Sun) 23:49

信ずる者は、救われる<!>
かなあ<?>

>寝るときに「枕の向き・位置」、気にしていますか?

>一般的にはあまり意識されないかもしれない枕の向きや位置ですが、これが運気に影響を及ぼすとされています。特に、現在取り組んでいることの成功を妨げるかもしれない方角は避けたいところです。運気を高めるためにも、枕の置く方角を考えてみるのが良いでしょう。


>寝る際に避けるべき「枕の向き・位置」4選!


>寝る際に避けた方がよい枕の向きや位置には、以下のようなものがあります。
>1.リフレッシュしたい時に「東向き」の枕で寝る
風水によれば、東は朝日が昇る方角で、活動的なエネルギーを受け取りやすいとされています。しかし、リラックスや休息を求めている時には、この活動的な方角が逆効果となり、心身のリラックスを妨げる可能性があります。

>2.キャリア成長を望む時に「西向き」の枕で寝る
西向きの枕は、落ち着きと内省に適している方角ですが、仕事での成長や活発な活動を求める時期には、この方向が物足りなさを感じさせることがあります。ただし、リラックスや深い睡眠が必要な時には良い選択になります。

>3.強いエネルギーが不要な時に「南向き」の枕で寝る
南向きの枕は、風水では強いエネルギーを持つ方位とされています。この方向で寝ると、日常生活が忙しくなったり、心身が疲れやすくなることがあるため、穏やかなエネルギーを求める時には避けたほうが良いでしょう。

>4.仏教を強く信仰している人が「北向き」の枕で寝る
北向きの枕は風水では良いとされますが、仏教では亡くなった人が向く方位とされています。このため、仏教を深く信仰する人にとっては、北向きで寝ることに抵抗を感じることがあるかもしれません。不快感を感じる場合は、無理に北向きで寝る必要はありません。


>寝るときの枕の向きは「北向き」がおすすめ

>風水学では、就寝時の枕の方角として北を推奨しています。北向きで寝ることの利点を探ってみましょう。

・地球の磁場が北から南へ流れるため、体の疲れを効率的に取り除ける

・気の流れが北から南へと進むため、自然のリズムに合わせやすい

・運気を向上させる効果があると風水では考えられており、金運や対人運、人間関係の改善に繋がるとされる

>北枕で寝ることは、多くのメリットがあるとされています。インドでも、北は神聖な方角とされているため、枕の向きに迷っている方は、北向きを試してみる価値があります。


>まとめ

>枕の向きに関心がある場合、特に北向きが推奨されます。宗教的な背景や信念で北向きに寝ることに抵抗がなければ、試しに北枕での睡眠を体験してみるのが良いでしょう。

>実際に北向きで寝ることで、体感的な変化や心地よい睡眠が得られるかもしれません。是非一度試してみて、その違いを感じてみてください。

<参考=「寝るときに避けるべき「枕の向き・位置」4つ!運気を下げるタブーな向きとは?」(shufuse)>
(24/02/02)


NO.3370 <前立腺肥大症・新手術法>但し、病院により、出来る、出来ないがある<!><起稿 シバケン>(24/02/07)


【シバケン】 2024/02/07 (Wed) 09:14

現状<2021年1月現在、当方、手術、レーザー法<表中「核手術」に該当>では、圧倒的多数の病院では、旧式の、電気メス法<表中の、「切除術」に該当>。

当方の場合、京都市立病院では、レーザー法で施術してましたので、入院先に選択。

これは、当該病院のホーム・ページを閲覧で、泌尿器科の施術法に寄るの実績が記載されてるです。

言うは、最新手法存在しても、やってるの病院、やってない病院があるです。

>排尿障害を引き起こす「前立腺肥大症」は、中高年男性と切っても切れない病気だ。ぼうこうの下にある前立腺が年齢とともに大きくなり、尿道を圧迫する。治療は、まず薬物療法だが、進行すると尿の通り道を確保するための手術が必要になる。近年は体への負担が少ない方法が相次いで保険適用となり、選択肢が広がった。 (植木創太)


>◆患者数108万人
> 愛知県日進市の男性(76)は数年前から、前立腺肥大に伴う排尿障害に悩んできた。夜は1時間おきに尿意を催し、慢性的な睡眠不足に。昨春には尿が出せなくなり、ぼうこう内に尿が満ちているのに出ない「尿閉」の状況になった。投薬も効果は薄く、尿道に細い管を挿して排尿することになったため、8月に愛知医科大病院(同県長久手市)で手術に踏み切った。

