不可思議の世界NO.22
京都・亀岡の良く当たる占い師の話
<京都でよく当たる占い師は?>
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目次
NO.250 桜散る散る、花吹雪の話(42) 長男2歳、失踪の話
NO.249 桜散る散る、花吹雪の話(41) 家の神様に御礼の話
NO.248 桜散る散る、花吹雪の話(40) 諸般の経費の話
NO.247 桜散る散る、花吹雪の話(39) 亀岡の話(2)
NO.246 桜散る散る、花吹雪の話(38) 亀岡の話(1)
NO.245 桜散る散る、花吹雪の話(37) 滋賀、栗東の土地の話
NO.244 桜散る散る、花吹雪の話(36) 我が息子共誕生の話
NO.243 桜散る散る、花吹雪の話(35) 妹に娘誕生の話
NO.242 桜散る散る、花吹雪の話(34) 親父骨折の話
NO.241 桜散る散る、花吹雪の話(33) 親父退院の話(2)
NO.241 桜散る散る、花吹雪の話(33) 親父退院の話(2)
どっちが先かは、忘れたですが。
どっちとは、長男誕生か。親父の退院、老人ホーム入所がでして。
当時、昭和の時代、老人ホーム入所も、そんなには難しくも無く。年寄りの数が少なかったもあるですが。反面、施設の数も少ないですが。場所としたら、宇治、槇島の近くになら、三室戸寺の辺り、莵道に、明星園なるのがあったです。変な話、妹婿宅両親の近くでして。
オッとの、妹の方は、義理の父母と一緒の家に住みの、長女が誕生の後、小倉に中古住宅を買いの、出たですが。
そらなあ、正直、狭い家で、親子二世代。子どもが出来たら、居てられへんわと。我々の若い時代とは違いまして。若い時代は、狭くとも、長屋でもの、アパート一間でもの、親と一緒が常識でして。
イヤ、私なら、古い考えそのままでの、現在唯今も、ソレが常識と思てるですが。
只なあ、明確に云うておけば、寿命が延びた。
とは云えどの、大体は、親父は先にと。反対の事もあるですが。片親になれば、ほっとけへんわと。
世間を見たら分かるの、我々世代で、親と同居してるは、概ね、片親でして。オッとの、資産家、家屋敷が堂々たるの。ならば、別途の話の、別の問題あったりと。明確には、打算もあったりかと。
私の場合、親父は居てるの、されどの、宇多野病院に入院でして。実質居てませんでして。
仏光寺の家から出るの際の、寂しい事。
母、妹、私の3人やでと。
要は、男1人だけでして。そんなモン、ほったらかしに出来るかと。夢、夢、冗談にもの、皆目、露程もと。
親父は生きての、入院してるだけでして。当然の、一緒に住むが前提でして。はっきりとは、妹も結婚してくれて。親父が退院しても、大丈夫と。
思てたのに、足元の前提、グラグラでして。正直、親の夫婦仲、悪いは承知の。かと云うて、そこまでとは、予想だにしてへんわと。してたら、時間を掛けて、母説得もと。説得程度で、ウン、分かったと、多少の我慢すると、聞いてくれるの母では無いけれどや。
正直には、腹が立ってねえ。
我が儘過ぎると。
家族は一緒に住むが一番でして。助け合い、歪み合い。喜怒哀楽を共にして、家族でして。それを何やと。我が儘、気儘の、自分が良ければ、宜しく、気に沿わんなら、好きにするでは、話に成らず。
にしても、一緒に住んでる方、母の立場は強いわと。
簡単明瞭の、ナラバの、親父と一緒に暮らす故、出てけ。とは申せませんでして。生活出来るの筈が無く。
かと云うて、親父も1人で、生活出来るでも無く。但し、国民年金、少ないですが、受給してまして。少ないとは、如何程となればの、良くは覚えてませんの、多分なら、1万円、2万円の程度かと。
親父の時代、途中から、年金制度が出来まして。
出来たは、1961年<昭和36年>での、親父から、聞いた話では、一括納入にて、受給資格が貰えたですて。
での、当時、この話の時、親父、67歳。
60歳から受給してた筈でして。
オッとの、再度の、国民年金程度で、1人で生活出来ませんです。年金も、支給額が、年々増えてたですが。当時はナと。高度成長時代故で、亡くなる辺りで、多分ならばの、4万円もあったかなあと。
親父の場合、母が如くに、収入以上に使わんですが。
