みんながパソコン大魔神
雑談<NO.274>

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NO 表題 起稿 起稿日
雑談NO.275
2563 ≪新型コロナ≫「医療崩壊は遺憾だ」政治家が言うことではない 磯津千由紀 21/09/26
2562 「小説入る余地ない」はずが…高校「現代の国語」教科書巡り混乱 磯津千由紀 21/09/25
2561 アニメ『舟を編む』が面白そう 磯津千由紀 21/09/25
2560 ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ 磯津千由紀 21/09/23
2559 人気車エスティマなぜ絶版? 消滅の真相と唯一無二の価値 磯津千由紀 21/09/22
2558 ≪新型コロナ≫緊急事態、全面解除を検討 一部はまん延防止移行 磯津千由紀 21/09/22
2557 21日は、「中秋の名月」且つ「満月」でしたが 磯津千由紀 21/09/22
雑談NO.273

2557 21日は、「中秋の名月」且つ「満月」でしたが<起稿 磯津千由紀>(21/09/22)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/22 (Wed) 03:17

 こんばんは。


 中秋の名月が満月なのは珍しいのですが、少なくとも当地はずっと曇りでした。
 満月や満月に近い月は「直射日光」が当たってるので明るく、暗い月食と比べると遥かに撮影は容易です。但し、三日月などと違って太陽光が真正面から当たっているので、のっぺりと平板的に写ってしまうから、「写真作品」なら月以外も画面内に入れると良いのですが、月と同じぐらいの輝度の他被写体を見付けるのは難しいです。また、2000mm望遠レンズで手持ちで画面内に月を入れるのにはコツが要るので、写真初心者は三脚の使用をお勧めします。2000mmよりも遥かに短いレンズで撮るときは、画面内で月が占める面積が小さくなるので、カメラの自動露出が「夜空」に露出を合わせてしまって月が露出オーバになるから、マイナス露出補正するかマニュアル露出で撮る必要があります。


> 今年の「中秋の名月」は9月21日です。秋は空気が澄んで美しい月が眺められるといわれます。お月見はススキを飾った縁側でお団子をお供にというイメージがありますが、どこで眺めていても暗い夜空にぽっかり浮かぶ月は幻想的です。

> 中秋の名月は十五夜ともいわれます。これは新月を月の始まりとする旧暦で8月15日に当たるためで、必ずしも満月とは限りません。国立天文台によると今年は8年ぶりに満月と中秋の名月が重なるそうです。

> 写真連載企画「星空と宇宙」。第3回は「月」がテーマです。【手塚耕一郎】

> 星空の中で月の存在感は絶大です。太陽に照らされた月面の明るさは、地球上での晴れた日中と変わりません。満月の明るさはおよそマイナス12・5等級。太陽に比べると40万分の1程度ですが、空の暗い場所では月が昇ってくると天の川や暗い星々は急に光を失ったように見えにくくなります。高い山では満月に近い月光があれば、ライト無しでも歩くことができます。

> 輝く月面には明暗があり、昔から世界中の人が暗い部分を動物や人に例えてきました。日本でおなじみの「ウサギの餅つき」の他、「大きなハサミのカニ」、「女性の横顔」などが有名です。この暗く見える部分は「海」と呼ばれていますが、水はありません。望遠鏡で眺めると、クレーターが重なり合うような場所に比べ、海の部分はほぼ平らで黒ずんで見えます。「海」は、かつて巨大な天体の衝突によって生じたクレーターで、玄武岩質のマグマが月の内部から噴き出して表面を平らに覆った地形だとみられています。

> そんな月面の「海」は今から52年前、人類史に残る舞台となりました。1969年7月20日(世界標準時、日本時間では21日)、米国の宇宙船アポロ11号の月着陸船が、米宇宙飛行士2人を乗せて「静かの海」に着陸しました。人類史上初めて月面に足跡を残したニール・アームストロング船長が語った「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」という言葉は有名です。

> 三日月など月が細い時、太陽光が当たっていない月の影の部分もうっすらと観察できることがあります。これは地球で反射した太陽光が月を淡く照らしているためで、「地球照」と呼ばれます。月の満ち欠けは古くから暦として用いられてきました。現在は地球の公転周期を基に作られた太陽暦の一種「グレゴリオ暦」が世界中で使われていますが、日本では1873(明治6)年にグレゴリオ暦に変更されるまで、月の満ち欠けを基にした太陰太陽暦(旧暦)が使われていました。

> 近年は「スーパームーン」という言葉がよく話題になります。月は楕円(だえん)軌道で公転しているため、地球との距離が日々変わります。1年の間で最も地球に近く、大きく見える満月がスーパームーンと呼ばれていますが、科学的な定義はありません。今年のスーパームーンは皆既月食があった5月26日でした。この時、地球から月までの距離は約35・7万キロ。一方、今年最も遠い満月は12月19日で距離は約40・6万キロです。比べると見かけの直径で約14%、面積では約30%、スーパームーンが大きく見えます。ただこのぐらいの差では、夜空を見上げて「今日の月は大きいな」と気づく人は、実はほとんどいません。

> 月の「裏側」は地球上から見えないという話はよく知られています。月の公転周期と自転の周期はともに約27・3日で一致していて、月は常にほぼ同じ面を地球に向けているためです。月の裏側を初めて撮影したのは1959年、ソ連の人工衛星「ルナ3号」でした。裏側には平らな地形がほとんど無く、たくさんのクレーターに覆われていました。将来、月旅行ができるような未来が来れば、月の裏を巡るツアーが行われるかもしれません。これまでに月面に降り立った人は、米国アポロ計画での12人だけです。しかし月探査を巡る動きは、近年再び各国で活発化しています。2020年代に再び月に人を送り込んで月面開発を目指す米国の「アルテミス計画」には、日本も参加しています。


> 肉眼でも月の模様は分かりますが、月のクレーターを見るには双眼鏡や望遠鏡が必要です。クレーターは低倍率の双眼鏡でも見られますが、望遠鏡で数十倍に拡大すれば、さまざまな模様やクレーターの凹凸などが詳しく観察できます。月面の凹凸は、影がある時の方がはっきりと分かります。太陽の光を正面から受ける満月前後より、横から照らされる半月ごろの方が適しています。

> 写真で月を大きく撮影するには超望遠レンズか望遠鏡が必要です。撮像素子がフルサイズのデジタルカメラの場合、画面に月がちょうど入るように撮影するのに必要な焦点距離は、約2000ミリです。少しコツがいりますが、双眼鏡や望遠鏡の接眼部にスマホのカメラを近づけて、方向や光軸を合わせられれば、拡大した月を撮影することもできます。簡易撮影キットも販売されています。


<参考=「満月の十五夜、8年ぶりに 21日は中秋の名月」(毎日新聞、9月21日)>


NO.2558 ≪新型コロナ≫緊急事態、全面解除を検討 一部はまん延防止移行<起稿 磯津千由紀>(21/09/22)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/22 (Wed) 04:20

 こんばんは。


 緊急事態宣言が予定通り今月いっぱいで全面解除の見込みです。
 とはいえ、新型コロナ禍の前の「日常」は帰って来ず、マスク着用と手指消毒の日々が当分は続きます。


> 政府は21日、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、19都道府県に発令している緊急事態宣言について、30日の期限で全面解除する検討に入った。全国的に新規感染者数が減少し、医療提供体制も改善傾向にあることを踏まえた。地元知事の意向なども踏まえ、解除地域の一部を対象にまん延防止等重点措置に移行する見通しだ。28日にも開く政府対策本部会合で正式決定する。

> 加藤勝信官房長官は21日の記者会見で「全国の新規感染者数はほぼ全ての地域で減少が続いている。重症者数もピーク時の3日には2223人、20日は1429人に減少した」と指摘。田村憲久厚生労働相も会見で「医療提供体制も先週と比べれば、逼迫(ひっぱく)度合いが若干弱まっている」と述べた。

> 宣言発令中の19都道府県は、北海道、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島、福岡、沖縄。東京都の21日の新規感染者数は253人で、6月21日以来3カ月ぶりに300人を下回った。他の地域でも新規感染者数は減少傾向にあり、病床使用率や入院率も持ち直している。

