不可思議の世界NO.35
京都・亀岡の良く当たる占い師の話
<京都でよく当たる占い師は?>
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目次
NO.380 悪い事も、慶事も、重なるの話(6) 結婚ラッシュ、出産ラッシュの話
NO.379 悪い事も、慶事も、重なるの話(5) 叔母、当方骨折、親父で、叔父の話(2)
NO.378 悪い事も、慶事も、重なるの話(4) 叔母、当方骨折、親父で、叔父の話(1)
NO.377 悪い事も、慶事も、重なるの話(3) 親父の話
NO.376 悪い事も、慶事も、重なるの話(2) 決断するの話
NO.375 悪い事も、慶事も、重なるの話(1) 右足骨折の、二度目の入院中の話
NO.374 長男、被害者、事故られるの話(16) チョと、余計なるの話
NO.373 長男、被害者、事故られるの話(15) 当方、槇島の時、事故ったの話
NO.372 長男、被害者、事故られるの話(14) 槇島の狭いの、我が家の話(3)
NO.371 長男、被害者、事故られるの話(13) 槇島の狭いの、我が家の話(2)
NO.371 長男、被害者、事故られるの話(13) 槇島の狭いの、我が家の話(2)
こちも、若かったがあるですが。
何の通り、何の通りと、何は、「1」から、「10」までであったの哉の、当家、「8」の通りでね。
この界隈なるは、連棟の家でして。我が家、その5連棟の、向かって、右から、2軒目の家で、真正面は道路で、要は、T字型のドン突きになるの家でして。
駐車場なるは、歩いて、1分、2分で、大駐車場があったです。当然の月極の、月に3千円やったの哉の、まあ云うたら、田舎故、相場、安いわと。この当時でもなと。
モ一発、こちも、若かったがあるですが。
両隣も、若かったがあるですが。人情豊かなる地域でして。
オッとの、この界隈、最初に見に行ったの時、2軒見たです。1軒は、実際に買うにしたの家と、モ一軒は、その並びであったの、現には、住んだはるの家でね。
見学と、するのか、見に行けば、そこのご主人、出て来まして。且つは、ゴルフ道具を手にしてての、何やらも、付けとくでと。その何が、何かは、失念してるですが。その態度がなと。気にいらんでねえ。
そのご主人の、印象悪いが故の、現には、住まずの、家に決めたですが。
いやなあの、売り手も、若いの方でね。
京都銀行本店と、記憶してるですが。要は、即金、現金にて、受け取りたいと。受け渡しなるは、その隣の、何やったの哉の、和食屋やったの哉でして。
兎に角、住宅ローンで借りたの金額、ン百万円をば、京都銀行にて、引き出して。そのままに、隣の和食屋に持参で、不動産屋立ち会いの下、手渡したですが。
正直申しの、見た事の無い、札束での。それを、銀行の紙袋に入れての、持つは、手が震うわと。
ンの、マの、当時の給料なるは、給料袋に、現金なれどの、桁が違うしなと。
そこには、売り手の家族、要は、ご夫婦と、子どもさんが居てたと、思うの、若夫婦でね。
当然の、その一度っ切りの面会故、直後なら、そこらで、ばたりで、嗚呼と、分かるですが。結果的、二度とは、合おてえへんです。
その時、不動産屋、2名。担当者と、その上司で、上司曰くの、若くして、家を買われの、大したモンです。
本来ならばの、家の主<あるじ>様には、記念品でもと、思うですが。その分、安くにしてますのでと。フウンと。
結果、何もあらへんの怪と。
とは、云えどの、その文言、「家の主様」なるが、フウンでして。そ云うたら、間違い無くの、そなんや、なあと。それまで、「家の主」なる、表現、認識、全くの無かったわと。
単に、住宅ローンを組むに、奔走の、不動産屋なり、銀行屋と、面談したり、書類云々でねえ。
それも、あるし、早速にもの、引っ越しの手配、準備も、しんならんし、なと。大忙しでして。
実際には、引っ越しの手配なるは、大した事、してへんのけどや。
したは、当時の同僚数人に、声掛け、手伝えと。内の1人、大学の同窓生。毎年、毎年、同窓会で、顔合わせてるわと。此度、「古希旅行」も一緒に行くの相手やわと。
数人も、ソレ含めての、3人と、記憶してるですが。
そして、モ1人が、母方従兄弟でして。
母の葬儀、一周忌にも、来てくれてるの、上の伯父の次男。ヨシノブと、申すの、6歳の下。
これが、軽トラックと共にの、来てくれての、大いに助かったわと。
とは、その一周忌の時の、会席の場でも、話題にしたわと。
当方も、会社から、トラック一台、借りまして。
とかとか、一発では、終わらんの、何度か、往復と、するのか、その日の、内に、では無いの、忘れモノと、するのか、あれを、これをの、小物をば、当時なら、多分ならばの、HONDAの、「Z」なれどの、軽自動車にての、取りに戻ってたです。
家が取り壊わされる、までなら、勝手でして。
いやなあの、家に向かっての、右手のは、大工やったの哉の、当方よりも、まだ、若いの、兄ちゃんでして。ンの、兄ちゃんも、所帯持ってるの方でして。
気のええの彼、気さくなるの、こいつ、何故かは、知らんの、我が家に度々の、電話を貸して頂戴なと。
その当時になんか、ケータイなるは、影も、形も、あらへんわと。
ンの、もしかして、もしかしたらの、その家には、電話を引いて無かったの可能性がと。
その辺り、当方、最初っから、電話を引く等々、常識的に考えてまして。
での、彼、借りたら、10円とかとか、置いてったなと。3分、10円が相場での。
対して、左手の方、引っ越した当時は、独身でねえ。イヤ、コレ又、当方よりも、若くの、1人暮らしでね。
只なの、当方、引っ越して、即の、自分の部屋で、ステレオをば、調整してたですが。真夜中にや。
そらなの、当方の夢でして。中二階でも無いの、6畳の間の一室、自分の部屋で、ね。云うたら、何やけれどの、その歳で、初めて、正々堂々の、自分の部屋、なるを、自分の家で、持ったんやと。
それまではと、なればの、仏光寺時代の、高校生からは、基本、二階の、中二階が、当方の部屋は、部屋なれどの、所謂の、オープン状態での。敷居も、何も無いの、モ一部屋の、狭いの間が、祖母の寝間。
その祖母、骨折によりの、下の間で、寝ると、するのか、寝た切りになってからは、中二階の部屋なるは、妹と、供用でして。
そんな事で、名実共の、自分の部屋なんか、持ってえへんわの、この、槇島の家で、初めてでして。
要は、仏光寺の家では、祖母と、叔父2人が二階の間。下の間に、両親と、兄妹がと。
叔父達、順々に、家を出て、当方が、上の部屋に移動。祖母、骨折寝た切りになったが故、妹と、一緒にと、相成ったのダケの。そ云うたら、この時には、妹も高校卒業で、就職したてで、当方、帰るが、何時か、分からんの、朝は早くの、夜遅くで、大変やった、やろなあと。
下手したら、午前様やしなと。
ンの、モ一発の、よ、考えたら、委細構わずの、寝てられるの妹でして。無関係やったの可能性がと。
イヤイヤ、朝は、祖母、入院までは、祖母が朝食の準備してくれて。入院以来、会社の食堂にての、パンと、牛乳でして。
昼は、当然の会社の食堂で。夕食も、大抵ならばの、残業、残業故の、会社の食堂で、喰たり、ソバの食堂、飯屋に行ったりしてたなの。休みの日、程度哉と。家で、飯喰たがです。
オッとの、そんな話は結構の。
槇島に引っ越しての早々、ステレオと、するのか、蓄音機やねえ。仏光寺の家には、沢山のレコードがあって。家に蓄音機があらへん、のにや。
よて、引っ越しの際、蓄音機、ステレオを買い求めの、ンの、よ、そんな資金あったなの。積年の夢、自分の部屋で、調整してたら、真夜中に、玄関の戸、ドンドンと、叩くの音で、ンの、何事かと、出たら、応対したらの、向かって、左手の家の方での、話の内容、五月蠅いと。へえの、すみませんの、申し訳ありませんの、即刻の止めたわと。
以来、この手、蓄音機、ステレオ等々、所有せず以前の、鳴らさんなと。
いやなあの、右手のは、そんな事で、まあ、云うたら、面白いの君。
左手のは、少々のやり難いの方。後年、結婚したですが。そのやり難いの方がや。コレ又、変と、するのか、何ちゅうかの、変わったの女性でね。
ン、ンの、もしかしての、もしかしたらの、当方、結婚してからの、結婚と、思うですが。要は、挨拶の出来ぬ女性。
向かいには、家で無くの、道路なれどの、当家より、向かっての、右手の家の方なら、高齢女性でね。ええ人でね。
その高齢女性、曰くにの、当方の家、ええ家やでと。
理由なるは、その先住者、銀行の隣の、和食屋で、一度だけ会いの、現金、手渡したの方なれどの、ええ家に、引っ越さはったえと。
その又、先代の方も、ええ家買おて、引っ越さはったわと。アンタも、その内、引っ越すやろと。フウンと。
実は、フウンも、この槇島の界隈、所謂の、古い住宅街でして。
且つは、申してるの、連棟の、まあ、云うたら、狭い、小さな家々でして。
表現、率直には、長屋風。
云うたら、古なって、建て直すも、連棟故、難しいわと。されどの、年々、築年数、増加で、老朽化するは、目に見えてるわの。
当初より、とするのか、1年、2年も経てば、ここは、永住の地、では、無いなあと、思い出してるわと。
いやなの、こちが、歳喰てからの、転入ならばの、別なれどの。
とりあえず、若いわと。
