雑談<NO.436>

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表題一覧表

NO 表題 起稿 起稿日
雑談NO.437
3640 <93歳・大村崑>健康のために実践しているシンプルな運動を紹介 シバケン 25/06/30
3639 6月11日刊の令和7年版「科学技術・イノベーション白書」2000円+送料600円 磯津千由紀 25/06/19
3638 <日本国・人口減少>そんなに騒ぐの事か<?> シバケン 25/06/13
3637 2025年6月11日発売のムック「SUBARU AX7/CXD アルシオーネ/アルシオーネSVX」 磯津千由紀 25/06/13
3636 <長嶋茂雄氏<89歳>死去>ミスタープロ野球・巨人軍終身名誉監督 シバケン 25/06/03
雑談NO.435

NO.3636 <長嶋茂雄氏<89歳>死去>ミスタープロ野球・巨人軍終身名誉監督<起稿 シバケン>(25/06/03)


【シバケン】 2025/06/03 (Tue) 11:59

申せば、「巨人、大鵬、玉子焼き」の、巨人を代表するの選手。

丁度、長嶋が、登場の、その頃、テレビが、出だしまして。
当家、電気屋でして。まさしくの、町内の方々、知らんの方までが、店頭に置いてあるの、テレビを見に来たです。

巨人戦のテレビ中継を。大相撲では、大鵬が出場の、テレビ中継を。

当世では、こんな時代があったの、その時代<!>でして。当方何歳頃やったの哉の、現在78歳やしねえ。

長嶋が、89歳なら、11歳の、年長。が、立教大学出ての、22歳なら、当方11歳やねえ。
小学の、4年生、5年生の頃かと。
ンの、概ねの、計算合うです。


まあ、つまり、テレビの普及なるは、この、長嶋が、牽引した。と、言うても、過言でないです。

尚、
当方、巨人ファンであった。
の、過去形。

現在では、アンチ巨人。
では、あれどの、アンチの分、巨人の戦績注視。
よて、アンチ巨人なるは、巨人ファンであるの、裏返し。とも、言われてるですが。正解<!>

理由、高橋由伸君<50歳>のファンでして。監督復帰して欲しいなあと。さすれば、現の監督、阿部慎之助君<46歳>が、邪魔。負ければ、由伸君、復帰の可能性がと。

と、同時に、原辰徳君<66歳>が、苦手で、嫌いでねえ。

まあ、つまり、由伸君、監督辞任2018年>で、原君復帰<2019年>以来、アンチの巨人になった、です。

<写真1>
2018年3月、読売新聞のインタビューに答える長嶋茂雄さん



<写真2>
天覧試合の巨人対阪神戦で、9回裏無死、サヨナラホーム



>プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で死去した。89歳だった。

>1936年、千葉県臼井町(現佐倉市)生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立教大に進み、東京六大学リーグでは、57年秋に、当時の六大学記録を破る通算8本塁打の新記録を作った。

>58年に巨人に入団し、打点王、本塁打王の2冠に輝いて新人王を獲得。翌59年には、初の天覧試合でサヨナラ本塁打を放つなど、無類の勝負強さで、ブームを巻き起こした。王貞治選手とのコンビは「ON」と呼ばれ、65年からのV9の中心選手として、黄金時代を築き上げた。

>背番号「3」は巨人軍の永久欠番。74年、後楽園球場で「わが巨人軍は永久に不滅です」の名言を残し、17年間の現役生活に別れを告げた。同時に巨人監督に就任し、2度のリーグ優勝を果たした。93年に巨人監督に復帰。3度リーグを制し、94年と2000年には日本一に輝いた。01年に勇退し、終身名誉監督となった。

>03年にはアテネ五輪アジア予選で日本代表監督として指揮を執り、予選を突破したが、04年3月、脳 梗塞こうそく を発症し、五輪での指揮を断念した。それでも懸命にリハビリに打ち込み、「もう一度、走りたい」と目標を掲げ、回復に努めた。13年には巨人で指導した松井秀喜さんとともに、国民栄誉賞を受賞した。21年の東京五輪では王さん、松井さんと3人で聖火ランナーを務め、同年秋、野球界から初となる文化勲章を受章した。

<参考=「長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が死去、89歳…巨人の黄金時代築いた「ミスタープロ野球」」(読売新聞)>
(25/06/03)


【シバケン】 2025/06/03 (Tue) 15:39

副題=「メークドラマ」「ON対決」「首位打者6回」…球界に比類なき「ミスタープロ野球」死去(読売新聞)

<写真1>
「ON対決」と呼ばれたダイエーとの日本シリーズを制し、胴上げされる(東京ドームで、2000年10月28日)