イヤ、ホントになあ。
母と親父の性格、反対ならと。
はっきり申すの、女の気性の激しく、気の強いは、ども成らんわの、始末に負えへんわと。
人の意見、考え、聞く気、毛頭の、妥協せず。都合の悪い話は飛ばしてしもての、自慢話は得意技での、則を超えて、平然と。イヤ、則を理解してませんでして。目的のためなら、当然としてての、そこらに一杯居てるですが。
まあ、云うたら、矛盾だらけを分かってませんの、頑としての、聞き入れず。
男の方は、そこまではの、実社会にての、相応に、もまれてまして。女であっても、実社会にて、もまれたはったら、社会性に富んだはるわと。
オトトの、そんな話は結構の、しかるべくの、処置せねばならぬの、大役でして。
宇多野病院に親父に面談をの、特段の、ショッチュウ、面談、諸般の話をしてるですが。してる故に、退院の話も当人、親父から、聞いたんやと。今日の、明日の話でも無いの、されどの、退院準備をと。出来るの限り、早急にと。
での、隠す事も無いの、諸般、実情、母の事。等々、正直そのまま伝えたです。母の事なら、重々承知の、こっちも、ええ恰好一切せずの、自分自身の希望、理想は、グと我慢の、出しても、どもならんわと。
そらなあ、云い出せば、親父の兄弟、弟2人が居てるですが。まさかの、長男たるが、弟一家に世話になりの、居候が出来ますかと。母は女で、妹の立場で、一時的、家出で、兄宅に行けたですが。
それでも、常軌逸してまして。非常識でして。
万が一の、親父の弟、我がオジ達が、諾としたとても、今度は、私が、私を、許せませんですの、息子として、長男としての自覚があるし、自尊心あるです。これを、失えば、人間失格、男さいなら、オシマイでして。
それ以前の、そんな事、話をした段階にて、言葉にせずとも、私を変に思われるです。思て当然の、私が逆の立場、オジであっても、息子が居てるのに。その長男たるが、何たると。
トトトの、これ又、それ以前の、一緒に暮らしてた割には、兄弟仲も良くなくて。同じく、大邸宅に住んでるで無し。高級取りでもあらへんのにと。
どっちにしたって、当時、親を、老人ホームは、生活保護受給と同等の、恥的感覚でして。
私も、恥と思てるわの、さりとて、どこかの、アパートをでも、借りて、アパート代をこっちが負担のと。そんな事、住宅ローン返済の身で、逆立ちしたって、出来ませんでして。給料、手取りの、相当額、そっちやでと。当時はナと。
結果、選択肢があらへんです。恥は承知の、老人ホームに行ってもらうしかでして。
でででの、親父に話をしたなら、あっさりの、諾と。
行っても構わへんと、云うてくれて。
助かったと、私が感じたかとなれば、全くの、思てませんの。一言、心底、心より、申し訳ありません。
親父、他界、21年経ったの、現在唯今でも、息子として、長男として、申し訳ありませんと思てるです。
イヤ、助かった以前の、親父に助けてもろたは、その1回だけ。助かったと、助けてもろたは全然の、違うわと。
(12/07/28)
NO.242 桜散る散る、花吹雪の話(34) 親父骨折の話
老人ホームについての、昔的考え述べれば、恥でして。
生活保護受給は、それ以上の、更なるの、恥でして。
当世、年収1000万円の高給取りが、親族<2親等>の扶養、仕送り拒否は、その辺りの概念欠落の、自分の生活のみを守れば宜しいとしてるの証左の、「家族」の考えが、違うです。
受け取れるのなら、受け取り得と。一部国会議員なるは、当然の権利としてるですが。
ソやろかなあと。寂しい思いが致すです。
イヤ、これがため、財政圧迫で、税金上げて、取られてみい。国は単なるの、支給者でして。支払いは国民でして。オッとの、互助の精神大切なれどです。私なら、町内会の事でも、誠心誠意、役立つ事はしてるわと。
ハタと気が付けばの、やってるのは、役員以外で、自分だけやったりと。ホンマやでの、所謂の真正アホなんです。要領が悪いんです。それを、恥とは思てませんですが。出て来ぬ面々、町内行事に出るを邪魔くさいが本音。
イヤ、偶々、用事があってと、理由はあれどの、毎回、毎回、用事があるみたいでねえ。出てる人は、イツも暇なんかと。