<表1>
前立腺肥大症と主な手術法



>受けたのは、内視鏡を通じて尿道に光ファイバーを入れ、前立腺に「ツリウムレーザー」と呼ばれる特殊な光を照射する「前立腺蒸散術」。尿道をふさいでいる肥大した前立腺をレーザーで熱して気化させたことで、術後は尿閉が解消。1カ月で術後の血尿も治まり、「今は出したいときにおしっこへ行ける。この普通がありがたい」と喜ぶ。

>前立腺は精液を作る男性特有の臓器。加齢による男性ホルモンの低下などによって大きくなり、50歳で3割、80歳で9割に肥大が見られる。「前立腺肥大症」と診断されるのは、その中でも肥大と排尿症状があり、治療が必要な場合。厚生労働省の患者調査(2020年)によると患者数は108万人とされている。

>悪化すると、排尿回数が増え、尿が意図せず漏れ出たり尿閉になったりするほか、血尿などの合併症になることも。腎機能の悪化や細菌感染のリスクを高め、生活の質は著しく下がる。


>◆体の負担軽減

<写真2>
患者の尿道から内視鏡を入れ、高出力のレーザーで肥大した前立腺を気化させる梶川さん(左)=愛知県長久手市の愛知医科大病院で



>軽症の場合、前立腺の緊張を解き圧迫を弱めたり、前立腺を小さくしたりする薬で尿を出やすくする保存療法が一般的だ。ただ、服用し続ける必要がある上、肥大がさらに進むと、患部を除くための手術が避けられない。一方で、体への負担や出血を心配し、手術をためらう人は少なくない。

>だが、手術などの外科的な治療法の進歩は近年著しい。同大泌尿器科の梶川圭史さん(40)によると、ツリウムレーザーによる治療はその代表格。狙った部位だけを安定的に気化できるため、内視鏡から入れた電気メスで切除する標準的な手法に比べて、術中の出血量が格段に少ない。基本の入院日数も4~5日と短く、「循環器系の持病で血液をさらさらにする薬を服用中の場合も施術でき、治療効果も高い」という。肥大した体積が大きい場合はレーザーでくりぬく「核出術」でも活用できる。尿路結石のほか、全摘が基本の尿管腫瘍の治療にも応用が期待されているという。

>ほかにも、前立腺へ器具を埋め込み組織を押さえ付けることで尿道を広げる「つり上げ術(ウロリフト)」や、高温の水蒸気を当てて組織を壊して体に吸収させて縮める「水蒸気治療(レジューム)」が、相次いで公的医療保険の適用となった。いずれも局所麻酔での内視鏡手術で出血の危険も少ないため、長時間手術に耐える体力がない高齢者にも施せる。肥大具合や症状により適さないケースもあるが、性機能も維持しやすい。

>梶川さんは言う。「効果的な薬に加え、負担の少ない手術法もそろってきていて、早期治療の効果が高い病気。気になる人は、年のせいとせず、専門医にぜひ相談してほしい」

<参考=「前立腺肥大症 相次ぐ新治療」(東京新聞)>
(24/01/30)


NO.3371 古希過ぎて大学、傘寿でYouTube 萩本欽一さんが池上さんに託した遺言<起稿 磯津千由紀>(24/02/11)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2024/02/11 (Sun) 01:59

 こんばんは。


 萩本欽一氏は、芸に真摯に取り組むことと、各種分野の若い人の面倒見が良いことで、知られています。


> コメディアンとして、司会者として、テレビの笑いを自ら変えてきた。数多くのレギュラー番組から育ったタレントも大勢いる。「視聴率100%男」と評され、バラエティー番組に影響を与え続けてきた萩本欽一さん(82)は、今のテレビ番組をどう見ているのだろうか。ジャーナリストの池上彰さんとの対談では、笑いに対する考え方や、70歳を超えてからの大学生活といった新たな挑戦について語った。【構成・瀬尾忠義】


> 「欽ちゃん」と呼ばれなくなって…

> 池上 「萩本さん」ではなく「欽ちゃん」とお呼びしますが、よろしいですよね。

> 萩本 実は「欽ちゃん」と呼ばれなくなってテレビに出演するのをやめたの。ああ、欽ちゃんは終わったと思って。芸能生活は長いけれども、ちょっとまずいところに来ちゃったな。だらしなくやってきたのに「萩本さん」と呼ばれるようになったら背負っているものが重くなったと感じて。でもね、香取慎吾(さん)と共演することになった時、若いのに平気な顔をして「欽ちゃん、よろしく」って言ってくれてさ。こんなに長く芸能界にいる萩本欽一を前にして「欽ちゃん」って呼んでも、私は怒らない人だと気づいてくれた。なんてすてきな青年なんだと思いましたよ。