<表2>
打撃成績



<表3>
長嶋さんの歩み




<表4>
巨人軍監督時代の成績



>プロ野球・読売巨人軍の選手、監督として活躍し、「ミスタープロ野球」と呼ばれた長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督が3日午前6時39分、肺炎のため、都内の病院で死去した。89歳だった。

>「ミスタープロ野球」として、長きにわたって球界をリードしてきた長嶋茂雄さん。選手としても、監督としても比類のない存在として、数々の実績を残した。


>【選手時代】
>立大から1958年に巨人に入団すると、すぐさま中心選手となった。シャープな打撃、ダイナミックな走塁、華麗な守備で、一躍、スターの仲間入りを果たした。

>V9時代にともに活躍した世界のホームラン王、王貞治が「記録の王」と呼ばれたのに対し、「記憶の長嶋」と称された。それでも、打者・長嶋の成績は華々しいものがある。通算2471安打、444本塁打、1522打点、打率3割5厘。首位打者6回、打点王5回、本塁打王2回と、主要な打撃タイトルを王と分け合った。最優秀選手(MVP)にも5回輝き、常勝軍団をリーダーとして引っ張った。

>打者としての最大の特長は、チャンスでの勝負強さだ。3番・王を敬遠した後に、4番・長嶋に痛打を浴びた投手は数知れない。特に、大舞台には強く、59年の天覧試合でのサヨナラ本塁打は象徴的な一打だ。「お祭り男」とも呼ばれ、オールスターゲームや日本シリーズでの成績はずばぬけていた。注目が高まる一戦ほどプレッシャーをはねのけて集中力を高め、必ずファンの期待に応えてみせた。それが、「記憶の長嶋」と呼ばれるゆえんだった。

>74年に現役を引退すると、すぐに38歳で巨人監督に就任。1年目は球団史上初の最下位に終わったが、76、77年はセ・リーグで連覇を達成した。セオリーや常識にとらわれない大胆な采配は時に「カンピューター」と批判されることもあったが、選手の先頭に立つ情熱的な指導でチームを率いた。79年秋には「地獄の伊東キャンプ」で江川卓、西本聖、中畑清、篠塚和典ら若手を鍛え上げた。しかし、80年に3位に終わると、責任を取って退任した。

>再び巨人のユニホームを着たのは92年秋。94年には同率首位の中日と最終戦で勝った方が優勝という「10・8決戦」を制し、日本シリーズでも西武を破って監督として初の日本一に輝いた。96年には首位・広島との11・5ゲーム差を逆転して優勝し、自ら発した「メークドラマ」は流行語にもなった。

>監督としての集大成といえたのが、2000年の「ON対決」だった。王監督率いるダイエー(現ソフトバンク)との日本シリーズを4勝2敗で制し、自身2度目の日本一を成し遂げた。

>00年には背番号を「33」から現役時代の「3」に戻し、指揮を執った。通算15年の監督生活で1034勝を挙げ、日本シリーズ優勝2回、セ・リーグ優勝5回。間違いなく、巨人の一時代を築いた名監督だった。

<参考=「「メークドラマ」「ON対決」「首位打者6回」…球界に比類なき「ミスタープロ野球」死去」(読売新聞)>
(25/06/03)


【シバケン】 2025/06/04 (Wed) 18:28

副題=高橋由伸氏、妻の小野寺麻衣さんと長嶋茂雄さん宅弔問「今にも笑い出しそうな感じでした」(日刊スポーツ)

<写真>
弔問に訪れる高橋由伸氏と麻衣夫人(撮影・菅敏)



>元巨人監督の高橋由伸氏(50)が4日、3日に逝去した故長嶋茂雄さんの自宅に妻で元日本テレビアナウンサーの小野寺麻衣さん(49)とともに弔問した。

>長嶋さんと対面し「今関係者の方だったり、三奈さん、中畑さんも最初はいらっしゃったんですが、いろんな昔話であったり談笑したんですけど、今にも笑いだしそうな表情だったかなって。我々の話を聞いてね、笑いながら、本当に今でもね、笑いだしそうな感じでした」と語った。

>思い出については「本当に長嶋監督だったからこそ、僕もジャイアンツに入ったとは思いますし、本当にこういう風に導いてくれたのは監督だと思いますし本当に感謝の気持ちでいっぱいですね。監督に僕自身なってから、むしろその監督になってからの方がね、ほんとに2人で話す機会っていうのは増えたかなと思ってますし、厳しく怒られたこともありますけど、本当に支えてくれた」と感謝した。

>同日の早朝には元巨人でヤンキースGM付特別アドバイザーの松井秀喜氏(50)が弔問に訪れ、2時間以上滞在。「(次女の)三奈さんが『2人きりで話してください』と言ってくださり、2人きりでずっといろいろな思い出を呼び起こしてました」と話していた。元巨人中畑清氏(71)も弔問に訪れた。