> ただし、東京や大阪は病床使用率などがなお高水準にある。沖縄の新規感染者数も減少のスピードが鈍い。このため、政府は現状の改善ペースが続くことを条件に全面解除を検討しており、西村康稔経済再生担当相は21日の会見で「もう一段の改善が必要だ」と指摘した。政府はさらに医療提供体制を改善させるため、都道府県と連携して病床確保や酸素ステーションの設置などを急ぐ。

> 宣言解除後、一部地域へのまん延防止措置適用について、内閣官房幹部は「感染再拡大が懸念される地域では、まん延防止措置で警戒を続ける必要がある」と話す。医療提供体制や感染状況が十分改善されている地域については、まん延防止措置も適用しない「完全解除」を検討する。

> 菅義偉首相は23~26日まで訪米し、帰国後に宣言解除に向けた手続きに入る。27日に関係閣僚会合、28日に基本的対処方針分科会と政府対策本部を開く方向だ。まん延防止措置を30日まで適用している宮城、福島、石川、岡山、香川、熊本、宮崎、鹿児島の8県の対応も決める。

> 宣言発令地域では、飲食店は午後8時までの営業時間短縮要請が出され、酒類提供ができない。まん延防止措置の適用地域では知事が「感染が下降傾向にある」「感染対策の第三者認証制度を実施している」などの条件を満たしていると判断すれば、午後7時半まで酒類提供ができる。感染状況によっては午後9時までの営業(酒類提供は同8時まで)を認められるケースもある。【花澤葵、加藤明子】


<参考=「新型コロナ 緊急事態、全面解除を検討 一部はまん延防止移行」(毎日新聞有料記事、9月22日)>


NO.2559 人気車エスティマなぜ絶版? 消滅の真相と唯一無二の価値<起稿 磯津千由紀>(21/09/22)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/22 (Wed) 04:50

 こんばんは。


 また、半年前の記事ですが。
 登場当時は画期的でしたが、エンジンをミッドシップに横倒しで積まなくても、パッケージングの進歩でフロントに積めるようになったからだと、私は思います。


> トヨタ エスティマは、1990年5月から2019年10月まで、約30年間で累計180万台以上を販売。“天才タマゴ”と称され、モデル末期でも、堅調に販売実績をあげていたクルマである。

> 人気の高かったエスティマも、トヨタの車種整理で消えた名車のひとつだが、人気車がなぜ絶版になってしまったのだろうか。

> 元トヨタディーラー営業マンの筆者が、エスティマ消滅の理由と、多くのユーザーに愛されたエスティマが持っていた唯一無二の価値について考える。

> 文/佐々木亘、写真/編集部、TOYOTA


> ■なぜ“人気車”エスティマは廃止されたのか

> エスティマがフルモデルチェンジをおこなったのは、わずか2回だけだ。

> 初代は1990年から10年間販売され、2代目は2000年から6年間、3代目は2006年から13年間という長い間、販売され続けた。頑なにコンセプトを守り、エスティマらしさを貫いた約30年において、モデルチェンジという概念が、不要だったのかもしれない。

> 2017年、エスティマは年間1万3904台を販売し、乗用車ブランド通称名別順位では41位に入る。2018年には、9062台で47位だ。フルモデルチェンジから10年以上経過したクルマが、トップ50に入ることが驚きだった。

> 底堅く売れ続けたエスティマだが、トヨタの併売に伴う、車種整理のあおりを受け、絶版となる。

> エスティマの人気は日本では高かったものの、世界全体で考えると疑問符が残る。グローバルカーが多いトヨタのなかで、最優先にリストラされるのは国内専用車だ。エスティマも、その例に漏れず整理の対象となった。

> 日本では少子高齢化が進み、大型ファミリーカーの需要が、今後伸びにくいという判断もあっただろう。国内のミニバン需要を、アルファードとヴェルファイアで支えることができており、エスティマにミニバンとしての活躍を期待することが難しくなった。

> こうした絶版に至る理由は理解できるのだが、エスティマの価値とは「ミニバン」だけだったのだろうか。


> ■エスティマが持つ「ミニバン以外」の価値

> 筆者は、エスティマが持つ本当の存在価値は、「ミニバンではない」点にあると考える。

> 初代エスティマは、「高性能ニューコンセプトサルーン」と銘打ち、新しいタイプのクルマを提案するものだった。

> 当時、一般的だった、四角いボディの「バン」ではなく、セダンやクーペに近いエクステリアや使い心地で、多人数乗車を実現したのがエスティマだ。エスティマをミニバンという言葉で括るのは、少し乱暴に思う。

> 販売現場でも、単なるミニバンではない、エスティマの価値を感じていた。

> 家族の中でクルマに対する意見が食い違うことはよくあるだろう。お母さんや子どもがミニバンを買うよう求めるなか、お父さんはセダンやクロカンSUV、ステーションワゴンなどに乗りたいと考える。そんなファミリーが行き着く先がエスティマだった。

> 四角いミニバンは、ザ・ファミリーカーである。お父さんの中では、運転しているというよりも、させられているという印象が強く、箱型ミニバンのウケが悪いことは多々あった。

> ミニバンを避けたいお父さんだが、全高が低く、ワンモーションフォルムが美しいエスティマには拒否反応がない。むしろ、「カッコいい」と言われる。セダンのように寝かせたフロントガラスと、メーターやセンターコンソールに囲まれた運転席に座ると「運転したくなるクルマだね」と言葉が出るのだ。

> 筆者は、グループ会社として取り扱いがある、ヴェルファイアやヴォクシーを販売することもあった。筆者が箱型ミニバンの商談をすると、家族の中でお母さんと仲が良くなる。購入後の点検でも、オーナードライバーであるお父さんではなく、お母さんが車両を持ち込むことが多かった。

> しかし、エスティマの商談後は、決まってお父さんと話が弾むようになる。点検の時にも、必ずお父さんが来店し、談笑していくのだ。筆者の体感であるが、ミニバンを販売する中で、オーナードライバーといい関係を築けるクルマは、エスティマが一番と言ってもいい。

> エスティマを選択する人は、エスティマをミニバンとして見ていないことが多い。購入者にとっては、セダンであり、ワゴンであり、SUVなのだ。いかなる調理方法でも美味しく食べられる卵のように、どのような使い方でもエスティマは、ユーザーを満足させるクルマだった。まさに「天才タマゴ」である。


> ■あっさりしすぎた絶版は復活の証?

> 2006年にデビューした3代目エスティマは、2016年6月に、2度目のマイナーチェンジを受ける。かねてから噂されていたエスティマ絶版が、現実味を帯びた瞬間だ。

> 販売店では、登場から10年が経過するエスティマが、今後も存続するのであれば、フルモデルチェンジが必須であると考えていた。しかし、エクステリアデザインを変更し、トヨタセーフティセンスCを搭載するにとどまったマイナーチェンジは。私を含め多くのスタッフに、エスティマの絶版を悟らせただろう。

> 同時期に終焉を迎えたマークXは、ファイナルエディションが発表され、華々しく終わりを迎えた。しかしエスティマは、駆け込み需要を取り込む暇もなく、あっさりと終焉する。エスティマにも、マークX同様の花道を作ってあげたかったと思うのは、筆者だけだろうか。

> あくまで個人の想像だが、しっかりとした終焉を作らなかったエスティマからは、早々に復活という気配を感じる。クルマがガラパゴス化する日本市場で、様々な車種として役割をこなせるエスティマの時代は、またやって来るはずだ。

> エスティマは、日本の自動車文化に、間違いなく大きな足跡を残した。

> 20世紀の天才タマゴが、21世紀にどんな革命をもたらしてくれるのか期待しながら、エスティマの復活を期待したい。


<参考=「人気車エスティマなぜ絶版? 消滅の真相と唯一無二の価値」(ベストカーWeb、4月5日)>


NO.2560 ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ<起稿 磯津千由紀>(21/09/23)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/23 (Thu) 10:43