> 池上 80歳にして「ユーチューブ」(動画投稿サイト)に挑戦されました。ゴーグルのようなカメラを顔に着けて仮想空間「メタバース」も体験されていて驚きました。

> 萩本 「ユーチューブがおもしろいよ」と勧められたので挑戦しました。仮想空間も経験しましたが、なかなか笑いでは使いづらいと感じました。仮想空間で別人間になっても、まだまだ生身の人間にかなわない。優秀なロボットを作ったけれども、笑いだけはできなかったという話も聞いたことがあります。まだ、笑いには早いのかな。


> 人生は「勝つか、逃げるか」

> 池上 いろいろなことに挑戦されて、2015年に73歳で駒沢大仏教学部に入学した時はびっくりして、そしてうれしかった。でもなぜ中退されたのでしょうか。

> 萩本 卒業したら「大学出ですね」と言われます。でも「高校出でも頑張れるよ。勉強だけで世の中が成り立っているわけじゃないよ」と。私はそんなことを考えていましたから。

> 池上 幾つになっても学ぼうと思えば学べる。そういう勇気を皆に与えてくれました。

> 萩本 大学では若い人から教わりました。「大学っていいな」って初めて思ったのが雨の日でした。私は雨でも傘を差しませんが、キャンパスを歩いていたら女子学生が「欽ちゃん、ぬれるよ」って声を掛けてくれたの。大学の中だからでしょうね。違う空気のところにいるんだ。なんかいいなあ、って感じたなあ。雨の街を歩いても、誰もそんな声を掛けてくれた人はいませんでしたから。

> 池上 勉強も新鮮だったでしょう。

> 萩本 はい。教室ではアドリブを飛ばしていました。「先生、話がおもしろくないから必ずオチを付けてください」と注文も付けました。授業は新たなことを知る時間でしょう。知ってほしい、覚えてほしいというのならば、1時間半もベラベラとしゃべっているだけじゃ駄目よ。

> 池上 楽しい授業になったでしょうね。

> 萩本 授業は変わりましたね。ただ、最初の1年は試験に出ませんでした。そしたら大学側に呼ばれてね。そこで言いましたよ。人生は「勝つか、逃げるか」だと。勝てそうもない戦いに挑むことはない。だから1年は授業の様子を見たんだ。敵のやり方を見極めようとしたんだ、とね。

> 実は授業にはうまく対応できませんでした。なぜかというと、人の話を聞くよりもツッコミを入れていましたから。授業で「おしゃか様は生まれてすぐに7歩歩きました」って説明されても、そんなことはないだろうって(笑い)。それでもね、人の話を聞き入れる。この習慣を大学で身に付けようって思ったの。これは大切な宝物になるぞ、と。そう考えるようになると、試験の作戦も練られるようになって、授業はがぜん面白くなりましたね。

> それで、最初にできた友達に「どんな試験が出るの?」と聞いたことがあります。そしたら「うーん。少し勉強していれば大丈夫よ」というのが返事で、ヒントなどは教えてくれなかった。たとえ友達であっても、ひきょうなことはしないのは最高の友達だよ!


> 「お悔やみ」ではなくて

> 池上 いい友人関係ですね。欽ちゃんの相方といえば、お笑いコンビ「コント55号」の坂上二郎さんが11年3月にお亡くなりになりました。

> 萩本 あるキャスターが、二郎さんが亡くなったニュースを伝えた後に「二郎さんには、笑わせてもらいました」って言って笑顔になったの。普通ならば「お悔やみ申し上げます」と伝えるのにね。そもそも、みんな同じコメントじゃなくてもいいでしょう。だから私が死んだというニュースは、テレビで池上さんに伝えてもらって、こう言ってもらえたらうれしいなあ。

> 「欽ちゃん、笑わせてもらったなあ……」って。深刻な顔じゃなくて、すてきな笑顔でね。これはもう、私の遺言ですから、ね。


> 最近のテレビは…

> 池上 「コント55号」にはよく笑わせてもらいました。年上がツッコむと後味が悪いですが、年下が年上をツッコむから面白い。私の番組でも、若いゲストのコメントを聞いた私がドギマギしたりすると受けますから。

> 萩本 コント55号が受けない時期がありましてね。そんな時、年下の私が、年上の二郎さんにツッコんだほうがいいのではと二人のアイデアが一致したのです。そうしたら受けるようになりました。

> 池上 後味が悪くならない笑いです。では、今のテレビのお笑いを、どうご覧になっていますか。

> 萩本 チャンネルを変えながら見ていますが、最初から最後まで見ている番組は……ね。僕は東京・浅草の軽演劇出身です。だから目指しているのは、見ている人を笑わせるのではなくて、思わず笑ってしまう笑い。言葉だけで笑わせようとすると、先輩からはっ倒されました。見ている人が思わず笑ってしまうのであって、自分でおかしいことを言う必要はない、とね。