オッとの、但しの、誤解無きよにの、親が認知症、寝たきり、身体不自由、所謂の障害者になってしもての、場合なるは、しかるべくの施設に預かって戴くは妥当かと。
それこその、その昔。
斯様な施設僅少の際には、家族大変でして。自分の生活、人生を犠牲にしんならんかったですが。コレでは、何にも成りませんでして。
云うてるは、根本的なる考え方を云うてるです。最大限の努力はしたかと。基本的に、収入なんか、関係あらへんわの、気持ちの世界かと。要は、絆、キズナと安直の、云うだけなら、誰にでも云えるの、実質的なるの、態度で示せと。
自分の家族でありの、親、兄弟やないかと。
トトトの、くれぐれもの、話の当時、私め、30代になったばかり。
兎に角、若いし、体力、気力充実の頃での、或る意味、家族なるは、自分と、同等。もしかしたら、自分以上に家族があったかと。
収入、給料の多寡は全くのとなればの、嘘なれどの、計算してませんでして。2人が3人、4人でも、同じ屋根の下にで、何とかなるわ的計算でして。実質的、計算してへんのが正解かの、事実、収入に不足あるなら、残業でも、徹夜でもを、買ってでもと。
別段にの、嫌いな仕事で無くの、やり甲斐のある業務でして。その当時はナと。
これが、50代、60代にもなればの、体力、気力、資力がと。
気だけはあっても、ホカが付いて来ませんでして。それでも、自分なりに、後ろ指差されるよな事してませんですが。一応の常識の範疇ならばです。云う人は、何とでも、云いまして。
での、ででの、それでです。
何をどのよにしたか、定かに覚えてませんの、諸般の手続きをで、宇治、明星園に親父に入所してもらい。その時、母も一緒やったかと。その時とは、親父を宇多野病院から、明星園の時に非ずの、別途の日なれどです。
そもそもが、母が親父と一緒に行くの筈が無く。
にしては、親父入院以前。仏光寺の家の時は、何やったと、思うですが。一旦、離れて、ン年もしたら、ソなるのかと。
どっちにしたって、書類一式、揃えの、手続きを済ませたですが。
当時の支払いなるは、入所者本人の、収入<年金等々>からの相応額。保護者、保証人、私なれどの、モ1人必要で、多分なら、上のオジに頼んだ筈でして。当然の、事の次第は、オジ達にも通知してるです。
負担金なるは、収入よりの、相当額をとなってまして。収入以上の費用は掛からんの、そんなに高額でも無かったですが。
さもなくばの、入所はさせられませんの、仮にそんな場合ならばの、親父は家に戻ってもろたと思うです。結果、母が出てくとならばの、最早の仕方が無いかと。勝手にせえの、オジ宅にでも、どこにでもと。そこから先、一生でもの、居候させてくれるならと。
それこその、開き直った可能性がと。
そらそおや。
別段にの、母の意向無視してませんでして。最大限の努力をした結果の話の、尚、ごたごた抜かすならばの、どしょも無く。
云うたら、何で、親父1人を犠牲にしんならんのやと。犠牲もたった1人、肝心の母が気儘、身勝手でして。言葉選ばずなら、自分さえ良ければ、それで良しの、親父<夫>がどなろが、知らんわの考えかと。
結果、宇治、明星園には、何年入所してたか。13年かと。結論的、亡くなるまで、居てたになるです。
仮に、母がその間にでも、亡くなれば、親父は家に戻って貰うですが。実際には、現在唯今、健在でして。健在も自力では、歩行出来ませんですが。これは、別途の話で、ここでは、ここまでにしとくです。
そんな事で、母はその間何度、行ったかとなればの、2度かと。
2度共に、私と一緒での、明星園の担当者より、お母さんも来て欲しいとの要請にて、出向いてまして。
これ又、別途の話にしまして。
何れにせよ、面会者は、実質、私1人。宇多野病院同様、概ね、2週間に1回かと。但しの、宇治、槇島の頃は、出来る限り、週1回としてたです。ソラ、近いしで、病院に居てるのと、明星園、老人ホームとでは、意味が違うわと。
斯くなる次第の、ホナラの、槇島の家を知らんのかと成るですが。
せめてもの、正月だけでも、外泊でも、外出でもの、自宅にと。
当然の、母、家出なれどの、好きにして頂戴と。年に一度、正月くらい、家族一緒で過ごすは当然でして。その1回を拒否は、許せませんでして。