 おはようございます。


 1年半も前の記事です。
 正直、本田技研工業という会社は好きではない(「走る実験室」と称して顧客を実験台にする社風が)ので、他社に無い車両(例えば「ジャイロキャノピー」)を除いて避けていたことは、ランカスター6電気系統トラブルのスレッドに書いた通り。しかし、最近は体質改善が進んでいるようだ。
 そういえば、昔はオートバイのメーカが百社以上もありましたね。亡父は「ライラック」を欲しがっていました。


> 業界を代表する大企業の成長過程における「ターニングポイント」を探る企画。第1回は本田技研工業です。創業者の本田宗一郎はなぜ、100社以上あったオートバイメーカーの中で勝者になりえたのか?なぜ、成長途上のホンダは2度の倒産危機を乗り越えられたのか?社史研究家の杉浦泰さんに伺います。


> 本田宗一郎が好きなものは「自動車」ではなかった。

> ──今回のテーマは、本田技研工業(以下、ホンダ)です。

> 杉浦: 今でこそ巨大企業に成長したホンダですが、「つぶれるかも」と世間から評されるほど悪い時代のホンダの実態は意外に知られていません。

> ホンダの苦境は歴史上2度ありました。1955年前後と1965年前後です。 1度目は二輪車が絶不調だった時。この時期に実はホンダは倒産するとまで言われていました。2度目はホンダが乗用車に進出して量産工場を立ち上げた時。「ホンダに黒い噂が……」など、メディアに危うい記事がたくさん掲載されました。

> このふたつの時期を見ることで、経営者・本田宗一郎のいいところと悪いところが浮かび上がってきます。それを知らなければ、本田宗一郎が名経営者である本当の意味は理解できません。

> ──本田が浜松に本田技研工業を創業したのが1948年、それから7年後の1955年に最初の危機が訪れることになりますね。

> 杉浦: 1950年代、浜松には大量の二輪車メーカーが存在していました。1953年の1年間だけで113社も二輪車に新規参入しています。3日に1社というペースです。

> 何より、 二輪車は「儲かる商売」であり「誰にでもできる商売」 でした。

> 社会的な背景として、日本が高度成長期にさしかかる直前だったことが大きな要因です。当時、裕福ではない一般の人の移動手段は徒歩か自転車か電車。とてもではありませんが、四輪自動車は買えませんでした。

> 四輪乗用車では、トヨタの初代クラウンが1955年に発売されています。同じ年に日産はダットサン110型系、210型系を出しています。クラウンを買うのは主にタクシー会社で、ダットサンは医者が主な購買者でした。当時の四輪車は今では想像できないほどの超高級品だったのです。

> 四輪車を買えない中堅の会社などは三輪自動車を利用していました。三輪自動車はいまでいうトラックの代替品。1950年代の三輪車のトップ企業は、今のマツダとダイハツでした。この2社は当時、三輪自動車が主力事業だったんです。

> ですから、この時代に一般の人たちが手軽に移動する手段としてヒットしたのが自転車から派生した二輪車でした。二輪車が活躍したのは主に商店街のなか。いろいろな商店をまわって配達できる二輪車がすごく受けたんです。

> 後からホンダの創業物語をみると『ホンダだけが二輪車に着目して成長した』と単純化されたストーリーも散見されますが、そんなことはありません。 ホンダはあくまで200社を超える二輪車メーカー(1954年時点)のうちの1社に過ぎなかった のです。

> ──二輪車への参入が相次いだ53年から2年後。1955年に何が起こったのですか?

> 杉浦: 「日本二輪車産業における構造変化と競争(太田原準・経営史学34(4))」に1955年の『二輪車の合計撤退社数』が載っています。137社です。53年に113社が参入して2年後に137社撤退している。すごいですよね。3日に1社という撤退ペースです。何が起こったか?端的に言うと、ちょっとした経済不況がきてしまったんです。このときに体力のないメーカーが続々とつぶれていきました。ここがホンダのひとつ目の試練となります。

> ──それにしても浜松にはなぜこんなにも二輪車メーカーが多かったのですか?

> 杉浦: 浜松には天竜川という江戸時代に頻繁に氾濫していた暴れ川があります。それをなんとかしようと、金原明善という人が上流の山で植林をし、その材木を活かして産業振興を行いました。それを形にした企業のひとつがピアノのヤマハで、織機を作り始めたのがいまのスズキです。織機の場合、時代の進歩につれて主要部品が「木材」から「金属」に変化し、必然的に機械産業がおこってきます。

> そして戦争が始まると、それまで織機や鉄道、楽器をやっていた浜松の会社は軍需産業に転換し、その過程で大量の工作機械を買い入れます。ところが戦後を迎えると、せっかくの機械がいらなくなってしまう。困ったのが機械の職人さんです。

> その時にひねり出したのが二輪車の製造です。特定の地域に工作機械を使う職人が密集していましたから、ひとりが良いアイデアを思いつくと皆が一気に真似をする。こうして浜松は終戦直後に二輪車産業の町として栄えたのです。

> 二輪車が誰にでもできる商売だったというのは、実はほとんどの二輪車メーカーが、主要部品を外部から買ってきて「少し加工する」という商売をしていたからです。ホンダも事情は同じで、軍が使用していた通信機向けの小型エンジンを大量に買い集めて、少し加工して自転車に取り付け可能にしたことが二輪車事業のスタートでした。

> そういった背景からも、戦争中から工作機械を扱っていた職人さんにとって、二輪車は「参入障壁が低い」事業だったのです。

> ──そこで本田宗一郎と機械産業の出会いがあった。

> 杉浦: 今、本田宗一郎という人物を振り返ると「自動車好きのおじさん」という印象・評価があるかもしれません。しかし、 彼が本当に好きなのは「工作機械」 でした。本田宗一郎は工作機械のカタログを取り寄せては「ああ、これ買いたいな~」と夢想していたそうです。

> 彼が集めていたのは、アメリカのマーグ社など海外一流企業の工作機械のカタログ。 当時の日本の工作機械は精度が悪かった と言われています。良い製品を作るために、欧米の高性能な工作機械を買うことで生産効率を上げる……。本田宗一郎の頭には、そんな意識がありました。 ホンダの歴史を考える上で、彼の「工作機械」への異常なこだわりはとても重要なポイント になります。


> 資本金600万円で、4億円分の工作機械を買う。

> ──工作機械……どのような影響を及ぼすのでしょうか?

> 杉浦: 二輪車への新規参入企業が次々と出てくるなか、本田宗一郎は52~3年に一大投資をします。欧米の高級な工作機械を買って買って買いまくったのです。当時のお金でなんと4億円!それに対してホンダの資本金は600万円!……正直、クレイジーとしか言いようがありません。当時の論調も、もちろんそのようなものでした。

> ──そして1955年の不況がやってきます。

> 杉浦: その年、137の同業他社が撤退しました。ホンダも業績はどん底です。当たり前ですよね。4億円で工作機械を買って、そこに不況がきたら、どうしようもありません。当時のメディアはホンダの経営をボロクソに批判しています。たとえば、1956年4月28日号のダイヤモンドは「技術者は、高能率の機械を見ると、すぐ惚れこむ。そして高い金を出してその機械を購入する。ところが、買ってみるとなかなか使い切れない」と批判しました。

> ──巨額投資は評価されなかった。

> 杉浦: 本田宗一郎がどういった気持ちで工作機械を買い入れたのかは当時の社内報や、日経新聞の私の履歴書という連載記事に残っています。「なぜ4億の工作機械を買ったか?それは仮にホンダが倒産しても、工作機械は日本に残って、それが日本の産業を育てるからだ」と。

≫ 引用:1962年8月連載・日本経済新聞「私の履歴書(本田宗一郎)」(原文ママ) 私はこの際生産機械を輸入すれば、たとい会社がつぶれても機械そのものは日本に残って働くだろう。それならどっちにころんでも国民の外貨は決してムダにはなるまいという多少感傷めいた気持ちもあった。 いずれにせよ、このままでは世界の資本自由化の波にのまれてしまうことは必至である。世界の進歩から取り残されて自滅するか、危険をおかして新鋭機械を輸入して勝負するか、私は後者を選んだ。ともに危険である以上は、少しでも前進の可能性のある方を選ぶのが経営者として当然の責務であると判断したからである。こうして当時わずか六千万円の資本金しかない会社がストロームという自動旋盤やその他の工作機械をスイス、アメリカ、ドイツなどから四億円も購入した。

> ……おお、そう割り切ったか(笑)とも読めます。もちろん、本心かもしれません。彼は工作機械が好き過ぎて、工作機械こそが二輪車産業の競争を進める上で有利になると考えました。しかし、ギリギリのところで「日本のため」という発想がなければ、本田宗一郎はここまで名経営者として評価されるには至らなかったと思います。

> ──ホンダのために工作機械を買いながら、最終的には日本のことを考えていると。

> 杉浦: 当時はいわゆる外貨規制があって、工作機械を買うにも許可を得ないといけませんでした。工作機械の購入許可は通産省から出ます。裏を読めば、通産省受けをねらってそういう話をした可能性もあります。

> ──当時の世間の評価について、ほかに資料はありますか?