> 池上 そうか。言葉だけの世界で生きていると、言葉だけで何とかしようと思ってしまう。耳が痛いです。

> 萩本 私が好きな番組は、その番組のために調べてきましたというのが分かるもの。これは軽演劇を勉強していると見ていれば分かります。前から知っていたことや、インターネットで簡単に調べたことを話している人の顔は動かないけれども、この番組のために調べてきたという内容を話す時の顔がね、5センチぐらい前にぐっと動きます。

> 池上 見透かされました。怖い視聴者だと分かったところで、今のテレビに対する注文をうかがいましょう。

> 萩本 簡単に言えばテレビは50年前に戻った。自分がいろいろ変えてきたのに、一つも残っていない。だから今、面白いのかもしれませんよ。また古くなったのだから。

> 池上 これから新しいものをつくっていけば、面白い。今のテレビを一言で表せばつまらなくなった、ということですね。

> 萩本 えー、気を付けてください。その問いに簡単にうなずくと思ったら大間違い(笑い)。つまらなくなったのではなくて、工夫がなくなった、と言えばいいですか。

> 池上 分かる気がします。

> 萩本 もう一つ言いますと、番組が当たっても当たらなくても同じギャラというのがね。みんなの給料を上げろとよく言いますが、頑張った人の給料を上げたほうがいい気がするなあ。あとね、ディレクターといった相棒が大事なの。番組を一緒につくる相棒が。池上さんの番組を見ていると、池上さんはディレクターやプロデューサーたちとキャッチボールをしながら番組をつくっているなあ、って分かります。

> 池上 はい、私一人でやっているわけではありませんから。

> 萩本 「全日本仮装大賞」(日本テレビ系)をやめると叫んだ時ですが、私は番組にほれたのではなくて、つくってきた人との人間関係、その相棒にほれて番組をつくってきたのに異動などでいなくなってしまう。いわば戦友がいなくなったのに、私だけが番組を続けてしまったら、ひきょう者になってしまいます。テレビ局には申し訳ないことをしましたよ。でも、お前がやめたら、俺もやめる――。そのぐらいの付き合いで番組をつくっているんです。

> 池上 私が出演する番組では、スタジオのカメラマンも含めてスタッフのほとんどは変わっていません。もしかしたら彼らの出世を妨げているのかもしれませんが、ずっと一緒に関わってくれているからこそ、うまくいっている面は大きい。やはり人と人の関係ですよね。

> 萩本 スタジオの美術スタッフらも含めてとことん付き合いました。そうすると、どんどん自分の意見を言ってきてくれて番組の刺激になります。いい相棒は大事。そうして、いいチームになっていきます。


> 「運は正面から来ない。真後ろから来る」

> 池上 タレントを見ていると、毎日のようにテレビに出演しているなと思っていても、翌年にはパッと消えてしまう。そのような世界なのに出演し続けたのはすごいと改めて感心しています。

> 萩本 作家の野坂昭如さんが「欽ちゃんはもっとテレビに出演しなさいよ。毎日見ていても嫌じゃない人がテレビタレントというんだよ」と言ってくれました。それで次から次へと――。でも、たくさん出演していても、若い人たちにやってもらっていましたから。

> 池上 「わらべ」「イモ欽トリオ」といった、番組で育ったタレントが人気でしたね。

> 萩本 あの子たちが活躍して人気が出たら、あの子たちの番組になるのですから。僕は応援していただけ。

> 池上 若い人が育ったからこそ番組は長続きしたし、欽ちゃん自身も視聴者から飽きられることがなかったということですね。自らテレビに出ながらプロデューサーもやっていたんですね。

> 萩本 かっこいい言い方をすると、そうかもしれません。

> 池上 芸能活動を振り返れば、コント55号から離れた後は、司会者として活躍されました。

> 萩本 あの時は「司会の仕事はできません」と言っていたの。二郎さんにツッコんで、話を止めて、さらにツッコむということをやってきたんだから、話を進行させるなんて無理だと思った。でも、来た仕事は全部司会でした。そこで「嫌だ」とは断らず「ほとんどできないと思うよ」って相手に伝えて。でもね、司会をするようになったことでたくさんのことを知ることができた。だからこう思うようになりました。運は正面から来ない。真後ろから来る。「嫌だ」と断る言葉には運がないけれど「嫌だけれど……やってみる?」というところに運がありそうだなって思います。


> 政界からの誘い

> 池上さんにどうしても聞きたいことがありました。「選挙に出ませんか」というお誘いがあると思いますが、どんな言葉で断っていますか?