<参考=「高橋由伸氏、妻の小野寺麻衣さんと長嶋茂雄さん宅弔問「今にも笑い出しそうな感じでした」」(日刊スポーツ)>
(25/06/04)


【シバケン】 2025/06/08 (Sun) 20:19

副題=長嶋茂雄さん次女・三奈さんが明かした松井秀喜氏との約束「『監督やるやる詐欺』しましょう」(サンスポ)

<写真>
長嶋さんの通夜であいさつを述べる喪主の三奈さん=7日午後6時24分、東京都内(読売新聞社提供)



>3日に89歳で逝去した長嶋茂雄終身名誉監督の通夜が7日、東京都内で行われ、次女の三奈さん(57)が喪主を務めた。あいさつでは、リハビリに励む父を勇気づけるために松井秀喜氏(50)と「松井さんが次の巨人の監督になられるかのような雰囲気を父に醸し出しておけば、父は毎年そのことを楽しみにリハビリをもっともっと頑張るので、松井さん、どうか父が100歳になるまで言い続けてください。もう題して『監督やるやる詐欺』しましょう」と約束を交わしていた秘話などを明かした。
以下、喪主あいさつ全文。

>本日はお忙しいところ、また遠路にも関わらず、父・長嶋茂雄の通夜にお越しくださいまして誠にありがとうございました。祭壇の父の写真をよく見てください。家族と過ごすときは、父は本当に太陽のように大きくて、明るくて暖かい日差しを私たち家族に毎日降り注いでくれました。よく会社、仕事場に行きますと、「監督って試合に負けると、機嫌が悪いの?」といろんな方に聞かれました。父はどんな試合になっても機嫌が悪かったり、何か物に当たったり、怒ったり、そんなような姿は、私は一度も見たことはありません。

>ただ、私がこんなことを言いますと、選手の皆さまの中には、「いやいや、試合中、僕ベンチでずっと監督から蹴られたぞ」と、そんなことを思ってらっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、父はグラウンドでは真剣なあまり、雷や嵐が吹き荒れたかもしれませんが、そのおかげで、長嶋家は毎日青空で、父が太陽のように笑顔たくさん振りまいてくれました。

>そして6月3日、朝6時39分に父は長い眠りにつきました。そのわずか7時間後に一番に駆けつけてくださったのが王貞治会長です。会長、本当にありがとうございました。父は、王会長が巨人軍に入団されて初めて会った日のことを60年過ぎた今も鮮明に覚えているんです。父は、上野駅で学生服を着た王会長が前から歩いてきたときに、「なんて体が大きいんだ。目もクリクリ大きくて、すごい立派な体をしているな」。父は会長の話になると、本当にずっと笑顔で話が止まりません。

>私が以前、「王さんとパパはライバルだったの?」と聞いたことがあります。父は真っ先に「三奈ちゃん違うよ。王さんとパパはね、二人で一緒に巨人を強くしていこう。二人で一緒に日本一のチームを作るんだって、ずっと一緒に同じことを考えて、頑張ってきたんだよ。パパが打てなかったときは、王さんが打ったし、王さんが打てない時があったら、よし、今日は俺が打つぞ、そういう気持ちになるんだ」と、もうずっと父は笑顔で会長の話をしていました。不思議なんですが、父が王会長の話をするときは、もうずっと笑顔なんですが、目に涙が浮かんでいるんです。涙ぐみながら笑顔で思い出話をする、そんな方は、父にとっては王会長だけでした。本当に最後まで父に付き添っていただきましてありがとうございました。

>そして6月4日早朝には、ニューヨークから松井秀喜さんが駆けつけてくださいました。松井さん本当にどうもありがとうございました。ご存知の通り、父は松井さんが世界で一番好きな方です。もし、松井さんと私が同時で海に溺れたら、父は私じゃなくて真っ先に松井さんを助けに行くだろうなと、本気で私は考えたこともあります。

>松井さんがヤンキースに入団された1年目の2003年、もう、父は居ても立ってもいられず、ニューヨークに駆けつけました。そして、ニューヨークのプラザホテルという、とても格式高いホテルのスイートルームから「松井、バットを持って今すぐ来い」と、すぐに電話をしたそうです。松井さんはびっくりされて、「今からですか?」と、バットのケースにしまわずに、もうそのまま裸のまま、小脇に抱えて隠すように、プラザホテルのロビーを歩いて行ったんですよ。私、その話は何度聞いても顔がほころんでしまいます。その後は、父と松井さん二人だけで、無言で松井さんの素振りの音だけが部屋に響いていたと後で聞きました。