> 杉浦: ホンダとは逆に、この当時賞賛された二輪車メーカーがありました。東京発動機という会社です。先ほどと同じ論文資料の中に「50年代の二輪車の主要企業」という表があります。55年を見ると東京発動機はシェア20.2パーセントで1位。2位がホンダ。この時は東京発動機が二輪車業界のスター的存在だったことがわかります。

> 当時の経済メディアは次のような評価をしています。「ホンダは巨額投資でだめになってしまった。それに対して東京発動機はなんて堅実な企業なのだろう」。東京発動機はもともとモーターに強みがあった会社で、戦後、東京の板橋にあった軍需工場を二輪車に切り替えて急激に伸びた上場企業です。

≫ 引用:1955/06経済展望 東京発動機(トーハツ)もいつの間にか出世したものである。2、3年前東京市場に初登場した当時は、こんな町工場では、デフレにひとたまりもなく消え去るであろうと言われたものであるが、意外に強靭さを発揮して、本田技研を凌ぐ優良会社にまでのし上がっている。


> 倒産も噂されるホンダ。シェア1位の企業による買収話も。

> ――当時の経済誌に賛同しそうになりますが……

> 杉浦: 実際、当時のホンダは倒産するという噂が流れていました。 東京発動機の社長がホンダのメインバンクである三菱銀行にホンダを買収したいと掛け合ったそうです。しかし、買えなかった。

≫ 引用:1966「敗軍の将、兵を語る」 (東京発動機元社長が当時を振り返った発言) いまトーハツは日の出の勢いです。本田さんがつまずいたのはジュノオの製作上の誤りだけでなく、あまりに設備投資に金をかけすぎたからです。まるで飛行機を作るような機械まで入れている。私は、このさい、本田の成増の工場を譲ってもらいたいと思っているが、ご尽力いただけないでしょうか。

> 三菱銀行の京橋支店が、ホンダを助けたいとお金を融通したんです。それでホンダは倒産を逃れた。 逆に言えば、これがなかったらホンダは消えていた んです。1年に137社が倒産する業界で、追加でもう1社なくなるだけです。おそらく、ホンダという企業も忘れ去られていたはずです。

> ──三菱銀行はなぜホンダを助けたのでしょう?

> 杉浦: 常務の川原福蔵という方がホンダに惚れ込んでいたそうです。彼が、まだ町工場レベルだったホンダに足を運んだ際に掲げられていた社是「世界的視野に立て」に何か感じるものがあったようで、その後部下に「ホンダを調査するように」と命じています。

> ――55年を乗り越えたホンダはその後どうなったのですか。

> 杉浦: その後のホンダは本当にすごかった。55年以降、二輪車のシェアをぐんぐん伸ばしています。60年のシェアは40%。一方、東京発動機のシェアは急落し4.2%。そして1964年には会社更生法の適用申請を行い、東京発動機は二輪車から永久に撤退してしまいました。

> ――本田はなぜ急激にシェアを伸ばせたのでしょうか?

> 杉浦:4億円の工作機械 です。それがあったからこそ、伸びたのです。工作機械というのは操作・取り扱いが難しく、特に欧米の工作機械ということもあって、ホンダの職人が慣れるのに大変だったらしいです。工作機械を導入して数年経ち、ようやくいろいろな製造法が確立してくる。職人が慣れ、量産の軌道に乗せられたのが60年代だったんです。

> ホンダがスーパーカブを出したのが58年。スーパーカブがホンダの飛躍のきっかけ、という見方は多くの所でなされますが、違う角度で見れば、 スーパーカブを「量産できるだけの工作機械があり、従業員が使いこなせる技術を蓄えていたから」とも言える わけです。

> そしてその出発点は、本田宗一郎の「工作機械」への志向だったわけです。

> ──その後、ホンダはどんな施策を進めるのでしょうか。

> 杉浦: 60年前後、ホンダは二輪車を量産するために三重県に鈴鹿工場を建てます。まわりはほぼ田んぼなので、工場の敷地をどんどん増やせる。量産体制をどんどん進めることで、ホンダは二輪車の価格を一気に下げ、町工場に毛が生えたような他社は追随できない状況となります。

> 当時、製品レベルで「素晴らしい二輪車を作るんだ!」という会社はたくさんあったのですが、「高性能な工作機械を使って、量産レベルで素晴らしい二輪車を作る!」という会社はありませんでした。なぜなら、工作機械は非常に高いからです。

> 本田宗一郎のように「資本金600万円に対して4億円という投資」が決断できる経営者は、他にいませんでした。 当時の二輪車産業にいた方は、言ってみれば気の毒です。そんなクレイジーな人と戦わないといけなかったのですから。


> 巨額投資の後にまたも不況。「ホンダは問題会社」の見出しも。

> ――ただその後、ホンダは2度目の苦境に陥るわけですよね。

> 杉浦: ホンダは55年から急激に二輪車で売上を伸ばし、利益率も上がっていきます。55年の売上高純利益率は1.1パーセントでしたが、翌年には11.2パーセント。製造業ではおそろしいほどの高水準です。しかも、これがしばらく続きます。

> しかし第2のターニングポイントとなる65年、純利益率は3.8パーセントまで落ち込んでいます。

> ――何があったのでしょうか?

> 杉浦: 本田宗一郎の経歴は四輪乗用車の修理工から始まっています。彼はひたすら四輪車をやりたかった。四輪車は多額の資本投下がいるから、まず二輪車をやって工作機械を借り入れ、それを四輪車に移そうというのが彼の狙いでした。60年に二輪車でシェア60パーセントとなり、いよいよ四輪車をやろうとなったわけです。

> 60年代、日本人の所得は上がって、多くの人が四輪車を買えるようになります。ところが四輪車はすごく競争が激しかった。まずトヨタ、次に日産がいた。ほかにいすゞや日産に合併されたプリンス自動車などもありました。三輪車組だったダイハツ、マツダも参入してきます。ホンダも四輪車の立ち上げにはなかなか苦労していました。

> そんな中、65年には不況の波が押し寄せて、業界再編がスタートします。日産自動車がプリンス自動車を吸収合併するなど慌ただしい動きがおこり、自動車メーカーで生き残れるのは上位3社だけとも言われました。

> ――社会情勢が、55年と似たような雰囲気ですね。

> 杉浦: ホンダはここで、また大きな投資を行っていました。64年、埼玉の狭山に四輪車の量産工場を建設したのです。四輪メーカーとしては未熟な段階で、四輪車を作ってもすぐに売れるという状態ではなかったのに、です。

> 本当に、55年と同じような状況になってしまいました。やはり各所から「この会社、本当に大丈夫か?」と、ホンダはマイナスの視線を浴びるようになっていきます。

> 1965年2月1日号のダイヤモンドでホンダについて書かれた記事を見ると「問題会社」というタイトルが飛び込んできます。黒い噂、株価暴落、三菱自動車への合併説、ホンダ社長の退陣説、人員整理説……。会社解散説まで出ています。