> 池上 「私は選挙には出ません。選挙特番に出ます」と言い続けてきました。

> 萩本 うまいなあー。私にも選挙の話が来たことがあります。だから「政治って何をするんですか」と尋ねたら、相手が「国民の皆が笑って暮らせるようにします」と答えました。ですから「私は国会に行かなくても、中継ぎとして(テレビで)1時間は笑わせています。23時間はそちらが政治をやればいいんじゃないでしょうか」と言ったら、相手は「その言葉にはかないません。失礼します」って帰っていきました。

> 池上 ぐうの音もでませんね。では、次にやりたいことのアイデアをお尋ねします。

> 萩本 私は勝つか、逃げるしかやってきていません。逃げないと「次」が始まらない、という面もあります。そのような質問には、こう答えています。「秘密です」って。何かがありそうで、いいでしょう。やらなくてもいいわけで(笑い)。


> 笑い=不謹慎?

> 池上 正月に能登半島地震が起きて大勢の人たちが今も苦しい生活を送っています。被災地で笑いを届けようとすると不謹慎だと批判されることもありますが、被災者の人々が笑いを求めているのも事実。笑いの力についてどう考えていますか。

> 萩本 不謹慎と言われてしまうとね……。難しいですね。東日本大震災の時は、私が出演したバラエティー番組の最初は仮装大賞の放送でした。大災害の後に笑いをスタートさせるのは難しいでしょう。答えは出ませんが、見ている方を嫌な気分にさせないで、笑わすのではなく、思わず笑ってしまう「笑い」ではないかなあ。


> 池上彰の「お礼申し上げます」

> 「私の訃報を伝えるときは『欽ちゃん、笑わせてもらったなあ……』と言ってください」との遺言を託されました。重い責務を預かりましたが、まだまだ先の話ですよ。幾つになっても新しいことに挑戦する。その意気込みに頭が下がります。

> 「言葉で笑わせようとするな」という言葉は、「言葉こそが大事」と思っていた私を目覚めさせる発言でした。私の場合はニュースを伝える仕事ですが、見ている人が思わず笑ってしまうような伝え方も追求してみます。


≫ 萩本欽一(はぎもと・きんいち)
≫ 1941年生まれ。故・坂上二郎さんと「コント55号」結成。80年代には数々の人気テレビ番組を手掛け、合計視聴率が100%を超えた。2015年に駒沢大仏教学部へ入学、19年5月に自主退学した。


<参考=「古希過ぎて大学、傘寿でYouTube 萩本欽一さんが池上さんに託した遺言」(毎日新聞有料記事・池上彰のこれ聞いていいですか?、2月10日)>


NO.3372 <訃報>小澤征爾 クラシック音楽家 88歳 心不全<起稿 磯津千由紀>(24/02/11)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2024/02/11 (Sun) 02:18

 こんばんは。


> 世界のクラシック音楽界に大きな足跡を残し「世界のオザワ」と呼ばれた小澤征爾(おざわ・せいじ)さんが6日、心不全のため東京都の自宅で死去した。88歳。旧満州(現中国東北部)出身。葬儀・告別式は近親者で行った。後日、お別れの会を開くことを検討している。国境や世代を超えて愛されたマエストロだった。

> 情熱的な指揮で世界中を魅了した小澤さんが旅立った。関係者は「呼吸が乱れることもなく、静かに息を引き取られたと聞いています」と明かした。


> “華麗なる一族”を良好な関係で率いたことでも知られた。

> 長男で俳優の小澤征悦(49)は、父親との思い出について「親父の紹介で10歳の時にスティーブン・スピルバーグと会った」などと明かしていた。

> 小澤さんの86歳の誕生日だった2021年9月1日に、NHKの桑子真帆アナウンサー(36)と結婚した。


> 長女はエッセイストの征良氏(52)。小澤さんは、10年に食道がんの全摘出手術から復帰した際、「ラグビーのチームのよう」と家族のサポートに感謝を述べていた。

> シンガー・ソングライターの小沢健二(55)はおい。


<参考=「小澤征爾さん死去 長男は小澤征悦、長女は小澤征良、おいは小沢健二」(毎日新聞、2月10日)>


NO.3373 灘中学校の入試問題・算数<起稿 磯津千由紀>(24/02/11)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2024/02/11 (Sun) 02:35

 こんばんは。


 多寡が中学校の入試問題・・・の筈が全く解けないことに驚き。


<参考=「灘中学校 2024入試問題算数と回答例」(毎日新聞・中学受験SAPIX小学館)>


NO.3374 <激戦を生き抜いた、日本海軍有数の戦闘機乗り>が語る、気持ち。<起稿 シバケン>(24/02/12)


【シバケン】 2024/02/12 (Mon) 22:49

昭和13年<1938年>に、戦闘機搭乗員故、太平洋戦争開戦の、昭和16年<1941年>以前より、終戦の、昭和20年<1945>までの間、戦闘機に乗っての、生存は、珍しく。