オッとの、本題とは、まる切りの逸れたの話、なれどです。
只なの、仏光寺の家から、会社までなら、バイク、HONDAの、スーパー・カブで、10分程度のが、槇島からなら、車で、1時間掛かるわと。
出勤時の、交通渋滞、凄まじく。
そらなの、槇島に行って、初めての、出勤時間帯の、交通渋滞なるを、体現したわと。
されどの、仏光寺の家には、戻れえへんわと。
(16/06/23)
NO.372 長男、被害者、事故られるの話(14) 槇島の狭いの、我が家の話(3)
脱線ついでに。
ンの、コレ又、話の筋より、まる切りの、脱線でもあらへんですが。
妹の結婚話の、話をと。
いやなの、とりあえず、親父は居てるですが。宇多野病院に隔離入院してて。
オッとの、宇治、槇島での、話やでと。
突然に、妹より、結婚云々の話、飛び出して。どする兵衛も、何する兵衛も、先様も、宇治で、黄檗でして。宇治、黄檗も、知らんのけどや。槇島でさえ、引っ越すまで、地名さえも、知らんのにと。
そんな意味なら、黄檗程度なら、歴史分かれば、聞いた事、あるわの、黄檗宗萬福寺の、黄檗での。なるの、寺の存在なら、承知してるわと。隠元豆の、隠元和尚<禅師>のお寺やわと。
当家、無縁なれどです。
の、近くやと。
聞いて、即の、所謂の、何ちゅうかの、「聞き合わせ」、とでも云うのやねの、第三者に頼らずの、そんな方面に、知人、親族、居てへんわの。探偵社に頼むに、金あらへんわと。
母と、2人して、夜な夜なの、探索をと。
何故に、夜かと、なればの、昼間になら、目立つやろなと。何故に、目立つかと、なればの、見知らぬのが、ウロウロしててみい、アレ、誰やと、相成って。云うたら、不審者、怪しいのヤツと、勘違いされるが嫌でね。
さりとての、「聞き合わせ」なるは、そのままの、本来的、そこのご近所様の宅様、お方様にでも、あそこの方、どんな方ですか。等々、出生なり、性格、癖、特技、酒癖云々なりを、聞く事なれど、です。
我々、ド素人探偵団が、玄人みたいな事、出来る怪と。
単に、家は、どんな家で、ご家族、どんな方怪なあと。の、程度やわと。
イヤ、出向いたわと。
概ねの場所、聞いて、ズバリの、その界隈に到達の。一軒、一軒、車内より、表札見ての、ンの、ここ様やなと。
ここだけの話の、まあ、云うたら、その当時の、当家、槇島の家と、ホボの、一緒でね。概ねの、構造も、一発の、察しが付くの、家での。丁度の、その通り掛かったの時、台所で、用事したはるの女性。ンの、母上様やろの、顔見えて。
ほならの、夏場、やったの哉と。窓が開いてた故でして。でも、無かったのか。時期的、よ、覚えてえへんのけどや。母上様の、顔見えたは、見えたわと。結果的、そこで、正解でして。
いやなの、日取り決めて、ご両親と、共にの、当人様も、当家に来られてね。
親父様より、斯くの、然でと、宜しくと。当家、妹との、結婚をや。
云うたら、当方、兄でありの、父親代行みたいな、モンでして。
どする兵衛も、何にも、あらへんわの、妹が、良ければ、それで、良しの。嗚呼、これで、妹も、結婚して、家出てくんやなと、思うと、寂しいてねえ。
正直、申すの、ここだけの話の、涙してもての、席外したわと。
涙見せるは、恰好ワルツでね。
オッとの、そ云うたら、よ考えたら、振り返ればの、思い出したらの。
婿殿、それが、初体面に非ずの、その時までに、何度か、会おてる、見てるなと。
話、簡単の、突然には、ご両親の話が、結婚云々で、来られたが、での。それも、日を、時刻を決めての話故、突然の表現も、異なれど、です。
でや、当方、結婚しての、嫁はんの里帰りで、四国、香川、比地木の方なれどの、妹と、その当時なら、彼氏が、一緒にくっついて来たわと。
イヤイヤ、ここだけの、話で無いの。まあ、云うたら、結果的、妹の彼氏<当時>以外、家族全員でして。ンの、我が親父以外はなと。
経過的、当方、結婚しての、最初の、嫁はんの里帰りが、全員に成りの。その次ぎには、母が、ズと、一緒にと。ズとも、息子共、小学生に成るの辺り、まで、やった鴨と。
要は、留守番してるの嫌がって。
要は、そんな母でして。
とかとか、当時、振り返れば、今、思えばの話の、面白い話、奇想天外なるの話、多かったなと。
でや、要は、当方、就職しての、1年目は、何事も、無くの、2年、3年経って、まあ、云うたら、大変動。
凶事続きの、槇島に引っ越してからは、細々までは、覚えてえへんわの、慶事の連続での。
次男誕生で、手狭に成りの。亀岡には、ドライブがてらの、家の見聞にての、当地、現在の家の探索にと。
当然の、ここだけに非ずの、時間、暇見ては、方々、見に回ってたです。家族全員で、なと。全員も、妹結婚で、長男産まれるまでなら、母と、嫁はんと、当方の、3人。どこえ行くにも、行楽も、全部、家族全員でして。
まあ、云うたら、嫁はんと、2人して、出掛けた事、なんか、あらへんわと。常に、どこえ行くも、皆一緒。
ででや、基本、亀岡では、特段の、コレと、云うよな、何事も、無く。
まあ、云うたら、順風満帆。
と、云えるかは、どか、分からんのけどや。特筆すべき、したいよな、事、あらへんわと。
オッとの、あったには、あったのけどや。記憶に残るの事件がや。あくまでもの、事件であって、凶事、慶事の類に非ず。結果的には、無事でして。
ンの、何事かと、なればの、引っ越して、即の、この当時、長男、2歳頃やねえ。
そんなおり、突然に、長男失踪と、するのか、どこえ行ったか、姿見えずの、まさかの、誘拐哉と、迷子哉と。
再度の、云うとくの、引っ越して、間無し故、迷子の可能性大いにあっての。
当時、町内会の皆様にお願いの、探してもろたですが、見つからんでねえ。
一寸したの、川でも無いの、溝みたいな、川と、するのかが、あっての、そこに、落ちたのやろか、とかとか、沢山の方が、探してくれやはてねえ。
されどの、みつからずで、次第、次第にの、夕刻になりての、周辺も、薄暮。
困ったなと。
思てるの矢先、実は、長男と、同じの名の男の子が、もしかしての、「ジャガー」に、カタカタがと。それ、当家、長男のと、違うかと。
との、情報あっての、これは、嫁はんが、聞いて、即の、行ってくれて。
そこに、長男、無事に居たですが。
それでや、「ジャガー」なるは、国道9号線沿いの、焼き肉屋でして。
確か、皆で、行こかと、成ってたですが。諸般、ナカナカに行けんでねえ。そらなの、家が、落ち着いてからと。そらなの、そらなで、マダマダ、落ち着いてえへんわの、段ボールが、そこらに一杯でして。
結果、長男、カタカタで、1人、「ジャガー」えと。
コレ、国道9号線の向かい側での。
まあ、云うたら、ここら、田舎は、田舎なれどの、ド田舎と、する程でも無くの、交通量、結構、多いわと。
そこを、2歳くらいのが、カタカタで、よお、無事に、国道9号線を渡ったなと。
又、「ジャガー」の方も、よくぞ、相手してくれたはったなと。
現在唯今、その、焼き肉屋、「ジャガー」は、あらへんですが。後年、一度だけ、皆で、焼き肉喰いの、行ったです。そして、その事を店の方に伝えたわと。
その時には、有り難う、御座いますと。
オトトの、当然の、発見、即の、御礼には、お伺いしてるのけどや。
まあ云うたら、事件なら、その事があったなと。
(16/06/24)
NO.373 長男、被害者、事故られるの話(15) 当方、槇島の時、事故ったの話
更なるの、脱線でも無いの、脱線。
槇島に居た頃の話に戻るですが。
既に、次男、嫁はんの腹の中故、引っ越しの、2年程の前哉と。
当方、会社の駐車場からの、出しなに、前を通り掛かったの自転車。乗ってたの方、女性。当時、30歳代哉でして。ンのほならの、年齢ホボの一緒やなと。当時、今まで、その事、考えた事、無かったけどや。
簡単には、当方運転の車と接触で、転倒されたです。
ここで、申すの、接触したの感触無くて。要は、こちも、停止すれば、良かったは、良かったのけどや。先方も、車の前を、突っ切られたです。
ここで、モ一発、申すの、目撃者が居たです。その方、誰と、申せば、まあ云うたら、先輩社員で、後刻当方に、あれ、勝手に転けやはったみたいに、見えたけどなあと。ンの、当方も、そ思うですがと。
真ん前、目の前で、転倒されたが故、会社のソバの、当方も、指の怪我して、治療して戴いたの、「西大路五条病院」えと、連れてったです。
イヤ、見た目、どもあらへんかったですが、安全のためと、思ての事、なれどの、これが、案外にと、するのか、捻挫と診断されて。この、捻挫で、完治するに、半年掛かり。
いやなあの、当方、当たり前に、加害者として、警察にも、報告、自転車も、その方の指定の場所に、持って行きの。自宅、会社のソバの、マンションでして。
半年掛かったと、申したですが。交通事故での怪我なりの治療、健康保険が効かんでねえ。
それは、それで結構も、毎週、毎週、治療代の精算をしに、病院通い。その足で、手土産持参で、マンションえと。
長く掛かったの理由、湿布薬がダメ。その方の体質的にで、電気治療をと。まあ、云うたら、その程度の治療故、費用、そんなには、なと。そやけどの、半年故、可成りの金額には、相成ったわと。
毎回、毎回の、手土産持参故、コレ又、バカに成らず。
どちにしたって、自賠責保険で、賄うの積もりでね。
さもなくばの、任意保険なんか、使たら、折角の等級、下げられてまうわと。