≫ 引用:1965/2/1ダイヤモンド「高収益時代の再現をねらう本田技研・問題会社」
≫ (前略)証券市場では、”本田技研・傾く”とのウワサが流れはじめた。このウワサを列挙すれば—
≫ 1・三菱重工への合併説
≫ 2・本田社長退陣・藤沢副社長昇格説
≫ 3・三菱信託との不仲説
≫ 4・—略—(杉浦注:雑誌にはこのように記載されている。原文ママ)
≫ 5・ダブル株発行説
≫ 6・減資説
≫ 7・人員整理説
≫ 8・40年2月期の減益説(杉浦注:=1965年2月期)
≫ 9・会社解散説
≫ ウワサは、月を追って悪質化した。金融筋が三菱銀行である関係上、三菱重工との合併説は、まだ良識のある方で、ダブル株、減資、人員整理、解散説にいたっては、株価をひきずりおろすための火のないケムリであった。

> ――関係者は今度こそさすがにだめだろうと思ったんでしょうね。

> 杉浦: 周囲はネガティブに騒ぎますが、結果的にはこのタイミングでの四輪参入、投資は絶妙でした。60年代を通じて日本は国策として高速道路を数多く建設しました。そして住宅難を解消するため一気に郊外の道路整備を進めたのです。66年にはトヨタがカローラを発売。日本のモータリゼーションの幕開けです。

> その後、ホンダのブレイクポイントがありました。72年に発表したCVCCエンジンです。70年代になると、環境問題や排気ガス規制が非常にシビアになり、自動車メーカーは公害を減らすことへと軸足をシフトしていきます。それに対してホンダは公害を少なくするCVCCエンジンを奇跡的に開発します。

> それを小型乗用車シビックに乗せて、日本だけでなく、海外、特にアメリカにも売り出しました。アメリカで高い評価を得たことで、ホンダは一躍世界的企業としての地位を確立します。

> ――本田宗一郎も、なかなか危ない橋を渡っていますね。

> 杉浦:本田宗一郎が本当の意味で経営者として賞賛されるようになったのは、アメリカ輸出で成功した1970年代以降 です。その後、年を経るにつれて神格化されていきます。しかしそれ以前は、良い時は持ち上げられるし、悪い時にはこれでもかと酷評される、そんな人間くさい普通の経営者だったのです。

> 70年代以降、本田宗一郎がメディアに積極的に出るようになると「俺の経営」といったことを語るようになります。現在、我々が抱く本田宗一郎像はこの時期の彼の発言などから確立された部分が多くあります。

> 例えばYouTubeにも、後年の本田宗一郎の講演は上がっていますし、実際とても良いことを言っていますよね。しかし一方で、講演などではなかなか語られない55年や65年の苦境やその背景を知ることで、ホンダの本当のすごさが理解できると思います。

> 当時、 同業の誰よりも工作機械が好きだったこと。600万の資本金で4億円の投資をする度胸があったこと。これが現在に至る、ホンダの大きなターニングポイント だったと思います。

> 神格化された「事後」の本田宗一郎の話に耳を傾けるのも良いですが、ホンダが一流企業になった本質は、「無名時代」の本田宗一郎の行動にあります。 周囲からボロクソに叩かれていた時に、ホンダは企業として強くなるための地盤を築きました。

> 無名時代から「世界企業になる」や「日本のため」という大きな目的を掲げ、周囲からの「評判」を一切気にせず、倒産覚悟で巨額投資をする。ここに、本田宗一郎の本当の凄みがあるのだと思います。


<参考=「ホンダの2度の倒産危機・復活に凝縮される、本田宗一郎の真の凄さ」(BiZHINT、2020年4月13日)>


NO.2561 アニメ『舟を編む』が面白そう<起稿 磯津千由紀>(21/09/25)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/25 (Sat) 18:41

 こんばんは。


 「舟」とは、「言葉の海」を渡る船のことである。
 そう、辞書編纂の物語なのである。

 2016年作品であり、全11話。
 私は、昨晩初めて、有料CS放送AT-Xで第1話を見た。サブスクリプション動画配信サービスの多くでも見られると思う。

 蛇足だが、私は古書店で買った「大言海」を所有している。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/28 (Tue) 00:50

 こんばんは。


 今、第2話を見ました。面白かったです。
 主人公の馬締(まじめ)は、出版社内で営業部から辞書編集部に異動。作ろうとしてる辞書「大渡海」は、23万見出しの中型辞書、10年以上かかる見込み。馬締は、辞書を作るために生まれてきたような男。
 尚、2013年に実写映画が作られてたようです。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/29 (Wed) 01:52

 こんばんは。


 第3話を見ましたが、辞書編集以外の要素も入り込み、マァマァ??。
 大渡海以外は実在の辞書が次々と登場します。大渡海の特徴はIT用語等も盛り込んだ現代の実用辞書の予定。
 下宿の大家さん(優しい御婆さん)の孫娘(板前修業中)が現れ、馬締の初恋。人づきあいが苦手な馬締は、殆ど喋れない。
 辞書作り企画中止の噂で第3話は終わります。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/30 (Thu) 02:21

 こんばんは。


 第4話を見ましたが、マァマァ?でした。
 企画中止の噂を受けて、松本先生と定年退職した編集者の荒木も加えて鳩首会議。編集者の西岡のアイデアで、既成事実を作ってしまう(執筆者たちに依頼を出してしまう)ことに。急いで執筆要領を作る。
 馬締と香具矢(大家さんの孫娘)で、偶の休日に、遊園地に観覧車に乗りに行く。
 ところで、上に書いた「現代の実用辞書」とは、古い語釈が真っ先に出てくる広辞苑とは逆の道を行くという意味です。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/01 (Fri) 23:41

 こんばんは。


 昨晩、第5話を見ましたが、マァマァ?でした。
 馬締が香具矢への恋文の助言を西岡に頼む。西岡は、辞書作りが楽しくなり始めていたが、勝手に大渡海の執筆依頼をしたことを咎められて宣伝部に異動の内示を受け、異動を辞書編集部にはまだ内緒にして大渡海に尽力する。辞書編集部は、学習国語辞典(売れて儲かっている)の改訂も押し付けられる。西岡の苦労を知らぬ皆は、松本と荒木も交えて見本組を見て楽しい思いをする。西岡は宣伝部の女性と密かに同棲していた。馬締は、西岡に其のままで良いと言われて、香具矢に非常に堅っ苦しい15ページの恋文を渡す。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/02 (Sat) 01:29

 追伸です。


 「マァマァ?」は「面白い」と、「マァマァ??」は「面白くないこともない」と、読み替えてください。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/04 (Mon) 10:53

 こんにちは。


 一昨昨日の晩、第6話を見ましたが、マァマァ?だったです。
 馬締は徹夜で待つが、恋文に対する香具矢からの返事はない。辞書編集部では大渡海と学習国語辞典の同時進行は困難という話になるが、日本最初の国語辞典「言海」(言葉の海)は大槻文彦が独りで作ったという話が出る。其処へ西岡が異動を告白する、辞書編集部の正社員は馬締だけになってしまう。馬締は下宿で言海(当然、持ってる)を開き、大渡海を作ろうという決心を新たにする。香具矢は馬締からの手紙が恋文か否か悩んでいたのであった、香具矢は馬締の告白を受け入れる。
 「言海」は明治時代に作られたもので、「言葉の錬金術師」北原白秋が丸暗記したことでも知られ、流石に今は実用辞書としては使えない。私が持ってる「大言海」は、言海の改訂版で、大槻の死後の昭和7年~昭和12年に刊行。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/05 (Tue) 00:54

 こんばんは。


 今、第7話を見ました、マァマァ?だったです。
 執筆要領を読まずに書かれたと思しき、辞書には不適切な曖昧で長すぎる原稿が届く。西岡と馬締は一緒になって大修正を施す、西岡と馬締は良いコンビ(チャランポランに見えた西岡は、出来る男だった)。西岡の異動まで残すところ一箇月。大修正に怒った執筆者に、西岡が釘を刺す。大渡海のために凄い苦労と努力をしている西岡だが、其れを表に見せない。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/05 (Tue) 02:37