さて、
ここに、「慰安婦」の話が出てるです。
半島では、「従軍慰安婦」と称してるですが。それは、半島での、造語で、強制連行され、性奴隷にされたと、言いたいだけです。

実際には、相当に稼ぎ、里に送金なりしてたと、聞くです。そのままに、無事に帰国出来てたら、相当なるの、資産がと。
がしかし、終戦で、急激なるの、インフレで、金の値打ち、暴落したですが。それでも、一気ではないです。

>私が2023年7月、上梓した『太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人は何を語ったか』(講談社ビーシー/講談社)は、これまで約30年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残っている25の言葉を拾い集め、その言葉にまつわるエピソードを書き記した1冊である。日本人が体験した未曽有の戦争の時代をくぐり抜けた彼ら、彼女たちはなにを語ったか。


>日本海軍有数の戦闘機乗り
角田(つのだ)和男は、ラバウル、硫黄島、フィリピン、台湾と、投入された搭乗員のほとんどが戦死する激戦を戦い抜いた、日本海軍有数の戦闘機乗りである。本人が当時つけていた日記によると、単独で撃墜した敵機は13機、協同撃墜は約100機にのぼる。

>そんな角田でも、昭和17(1942)年8月7日、初めてラバウルで米軍の大型爆撃機・ボーイングB-17爆撃機を邀撃(ようげき)したときには膝がガクガク震えて困ったという。

<写真1>
昭和17年、妻・くま子と結婚記念写真



>第二航空隊(同年11月1日、第五八二海軍航空隊と改称)の一員としてラバウルに進出した角田は、空戦に、あるいは味方輸送船団の上空直衛にと、風土病のマラリアを発症しても休む間もないほどの出撃に明け暮れた。日本海軍は、それまで少数精鋭主義を貫いてきたため、搭乗員の絶対数が少なく、戦争が始まって急速養成されるようになったものの、補充が消耗に追いつかない。なかでも1年に数名から10数名しか養成してこなかった戦闘機隊の士官搭乗員の不足は深刻で、本来ならば古参の大尉か少佐が率いるべき零戦36機の大編隊を、飛行兵曹長(准士官)の角田が率いて飛ぶこともあった。

>新任中尉の分隊長が名目上の指揮官として出撃するときも、基地を発進すれば中尉は角田機の一歩後ろに下がり、階級が下の角田が編隊の先頭に立って事実上の指揮官を務める。その働きぶりは、まさにソロモン方面の海軍戦闘機隊の屋台骨を支えているといって過言ではなかった。


>角田の言葉で私の印象に残ったことがいくつかある。ひとつは慰安婦との心のふれあいである。


>「いまさら生きて帰れない、戦死したい」
>日本海軍の一大拠点であったラバウルには、戦闘部隊だけでなく病院や慰安所の施設も完備していた。

>「慰安所は士官用、下士官兵用と分かれていて、士官用の慰安婦はたいてい日本人でした。日本人は沖縄の人が多かったんですが、下士官兵用の多くは、業者に連れられて朝鮮から来た女性でした。慰安婦はみんな若いですよ。数え年で17、8ぐらいですか。20歳という人が最高でしたね。

>法律的なことは知りませんが、本人たちは、戦死したら特志看護婦として靖国神社に祀ってもらえると言っていました。そういうふうに教えられていると。だから、空襲があっても防空壕に入らない子もいたんです」

>角田は、「天皇陛下のために兵隊さんの奥さんの代わりを務めようと決心しました」と健気に語る朝鮮半島出身の若丸という慰安婦が、

>「いまさら生きて帰れない、戦死したい」

>と言って空襲があっても防空壕に逃げようとしないのに同情し、

>「天皇陛下のためにとこの道を選んだ少女がいるのなら、万一の場合は陛下に代わって、お詫びの印に死んでやろう」

<写真2>
昭和18年はじめごろ、ラバウルにて。左端が角田飛曹長



>と、空襲下、若丸とともに防空壕に入らず一夜をともにしたことがある。若丸は、「今日は爆弾が当たる、当たる」と歌うように口ずさみ、「神様、仏様。どうか爆弾が当たりますように」と祈りながら角田の胸に顔を埋めた。角田は、この子の運命がなんとかならないものかと考えながら、「当たれば仕方がないが、なるべく爆弾は当たりませんように」と祈ったという。彼女がその後どうなったか、生きてラバウルを出ることができたかどうかさえ、角田には知るすべがない。

>「金は、確かに儲かるんですよ。昭和18(1943)年当時で、若い子たちがそれぞれ2万か3万円ぐらいの郵便貯金を持っていました。内地で1000円もあれば家が建った時代、少尉の給料が月70円だった頃のことです。内地に帰れば横浜あたりで店でも開くには十分な資金でしたが、あの子たちにそんな経営能力があったかどうか……」