但し、イツの時か、正月の時期であったか、無かったかの。正月でも無かったよにも思うですが。兎に角、積雪の日。玄関先がいてて<凍って>てねえ。親父、転けたです。
転けて、左足大腿部骨折。
これが又、私が居て無かった<外出>で、救急車で、桂、国道9号線、物集女街道角の、「清水病院」にと。地理的、承知なら、何で、そんな遠い病院にとなるですが。私の通勤路でもありまして。
家のモノ、多分なら、嫁はんが、その方が、私が病院に通い易いと判断したのかと。オッとの、変な話、事情確認してませんでして。してても、失念のと。
イヤ、現、「亀岡シミズ病院」と同じの系列なれどです。当時は、ここ単独でして。
何よりも、地理的云々以前の、確かに、京都では、整形外科で有名病院でもあったです。
イヤイヤ、お陰様で、祖母のよには成らずに済んだです。とりあえずは、退院後、杖のみで、歩行出来ててねえ。転けて、骨折は問題なれどの、選定病院大正解かと。
(12/07/29)
NO.243 桜散る散る、花吹雪の話(35) 妹に娘誕生の話
積雪の日。
槇島の家で、転倒。左大腿部骨折。
桂の清水病院に入院したです。整形外科で有名なる病院でして。幸いにして、杖で歩けるに回復したと。
丁度、私の通勤経路にての、帰りに寄ったりしたですが。何故か、オバ<母の妹>が付き添いで、居てくれてまして。イヤ、完全看護でもありませんでして。有り難いは当然の、されどの、変な話で、何でかなあと。
母に云わせれば、勝手にと。勝手云うても、住んでるの場所が全然の違いまして。オバは、富野荘(とのしょう)と称するの、近鉄沿線。奈良に近い場所でして。奈良にまでは、間があるですが。
いやまあ、オバもカラダが丈夫な方でも無く。良く入院してまして。入院したら、見舞いには行ってたですが。一々、どこのと、覚えて無い程の方々でして。やのに、何でと。
オバに何でと問えば、アンタのお父さんやしと。フウンと。
イヤ、見舞いは当然の、されどの、この当時の付き添いなるは、当然にして、しっかり、記憶に止めてまして。
その僅かではあるですが。恩義の一端を返せたのが、過年の、オバ婿葬儀の日でして。
その時には、ここまでの背景、掲載してませんですが。「柴田」の下のオジ嫁と、葬儀が重なりまして。葬儀の梯子したと、してるですが。これ又の、変な話、運良くもの表現、異なれどの、方角似てまして。
<参考=「不可思議の世界NO.6」NO.89、NO.90 叔母の話 葬式のハシゴの話>
オバ婿の葬儀なるは、国道24号線沿いの、まあ、云うたら、かつての、住処、槇島の近く。オジ嫁のは、京阪国道<国道1号線>、八幡の方。
時間差もあっての、オバ婿の後で、オジ嫁の葬儀でして。時刻が反対なら、悪いけれどの、オバ婿のは、不義理と相成ったですが。
そもそもが、葬儀が重なるも問題なれどの、葬儀場には、顔出し出来ての、オバにも一言、二言、言葉を掛けらてたです。
もしかしての、そんな事、親父の件、入院、付き添いの話が無ければ、どしてたかとなれば、同じの条件<場所、時刻>なら、行ってるですが。
行くの気持ちが違うわと。
ソラなあ、大切なる親族の話でして。オバの事でして。
云うたら、槇島の家の近くも、亀岡に引っ越して以来、早々には用事も無く。ましてやの、葬儀会館なんか、知らんしと。前日、オジ嫁通夜の帰りには、近在の様子確認に行ってるです。
時間的余裕があらへんしで。只でさえ、迷子常習の私でして。葬儀会館の場所だけでもと。一寸だけの遠回り故にと。
結果、当日、迷う事無く、到着出来てまして。
イヤイヤ、話を戻しまして。
当時は、完全看護の病院少なく。患者の状態にて、家族が、付き添いをしたり。場合に寄り、付き添いを雇たりしてたですが。
での、幸いにして、杖で歩けるまでに回復としたですが。
当時、私自身は、骨折以前。その不自由さなるは、充分に理解が出来てえへんが正直な処でして。
加えての、表現難しいけれどの、会う度、親父が年寄り染みてくが、許せず。誠に以て、複雑なる気分やったですが。
兎に角、明星園からは、電話頻繁の。電話は職員からで、散髪に連れて行って欲しいと。
イヤ、原則、散髪は、家族が連れて行くになってまして。