 こんばんは。


 第1話の感想に、粗筋が無かったので、此処に書きます。時系列は、違ってるかも。

 間もなく定年退職を迎える辞書編集者の荒木は、素養のある後継者探しに奔走していたが、成果なし。顧問の松本先生に、必ず見付けると約束。
 一方、およそ営業職に不向きな人見知りの馬締(まじめ)は、荒木と同じ出版社の営業部に所属して書店回りをしていた。荒木と同じ職場の若手のチャラ男の西岡が、馬締の行動を見咎めて、説教をするが、西岡の「空気を読め」という言葉に馬締は「空気」の語釈を延々と呟く。
 馬締は、安下宿に住み、部屋は本で溢れている。
 出社した西岡が、うちの営業部に変な奴が居たと荒木に話すと、荒木は営業部に飛んで行く。荒木は馬締に、「右」という言葉を説明してみろと問い、馬締の「言葉に対する感性」を知る。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/06 (Wed) 00:53

 こんばんは。


 今、第8話を見ました、マァマァ?だったです。
 馬締は、主任になっていた。といっても、辞書編集部の正社員は馬締だけ。ファッション誌の編集部から岸辺という女性が異動してくる。岸辺が何気なく言った「アウェイ感」という言葉に、馬締が食らいつく。大渡海用に新たに開発された薄い紙(8cmの厚さの中に、23万語でなく24万語が入る)のサンプルが届くが、馬締は「ぬめり感」が不足だから駄目だという。13年が経っていた。
 馬締と香具矢は夫婦、香具矢は料理屋の店主。香具矢の店で、岸辺の歓迎会、顧問の松本や嘱託の荒木に加えて、西岡も顔を出す。松本は齢をとった。岸辺は自分に辞書作りは無理といって店を飛び出すが、荒木を送って戻ってきた西岡に、「右」を説明しろと言われて、昔の馬締と同様の答えをしたので、西岡は岸辺に辞書作りに向いてると承け合う。岸辺は、辞書編集部で、明るく、働き始める。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/07 (Thu) 01:45

 こんばんは。


 先ほど、第9話を見ました、マァマァ?だったです。
 岸辺が編集部で頭痛を感じていると、馬締に昨晩は「めれん」だったですねと言われる。岸辺は西岡にケータイメールで馬締のことを訊くと、馬締から香具矢への恋文のコピィの在り処を教えられ、其の内容の堅さに驚く。其処に松本が現われ、馬締は語彙は非常に豊富だが、表現するにあたってどの言葉を使うかをいつも悩み抜いてると教える。岸辺は馬締にそもそも辞書とは何なのかと訊く。岸辺は西岡に辞書作り頑張るとケータイメール。
 用紙は、「ぬめり感」は出てきたが強度が気になると馬締。そして、ようやく新しい紙が完成。製紙会社の若社員、駄目出しされる度に落ち込んでたと岸辺に白状、2人は一緒に食事する約束を。
 馬締、上層部に初刷り20万部を上申。
 松本は体調が良くない、馬締は急ぐ。
 岸辺、四校に「血潮」が抜けていることに気付く。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/08 (Fri) 20:21

 こんばんは。


 昨晩、第10話を見ました、マァマァ?だったです。
 用例採集カードには「血潮」はあった。四校に他に抜けがないか、24万語の全てをチェックすることになった。アルバイトをたくさん雇って作業開始。
 松本が入院。抜けのことは松本には内緒。
 気が遠くなるようなチェック作業、みんな残業、泊まり込みの人も多い。荒木が皆を、一晩、帰らせる。馬締も久しぶりに帰宅、香具矢が作った食事を摂る。
 西岡、大渡海の装丁を決める作業に参加。
 ようやく、チェック作業終了、他に「抜け」は無かった。
 次回最終回。


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/10/11 (Mon) 21:21

 こんばんは。


 一昨昨晩、第11話(最終話)を見ました。全11話を通して、マァマァ?だったです。
 冬、約3千ページの大渡海の刷り出しが出来、自宅療養中の松本に、馬締と荒木が届ける。松本曰く、諸外国では公費で辞書が作られるのに対し、日本では違うが、其れで良かった、権力に内容に口出しされることもない。松本は食道癌という。
 西岡は、子煩悩、宣伝部副部長。
 松本が逝去。
 春、大渡海が完成。奥付には、西岡の名も載っていた。
 出版記念パーティー。松本から荒木への遺書を馬締も読む、其処には荒木や馬締への感謝が綴られていた。荒木の定年退職にあたり、松本は大渡海を諦めていたが、馬締が良い仕事をして呉れたという。
[完]


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/11/22 (Mon) 10:51

<オマケ>


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2024/02/12 (Mon) 23:02

副題=「舟を編む」が、NHKで全十回のドラマ化の予定

 こんばんは。


> 2024/2/18(日)スタート!毎週日曜よる10時<全10話>BSP4K・BS

<参考=「舟を編む ~私、辞書つくります」(NHK)>


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@NucBox3(Sailormoon33)】 2024/02/24 (Sat) 22:52

<参考>

<参考=雑談NO.3382 NHK-BSドラマ(2024.2.18~)「舟を編む~私、辞書つくります~」(起稿24/02/24)>


NO.2562 「小説入る余地ない」はずが…高校「現代の国語」教科書巡り混乱<起稿 磯津千由紀>(21/09/25)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/25 (Sat) 23:01

 こんばんは。


 高校の教科書の検定で混乱が。
 契約書や取扱説明書などの実用のための「現代の国語」の教科書にフィクションを入れてはいけない(「言語文化」で現代文も古文も漢文も扱うから)と言ってた文科省が、文学作品が載った教科書を検定に合格としたのです。


> 来年度の高校1年生から新設される科目「現代の国語」の教科書の検定結果を巡り、文部科学省が揺れている。文科省は「小説の入る余地はない」と説明してきたにもかかわらず、近現代の文学作品を多数載せたある教科書会社の教科書が合格。ライバルである他社から「言っていたことと違う」との批判が高まっているのだ。騒動の背景には、そもそも文科省が進める国語改革が現場であまり歓迎されていなかった実態がある。高校の国語を巡り、いま何が起きているのか。【東京社会部/大久保昂】


> 教科書会社から強い批判

> 「到底承服しがたい」 「大変失望した」

> パソコンの画面越しでも参加者の熱気が伝わるほどに議論はヒートアップし、当初予定していた1時間を15分ほどオーバーした。

> 8月25日に文科省が教科書会社を対象として、オンラインで開催した説明会。毎日新聞が入手した録音記録には、各社の編集者たちが強い調子で文科省の担当者を問い詰める様子が残っていた。

> 各社が追及していたのは、文科省が3月に公表した2022年度以降に使われる高校の教科書の検定結果だ。論理的・実用的な文章を扱う新設科目「現代の国語」で、芥川龍之介の「羅生門」や夏目漱石の「夢十夜」など5編の小説・文学作品を載せた第一学習社(広島市西区)の教科書が合格した。

> 「現代の国語」の教科書検定をパスしたのは、他に7社あったが、いずれも小説をまったく扱わないか、載せていても補足教材の位置づけだった。そうした中で第一学習社の教科書は突出していた。

> この説明会の翌26日、東京都立高校・中等教育学校で22年度に使われる教科書の採択結果が公表された。220校のうち約4分の1の53校がこの教科書を選んでいた。羅生門などの定番小説が入った教科書が、学校現場のニーズと合致していたことを示した結果だといえる。

> 教科書会社は当然、こうしたニーズを把握しているはずなのに、なぜ他社は小説を載せなかったのか。説明会では、編集者の一人が悔しそうに訴えていた。「私どもも小説を入れたいと思いましたが、無理だという判断になった」

> 各社が小説の掲載を断念したのには、理由がある。まずは、時計の針を3年前に戻し、今回の教科書検定の火種となった国語改革の議論を振り返りたい。


> 現場から不評だった高校の「国語改革」

> 18年2月、文部科学省は22年度の高校1年生から実施する新しい学習指導要領案を公表した。目玉の一つが国語改革だった。

> 現行の学習指導要領では、高校の国語の必修科目は「国語総合」(4単位)のみ。新要領は、これを「現代の国語」(2単位)と「言語文化」(2単位)の二つの必修科目に分ける。

> 「現代の国語」は評論や法律や契約書などを扱う教科と位置づけ、小説などは「言語文化」に集める。文学作品が主役だった国語の授業のあり方を変え、社会生活に必要とされる実用的な国語力育成の比重を高める狙いがあった。