どちにしたって、毎週、毎週、病院には、精算で、その方の宅え、手土産持参で、申し訳ありませんと。
くどいけどの、捻挫なんやでと。
とは云えどの、加害者やしなあと。嫁はんも、ナカナカの終わらんが故に、心配してくれての、一緒に、お詫びに行こかと。ンの、そしてくれるかと。次男、腹の中の嫁はん同伴で、謝罪に行った事も、あったなと。
その内には、その女性の、弟と、するの方から、呼び出しあって。どこであったか、堀川の七条の、西本願寺の向かい辺りであったの哉の、喫茶店で、お会いして。申されるに、慰謝料をと、請求されて。
当方、単刀直入の、自賠責保険で、賄えるの範囲ならと。まあ、云うたら、頑として、引き下がらず。
内心的、加害者は、加害者なれどの、捻挫で、こんなに長くかと。モ一点、目撃者なら、居てるの、ホントに、接触したの怪の、疑念もあって。
イヤ、そんな話、一切の口にはしてませんですが。
脅迫的、来られるなら、徹底抗戦するの積もりでね。大体が、弟を出すが、気に喰わず。それも、デカいの図体の方でして。にも、関わらずの、当方、頑の姿勢で、慰謝料の話、消えてもたわと。
されどの、更なるの、内心、コマツタなと。こんな調子で、延々のやられてみい。脅迫的行為されてみいと。こちは、法律には、ド素人でして。さりとて、基本、被害者女性、治るが、最大の目的なれどです。
更なるの内心、ほんと怪なと。延々の通院がや。通院はされてるが故、毎週、毎週、精算してるですが。
ここだけの話の、何とも、無くとも、この手のは、外観的、不明故に、当人の主張でして。
での、この方、被害者女性、結婚されてましての、訪問の時、家には、ご主人居られた事もあってね。
何の時か、当方に、車で、しかるべくの場所え、連れてけと。しかるべくの場所、尋ねたならばの、要は、パチンコに行くがためで、場所、西洞院の、四条角。
隠す事も無いの、よっく、承知の、仏光寺の家のソバでして。ソバも、通てたの、格致小学校区内でして。細かくの、聞かんでも、一発の分かるわと。
でや、そこのマンション、西大路の、五条でして。
車内にての、何で、そんなに、遠くえと。パチンコにと。単刀直入の、尋ねたならばの、出身、その近所ですて。ンの、へえと。
実は、当方、元々が、その近くですと。へえと。
その方の苗字、忘れたですが。覚えてたとての、その苗字の家、知らんのけどや。
その方、ご主人、曰くの、産まれたの産院、「梅鉢医院」也と。ンの、えの、へえの、当方も、その、医院也と。仏光寺の、油小路の、上がるの、西側の、ですねえと。
そらなの、よっく、承知してるの、横町でして。歩いて、1分、掛からんわと。
云うてるの、パチンコ屋も、1回、2回程度は入ってまして。
且つは、小学生、中学生時代哉には、パチンコ台、買おてもろての、そこのパチンコ屋に、玉売って頂戴なと。百円玉持参での、コレ又、一度か、二度、行ってまして。
大体が、その方、当方をば、槇島の住人と。ンの、それで、間違い無いけどや。通り名で、行きたいの場所云うて、当方の、対するの返答、何で、そこえと。ほっといて呉れ的、質問故に、ビクリされてたわと。
重ねて、小学校区の話なり、致しの、へえと、相成って。
イヤイヤ、この件にての、急転直下の、解決に向こたです。
正直、こちにしてみたらの、ヤクザと、までは、思ては無いの、されどの、諸般、いやらしい人やなと。
こちは、加害者としての、引け目あるが故、諸般の、図々しいの、要求も、至って素直に、聞いてるし、誠意で以て、毎週、毎週、謝罪方々、見舞い方々、様子伺いしてまして。
での、どちにしたって、急転直下の解決の、しかるべくの日、誓約書と、するのか、示談書作成の日が決められて。
中身、後遺症あった場合、何年後であっても、誠意以て、対応するの云々のと。署名、捺印致し。
云うたら、何やけどの、捻挫で、後遺症哉と、思えどの、一切の、口出し致さずの、むしろの、小学校、中学校、高校は、違うかったけどや。の、話に相成って。
いやなあ、その一件、パチンコ屋に連れてけの、図々しくもの、要求、あらへんかってみい。
半年では終わらんの、1年、2年、掛かって、又、慰謝料云々の話、蒸し返されるの可能性あったのけどや。
にしたって、こんな事、あるんやなと。旧住所が、同じの小学校区で、産院、一緒やてえ。奇跡的なるの、話やでと。
オッとの、それでや、以降、事故ったは、あらへんなと。事故られたは、あるけどや。
捻挫で、半年なるの、結果的、良い経験致したわと。
但しの、前提、精進、精進の、救いの神と、するのか、目に見えぬの加護あるよに、思えてね。
(16/06/25)
NO.374 長男、被害者、事故られるの話(16) チョと、余計なるの話
本日<6月25日・土曜日>、次男家、父の日としての、焼き肉をと。
当家近在の、「ひら山」に行ったです。コレ、最近、定番になっててね。
イヤ、「ひら山」なるは、当地、亀岡では、有名でして。旨いがあるですが。高くもあって。鱈腹、腹一杯喰て、ご馳走さんと。
余計なるの話。
でも、無いの、明日<26日>には、妹婿母の四十九日で、伏見の方え、出向くです。云われたの時刻、16時でして。この時刻に法要故、墓参はしやへんの哉と。
イヤ、そこまでの話、聞いては無いしで、知らんですが。
それよりも、初めての場故、早めに行くですが。遅刻は失礼故の、お供えを、どんなのにする怪と、悩んでるです。何名様、何軒、来られるかが、分からんでして。正直、余りに高価なの、よりは、皆様に当たるの数の、あるの、方がと。
ほならと、洛西の、高島屋にでも、寄ってくかと。
その手、和菓子屋、洋菓子屋の店が、何店か、出てまして。本店とは違うし、数少ないけどや。亀岡の、アル・プラザ、サティとなら、多いしなと。よて、選り取り、見取りと、までは、申せませんですが。選択出来るなと。
それは、明日の話の、さての、当方事故ったの話なるは、これも、今、振り返れば、矢っ張りやでと。
偶々鴨分からんのけれども、余りにも、タイミングが宜し過ぎるです。あれ程の、延々の、捻挫治療が、ご主人の産まれた産院が、一緒の話で、急転直下の解決が、でして。
何よりモノ、連れてけの、場所が、住んでた家の、近くとはなと。格致小学校区、とはなと。何故にそこえ、パチンコか、までは、聞いては無いけれどの、推測ならしてるの、西大路五条のマンションに入居なるは、近々の事、やったん、やろと。
よて、実家近くの、最寄りのパチンコ屋えと。当方なら、その当時には、パチンコなんか、するの、出来るの気分に非ずで、してへんですが。
よ、考えたら、その当時より、パチンコからは、遠離り出したよにも、思うです。
でや、この事件なるは、槇島の家、引っ越すの直前でして。
とするのか、実際には、次男の出産ひかえて、頭の中には、あったですが。本格的には、当然の、出来てから、でして。
これも、方々、見聞には、出向いてるですが。場所が、滋賀県の、どこかは、忘れたですが、湖東の方は、方なれどの、遠過ぎたりでね。環境も、高圧電線の、鉄柱の、ソバやったりで、チョとなあと、敬遠したり。
亀岡の当地に決めて。
理由簡単の、一応は、京都でして。且つは、安いわと。距離は、ある故の、会社までは、22キロでして。只なの、槇島からは、15キロであったの哉の、所用時間、1時間は一緒、なれどの、この、一緒は、家出るの時刻を、早くしての事でして。
亀岡からでは、例えばの話、会社、8時15分始まりで、7時に出てたでは、着くは、9時頃になるやろと。6時半でも、8時半頃での、要は、家出るを早くにせねばの、間に合わんわの、6時には、なと。
6時に出て、1時間で、7時頃に着くになるです。限度と、するなら、6時半で、遅刻寸前哉と。
云うたって、この数分、道中の渋滞状況等々にて、遅刻するのか、間に合うのかの、状態故、安全見ての、6時に成るです。
早くに着けば、文庫本の乱読でして。この当時には、山程の本、読んだなと。下手したら、始業時間までに、2冊を読破してもたり。余りに、速読してもたらの、本代勿体無い程での。そらなの、文庫本も、毎日、毎日、読破してたでは、お小遣いに、響くわと。事実、響いてたのけどや。
とりあえずは、毎週、2回、3回、本屋に寄ってたなと。出張の際にも、駅の本屋に寄ったり、してねえ。週刊誌も、二冊、三冊。新聞でも、二紙、三紙と、手にしたり。一冊、一紙では、とてもの、間に合わん故。
でや、ここと決めて、一番にと、親父には、新居を見せに連れてってるです。
一番も、二番も、母なら、嫁はんなら、息子共なら、一緒に見聞に出向いてまして。当たり前の、親父、家族やわと。
実際には、この当時には、宇多野病院より、退院してて。諸般、母、同居嫌がる故に、申し訳無いけどのと、槇島の近く、でも無いけれどの、まあ、近くは、近くの、宇治は、宇治の、莵道の、明星園。
要は老人ホームに入所してもろて。
亀岡の家、連れてく、見せるに、外出届け、提出での。
まあなあ、遠いわと。宇治から、亀岡の大井でして。片道、40キロあったなと。当方、感覚的、仏光寺の家からなら、大阪に行くよな、距離感でして。
これ又、余計なるの話の、基本、当方1人。明星園に行くは、でして。母なんか、1人では、行かんし、ンの、多分なら、2回、3回哉と。息子共なら、何回か、連れてってるですが。そらなの、息子共にしたら、祖父でして。