実は、これが大変でして。今なら、重々の理解するですが。理由なるは、家族であるの、私に会いたいがためであると。当時には、分からんわと。この前、行った処やのにと。伸びてえへんのにと。
とは、云うてえへんけれどです。
事実上、面会者は、私1人でありまして。妹婿が、何回か行ってくれたかなあと。だけでして。
但し、面会者、私1人時代は、槇島の頃でして。
さての、話が前後するですが。
親父、明星園入園と、どっちが先であったかの、長男誕生。
嫁はんの実家、香川、詫間とするよりは、観音寺の産院で、誕生したですが。
更なる以前。
妹結婚にての、先様、親父様が頻繁に我が一家<母、私、嫁はん>を呼ばれまして。
イヤ、近くやし、構わんですが。兄さん、兄さんと、親しく、付き合って戴いたですが。
中でも印象深いは、初めて、甲子園球場に行ったのか。はっきりとは、親父様一家、阪神ファンでありまして。私は、巨人ファンなれどです。阪神対大洋<現横浜DeNE>戦であったかの、兎に角、大洋には、シピンが居たのか。三塁手で、ヘルメット被って、守備してまして。なめてやがるナと。
どっちにしたって、巨人ファンの私が、巨人戦でも無いの、甲子園に行っても仕方が無いけれどや。初でもありの。とは云えどの、以降、行った事が無いの、その1回しか、甲子園は知らんの、兎に角、周辺、阪神ファンで、やかましい事、やかましい事。
阪神ファンで無いけれどの、調子を合わせてな仕方が無いの。
オッとの、これが、下手に、巨人戦やってみい。巨人のチャンスで、歓声上げの、阪神の凡退にての、歓声上げててみい。袋叩きに合いかねんの雰囲気でして。巨人戦で無くて、良かったかと。
或いはの、下手したら、麻雀に誘われたりしまして。それも、親父様の親族とでして。当時、多少はしてたけれどの、水準がと。汗かいたを記憶してるです。
イヤイヤ、斯くなるでの、妹婿親父様、面白い御仁ではあったです。
次には、妹に、第一子、娘誕生の。
これは、妹の実家であるの、我が家、槇島に戻って、出産したですが。果たしての、一箇月居たのか、二個月居たのか。定かには、覚えてえへんですが。
今度は、婿殿両親、頻繁に来られてねえ。見せてくれ。抱かせてくれと。
当然の、この親父様も、過年、他界されてるですが。
我が親父よりも、後なれどです。
(12/07/31)
NO.244 桜散る散る、花吹雪の話(36) 我が息子共誕生の話
さての、今度は、我が子の話。
母と一緒に嫁はんの実家になれどの、産院、観音寺。
義母の案内にて、行ったですが。黄疸が出てるとやらで、保育器に入ってまして。アレと、義母に教えて戴きまして。
部屋の窓ガラス越しに、保育器を見るしか許されてませんでして。嗚呼、これかと。それが、我が子との初対面でして。
感激したかとなればの、保育器に入ってるが故に、大丈夫かと。可哀想にと。そっちが先でして。新生児には、良く有る事らしく、無事に成長の今日(こんにち)に至ってるですが。
その明くる年には、二男誕生。
今度は、こっち、京都の産院にで、現在では、歯医者になってるですが。伏見、御幸宮のソバ、魚屋通りの産院にてで。実は、帝王切開でして。理由なるは、臍の緒が首に巻き付いてるの可能性が。
との事でして。それはイカンと、帝王切開になったですが。
そらなあ、この辺りの知識、希薄なれどの、臍の緒が巻き付いたままやってみい。これが原因にての、出る時、窒息でもしてみい。酸欠となりの、脳に障害でも残ってみい。大変で済まされへんです。
言葉選ばずの、綺麗事では無くの、正直、地獄に相成るです。一生、十字架を背負うになるです。
オッとの、コレ又、帝王切開にて、無事に出産。無事に成長の、今日(こんにち)に至ってるですが。
この時、長男、1歳と3箇月でして。産院の階段をハイハイで、上がったり、下がったり。汚いから、アカンと云うも、この年齢では、理解する筈も無く。
イヤ、産院での、長男のこの光景を覚えてまして。産まれるの当日、長男を連れて、待機してまして。
イヤイヤ、この二男の産まれるの時とするのか、年は大変でして。
まずは、お産の費用なれどの、帝王切開となればの、お産費用の一部が戻りませんでして。要は手術故でして。何が云いたいかとなればの、出産費用の問題がと。手持ち資金が無く。