>「地獄の底までついて来い!」
>二つめは、「死ぬのが怖くなった」と、飛行場に出てこなくなった中堅の下士官搭乗員のことである。

>戦闘機乗りも人の子だから、死ぬのが怖いのは当然だ。ふだんは使命感や敵愾心で死の恐怖を打ち消し、明るく朗らかに振る舞っていても、次々と戦友たちが死んでゆくのをまのあたりにするうち、ふと恐怖が頭をもたげてくる。

>角田の部下だった松永一飛曹も、そんな一人だった。本来ならば3機小隊の二番機、三番機を務める程度の飛行時間しかないのに、ベテランが次々と戦死してゆくために経験の浅い松永が9機編隊の中隊長を務めることさえあり、彼はその重圧に耐えられなかったのだ。若い搭乗員たちが角田のもとにやってきて、松永が、飛行機に乗るのが嫌になった、搭乗員を辞めたい、仲間の顔を見るのもつらいと言って部屋に引きこもっているという。角田はわざと朗らかに話しかけて松永の心をほぐし、


>「そう簡単にアメちゃんに墜とされてたまるか。閻魔の関所は俺が蹴破る。地獄の底までついて来い!」

>と気合いを入れた。松永は角田の言葉に持ち前の明るさを取り戻したが、次の出撃で、艦上爆撃機隊を敵戦闘機から守ろうと、勇敢にも単機でF4Uコルセア15機の編隊に挑み、撃墜されて戦死した。角田にとって、悔やんでも悔やみきれない出来事だったという。


>胸のふくらむ思い
>三つめは、角田自身が経験した「胸のふくらむ思い」について。

>昭和18年2月上旬、ガダルカナル島からの撤収作戦が極秘に進められていた頃のこと、角田は輸送船団の上空哨戒指揮官を命じられた。日中、敵機は切れ目なく船団を攻撃にやってくる。そして――。

>「爆弾を積んだグラマンF4Fが20数機で攻撃に来ました。部下たちは先ほど来襲した敵機を深追いして、味方船団上空には私1機しかいない。それで爆弾を命中させないためには、敵の注意を全部、自分に向けさせなくては、そう思って、単機で下から突っ込んでいった。すると案の定、ガンガン撃ってきました。被弾すると、エンジンの爆音のなかでも聞こえるぐらい、大きな音がするんです。

>---撃たれたときは嬉しかったですね。よし、これで俺の作戦は成功したと。敵機F4Fは射撃しながら爆撃の照準はできませんから、輸送船には一発の爆弾も当たらなかった。ガンガン撃たれながら、それまで固くなっていたのが、フワーッと胸がふくらむ思いがしました。

>私は、胸がふくらむ経験をしたのはそのときだけでしたが、のちの特攻隊員も、命中した人たちは同じ気持ちだったろうと思うんです。それまでは怖れて体を固くしてるでしょうが、よし、これで命中するぞと、何秒か前にはわかると思う。そのときはおそらく胸をふくらませたんじゃないか。それが自分の経験からして、ひとつの慰めになるんです。そう思わなきゃいられないですよ」

<写真3>
昭和17年8月、ニューギニア・ブナで空戦中被弾した角田の乗機・零戦三二型(Q-102)はその後、現地に放置され、のちに米軍に鹵獲された



>ニッコリ笑うこと
>四つめは、そんな激戦のなか、角田が実践していたということである。

>「生きるか死ぬか、極度の緊張をともなう空戰で、私は敵機を1機撃墜するごとにニッコリ笑うことを心がけていました。笑うのが無理なら、口角を上げてみるだけでいい。それだけで、けっこう気持ちが落ち着くものですよ」

>ところが、昭和19(1944)年11月11日、特攻隊の直掩機(爆装機の掩護、戦果確認)としてフィリピン・マニラの湾岸道路から発進したさいのこと。

>「マニラの湾岸道路から特攻出撃するとき、毎日新聞社の新名丈夫さん(第一航空艦隊附従軍記者)が、片膝を立ててこちらにカメラを向けているのがわかった。それで、ここでニッコリ、と思ったけど、顔がこわばってしまって私は笑えませんでした。しかし、若い搭乗員でニッコリ笑って出ていく者がいる。すごいと思いましたね……」

<写真4>
昭和19年11月11日、マニラ湾岸道路から特攻出撃する梅花隊、聖武隊の両特攻隊。手前の増槽(落下式燃料タンク)装備機が角田和男少尉機



>角田は、特攻隊に編入されながら、ベテランゆえに爆装(敵艦に体当りする)は命じられず、直掩機として、襲いくる敵戦闘機から爆装機を守り、仲間が敵艦に突入するのを見届ける、辛く非情な出撃を重ねた。大戦末期になると、飛行機の質も低下していて、同じ零戦でも所定の性能が発揮できないばかりか、飛行中にエンジンのシリンダーが裂けるなど、考えられないような故障を起こすことがよくあった。