親父から、したらの、孫でして。且つは、正々堂々の、内孫でして。柴田の孫でして。
ンの、そんな意味からなら、妹は、娘を、息子を、親父に見せたの哉と。よ、知らんなと。見せたの話、聞いてえへんなと。とは、云えどの、その手の話題、出てへんなと。
婿殿なら、1度哉の、行ってくれてるですが。との、話、聞いてるですが。
その時、妹も一緒なら、その子ども達も、会わせてる筈なれど、です。そこまでの、話、してへん、聞いてえへんなと。
オトトの、どちにしたって、引っ越すの前に、連れてってるです。見せてるです。ここに引っ越すと。
その道中にも、色んな話、してるですが。一々のは、割愛致すですが。
いやなあの、返す返すも、この事、永遠に当方、引っ掛かってるわと。
そらなの、当方の立場的、宿命的、なるが、厳然の、存在致すわと。無視してへん、無知でもあらへんの、あるのべく、考えてるし、そのよに、したいわと。
嘘、冗談、建前、口先に非ずの、本気やでと。万事、当方、本気やでと。
当たり前の、家族たる、一つ屋根の下に暮らして、家族やわと。母さえ、夫婦仲さえ、普通ならの、宇多野病院退院を以て、引き取ると、するのか、引き取るに成るの、我が家えと。
コレ、至って、当然、自然での。
されどの、母、絶対に嫌と。家出ると。
ンの、正直申しの、家出るも、1人で、生活するの意で無くの。自身の兄宅に、身を寄せるの意での。
あのなあの、誰が、引き受けて呉れるのモンかと。息子が居て、チャンと、してるのにと。チャンと、とは、職持ち、小さくともの、狭くともの、一応は、自宅持っての、フーテン、フー太郎なんか、してへんのにや。
もと、云うたら、母の兄達の家が、相応の資産家で、広いの家なら、やけど、そでもあらへんのにや。そこ様も、家族居たはるわと。下の伯父家なら、仏光寺の家の近くなれどの、夫婦2人でなと。息子共、家出てもてねと。
イヤ、独立の意での。
上のなら、宇治、大久保での、伯母亡くなってるですが、長男夫婦と、一緒にと。そんな家に、叔母たるが、突然の、居候なんか、トンでもやと。常識外れやわと。
オトトの家族構成等々、なるは、当時の話やでと。
兎角にの、母、家出の先、そこなんやと。
家出で無いなら、下の兄宅なれど、です。
そらなの、一泊、二泊、三、四の、泊の、要は、一時なら、やけど、以降、永遠のと、なればの、困らはるわと。図々しいにも、程あって。
では、あても、ドンの、土管の、文句あっかの、飯代、居候代、軽くの、住宅ローン代程度、出すなら、なれどの、一銭も、出さんのにと。困る以前の、常識外れも、程あって。
笑止千万の、こちも、沽券に関わるわと。
ソレ以前の、引き取りに来て呉れと、相成るわと。成って、どするの怪の、先読めへんでして。母の思考回路、行動がや。何をしでかすの怪と。
オッとの、実際の、家出の時なら、その日の内にでも、当方より、伯父宅に電話一発、嗚呼、居てるでと、確認してるわと。確認の上、引き取りにと。そんな事、時偶あってね。
イヤ、親父が、我が家に外泊の度でして。
そらなの、1人、独立、暮らせるの資力あれば、やけれどの、あらへんわと。我が家に居ててのさえの、借金こさえるの人が、どして、1人暮らし出来るの怪と。
どちにしたって、1人での話、なるが、出たとしたって、なと。
ンの、オッとの、ここまでにしとくです。
本題からは、外れに、外れたの話故。
(16/06/26)
NO.375 悪い事も、慶事も、重なるの話(1) 右足骨折の、二度目の入院中の話
イヤ、昨日<6月26日・日曜日>。
妹婿母の、四十九日で、「東本願寺伏見別院」えと。
の、前に、お供えの菓子をば、調達がため、「洛西高島屋」えと。
更には、諸般、届けモノがあっての、長岡京の次男宅。宅と、するよりは、手渡し、即の、「東本願寺伏見別院」に向こたですが。
イヤイヤ、概ねと、するのか、場所は承知も、その、「伏見別院」は、知らんわと。
場所は、次男が産まれたの、当時産院。現歯医者の近くでの。その歯医者なら、重々承知の、そこから、スグのソバは、分かってるですが。何分の、初めての場所故、そこに、入り方が、なと。
一応は、GoogleMapで、調べてるですが。別途の、Web地図でも、見てるですが。要は、狭い道路でね。道路の向かい側には、「イオン」があるも、地図上では、承知。
只なの、最近では、そち方面、用事が無くて。
それもあるし、兎に角、以前とは、景観、異なってまして。大丈夫怪と。迷子に成らずに、着けるのやろ怪と。
不安抱き乍らも、無事に着いたですが。まあ、云うたら、想定通りの入り方でして。こんなモン、正直には、Mapから、予備知識、得とかん事には、分からんわと。イヤイヤ、「別院」えの、入り口がや。
とりあえずは、早くに到着の、1時間以上の前でして。他家の法要やろ哉の、全然の知らんの皆様が、御堂に居られたですが、関係あらへんしねえ。
車だけ、駐めての、見聞のため、「イオン」を散策。ついでに、大手筋商店街をも、ブラ歩き。嫁はんと、一緒にの、その途上、らしきの方々にも、会おたです。
イヤ、四十九日に参列の、婿殿家の親族にや。そらまあ、過日の、葬儀の際、通夜、告別式の、2日間、顔だけは、見てるわと。
でや、婿家、ここ、「東本願寺伏見別院」で、法要なりは、定番かと、思いきやの、違うですて。菩提寺住職の提案にて、そした、ダケですて。へえと。
とは、婿殿より、聞いたです。
要は、婿家親族殿、皆様、初めてに相成るです。よて、概ね、皆様、早め、早めの、到着での。当方も、しかりの、そらなの、遅刻は、失礼千万故で。
当方なら、駐車場があるは、聞いてるものの、入り方が、分からん事には、界隈、ウロウロしんならんなと。危惧してたですが。結果的、一発、入れて、ヨカツタなと。
での、四十九日の法要の件なるは、その程度に、止め置くです。
基本、施主なるは、経験して、分かるの、あれこれ、これあれ、気忙しく。ましてやの、初めての、場では、尚更にの。
その点、当方夫婦、ソラなの、気楽やわと。諸般、尋ねられたら、当家で、したの事をば、伝えまして。そのよに、やる、やらんは、先方の思うがよにと。
あとは、流れに従うのみの、とりあえずは、婿殿親族知らんしなあ。知らんも、異の、顔だけなら、葬儀の際、承知も、喋るなりの方、居られませんでして。只、お一方のみ、気さくと、するのか、喋り、喋って戴けるの方、居られてね。助かるですが。
婿家父方の、親族での。の程度で、苗字等々、全くの知らんです。
とかとか、法要、16時頃より、始まりまして。法要そのものは、40分程度で終わりの、後は、住職によるの、何やろねえ。六道、六文銭の講義哉。
17時頃に、それも終わって、会席の場、「梅の花」と、称するの、屋号の料亭に移動。
イヤ、綺麗と、するのか、風情あるの料亭での。概ねの、17時半より、2時間で、散会と相成り。
21時頃、我が家に戻ったの哉と。
オッとの、途中、道中、トイレ休憩なり、してるですが。
以上、他家の法事故、ここまでに、しとくわと。
での、題目、「長男、被害者、事故られるの話」としてるですが。
実質的、中身、当方視点、立場からの、当家歴史、とも、異なる表現なれどの、の掲載での。
題目、替える哉と。
ここより、「悪い事も、慶事も、重なるの話」に、改題致すです。
でや、槇島に居た頃、後期には、当方が事故ってもたり。
されどの、奇遇とするのか、奇妙なるの、チカラにての、急転直下の解決致し。へえと、我れ乍らに感心したですが。こんな事があるんやなと。
いやまあの、クレグレもの、先様、悪い方とは、毛頭の、思ては無いですが。毛頭も、微妙なる、なれど、です。
兎に角、こちは、加害者として、毎週、毎週。実際には、一度や、二度、飛ぶ事もあったと、思うのけどや。病院には、精算に。宅様えは、手土産持参で、お伺いしてたわと。
基本、早くに治って戴かん事にはなと。
只なの、捻挫で、長過ぎるわと。只なの、幸いにしての、妊婦さんで無くて。されどの、接触の感覚無く。
とは、一切の、先様には、申してませんですが。こじれるのダケでして。
これは、悪い事には、間違い無いけどや。記憶に残るの事件、事故の類。であるは、あるけどや。
人の、生き、死に、一生が云々、までには、関係してへんわと。よて、斯くの如くに、掲載、してられるわと。
そして、引っ越しの直前には、当然の、親父には、ここに引っ越すと、見せに行き。
この時、10月頃、やったの哉の、京都から、老いの坂、突破したの、亀岡なるは、凄いの霧でねえ。朝の、10時頃と、記憶してるですが。へえと、ビクリしたです。
車で、走ってるの前方、視野、見難くて。この、朝の、10時にやでと。
そらなの、深い霧を体験は、中学生の修学旅行での、観光バスで、箱根の山を通過の時、以来でね。
この時も、凄い霧での、皆で、ワー、ワー、騒いだなと。前見えへんしで、こんな霧、初体験での。
大体が、当時、小学生、中学生、高校生でもや。車なりで、遠方に出るは、あらへんわと。車そのものが、珍しい時代やわと。金持ちの象徴みたいでね、事実、そと、思うわと。
イヤイヤ、亀岡が、こんなに霧の深い地。とは、全くの、知らんでねえ。
大体が、亀岡も、盆地で、保津川がある故でして。京都も、盆地は、盆地で、京都盆地なれどです。京都市内から、見たらの、面積少ないわと。人口も、建物もで、田圃、空き地が多いわと。