>そして、松井さんが38歳で現役を引退されたときに、その新聞記事を、父が私に見せながら、「パパもね、引退したの38歳なんだよ、松井と一緒なんだよ」と、ちょっと寂しそうな、でも、誇らしげな顔をしていたのを、私は今でも覚えています。言っていいのか、わからないんですが、実は松井さんと私でちょっとある約束をしていたことがありました。それは、松井さんが次の巨人の監督になられるかのような雰囲気を父に醸し出しておけば、父は毎年そのことを楽しみにリハビリをもっともっと頑張るので、松井さんどうか父が100歳になるまで言い続けてください。もう題して「『監督やるやる詐欺』しましょう」と、ずっと松井さんと話していました。今ちょっとここで話してしまったので、多分父も聞いているかと思います。

>父は本当に耳もいいですし、記憶力もいいんですが、なぜか選手の皆さまのお名前はよく間違えておりました。上原浩治さんに、上原さんいらっしゃると思うんですが、上原浩治さんにお会いしたときには、「監督、僕のことをずっと二岡って呼ぶんですよ」って。すみませんって言いながら、また、ある時は桑田真澄さんにお会いしたときは、「監督、僕のことを最後までクワダって言っていました」。娘としてはちょっと恥ずかしかったんですが、もう父の話が出ると、もう周りの方が皆さん、一瞬にして笑顔の花がぱっと咲いて、父ってどこにいてもいろんな方を笑顔にするんだな、もう野球と関係ないのに笑顔で包んでくれるんだなと、ちょっと恥ずかしながらも娘としては誇りに思っておりました。

>そんな父ですので、皆さん、どうかこれからも笑顔で笑い声をあげながら、父のことを話していただければなと思います。そして本日は、読売新聞グループ本社様の多大なるお力添えを賜りまして、父らしい温かい通夜を執り行うことができました。家族・親族を代表しまして、心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。

>最後になりますが、私からのお願いなんですが、実は、父の祭壇をどのようにするか打ち合わせをしたときに、本来でしたら、グレーだったり、落ち着いた印象にするんですが、私はどうしても父の大好きなジャイアンツカラー、オレンジにしたくて、どうかオレンジの花で、父を囲ってくださいと言って、このような素晴らしい明るい祭壇を作っていただきました。

>そして、巨人軍様の提供で、父が大好きな背番号3のユニホーム、そして隣には、天覧試合でホームランを打ったときに使用したバット、そして、松井秀喜さんと一緒に授与していただきました国民栄誉賞の金のバット、そして、こちらには、天皇陛下から直々に授与されました勲記と文化勲章を飾らせていただきました。この祭壇には、長嶋茂雄の誇りが詰まっております。皆さま、もしお時間がございましたら、帰りがけにお持ちの携帯でいいので、ぜひ父の誇りやこの祭壇、父と一緒に最後の記念写真を取ってあげてください。その時はどうか涙は見せずに、笑顔で思いっきり父に笑って話しかけてあげてください。そして、その写真は皆さまの心の中にずっと留めておいていただけますと、大変ありがたく存じます。本日は誠にありがとうございました。

<参考=「長嶋茂雄さん次女・三奈さんが明かした松井秀喜氏との約束「『監督やるやる詐欺』しましょう」」(サンスポ)>
(25/06/08)


【シバケン】 2025/06/08 (Sun) 20:54

副題=松井秀喜氏が語る長嶋茂雄さんとの「約束」「監督が何を望んでいるか。自分の心の中で聞いてみます」(スポニチ)

<写真>
長嶋茂雄さんの告別式で弔辞を述べる松井秀喜氏(読売新聞社提供)



>肺炎のため3日に89歳で死去した巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんの葬儀・告別式が8日、都内の斎場で営まれた。式には親族、葬儀委員長の巨人・山口寿一オーナー(68)やソフトバンク・王貞治球団会長(85)、巨人OB会長の中畑清氏(71=本紙評論家)らが参列した。喪主は次女の長島三奈さん(57)が務めた。弔辞を読んだ愛弟子の松井秀喜氏(50)が読売巨人軍を通じてコメントを発表した。

>祭壇には長嶋さんが大好きなジャイアンツカラーのオレンジの花を基調に敷き詰められ、背番号3のユニホームや、伝説となった天覧試合でのサヨナラ本塁打を打ったバット、国民栄誉賞受賞時に授与したバットなどが飾られた。中央には笑顔の長嶋さんの遺影が置かれ、多くの人を笑顔にした長嶋さんらしい明るい祭壇となった。斎場には現役時代のユニホームやグラブ、バット、新人王トロフィーなどさまざまなゆかりの品が展示された。

>弔辞は王氏、中畑氏、松井氏が読み、秘話とともに感謝を伝えた。V9のチームメートや監督時代の選手など多くの関係者が、ミスターを悼んだ。

>松井氏は開口一番「監督、きょうは素振りないですよね?」と確認。「その目を見ていると、“バット持ってこい。今からやるぞ”と言われそうでドキッとします。でも、今はその声を聞きたいです」と長嶋さんに語りかける形で弔辞を読んだ。