> この動きに対し、文学界から「文学軽視」という反発が起きた。だが、学校現場を困らせたのは、むしろもっと現実的な理由だ。

> 「文科省は高校の国語教育の実態を知らないのか」

> 南関東の公立高校に勤めるベテランの国語教員は、今回の国語の再編案を見て、こんな疑問を抱いた。

> 現行の高校1年の国語は、「国語総合」の4単位を「現代文」(2単位)と「古典」(2単位)に振り分け、それぞれの領域の専門教員が受け持つことが多い。一部の学校は、古典を更に「古文」と「漢文」に細分化している。進学校では、国語総合を学校独自の判断で1単位増やし、現代文2単位、古典3単位とするケースも少なくない。

> しかし、新要領では、2単位の「言語文化」で現代文も古文も漢文も扱う。従来のような専門教員による分担やカリキュラムの編成が難しくなるのは確実だ。

> この教員は「これまでの高校の国語教育が文学偏重でバランスを欠いていたという文科省の問題意識には、個人的には賛同する」としつつ、「授業編成がしづらいのが今回の改革の問題だと思う。多くの学校が悩んだはずだ」と話した。


> 文科省「小説の入る余地はない」

> 現場でこうした疑問が渦巻く中、文科省の担当者は18年の6月と9月、国語の教科書の編集者たちの前で、新学習指導要領について説明した。

> 編集者たちが最も知りたかったことの一つが、「現代の国語」で文学作品を扱えるのかという点だった。

> 学習指導要領は教科ごとの教育内容の大綱的基準を示すもので、おおむね10年に1度改定される。要領に沿った内容の教科書でなければ、検定に合格することはできない。

> 文科省の答えは明確だった。出席者が書き留めたメモや記録には次のような記述がある。

> 「ノンフィクションの科目と位置づけている。フィクションは他の科目で学んでほしい」(6月)

> 「フィクションの入る余地はない」(9月)

> 「小説はダメ」(9月)

> よほどの衝撃だったのだろう。下線や赤字で強調していた編集者もいた。

> 出席した編集者の一人は、小説だけではなく、文豪が書いた手紙すら載せてはいけないという説明を受けたことを記憶している。「『現代の国語』からは文学作品は排除するという文科省の強い決意を感じた」。別の編集者も、「説明会を聞いて、当社は小説の掲載を諦めた」と振り返る。

> だからこそ、小説を掲載した第一学習社の教科書が合格したことは、他社の編集者の目には、文科省の「言行不一致」だと映った。


> 小説のない教科書は「採択戦線」で苦戦

> 第一学習社はなぜ小説を載せた教科書を検定に出したのか。

> 毎日新聞の取材に対し、「現場の先生方から『現代の国語』で小説を扱いたいとの要望が多く聞かれたことを踏まえた。不合格を覚悟でチャレンジする価値があると判断した」と回答した。ただ、仮に検定をパスできなかった場合にも備え、ほぼ同じ内容で小説だけを外した教科書も同時に申請していた。

> 結果的に小説を載せたものが検定を通過したことで、他の教科書会社は「採択戦線」で苦戦を強いられることになる。第一学習社の教科書の採択に傾いた高校に、他社の営業担当者がいくら出向いても、取りつく島がなかったという。

> 「小説が入っているから」

> 「これまで通りの授業展開ができるから」

> そう言われるのが関の山だった。

> 「これでは公正な採択とは言えない」。各社からは批判が続出し、教科書協会(東京都江東区)が文科省に対して説明を求める事態に発展した。これを受けて開催されたのが、記事の冒頭で紹介した8月25日のオンライン説明会だった。

> 文科省教科書課はこの場で次のような説明をした。

≫ ①「現代の国語」で小説を扱えないと事前に説明していたのは、「読む教材」には使ってはいけないという意味であり、「書く力」を付けるための活用までは禁じていなかった。

≫ ②第一学習社の教科書は、「読む」「書く」の両方の教材として小説を位置づけていたが、8月17日に訂正申請が出されて書く活動にのみ使うことが明確化された。

≫ ③今後の検定では、「現代の国語」で小説を扱うことについて、一層厳正な審査をする。

> つまり、文科省の事前説明と検定結果に矛盾はないと主張しつつ、疑念を招いたことを受けて事後的に軌道修正が図られたわけだ。

> 説明会を聞いた編集者の一人はこう吐き捨てるように言った。

> 「内容を読んで理解することなく、文章を書く目的のためだけに小説を使えると思いますか。そもそも、『読む教材』として申請してきた教科書をいったん合格させているわけで、文科省の説明は後付けの詭弁(きべん)でしかない」


> 大学入試改革の「失速」も採択に影響?

> こうした混乱の背景には、国が進めてきた大学入試改革の「失速」も影響している。

> 今回の国語改革の議論は、大学入試改革と連動していると考えられていた。大学入試センター試験に代わり、今年から始まった大学入学共通テストの国語では、実用文が出題される可能性がささやかれていた。共通テストは当初、記述式問題の導入を予定しており、17年に公表したモデル問題例は、景観ガイドラインや駐車場の契約書などを読んで答えるものだったからだ。

> ところがその後、記述式問題の採点体制などに対する疑問の声が高まり、同じく改革の柱と位置づけられていた英語民間試験と共に導入断念に追い込まれた。今年1月に初めて実施された共通テストの国語は、小説、評論文、古文、漢文というセンター試験を踏襲した出題構成となり、実用文は登場しなかった。

> 静岡県立浜松北高校で国語を教える駒形一路教諭(58)は「この内容ならば、従来の授業で対応できると考えた国語の先生は多かったはずだ」と指摘する。

> 実用文が出なかった理由について、大学入試センターは「作題に関わる話なので詳しくは言えない」とした。新学習指導要領で学んだ生徒が初めて受験する25年以降の共通テストでは、出題される可能性もある。

> ただ、駒形教諭は「本当に出るのかどうかまだ分からず、イメージが湧かないのが実情。そこへ従来通りの小説を載せた『現代の国語』の教科書が出てくれば、飛びつくのは自然ではないか」と話す。実際、同高も第一学習社の教科書を採択したという。


> 採択をやり直す高校が出てくる可能性も

> 今回の文科省と第一学習社の対応は、教科書採択のやり直しという異例の事態につながる可能性をはらんでいる。

> 22年度の教科書の採択作業が事実上終わった後に、第一学習社から「『羅生門』などの小説は読む教材ではない」という趣旨の訂正がなされたからだ。

> 広島県教委は当該教科書を採択した県立高16校に対し、「読む教材」として使わないよう指示を徹底すると同時に、教科書の選定を見直す意向があるかどうかの確認をしている。学校が変更を申し出れば、認める方針だ。

> 文科省教科書課の神山弘課長も「小説を『読む教材』として使わないよう周知徹底を図りたい」としている。

> ただ、教科書会社からの批判が収まる気配はない。教科書協会は8月25日の説明会後、各社の疑問を改めて取りまとめ、今月3日に文科省に提出している。その中には「検定後、後付けで教材の位置づけを変えるなどは前代未聞であり、安易なつじつま合わせは、検定制度の信頼性を失墜させる」という指摘もあった。


> 推進派も反対派も検定結果を疑問視

> 迷走しているようにも見える高校の国語改革。専門家はどう見ているのか。

> 「『現代の国語』は実用文を扱う科目のはず。小説を素材にすることが適当であるとは思えない」

> 立正大の野矢茂樹教授(哲学)は、多数の小説が盛り込まれた教科書について、国語改革の方向性とは異なるものだとして疑問を呈する。

> 野矢氏は、文学作品に触れる意義を認めつつ、いまの高校生には、論理的な文章を読んだり、相手にきちんと内容を伝えたりする「普段着の国語力」がより求められているという立場。このため、実用文のウエートを高める新学習指導要領の方向性を評価してきた。

> ただ、改革の進め方について「戦略が良くなかった」と指摘する。日常生活で用いる幅広い文章を指すはずの実用文が、ビジネス用の文章だと受け止められ、教育現場などの反発を招いた。また、共通テストのモデル問題例で、駐車場の契約書が扱われたことも負の影響が大きかったという。「極端な素材だったため、実用文に対する悪いイメージができてしまった」と振り返る。