多分なら、親父、えらい、ド田舎に行くんやなと。思たと、思うわと。
それ、云うたら、槇島でも、でして。ここも、引っ越しするの直前には、親父を、連れてってるわと。ここやでと。
その時でさえ、ド田舎に行くんやなと、云われてねえ。ンの、田舎に間違い、無いけどや。
そらなの、親父なら、当家、本籍地であるの、綾小路の大宮で、産まれの、育ちの、そこが、祖父の判子一発、保証人で、没収されてもての、仏光寺の借家でして。どちも、京都のド真ん中やと。
只、後年、結核で、隔離入院にての、宇多野は、京都は京都も、端でして。更には、宇治、莵道は、コレ又、京都市内と、違うなと。宇治市でして。
そらなの、そらなで、当方、入社の、ローム<当時、東洋電具製作所>も、西大路の五条での。田舎と、抜かしたの親父でして。
コレ又、間違いでは無いけどや。西の方、桂川から、先なるは、親父の世代では、田舎やわと。
オッとの、それでや。
引っ越して、スグには、長男、2歳で、失踪。
失踪先、国道9号線の、「ジャガー」。焼き肉屋でして。よくぞ、まの、カタカタで、国道9号線を渡ったなと。一つ、間違えば、交通事故に巻き込まれてるですが。何事も無い故、斯くの如くに、掲載してられるですが。
の、程度哉と。
イヤ、記憶に残るの、当家、事件、なるがです。
さりとての、こんな事があったなの、話での。生き、死にに、関係無く。幸いにして、関係無かったと、云えるのけどや。
そして、年月経ての、家族全員にての、ディズニー・ランドに、行こかと。決めての、その日、であったの哉の。休暇を申し込みの、その夜に、真っ暗なるの、我が家えの、道中にての、工事中を知らんしなと。
灯りで、赤色灯で、危険を明示してるで無く。囲いで、通れぬよに、しても無く。マンホールに片足、乗り上げてもての、その拍子に転けての、左足骨折。
この時には、単に、とは、異なれどの、ダケで、皆には、家族には、申し訳無いの、ディズニー・ランドが消えてもての。入院なれどの。
ここから、一度目の、退院より、1年半後、足に埋め込まれたの、金具。
要は、骨さえ、くっつけば、余計なるの、金属なるは、取ってしまうになってての、その取り外しで、再入院の、ボチボチのと、するのか、退院も近付いてたの頃やんかと。
病院のベッドで、寝てたら、看護師より、家から、電話ですと。
(16/06/28)
NO.376 悪い事も、慶事も、重なるの話(2) 決断するの話
基本、冠婚葬祭、含む、法事等々なるは、さての、どんな心掛けをと、なればです。
基本、招くの方、おもてなしの心、重要也と。
基本、招かれたの方、失礼の無いよにの、損させぬよにの、心が肝要也と。
難しいは、コレ、誰しもの、そのよに、思い、考えてても、個々人により、基準が、なと。
違うんやと。
イヤイヤ、常に、申すの、互助の精神也と。
祭事には、費用掛かるわと。それを、皆で、分担をの、感覚哉と。
そらなの、当方にしたって、そのよに、考え、錬り、手筈整えてるですが。それでも、手抜かりある鴨と。されどの、細々、別途の、大筋的、抜け無ければ、合格やろと。
又、その手、陰口、伝え聞かんなら、万歳三唱。
オッとの、この手のに、不平不満は、聞こえて来いひんけどや。あっても、云い難い事やしなと。よて、尚更にと。
イヤ、有り難いの事に、わざわざの、感謝の言、伝わるです。だけで、充分也と。
正直、その分、費用も、手間も、掛けてるのけどや。結果、後で、ヒイ、フウ、ハアと。
それでや、話、戻しの、本題。
「公立南丹病院」の、病室、ベッドで、寝てたら、看護師より、家から、電話ですと。何事哉の、ハイと、即刻の、案内されたの、場所、電話に出れば、嫁はんより、お爺ちゃんがと。我が、親父の事、なれどの、「黄檗病院」に入院での、危篤と。えと。
問答無用の、外泊、外出届け提出の、即刻の、我が家えと。
いやなあ、当時の話の、現在唯今は、知らんの、病院も、鷹揚でねえ。患者は、自家用車を、置いとくが出来たです。特段の、許可を得ずとも、でして。当世なら、入出に、駐車カードがあっての、2時間以上なら、有料。診察、見舞い等々の場合、しかるべくの、手続き経て、無料化出来るですが。
その当時には、そんな事、されてえ、へんでねえ。自由に出入り、出来てたわと。
要は、即刻の、車で、自宅えと、戻ったですが。
モ一発、いやなあの、当時、基本、土日には、外泊で、自宅に、戻ってたですが。
親父の、入所先の、「明星園」にも、その間、行ってててね。松葉杖さえ、あれば、動けるしと。
での、直前には、親父も、動きが緩慢と成り。
歳でも、ありの、親父も、足の大腿部骨折にての、金具入れたままでして。とするのか、次第、次第にの、歩きが自由には、出来んよになってての、車椅子状態にと。
結果、先様、「明星園」より、併設の、「特別養護老人ホーム」えの、移動を勧告されまして。曰くに、車椅子状態では、こちでは、出来ぬ故、併設、新設の、「特別養護老人ホーム」に入所をと。
よて、親父の持ち物等々、まとめて、そちの方に、移動したですが。
部屋と、するのか、マダ、新設、出来たばかりの、施設でね。
云うたら、従前の建屋出て、そのままに、真向かいの、建屋でして。当時はなと。
介護士の案内にての、その場所に、親父の持ち物、置きまして。
覚えてるは、施設を、一周までは、してへんのけどや。親父、オシッコと、申す故に、連れてったわと。綺麗な、トイレでねえ。この時には、所謂の、洋式の、では無くて、和式でして。オッとの、男子小用がや。
その程度なら、親父も、立って、用、足せて。
そして、元の場所にと。
先刻、場所、場所との表現で、部屋とは、してへんけどや。印象的、通路の一角のよな、場所でして。
介護士曰くに、仮ですと。早急に、しかるべくの、部屋にと。そですかと。
加えての、今までの、場所よりは、全体的、灯りが少ないのか、窓少ないのか、陰気でね。暗いの分、明るさが無く。
されどの、仮と、申されてるし、後は、介護士が、やると。要は、あちから、こちえの、移動は、家族がと。そですかと。
只なの、再度の、暗あて、陰気臭いの施設でね。余り、ええ気はしてへんでね。当方がや。
されどの、されどで、出来たばかりの、出来たてのホヤホヤでして。初期に入所出来るのならと。
でや、その数日後でして。
病院に電話がや。
モ、一発の、本意、申すなら、高齢者の環境替えるは宜しく無いと。との、気があったですが。車椅子では、こっちでは、面倒見るに出来ませんと、されたなら、仕方があらへんわと。
それもあるし、先方の指示には、従うが原則での。
とは、云えどの、余りに、余りの、その時には、動けてるし、立ててるし、話もしてるしと。危篤の知らせ、そのものが、納得出来てえへんでね。
兎に角、家に戻りの、着替えして。
準備が出来たの辺りで、妹婿より、電話一発。
いやなの、当時、滋賀在住の妹夫婦の方が、早くに、「黄檗病院」に到着してて。
婿殿曰くに、先生が、人工呼吸してくれたはるのけれどの、既に、2時間。これを、止めると、呼吸が止まる。そやけど、先生も、限度。
兄さん、どしますかと。決断をと。
この、どしますか、決断をの、意なるは、人工呼吸を止めても良いかの、意、問いでして。
止めるは、そのままの、親父、死ぬを意味しの、そのまま、続行なるは、先生の体力の限界がと。遠の昔に、越してると。
要は、その判断、当家代表たるの、長男たるの、当方、決定、決断せよの、意での。
只なの、亀岡、大井町から、宇治、黄檗までと、なればの、軽くの、1時間半は掛かるわと。
迷たは、瞬時の、親父、申し訳ありませんと。
ンの、止めてもろて。
はきりと、申しの、この瞬間、当方、親父の寿命、決めたになるです。かと、申しの、当方にしか、この決断、出来んわと。
大袈裟には、全責任、負うと。誰に対するの、責任哉と、なればの、当人、親父でありの、当家、全員。
での、家族全員、母、嫁はん、息子共2人、車に乗せての、宇治の、「黄檗病院」えと。
正直、申すの、運転し乍らの、涙、涙で、前、見えてえへんでねえ。ホントに、見えずなら、事故ってるですが。
黄檗方面えの、道中、病院に接近すれば、する程にの、責任の重さと、何でやと。
何でやは、先日には、あんなに、元気やったのにと。元気も、そらなの、親父、80歳での、元気の意味、桁違うのけどや。少なくともの、車椅子は、車椅子も、多少なら、自力で歩けてるし、トイレの小用も、出来てたしと。
頭なんか、回転なんか、全くの、呆けてえへんかったしと。
再度の、只なの、肺に穴がと、するのか、破れたですと。
よて、人工呼吸の手を止めると、呼吸停止。最早の年齢的等々、処置出来ずの状態での。
そこで、申すの、そらなの、結核にての、隔離入院長かったわと。
とは、余所事なら、そかと、仕方が無いでと、云えるのけどや。自分の親父の事、やでと。
での、「黄檗病院」に着いて、しかるべくの、部屋、処置室なんやろかねえ。入ったの時には、妹夫婦が、居てての、親父、亡くなっててね。
死に目に、会えず。
云うとくの、コレ、左足には、ギブスで、松葉杖、持参の状態やでと。
(16/06/29)
NO.377 悪い事も、慶事も、重なるの話(3) 親父の話
ホントはねえ。
当家、亀岡に引っ越したの時、宇治、莵道、「明星園」では、遠い故、亀岡の、老人ホーム、「亀岡園」に転入検討したです。