>「ドラフト会議で私を引き当ててくださり、満面の笑みで親指を突き上げてくれました。タイガースファンだった私は、心の中でちょっとズッコケました」と回想。「しかし、その後、すぐに電話で“松井君、待ってるよ”と言ってくださり、あっという間に私の心は晴れました」と振り返った。

>長嶋さんに「4番千日計画」などで手塩にかけて育てられた松井氏。「監督はひとたびユニホームを着てグラウンドに出ると、強烈な光を発し、私と二人で素振りをする時は、バットマン長嶋茂雄になりました。それが私の日常でした」と懐かしんだ。

>「監督が引退された年に生まれた私は、監督の現役時代をともに過ごした方々と同じ気持ちになりたくてもなることはできません。その時代を生きていません。ですが逆に、私はその、野球の神様、長嶋茂雄というものを、肌で感じていないからこそ、普段、普通の自分自身で接することができました。それが私にとって、非常に幸運だったと思っております」と語った。

>「監督を退任する日、私は最後の素振りだと思って、振っている途中、涙が止まりませんでした。これが最後の素振りになると思ったからです。“何泣いてんだ。タオルで涙ふいて、ほら振るぞ”。そう声をかけてくださいました。それが最後だと思っていましたが、翌日もやりましたね。そして、次の年も次の年もやりました。私は長嶋茂雄から逃げられません。これからもそうです。それが私の幸せです」としみじみと語った。

>「監督、私は現役時代に一度だけ監督にお願いしたことを覚えていますか。私はセンターを守っておりましたが、“監督、どうせなら私、サードやらしてくださいよ”とお願いしました。そしたら、“お前はサードじゃないよ。お前はやっぱりセンターだ。俺はお前をジョー・ディマジオにしたいんだ”とおっしゃってくださいました。私は全くピンときておりませんでした。ある日、素振りで監督のご自宅にお邪魔した時、私はそこにジョー・ディマジオのバットとジョー・ディマジオの大きな写真があることに気づきました。見逃しませんでした」とエピソードを披露。「監督は本当にジョー・ディマジオが好きなんだなと思って、また、その選手のようになれと言ってくれたことに、本当にその時、幸せに感じました。それから私は喜んでセンターが大好きになりました」と語った。

>「その時、監督は、私がジョー・ディマジオと同じユニホームを着て、同じグラウンドでプレーすることを夢に思っていなかったと思います。もちろん、私も思っていませんでした。私が引退して、監督に挨拶に行った時、“監督がジョー・ディマジオって言ったから、私、ヤンキースに行ったんですよ”って言ったら、この笑顔を見せてくださいました。その時、初めて私は、大好きなジャイアンツを去ることになりましたが、これで良かったんだと思いました」と語った。

>「そして、今も遠い離れた場所にいます。日本に帰ってくるたび、監督にご挨拶に行くと、監督の言いたそうなことを、言おうとするのに言わない。でも、その気持ちはいつも受け取っておりました。これからも監督が、なぜ私だったのか、なぜ私にたくさんのことを授けてくださったのか。その意味を、その答えを、自分自身が心の中で、監督に問い続けます」と語り、「今度は、私が監督を逃がしません。ですから、今日は“ありがとうございました”も、“さようなら”も、私は言いません。今後も引き続き、よろしくお願いします。そして、その強烈な光で、ジャイアンツの未来を、日本の野球の未来を照らし続けてください」と天国の長嶋さんに語りかけた。

>代表取材に応じた松井氏の一問一答は以下の通り。

>――弔問もされて、しばらく時間がたって今日を迎えましたが、どのような心境で。
 「言葉にするのは難しいんですけれども、きょうは、やっぱり、監督なんでね、笑顔で送り出したいと。そのことだけを意識しました」

>――「監督」と呼び掛けていたのは印象に残りましたが、やはり松井さんにとっては「監督」ですか?
 「はい。私とジャイアンツとの縁、またジャイアンツで過ごした日々、すべてが監督と共に歩んできた道でしたので。『監督』以外ないですよね」

>――みなさんの言葉にもたくさん監督と松井さんのエピソード、話が出てきましたけれど、その言葉をどのような思いで聞いていましたか?
 「そうですね。皆さんとはね、監督がずっといつまで元気でいてほしい、そのためには何がいいかな、っていうことをね、たまに話していましたので。その中でね、色々なエピソードだとかがね、できてきたんだと思います」