> 共通テストや教科書検定からは、失速したようにも見える国語改革だが、野矢氏は「改革には時間が必要。教える先生にノウハウを身に付けてもらいながら、ゆっくりと目標へ進んでいってほしい」と話す。

> 一方、国が進める国語改革を批判してきた日本大の紅野謙介教授(日本近現代文学)は、第一学習社の教科書が合格したことについては「文科省による明らかな検定ミス」と指摘する。

> さらに「そもそも新学習指導要領の国語の科目再編こそが間違っていた」と主張する。羅生門などの定番小説を扱った第一学習社の教科書が多くの学校で歓迎された事実は、実用文と文学作品を分離させようとする教科再編に違和感を持つ国語教員が数多くいることを示唆している。

> このギャップを解消する方法として、「『現代の国語』は小説や評論、実用文といった幅広い近現代の文章を扱えるようにし、『言語文化』は古典の授業に位置づけられるよう学習指導要領の小幅な改定にできるだけ早く踏み切る必要がある」と提案する。

> 紅野氏は今回の騒動から、共通テストにおいて英語民間試験や記述式問題の導入が頓挫した経緯との共通点も感じているという。「現場の実態にそぐわない改革をやろうとした結果、無理が生じたのではないか。国の教育政策の議論のあり方が根本から問われている」と話した。


<参考=「「小説入る余地ない」はずが…高校「現代の国語」教科書巡り混乱」(毎日新聞有料記事、9月24日)>


NO.2563 ≪新型コロナ≫「医療崩壊は遺憾だ」政治家が言うことではない<起稿 磯津千由紀>(21/09/26)


【磯津千由紀(寫眞機廢人)@ProOne 600 G1 AiO(Win10Pro64)】 2021/09/26 (Sun) 15:55

 こんにちは。


 臨床医でベストセラー作家は、新型コロナ禍をどう見ているのでしょうか。
 「◆これまでこの国では、具合が悪い人がいるのにどの病院も『満床だから入院できない』と断る状況は起きていませんでした。それが起きた時点で、私は医療崩壊だと認識しています。」と、いいます。


> ベストセラー小説「神様のカルテ」で知られる作家で、長野県の感染症指定医療機関に勤務する消化器内科医の夏川草介さん(43)は、新型コロナウイルス治療の最前線を描いた「臨床の砦」を4月に出版した。現在もコロナ治療に当たる立場から、政府のコロナ対策をどう見ているのか。【聞き手・椋田佳代】

> ――小説は、新型コロナウイルスの感染「第3波」の真っただ中だった1月3日から2月1日の信州の病院が舞台となっています。どのような思いで執筆しましたか。

> ◆臨床の現場で行き詰まり、医師をこのまま続けていけるか悩む時、自分の考えをまとめるために本を書いています。「臨床の砦」で言えば、コロナ診療に当たる中で今まで見たこともないような医療現場を経験し、医師を辞めた方が楽ではないかと思う瞬間がありました。一方で、辞めれば片が付く問題ではないことは理性で理解していましたので、続けるために考えをまとめる作業として書きました。

> ――主人公は夏川さんと同じ消化器内科医です。ご自身の体験が基になっているのでしょうか。

> ◆体験を基にはしていますが、現実をそのまま描くことはしていません。何が起こっているのか誤解がないように伝えようとしたので、うそは書いていません。

> 振り返れば、昨年1例目の患者が出た時の混乱は非常に大きなものでしたが、自分の哲学を変えなければならないところまで突きつけられることはありませんでした。一方で、第3波では「呼吸が苦しい」と訴える人に自宅待機を指示しなければならなかったり、診察用のタブレット端末の画面の向こうで「助けてください」と涙を流して訴える人に「今はゆっくり話している時間がないんです」と言って通話を切らなければならなかったり、これまでとは全く違う景色に出合いました。当時は多くの病院がコロナ患者の受け入れを拒否し、行政も他の病院も何もしてくれないと思いましたが、社会全体が大変だと気付く前に、コロナ患者を受け入れる現場だけが崩壊していた特殊な時期だったと思います。

> ――感染が拡大してから医療崩壊の危機が繰り返し指摘されてきました。

> ◆これまでこの国では、具合が悪い人がいるのにどの病院も「満床だから入院できない」と断る状況は起きていませんでした。それが起きた時点で、私は医療崩壊だと認識しています。個々の医師によって医療崩壊の定義は違います。ただ、やるべき医療、治療すべき患者の治療ができない状態だったことは間違いありません。

> ――医療現場は現在どのような状況ですか。

> ◆患者数は非常に多く、重症度も増していますが、死亡率は下がっています。死亡率が低下したのは、抗体カクテル療法やレムデシビル投与などの治療法があるからです。コロナはきちんと治療すれば比較的治る疾患ですが、裏を返せば、治療ができないほどの人数の患者が発生すれば死亡者は増えるでしょう。高齢者の感染が減り、治療の選択肢が増え、我々にできることが増えました。現場は忙しいですが、第3波のような混乱や絶望感は改善しています。

> ――政府の新型コロナウイルスへの対応をどう見ますか。

> ◆ワクチンは非常に効果が大きかったと思います。第5波で、多くの都道府県で大量の死者が出なかったのは高齢者へのワクチン接種が広がっていたからです。また、緊急事態宣言そのものに強制力はそれほどないのに、発令されると感染者は減ります。宣言を出せば乗り切ったように見えるのは国民の努力によるものでしょう。

> 唯一、例外なのは緊急事態宣言を出している最中に東京五輪を開催したことです。聖火リレーが行われればたくさんの人が街中に出ました。感染者の中には「五輪の空気だけでも味わいたい」と東京に行っていた人もいました。五輪は「緊急事態」という言葉と一致しないのです。

> 臨床医として五輪は感染拡大の原因になったと認識しています。ところが、政府も東京都知事も公式見解として関連を否定しました。誠実な対応ではないと感じます。「だから五輪を開くべきではなかった」と言っているわけではありません。開催が正解だったかどうかは経済も含めた政治的な判断ですので、臨床医の私が判断できることではありません。ただ、感染拡大と五輪は関係ないという認識を示すことは、緊急事態宣言中でもスポーツ大会を開催できるということになります。これは困ります。次はもっときちんとした体制を敷くというのが政治の本来の役割ではないでしょうか。

> ――11月までには衆院選が行われます。政治に何を求めますか。

> ◆コロナは、ある一つの立場から何かを発信すると誰かが傷つく非常に難しい問題で、正解がありません。緊急事態宣言を延長してほしいと医療側が言うのは簡単ですが、コロナで亡くなる患者が減っても経営難で自殺する人が増えたら意味がありません。そういう意味では一方的に「コロナ対策をしっかりやって」というメッセージの発信の仕方は危険だと思っています。誰かを攻撃する発信を最前線の医師はあまりしません。そういうことをすれば自分と同じくらい苦しむ人がいることを、苦しんでいる立場だからこそ分かるのです。

> 一つだけ望むのは、乗り越えるための目標を作ってほしいということです。五輪期間中、感染者がどんなに増えても変わらず数字を発信するだけでした。「感染者数は何人までなら五輪開催の効果が上回る」「経済活動の再開に何人の感染者はやむを得ない」。そうした試算ができるのは中枢にいる人だけだと思います。基準が見えていれば我々もそれに向かって闘えます。

> 政治はかけ声ばかりで、政治家は「遺憾に思う」「危機感を持っている」と発信します。それは我々の感想であり、国のトップが言うことではありません。国として具体的な対策と全体のイメージを提示してほしいと思います。


> なつかわ・そうすけ

> 1978年生まれ。長野県の感染症指定医療機関に勤務する消化器内科医として、新型コロナウイルス感染症患者の治療に当たっている。2009年、「神様のカルテ」で小説家デビュー。今年4月、コロナの診療現場を描いた「臨床の砦」を出版した。


<参考=「「神様のカルテ」作家で医師の夏川草介さん コロナ乗り越える目標を」(毎日新聞有料記事、9月26日)>