現在唯今なら、この手、施設は沢山、あるですが。その当時には、ここだけでねえ。
嫁はんと、2人して、見学、見聞、下見に出向いたですが。
ンの、まの、何ちゅうかの、古うて、汚く、陰気でね。クレグレもの、当時の話やでの、35年前になるの哉と。
幾ら、何でもの、ここでは、親父が、可哀想と、止めたです。
イヤ、莵道では、距離あっても、車で、1時間半で、行けるわと。親父が慣れてるの施設の方が、ええやろと。親父も、ンの、こちでと、申し。
イヤイヤ、親父は、一緒に、見学には、行ってえへんのけどや。
只なの、この当時には、莵道えの、道中、特には、「赤池」の辺りでは、大渋滞でね。大変でした、ですが。毎週と、までは、行けへんのけどや。この当時には、会社も、土日は休日と、成ってるが故、土曜日なり、日曜日には、出向いてたわと。「明星園」にや。
これは、自主的でありの、最低でも、月に1度は、行ってたわと。この、月に1度なるは、当時の話、入所費用なるが、当人と、保護者であるの、当方が、年収に応じの、月額幾らの、負担があって。
この、費用、収めるが、振込はダメで、直接の、支払いに出向くです。
これとは、別途に、親父の散髪なり、体調等々での、入院と、なればの、家族がと。
よて、散髪なら、3箇月に、1度なり、園の近在の、散髪屋に、連れてって。入院と、なればの、どこかは、失念の、病院にての、付き添いでね。そこから、出勤したりしての、こんな事、一度か、二度なれどです。
内の1回、「黄檗病院」も、あったよなでして。危篤云々の際にも、重々の承知してたわと。場所をや。
その場所も、難しいの場所で無く、外環状線から、「明星園」に、行くなら、その道中に、看板あったしなと。現在でも、あると、思うのけどや。
での、この辺りの話、どこまで、する兵衛哉と。
やり出したら、やるのならばの、幾らでもの、あってね。
母は、当然の自分1人では、行かへんし、足が無いも、あるのけど。何度かは、「明星園」から、呼び出しあっての、連れてってるですが。一緒に生活致しませんですかの、要請での。
当方なら、構わんと、申してまして。本来、そあるのべきでして。
母、拒絶故、どもならずの話でして。
の、程度に止め置くの、息子共なら、度々の、連れてってるです。ソラ、息子共の祖父でして。親父には、孫の顔程度、出来るの限り、見せてやらんとなと。余りにも、余りにもで。
云うたって、常が一緒と違うしなと。話、弾むで無くて。それでも、連れてったですが。
何故か、兄弟仲、悪く。
叔父達、一度も、面会にも、行ってくれてえへんでね。
この事については、昭和59年<1984年>、東本願寺祖廟の墓石をば、新調の際の、墓開きで、東京の叔母が来てくれたの時、当家に泊まってくれたですが。円山公園、「いそべ」での、会席終わり。
ンの、この時、久しぶりに、親父以外の、兄弟姉妹。と、するのか、実際には、姉と、弟達になるのけどや。親父は、出席してへん故で。そら、莵道から、連れて来るは、大変でして。
そんな人数も、車に乗れへんわと。
オッとの、そもそもがの、よ、考えたら、叔母乗せてたら、その段階にての、定員超過やったなと。
そらなの、車に、嫁はん、母、息子2人に、運転手の当方で、5人やわと。そこに、叔母でして。時効なれど、です。
ン、ンの、チョと待ての、当時、息子共、保育園やったなと。
ならばの、左程の図体デカく無く。12歳未満の、子ども3人で、大人2人分。
との、計算故、矢っ張りの、少々の、定員オーバーやなと。
でや、会席終わって、叔母には、親父に会おてくれる怪と、要請も、ン、ええわと。
この、ええわは、断りの、ええわ、での。ならばの、祖母<叔母の母親>の、葬儀<昭和46年>以来、会おてえへんのにと。
結果的、会わずで、叔母、亡くなってもたですが。当方的、何でやと。
とは、口にはせずの、そらなの、一番に長くに、一緒に暮らしてたの、弟達<叔父>でさえが、一度も、「宇多野病院」にも、「明星園」にも、面会に行ってくれてえへんのにと。
要は、それ程に、兄弟仲悪いは、分かるのけどや。理由も、薄々になら、叔父達から、聞いてるのけどや。
要は、要はの、妹弟思いで無いの、兄であるの、話やわの。具体的には、知らんわの。ソラ、当方、産まれるの前の話での。
概ねなら、親父が産まれたの時には、父<当方の祖父>も、大いに儲かってての、借家何軒、親父のお付きの女中がと。所謂の、おぼっちゃまとして、育てられてまして。
後の兄弟、その恩恵に与らずの、預からせてくれずの、兄<親父>の独占状態、やったの哉と。
まあ、有り体には、冷たいの兄也と。兄らしく無いの、兄と。
これはねえ、当方的、分からんでも無くて。
云うたら、無いの袖、振れんの考えでの。当方にしたって、お小遣いなんか、もろたの事、あらへんわと。
大学にしたって、喰うは、喰わせてもろたのけどや。入学金支払うに、四苦八苦。当方がや。そんな大金、高校生の身で、捻出なんか、出来るのモンかと。
結果的、方々に、親父の仕事<電化製品修理及び販売業>の、未払いの先様えの、集金に出向いたり。行って、もろて来い。との、親父の指示での。祖母からも、援助してもろたの哉と。
当たり前の、学資も、教科書代も、交通費なんか、出るのモンかと。
よて、京都在住故、ヨカツタなと。自宅より、通えるわと。アルバイトも山程あるし、相応の学生生活、送れたわと。
にしたって、就職してからも、コマツタわと。
初月給、もらうまで、金あらへんでね。スーパー・カブで、通勤したのけどや。初月給までは、ガソリン代でさえが、四苦八苦の、勤めてたら、アルバイトが出来んわと。
コレ、冗談に非ずの、真剣なるの、課題やったわと。
コレ又、幸いにしての、祖母より、多少の、面倒、見てもろて。祖母、居てへんかったら、大学なんか、トンでもの。就職してからも、どなった事哉と。
オッとの、くれぐれもの、祖母に工面、頼むなんか、してへんわと。
祖母なるは、祖母での、当方的、概念的、表現、難しいけれどの、若いの、こちが、手助け等々、全面的、助けるべくの、存在やわと。
初月給もろたら、祖母には、相応のと。の、存在やわと。
コレ、恩返しの意で無く。恩なるは、金銭にての、返せるの、モノで無く。単純明快の、喜んで欲しいと、ダケでして。
それ、云うたら、親父、そんな状況なれどの、恨み、辛みなんか、毛頭のと。
そんな事、チラとでも、あってみい。我が家に、戻って欲しいなんか、考えるのモンかと。諸般、申し訳無いと、思うのモンかと。
度々の、「明星園」に、出向くのモンかと。
我が家ねえ。
当方的になら、当方、住んでるの地、存在するの家なるが、柴田家の、我が家やわと。
残念乍らの、申し訳無いけどの、仏光寺の家なるは、借家故、出るに相成ってもてと。
綾小路の柴田家なるは、祖父が、一代で、成しての、判子一発、没収での、当方、産まれてえへんしで、知らんわと。
オトトの、兄たる、そんなモンやと。
親を、弟達を、喰わせててもの、ケチョンの、ケチョン。
実際に、親を養おてたかは、分からんのけどや。共存共栄の関係もあったかと、思うのけどや。叔父<次男>戦死の恩給でや。
されどの、昭和の20年戦死<1945年・27歳>で、終戦で、27年から、やでと。戦死認定がや。
そして、祖父も、昭和20年<69歳>亡くなってるわと。
(16/06/30)
NO.378 悪い事も、慶事も、重なるの話(4) 叔母、当方骨折、親父で、叔父の話(1)
本日<6月30日>。
とは、何の日か、知ってる怪と。
基本、日本国、津々浦々の神社、氏神様と、称するの神社では、夏越のお祓いをするの日。
での、茅の輪潜りを致すの日、でして。
いやなの、この行事、半年に一度の、モ1回なるは、12月31日の大晦日なれどの、これはなの、諸般、参加出来ませんでして。
とりあえず、祓い賜え、清め賜えの、これを、何度もやるです。茅の輪巡りも、その一種で、実際にも、お祓いして戴きの、自分でも、行いの、祝詞も読みの。
これら、全部、お祓いでの。お祓いしまくるの日也。
と、申して、正解でして。
当方、昨年には、母の葬儀ありで、遠慮しの、参加致してませんですが。諸般、今年には、長男の件もありの。
とするのがあっての、それ、以前の、ここ数年、参加せず故、この際、行こかと、嫁はんと、2人して、参加したです。
ンの、例年なら、我が町内会の方も、1人、2人は、会うですが。此度、ダアレも、来たはらへんでね。
そんな話は、結構の、一家に一個の、茅の輪と、水無月を戴きまして。
水無月一個は、嫁はんと、半分ずつ、戴いて。茅の輪の方、過年にも、息子共の家の分も、買い求めてた故、今年もと。
イヤ、追加の分、なるは、実費やでと。
いやなの、神事に参加致せば、身も、心もの、心身共にの、安らぐわの。清々致すなと。
での、話の続きをと。
いやなあの、親父と、どこかえ、出た。
一家全員、云うたって、親2人、当方、妹の、4人で、どこかえ、行った。
なるは、比叡山の展望台にと。ダケでして。
ンの、コレ、当方、中学生の頃哉の。ならばの、妹、小学生も、兎に角、6つ違いでね。
何の話、してるかと、なればの、当時、歩いて、登ったの記憶やでと。理由、ケーブル・カーに乗るなんかの、金、あらへんしと。
その、ケーブル・カーの道と、するのか、階段あっての、そこを歩いて登りの、下ったの、記憶。
何を云うてるかと、なればの、妹、小学生で、よ、頑張ったなと。