>――ちょっと笑いも出るような、そういう式になるという話もされていた?
 「それはまったく(ない)。多分、皆さんがお考えになって、だと思います。はい」

>――お見送りをしたわけですけれど、改めて監督への思いというのはどんなものになりますか。
 「私にね、たくさんのことを授けてくださいました。また、たくさんの時間を共有してくださいました。本当に、感謝しかないです。これは紛れもない事実です。ただ自分の心の中では、まだまだね、これからも監督にね、色々問いかけたいな、と。その時に監督に答えてもらわないと、という気持ちがあるので。『ありがとうございます』というよりも、『これからもまた、よろしくお願いします』っていう、私はそういう気持ちでいます」

>――監督との約束というお話もありましたけれど、やっぱりこれから「野球界にとって」という思いがある?
 「監督が何を望んでいるかっていうね、それも監督に、自分の心の中で聞いてみます。それで答えを出していきたいと思います。先日、『約束』という言葉を使いましたけれど、自分の中でも、うん、何か、これからの自分自身とこれからの監督との対話で、監督が導いてくれるんじゃないかなと思っています」

>――最後、ご家族やOBの方々とお見送りができたことについて。
 「監督がね、きょう落ち着かなかったんじゃないかなと思いますけどね。一緒にプレーした選手の方々、監督として指導した方々、たくさんいたので。みんながみんなの、それぞれの『長嶋茂雄』っていうのがあったと思うんですけど、それに監督は一人一人に答えていたんじゃないですか? 忙しかったんじゃないですかね」

<参考=「松井秀喜氏が語る長嶋茂雄さんとの「約束」「監督が何を望んでいるか。自分の心の中で聞いてみます」」(スポニチ)>
(25/06/08)


NO.3637 2025年6月11日発売のムック「SUBARU AX7/CXD アルシオーネ/アルシオーネSVX」<起稿 磯津千由紀>(25/06/13)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2025/06/13 (Fri) 01:08

 こんばんは。


 初代アルシオーネは、AX7(1800ターボ4WD)前期型(MP-T)が主ですが、後期型(ACT-4)や、AX9(2700)の記述もありました。
 アルシオーネSVXは、CXD(最初期型上位モデル、バージョンL)の記述が少しだけと、CXW(最初期型下位モデル、バージョンE)の記述が僅か。

 因みに、私が乗ってたのは、パールホワイトのAX9と真っ黒いCXDです。


NO.3638 <日本国・人口減少>そんなに騒ぐの事か<?><起稿 シバケン>(25/06/13)


【シバケン】 2025/06/13 (Fri) 23:39

そもそもが、
奈良時代=500万人から700万人<?>
江戸時代初期=1500万人から1600万人程度
享保期 (18世紀初頭)=3100万人程度
江戸時代中期・後期=3000万人万人前後
明治維新=3300万人
明治時代=3500万人 <1874年>、5000万人<1912年>
そして、
昭和42年<1967年>=1億人に到達。
平成20年<2008年>=1億2808万人でピーク<!>


で、
当方的<1947年生まれ>が、出生数最多で、200万人と、思てたですが。270万人ですて。


>厚生労働省は4日、2024年の人口動態統計(概数)を発表した。昨年1年間に国内で生まれた日本人の子どもの数(出生数)は68万6061人で、1899年の統計開始以降、初めて70万人を下回った。前年から4万1227人減少し、9年連続で過去最少を更新した。1人の女性が生涯に産む子どもの数を示す「合計特殊出生率」も過去最低の1・15で、前年より0・05ポイント低下した。

>国立社会保障・人口問題研究所が2023年に公表した将来推計(中位推計)では、24年の出生数を75万5000人と見込み、68万人台に達するのは39年と予測していた。国の想定より15年ほど早いペースで少子化が進んでいる実態が明らかになった。

>合計特殊出生率は、05年に1・26まで落ち込んだ後、15年には1・45まで持ち直していたが、その後は9年連続で低下している。都道府県別でみても、横ばいだった福井を除く46都道府県で前年より低下した。

>最も低かったのは、人口の一極集中が進む東京都の0・96(前年0・99)で、2年連続で「1」を割り込んだ。宮城県は1・00、北海道は1・01だった。最も高かったのは沖縄県の1・54で、福井県が1・46、鳥取、島根、宮崎3県が1・43で続いた。西日本は東日本より比較的高い傾向がみられた。

>婚姻数は、48万5063組で、90年ぶりに50万組を下回った前年(47万4741組)より2・2%増えたものの、新型コロナウイルスの感染拡大前の水準(19年は59万9007組)には戻っていない。離婚件数は、前年比2081組増の18万5895組だった。

>1980~90年代に出生数の減少が続いたことで、現在の出産の中心世代である20~30歳代の女性の数も減っている。さらに結婚や初産が遅い「晩婚化」「晩産化」の傾向が少子化に拍車をかけている。平均初婚年齢は夫が前年と同じ31・1歳で、妻は29・8歳(前年29・7歳)。第1子出生時の母親の平均年齢は前年と同じ31・0歳だった。

>死亡数は、前年より2万9282人増え、過去最多の160万5298人。死亡数から出生数を引いた人口の「自然減」は18年連続で、減少幅は91万9237人で過去最大となった。

<参考=「2024年の出生数、初の70万人割れ…1人の女性が生涯に産む子どもの数は1・15と過去最低」(読売新聞)>
(25/06/04)


【シバケン】 2025/06/14 (Sat) 17:39

副題=我々、団塊の世代の人数、減少加速段階に突入<!