>「でも私は、前線への出撃待機中、飛行機工場で、勤労動員の女学生が一生懸命作業をしている姿をまのあたりにしていますから、彼女たちがつくった飛行機で死ぬなら、たとえ故障でも本望。喜んで死のうと思っていました」

>と、角田は語っている。こんな人を、神も生かすのかもしれない。

<写真5>
昭和19年10月30日、特攻機の突入を受けて炎上する空母「ベロー・ウッド」(左)と「フランクリン」(右)。角田は直掩機としてこの光景を上空から見てい



>一人一人が脳裏に浮かぶ
>戦後、茨城県で開拓農家となった角田は、自らの生活を犠牲にしてまで戦死した戦友たちの慰霊の旅を続け、遺族にも尽くし、かつての部下たちからは慕われた。ギリギリの極限状態でこそ、人間性の真価が露わになるのだろう。

>平成2(1990)年、積年の無理がたたったのか脳梗塞をわずらった角田は、それでも杖をつきながら、慰霊行脚を続けた。

>角田の1日は、机の上に戦死した戦友の遺影を1ページに1枚ずつ貼った蛇腹折りのアルバムを広げ、般若心経を唱えることから始まる。写真のなかの顔は、みな痛々しいほどに年若い。彼らの顔をじっと見つめ、無心に般若心経を唱えていると、1人1人の最期の状況が、まざまざと角田の脳裏に甦ってくる。

<写真6>
昭和13年、佐伯海軍航空隊で戦闘機搭乗員となった頃。左から角田和男、中瀬正幸、杉尾茂雄(各三空曹)、教員の山口弘行一空曹



>夜は夜で、ベッドに入ると、自分の関係した部隊の戦没者177名の氏名を「南無阿弥陀仏」とともに唱える。心をこめて名前を唱えていると、彼らのまだ幼さを残した顔や、戦後、訪ねた遺族のことなどが脳裏に浮かんでくる。その1人1人が愛しくてならない。

>角田の体はだんだん不自由となり、1本の杖がやがて2本になったが、それでも慰霊祭へ出ることを諦めなかった。

>そんな角田が、あるとき私にしみじみと言った言葉がいまも心に焼きついている。

<写真7>
昭和20年8月、終戦を台湾で迎え、二度と着ることのない飛行服姿で



>夢ははかなくすぐに覚めてしまう
>「いまもよく夢に見ます。戦争で死んだ連中が出てきて、眠っていてもこれは夢だとわかるから、はじめのうちは、『お前たち、また出てきやがったか!早く成仏しろ』と追い払うように無理やり目を覚ましたものですが、歳月が経てば経つほど、夢なら覚めないで欲しい、もっとゆっくり会っていたいと思うようになりました。でも、そう思えば思うほど、夢ははかなくすぐに目が覚めてしまうんです」

>しかし‥‥‥と角田は言う。

>「特攻隊員が敵艦に向かって突入し、目を見開いて、これで命中する、とわかったとき、幸せに胸をふくらませたであろう気持ちは、自分の体験に照らして信じています。ただ、これを戦後世代の人に理解してもらうことはむずかしいでしょうね。ほんとうに胸をふくらませるような、幸せな気持ちになったことがある人が果たしているのかどうか……」

<写真8>
角田は晩年、身体が不自由になってもなお、最後まで戦没者の慰霊行脚を続けた。写真は平成15年、靖国神社で(撮影/神立尚紀)



>平成25(2013)年2月14日、死去。享年94。通夜は2月17日、告別式は18日、いずれも茨城県かすみがうら市の「トモエホール」で執り行われた。

>ふつう、この年齢になると同世代の友人がほとんどいなくなっていて、葬送の式は寂しいものになりがちである。だが、親族はもとより全国からかつての戦友や元部下、戦没者遺族たち、著書や慰霊祭を通じて角田と接し、その人柄を敬愛する若い人たち、角田を取材したことのあるテレビやラジオのスタッフなど、交通不便な場所にもかかわらず斎場いっぱいの人が参列し、故人の人徳が偲ばれた。告別式では、不肖私が弔辞を読む大役を仰せつかり、角田の「戦い」と「慰霊」に明け暮れた生涯を振り返った。軍艦旗に覆われた棺は、特攻隊の元部下たちにも見送られ、永遠の旅路についた。

<本9>
太平洋戦争の真実



<本10>
カミカゼの幽霊



<参考=「あらゆる激戦を生き抜いた「日本海軍有数の戦闘機乗り」が語った「戦後世代の人には理解できない気持ち」 神立 尚紀」(現代ビジネス)>
(24/02/12)