只なの、しんどいとかの、感覚全くの、無くて、結構、楽しかったの記憶がと。何分の、4人で、出たは、この1回ダケ哉と。
それ程に、どこにも、行ってえへんでね。
当方も、現在唯今、出不精は、出不精なれどの、親父、それ以上の、極端の、出不精でして。
ましてやの、祖母も一緒。とか、叔父達も、一緒は、まるきりの、無かったなと。
まずは、当世の如くに、自家用車があらへんわと。
祖母となら、基本、墓参でして。叔父達が、どこかえと、なればの、下の叔父が、一度だけ、なれどの、当時、梅田の、叔母宅に行くに、連れてってくれたなと。当然の小学生時代哉と。
オッとの、そんな話、するの積もり無くて。
兄弟仲、悪いの話の、続きなれどの、当家、墓開きの時、東京在住<小学生時代には、梅田在住>の叔母が来てくれたですが。その久しぶりの、叔母でさえが、兄であるの、親父に会うかと、思いきやの、ええわと、拒否されてもての、えと。
結果、その叔母、その明くるの年、癌で入院。
今の内にと、従兄弟<そこの長男>よりの、連絡にて、母と、共にの、見舞いにと。
そこから、年空けての、桜咲き、散るの季節、亡くなりの、葬儀に参列したですが。その帰りの道中、新幹線の中で、当方、叔父達夫婦に、申したわと。ええ機会故の、一度くらい、親父に面会してやて呉れと。
オッとの、要は、京都からは、母、当方と、叔父達夫婦の、都合の、6人が参列致し。
それを、聞き入れの、但しの、叔父達では無くの、叔母2人が、面会に行って呉れたです。
いやなの、叔父達、兄弟のくせに、頑として、行かずも、その嫁なれどです。そこが、叔父達の当方要請に対するの、妥協点やったんやと。それ程に、仲が悪いかと、感心と、同時に、その上で、叔母に、行って呉れと、したんやなと。
当方的、それで、納得と、するのか、満足してるですが。ソラ、聞き入れてくれた故。
その、叔母の葬儀の、桜の季節の、一年後の話なるは、ここでは、詳細掲載、致さんですが。
簡単には、偶々の、偶然も、偶然の、奇跡的の、当方、製品説明のための、出張要請受けての、営業担当の指定したの駅で、待ち合わせての。
営業車に乗せてもろての、車中、ビクリ仰天の、まさしくの、叔母が入院の病院の前通過。
更には、葬儀したの、団地の、公民館の前通過。
ンの、この、コース、叔母の斎場、焼き場やねえ。の、道中、そのままのと。当然の、焼き場に用事無くの、行くべきの、会社えのため、途中より、道違うのけどや。
矢っ張りの、桜咲き、散るの季節での。要は、一周忌なんやと。
はきりと、申しの、叔母が、招いたの、出張也と。
ほんまやでの、その会社、失念したですが。どこの、何ちゅうかの、会社名さえ、記憶に無いの、大した用事でも無いの、営業担当には、貴君で、出来るやないかの、話の用件での。
その営業担当さえも、記憶にあらへんわと。
そらなの、その前年、何線の、どこの駅と、葬儀に、行ってるのやからにしての、出張の時にも、ンの、叔母のと、分かるやろと、云われたならばの、自慢や無いけれどの、そんな事、一々の、覚えてるの、モンかと。
待ち合わせ場所、時刻、間違わず、遅刻せずで、頭の中、一杯やわと。
東京えの、出張なんか、その度、待ち合わせ場所、時刻も、違うしなと。ほんまやでの、東京駅から、乗り換えの何線を探すに精一杯の、降りるの駅も、時刻表なり、見ての、幾つ目やなと。
等々、それだけで、目一杯。業務そのもの、大した事で無くの、気楽、気楽の、バカみたいやったのけどや。バカみたいなんか、この1回だけ哉と。
何分の、出不精別にしての、方向音痴、地名音痴の、人名音痴の、真性、純正、音痴でね。
云うとくの、その会社も、その1回のみやでと。よて、全くの、記憶もしてへんわと。の程度の会社で、用件。
それでや。
叔母の葬儀なるは、昭和61年<1986年・64歳>での。親父は、平成3年<1991年・80歳>故、5年離れてての、特段の、凶事、続いてるで無いと、云えば、云えるのけどや。
当方、骨折なるは、時期曖昧なれどの、1年半前故の、1990年か、1989年での。この辺り、なるは、それでも、3年、離れてる故の、何とも早の。ンの、まの、連続の事がや。
されどの、その次ぎ。
上の叔父がや。コレ又、癌での、入院での、親父の明くるの年の、平成4年<1992年・67歳>やでと。葬儀がや。
当方的、感覚ならばの、叔母、当方骨折、親父、叔父と、連続哉と。
少なくともの、叔母、別途にしたって、当方、骨折より、親父、叔父でして。
冗談半分、この辺り、兄弟仲ええの怪と。
その上での、下の叔父なら、現在唯今、健在なれどの、最早のええ歳でね。
(16/07/01)
NO.379 悪い事も、慶事も、重なるの話(5) 叔母、当方骨折、親父で、叔父の話(2)
前回の話、チョと、補足しとくです。
何の話、かと、なればの、叔母の見舞いと、葬儀の話。
当方、一周忌の辺りで、期せずしての、業務出張にての、その病院。そして、葬儀の公民館の真ん前、通過したと、記載したですが。
そもそもがの、病院と、公民館の位置関係なるは、全然の知らんです。
母と、一緒にの、見舞いなるは、叔母の長男が、東京駅の、「銀の鈴」に迎えに来てくれて。「銀の鈴」なるは、東京では有名なるの、待ち合わせ場所らしいけど。
京都の人間には、聞き始めでして。
オッとの、そんな事より、その当日なるは、着いたは、夜でして。
従兄弟の家に、訪問の、家族と、会いまして。近在の、寿司屋に連れてってもろての、夕食、寿司。
そして、東京の、「丸の内ホテル」に泊まったわと。明くるの日、従兄弟が来てくれての、叔母の入院先えと、車で、でして。
そこが、叔母の住んでるの、「ひばりヶ丘」の近くと、するのか、なんか、一切の聞いてませんでして。単に、病院に見舞いにと、ダケでして。
次ぎの、葬儀では、皆で、指定の駅にで。駅のスグのソバ故、降りて、真っ直ぐに来いと。
ここでも、ダケの話の、公民館とも、聞いてえへんわと。云われたの通り、駅を降りて、真っ直ぐに進めば、明々と、灯りのあるの建屋があっての、らしきの雰囲気やなと、ダケの話の、これも、夜やしなと。
通夜に間に合うよにと、ダケでして。
当然の、通夜は、その公民館に宿泊と、するのか、夜伽で、一夜を明かし。
暇故、外に出たら、桜の木が一杯でね。パラパラと、落ちるの情景、鮮明に記憶してるわと。
とするのか、通夜、告別式と、その公民館やしなと。
そんな事で、叔母の入院先の病院なるが、どこか、なんか、全くの、無関心。
兎に角、従兄弟が、車で、連れてってくれた、ダケの事でして。
この界隈に詳しいの方なら、当方の、この記述のみでも、分かるの哉と。
通夜で、降りたの駅が。そして、その一年後に、降りて、営業車に乗せられたの駅がや。
そして、どち、方面に、営業車が、走ったかをや。
その先、斎場が、どこにあるかも、ご当地の方なら、分かるやろと。
話簡単の、葬儀の時、降りたの駅と、業務出張での、降りたの駅は、違うわと。ほならの、何とか線でと、云う無かれの、そんな事まで、覚えるモンかと。
業務出張で、なんか、営業担当との、待ち合わせ場所なんか、メモ書きしての、目的達成にての、ポイ。帰りは、コースも、違うしやろと。
当方にしたって、Web地図で、詳細、探索したなら、分かる筈、なれどのと。最早の、叔母は、そこには、居てへんわと。
その3人の息子、当方の従兄弟も、そこには、居てへんわと。ソラ、遠の昔に、皆、独立してるわと。
そ云うたら、親父は、自宅<亀岡>でして。
上の叔父、公民館。
正直なるの話、公民館が葬儀に使えるの団地はええなあと。
近所の知り合いが参列し易いし、遺族にしてみたら、狭いの自宅でよりは、親族も、集まり易いし、何よりも、葬儀費用が安くに済むわと。
でや、叔母の時には、期せずしての、その亡くなるの、2年前、当家墓開きで、皆が集まったですが。一周忌では、記載の通りの、不可思議なるの事、あったですが。
ならばの、親父の時、どやったの哉と、なればの、申してるわの、移動した先、「特別養護老人ホーム」は、新装開店の真新しいの建屋にも関わらずの、当方の印象、暗く、冷たくと。いやあな、感覚あったわと。
ましてやの、高齢者の生活、日常をば、替えるは、好ましく無いは、重々の、承知も、親父の状況より、仕方が無くと、してるわと。
ソラ、「老人ホーム」の方が、車椅子状態では、面倒見られませんと。当世でなら、介護等級、上がってもたわと。
その当時に、介護等級の概念、あらへんのけどや。見て一発、分かるわと。
いやなあの、何度かの、一度、鮮明に記憶してるは、「老人ホーム」の昼食時間に、しかるべくの、手続きしての、親父を連れ出し、簡単なるの、昼食でもと。
云うたって、喫茶店くらいしか、あらへんでして。もと、大通りにまで、出たら、諸般の店あると、思うのけどや。余りに、大入り満員の店もなと。憚るが故に、園の近所でと、適当なるの、店に入ったですが。
そこで、サンドイッチと、コーヒーやったの哉の、注文致し。幸いにしての、土曜日、日曜日の辺りでの、客も、我々だけでね。
ででや、出て来たの、サンドイッチを頬張るの親父。されどの、口から、ぽろぽろ、こぼれてもてねえ。
オトトの、トットの、さあ、大変の、落ちたのを、必死で、拾うに、店のご主人、ええよ、そのままで、ほっといてと。ニコニコされての、その言葉で、嗚呼、スミマセンと。お言葉に甘えさせて戴いたですが。