団塊の世代、当方のを、称するですが。
当方的、長く、200万人と、思てたですが。ここ数年、250万人とか、270万人とか、言われてまして。
どの数字が正解か、わからんですが。軽くの、200万人は、突破してるの哉と。

我々世代が、育って、来まして。世間の事、わかり出しまして。
での、周囲に、高齢の男が、少ないなあと。申せば、お爺さんは、殆ど、見ませんでして。見て、お婆さん。

当方的にも、祖父知らず。祖母なら、当方、24歳の時、亡くなったですが。

での、その我々世代が、成人しまして。
方々に出掛けるですが。結果的、どこえ、行っても、大入り満員。現在でも、方々、大入り満員ですが。
当世、情報が、溢れてまして。

表現、厄介なれどの、現在ねえ。
どこえ行っても、我々世代が、多くてねえ。

心配すなの、後、5年、10年もしたら、淘汰されるです。
と、するのか、既に、その現象、呈し出してるですが。日本国の人口、加速度的、減少するです。


<参考=「第I部 人口の減少、少子高齢化の進展など人口構造の変化に対応した国土交通行政の展開」(国土交通白書)>


所謂の、発展途上国の方が、人口増加速度早く。
日本、中国、韓国、米国等々の、一応は、国情安定して来てるの国の、人口が、減少傾向。

これは、本能的なるのではと。
発展途上国では、産めよ、増やせよで、ないと、自身の子孫、残らんです。消滅の危機に。
国情安定しておらず、疫病も蔓延。生命の危機が、日常茶飯で、生きるが大変。成人まで、生存が、奇跡<!>

対して、日本国ねえ。
何や、かやと、言うても、生命の危機僅少。金はない、ないと、言うても、本当に、喰うに困ってるかと、なればの、昔年の程でないです。

申せば、当方的、小さい頃なんか、家貧乏と、までは、申さんでもの、喰う、食料がない事も時偶には、あった、です。金なくて。家に。
そこから、考えれば、当世、金ないは、一緒も、今日の、明日の、明後日にもの、喰うの食料ないは、ない。

むしろ、相対的、生活そのものが、贅沢になってるです。
衣服ねえ。
その昔なら、繕い、繕い、何なら、ミシンで、修繕したり、自身で、造ったり、してたですが。当世、そんな事、してる怪<?>

言うは、発展途上国の、状況と、一応は、文明国家とでは、生活環境全くのと。
言うは、生命存続の危機に、あるの方が、子孫を残したいの、本能がと。

モ、あるし、子どもを育てるに、金掛かるも、あるです。要は、自分達の楽しみを優先させるのか、子ども、子孫のためを、優先させるかで、全くの違うわと。

まあねえ。
人生観の変遷あるかも、なあと。


【シバケン】 2025/06/14 (Sat) 18:09:56

副題=余計なるの話の、「禁句」に引っ掛かった<!>

イヤ、
当方設定の、禁句なら、全面的解除<削除>してるです。

一個のみ、解除以降に設定したですが。該当しておらず。

実は、一点のみ、ど哉と、思うの文言、「死・ね」<<・>無し>>がありまして。それを、削除する事で、投稿出来たです。

まあ、つまり、「FC2」で、独自に、禁句設定してるが判明したです。
尚、当方的にも、以前、設定してましたので、初期には、そちらで、引っ掛かってたと、思うです。
その後、「FC2」が設定かと。
どちでも結構の、投稿文から、当該文言削除。


NO.3639 6月11日刊の令和7年版「科学技術・イノベーション白書」2000円+送料600円<起稿 磯津千由紀>(25/06/19)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2025/06/19 (Thu) 18:58

 こんばんは。


 全国官報販売協同組合に一昨日6月17日(火)18時過ぎに注文、今日19日(木)16時過ぎに宅急便で届いた。


NO.3640 <93歳・大村崑>健康のために実践しているシンプルな運動を紹介<起稿 シバケン>(25/06/30)


【シバケン】 2025/06/30 (Mon) 18:54

<写真1>
(撮影:本社・武田裕介)



<本2>
『93歳、崑ちゃんのハツラツ幸齢期』(著:大村崑/中央公論新社)