での、親父には、落ち着いて、喰えよなあと。
云うてるの尻から、ぽろぽろと、こぼされの、スミマセンと。嗚呼、気にしんといてと。親孝行、してあげてと。
ンの、へえの、当方的、親孝行してるの感覚、あらへんでね。常に出来ぬ事、してるの積もりでね。
オッとの、されどの、ハタ目、親孝行なんやと。
云うてる、思てるは、単に、偶には、親父と一緒に食事でもと、ダケでして。
そらなの、母となら、一緒でして。その十分の一、百分の一でもの、親父と共にと、ダケでして。
その母親との話も、特段の、特別なるの事と、とは、思てえへんでして。当方、気が付いたの時には、大家族。とも、云えへんのけどや。祖母、叔父達と、一緒やしと。世間、皆、そやしで、特段のと。
最初っから、申してるの、母さえがの、同意なら、皆で、家族一緒に暮らしてるわと。我が家、狭くとも、やと。
そんな意味でなら、叔父の時には、何ちゅうかの、会社で、仕事してたら、何やったの哉の、詳細失念の、いやあな、感覚に陥ってもて。
イヤイヤ、叔父が、癌で入院なら、承知してるの、東福寺の方の、「京都第一赤十字病院」でして。
その時には、当方の足の骨折も完治の、病院で使てたの、ポータブル・テレビを持って行ってやったり、文庫本も、山程あるしと、行くの度、持って行ってやったりと。
当時には、病院に備え付けの、テレビ・カードに寄るのテレビと、違うしなと。
病院指定の、電気屋から、レンタルで、借りるなり、自宅に所有のを、持ち込むなりは、自由でね。
当方の場合、ポータブルの、小さいテレビを、入院用にと、買おたわと。そらなの、3箇月、3箇月の入院での、テレビが無いのは、辛いわと。又、同部屋の面々、皆、その手の小型のを、持参してまして。
での、ででや、入院承知も、まさかの、亡くなるは、想定してへんでねえ。
行くの度、どやと、治療の進捗状況、聞いてたですが。特段の、異変、感じてえへんの、順調に回復するよの、頭っから、考えてての、叔父亡くなったの報、聞いたの時には、えと。
そらなの、親族、それも、血縁親族なるは、死ぬとは、思てえへんでねえ。
常識的、いつかは、死ぬるのけどや。家族が、元気な内にと、とかとか、云われたの時には、相応の迫ってるの意であるは、承知してるのけどや。
叔父の時なら、事程左様の、会社の近くでも、無いけどや。オッとの、行ってるは、土曜なり、日曜日なれどです。
弱って来てる、悪化してるの、印象無くて。当方にはや。
只なの、その日には、いやあな、感覚あったなと。会社に連絡あったか。家に帰ってから、聞いたかは、定かに覚えてえへんのけどや。
ンの、よ考えたら、昼間やったなと。
叔父宅に居たら、叔父が、しかるべくの、病院から、送られて来ての、叔父家従兄弟達と、一緒に、部屋に入れたを覚えてるわと。一旦はなと。
葬儀は、団地の公民館なれどです。
(16/07/02)
NO.380 悪い事も、慶事も、重なるの話(6) 結婚ラッシュ、出産ラッシュの話
での、ここまでは、弔事。
ここからは、慶事連発の、一番手、長男結婚<2007年>。
当家、家族、1人増えての、6人に成り。
内訳、母、我々夫婦と、息子2人に、嫁でして。
まずは、孫娘誕生で、7人に成り。孫君1号で、8人と相成り。
次ぎ、次男結婚にて、家族が、又、増えての、9人と、成って。
長男家に、孫君2号誕生で、続いて、次男家に孫君3号がと。10人、11人と成ったなと。
これら、2007年から、2012年の間で、連続してるわと。
この間、弔事あったかと、なればの、あるには、あるわの、
2003年5月に、母方、下の伯父。
2005年4月は、母方、上の伯父の長男。同年、11月には、嫁はんの父がと。
とまあ、ここまでは、血縁、姻戚も、離れてるは、離れてるですが。当家慶事との、間がで。
2008年12月には、父方、下の叔父嫁、母方、叔母婿がと。これ、葬儀の梯子したですが。これら、血縁あらへんでね。
血縁あらへんでもの、下の伯父嫁なら、伯父の、2003年以前の、どれ程の以前かが、思い出せんの、5年、10年程やろ哉に亡くなってるですが。多分ならばの、当家、父方、上の叔父が亡くなったの辺り哉の直後哉と。
この伯母も、諸般あってね。
そもそもが、ここ、伯父宅、当方の、「京都市立郁文中学校」の通学路の道中での。とするのか、歩いて、5分もあれば、行けるの距離やしな。従兄弟、男兄弟3人居たし。
要は、当家、仏光寺時代には、始終往来してて。可成り、親しくしてたですが。
槇島に引っ越して。又、亀岡に成りで、足遠離ったは事実なれどの、出来るの限りは、正月、息子共を連れてと、するのか、家族全員で、年始の挨拶、しに行ってたですが。息子共にお年玉を呉れへんでねえ。
トッとの、そんな話は結構の。
諸般で、年始の挨拶も行けずの時期続き。何年か、その、黒門の伯父宅には、行って無かったですが。母が、行きたいと、申す故に、連れてって。伯父は居たですが、伯母居てへんでねえ。残念やなと。久しぶりに、顔見たかったのにと、伯父に云いつつの、こちは、特段の用事あらへんしで、帰りの道中。とする程の、道中でもあらへんですが。
偶々の、黒門から、高辻に出て、大宮えの、途中で、ンの、伯母怪なと。
歩くの、伯母の姿、後ろから、なれどの、一発、発見の、車は、道に置いたままの。ソラ、道の反対の側での、後ろから、伯母さんと、声掛けて。
嗚呼、タケちゃん怪な。久しぶりやなと。
とかとかの、挨拶したが、最後の、2週間程して、従兄弟<長男>より、訃報がと。
よくぞの、この時、バタリと、会えたなと。
当然の、あわよくばの、コース選定なれどです。伯父に尋ねて、どち方面に行ったの哉の。それも、出て、どれ程の時間経ったかも、分からんでねえ。
こちも、伯父宅に母、連れて来ての、宜しくの、デハ、ハイ、サイナラでも、あらへんわと。一言、二言、詔の程度。
お茶の一杯、出てへん鴨の。伯母居てへんしと。ソラ、10分や、15分、居てるわと。10分、15分なら、当方、ばたりの場所、遠の昔の、5分と、掛からんの場所やったんやと。ンの、ならばの、道中、伯母、寄り道してたの鴨なと。
オトトの、この話も、過日、どこかで、掲載してるわと。
云うてるは、振り返ればの、慶事の間にも、弔事、諸般、あったは事実なれどの。各々に、重みが違うわと。
母方、叔母婿なら、何度しか、顔、合わせてえへんし。
これも、柴田の、叔父嫁の葬儀なるが、後やったが故、梯子も出来たですが。逆やてみい。悪いけど、叔母婿のは、行けてえへんわと。ソラ、当方、柴田故。
まあ、云うたら、本家として、柴田の、叔父嫁のを、行かずで、何してるに相成るわと。
モと、云うたら、葬儀会館も、距離あれどの、梯子の出来るの距離でして。これが、方向違てみい。アカンわと。
モと、モと、云うたら、叔父嫁のは、前日にも、葬儀会館承知も、母方、叔母婿のは、知らんしなと。その前日の内、帰宅の際、場所ここと、確認しに出向いてるわと。
そらなの、チョとでも、間違おてみい。迷子になてみい。とりあえずの、場所分からんとからにの、梯子致さんわと。
トッとの、そんな話、結構の。
父方、叔母で、当方骨折。親父が、上の叔父がと、相次いでもての。コレ、血縁やでと。当方、立場も、明確での。親父のなら、喪主でして。
での、慶事も、長男結婚。
当家にしてみたらの、何ちゅうかの、かんちゅうかの、人生の、大行事。当方、夫婦にとても、当人、長男にとってもやと。
そして、初孫、孫娘誕生でと。次ぎには、孫君1号と、相次いで。
更には、コレ又の、何ちゅうかの、かんちゅうかの、人生の、大行事の、次男の、結婚での。
云うてるの間にも、長男家に、三人目の孫、孫君2号で、次男家には、孫君3号誕生でして。都合の、当家、最大数、11名になてもてね。
そらなの、過去最大、最多なるは、6名でして。云うたって、比較対象難しいのけどや。そらなの、正直申しの、過去最大なるのは、同じ屋根の下での、名実共の家族6名。
息子共、結婚してのは、独立してるですが。
それでも、基本、一緒やわの、柴田家として、最大数になったわと。
ででや、云い出せばの、柴田家では無いけれどの。
嫁はんの姉家でなら、そこの長男<義理の甥>結婚しの、そこの長男誕生<ここは、男の子2人>なるが、一連の慶事の一番手には、成るのけどや。
コレ又、そこまでの範囲、広げ鱈の話の、結婚、二番手なるは、ンの、どちが先であったの哉の、当家長男で、四国の、姪の結婚哉で、当家次男哉と。
ン、ンの、その間にも、我が妹家の、姪が結婚<一男一女>してるなと。
間とは、当家長男結婚と、次男の間やったの哉の。
正直申しの、記録辿れば、正確なるの、順番、分かるのけどの。そこまではと。ええやろと。
とりあえず、当家、息子共、結婚したの辺り、出産の辺り。
では、当家周辺、甥、姪、参加の、結婚ラッシュで、出産ラッシュやでと。
余程の事情の無い限りは、そこまでの、全員、孫世代までが、一同にの、機会、あらへんけどや。
あったと、し鱈の話の、孫世代、現時点、総数何名哉の。9人やなと。
よて、当家、中心ならばの、6名。四国、姉家中心なら、7名になるなあと。
どちにしたって、結婚、出産、連続での。
その間にも、弔事あるのけどや。慶事、桁違いの、圧倒してるわの、お目出度いの、連発ぞと。
(16/07/03)