>厚生労働省が公表している「令和5年簡易生命表の概況」によると、2023年の日本人の平均寿命は男性が81.09年、女性が87.14年となっています。80歳以上の高齢者が増えるなか、「90代は楽しいですよ。ぼくは今、最高に幸せです」と話すのは、93歳の喜劇役者・大村崑さんです。今回は大村さんの著書『93歳、崑ちゃんのハツラツ幸齢期』から一部を抜粋し、「高齢期」を「幸齢期」に変えるヒントを紹介します。


>すきま時間もトレーニング
>ジムに行くのは週2回ですが、自宅でもちょっとした時間を使ってこまめにトレーニングしています。すぐできるものばかりなので、簡単にご紹介しましょう。


>新聞紙エクササイズ

〈やり方〉

>テーブルに読み終わった新聞紙1枚を半分の大きさに畳んで置き、背筋を伸ばして正面に座る。片手で新聞紙の真ん中をつかんだら、5本の指を使って手繰り寄せ、ギューッと力いっぱい握りしめてできるだけ小さく丸める。握ったままさらに力を入れて10数える。反対の手でも同様に。

>もう何十年もテレビを見ながらやってます。これだけで握力がつき、年齢とともに動きにくくなる手指の関節の可動域が広がるんです。お店で小銭を出すとき、指が思うように動かないなんて困りごとも防げますよ。欠点は、手のひらが真っ黒になること。近くにおしぼりやウェットティッシュを置いておくといいですね。


>足指ゴルフボール

〈やり方〉

>椅子に座ってゴルフボールを足裏の前足部で踏み、コロコロと転がす。足指でギュッとボールをつかむ。できれば、そのまま落とさないように持ち上げる。

>これも超簡単ですが、足の裏を柔らかくし、指の筋力を鍛える効果があります。トレーニング本によると、足指の筋肉が弱ったら地面をしっかりと踏みしめられず転倒の危険が増すんだとか。骨折でもしたらえらいことです。

>ぼくは、テーブルの下にゴルフボールを置いておいて、時間があるとギュッと握って持ち上げてます。妻の瑤子さんは、足の指で見事なグーチョキパーができるんですよ。足指の筋肉が発達して、よく動く証拠ですね。ぼくも負けてられません。


>肩甲骨引き寄せ

〈やり方〉

>トレーニングチューブを両手で持ち、背筋を伸ばして立つ。肩がすくまないように両腕を真上に上げて(できる範囲でOK)肘を伸ばす。チューブをできるだけ伸ばしながら腕を後ろへ思いきり引き、肩甲骨を内側へ寄せていく。肩甲骨の間にシワができるまで寄せるのがポイント。

>ぼくが使ってるゴム製のトレーニングチューブは1000円程度で買えるものなので、使いやすいものを探してみてください。かばんの中に入れておけば、思いついたときにサッと取り出して肩甲骨の運動ができていいですよ。

>続けているうちに猫背が解消されて、若々しい姿勢になります。


>正しい姿勢を取り戻す

〈やり方〉

>壁に背中と頭をまっすぐ押し付けて立つ。5分程度、キープ。

>はい、これだけです。簡単ですが、これも立派な筋トレですよ。姿勢の悪さを年のせいにしないで、1日に1回、壁を使って正しい姿勢で立ってみましょう。背筋や首を伸ばし、肩の位置の左右のバランスが良くなるように立つのがコツ。体に覚えさせるつもりでやってみてください。


>いかがですか。ほんまに、すぐできるものばかりでしょう。こんなシンプルな運動でも毎日やり続けたら、確実に体は変わっていきます。ぜひ、やってみてください。

>ぼくはジムを「学校」と思って、真面目に通っているんです。子どものころみたいに学校に行って、先生に教えてもらいながらお勉強している感覚でね。学び足りないときは、マンション内のトレーニングルームで小一時間「復習」することもあるし、家に帰ると、すきま時間の「自習」に余念がありません。こんな生活をしてたら、将来を不安に思う暇がないのもわかるでしょう?(笑)

>人間、いくつになっても勉強でっせ! あなたも、まずは、すきま時間の「自習」からはじめてみてください。

>※本稿は、『93歳、崑ちゃんのハツラツ幸齢期』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

>大村昆
喜劇俳優 1931年、兵庫県生まれ。神戸市立第一機械工業学校卒業後、キャバレーのボーイから司会、そしてコメディアンへと転身。昭和30年代、『番頭はんと丁稚どん』『頓馬天狗』などに出演し、国民的タレントに。著書に『崑ちゃん90歳 今が一番、健康です!』など。

<参考=「93歳・大村崑が健康のために実践しているシンプルな運動を紹介。「毎日やり続けたら、確実に体は変わっていきます」(婦人公論)>