困ったですが。
実は、この年の夏であったかに、母が暑い、暑い、死にソやと。
云われてもねえ。エアコン取り付け費用捻出出来ず。されどの、ウルサイし、銀行に借りたです。要は、借りてでも、エアコンをつけよとと、駄々こねられて。
忘れもしませんの、「京都中央信用金庫」であったかに、斯くなる次第でと、借金申し込みにで、確か、20万円であったかを借りたです。
量販店でなら、月賦で買えるは、後年でして。この当時は、そのよな仕組み無く。あったは、自動車会社の、自動車ローンだけであったかと。現金が無ければ、買えませんでして。結果、領収書も持って来いとか、諸般の条件出されてねえ。
イヤ、二男の出産費用を確保せねばならぬ故、手持ち資金を減らす訳にもで。結果の結果は、帝王切開のため、費用は帰らんかったですが。
ホンマやでの、兎角に、我が母、我が儘、気儘での、諸般、資金の無い時に限って、無茶云うて。当然のボーナスにて、一気、返済したですが。
云うたら、現在の、亀岡の家も同様での、母がこの部屋と指定の、自分の部屋にした部屋から、順々に、エアコンが付いてまして。
反対には、我々夫婦、息子共も、エアコンの無い部屋から、替わる度、付いてる部屋になったりと。お陰様で、現在唯今、エアコンは相応に設置されてるですが。電気代の問題もあるが故、我慢、我慢の我慢大会。母の部屋以外はでして。
オトトの、そんな話は結構の。
槇島の家では、先の通りの金欠病にも陥った事、度々なれどの、対して、中古物件にての、方々を直したです。
まずは、洗面台であったか、上等のにと。そして、風呂は、カビで、カビで、タイルも、割れてての、新しいのに、交換したり。交換したら、したで、母曰くに、一番風呂に入れば、中風に成らんと聞く故、自分が一番に入ると。
へえの、好きにして頂戴の、一番に入ったですが。
話のついでになら、現亀岡の家も、カビで、カビで、タイルも割れて。又、パテを塗るのも大変での、ユニット・バスにしたですが。母、又、曰くに、一番風呂に入れば、中風に成らんと聞くが故にと。
あのなあの、槇島でも入ってるが故、モええやろと。
オッとの、での、屋根も直してまして。原因は、雨漏りがする故でして。
とかとか、相応に手入れをしてるの間にも、二男誕生の、将来的、この槇島では、部屋も足らんなと。
この辺りから、鋭意決断の、モ一寸、マシとするのか、広い家を物色にと。家族全員にて、方々探索したですが。云うたら、悉くの、我が収入で、手の届くの範囲に無く。
そらなあ、宇治、槇島は田舎なれどの、その田舎で、新築住宅の展示でもがあれば、見学の、2千万円は軽くしてまして。この当時で、既に、3千万円近かったかと。30坪程度の土地で、建物付きなれどの、2千万円突破となれば、我が甲斐性では、手が届かんわの、400万円の借金で、四苦八苦してるのにと。
とも、云うてられんの、二男の誕生でして。
(12/08/01)
NO.245 桜散る散る、花吹雪の話(37) 滋賀、栗東の土地の話
イヤイヤ、屋根瓦を。風呂桶を。洗面台を。
モ1つあったの、トイレの水洗化。
仏光寺、話簡単の、京都市内では、中学生時代<1960年頃>かに、水洗化されまして。
宇治、槇島に引っ越したら、貯め置き式で。居てるの間に、水洗化されたですが。ついでの話の、亀岡に引っ越して。又、貯め置き式での、数年して、1980年代前半に、水洗化。
ならばの、槇島の家には、永住のつもりであったかとなればの、あらへんです。
あらへんのに、方々直した。手を加えたかとなればの、ソラ、現在唯今、その時、住んでるのに、ほったらかしは出来ませんでして。ましてやの、トイレの水洗化は、義務とするのか、強制でして。
加えての、イツ、引っ越しが出来るかも、分からんわと。先立つのモノが無く。
とは云え、方々見学とするのか、物色には、行ってたです。
一番に記憶に残るは、栗東<滋賀>の物件、土地でして。新聞のチラシで、見て、見学を申し込み。されどの、栗東やで。当時の我が感覚からなら、屋外スケート・リンク場があったり、サーキットがあったりの。
所謂の極寒の地で、通勤も大変でと。
されどの、広い土地で、満足の間取りならばの、私が犠牲になってもと。
イヤイヤ、そらなあ、引っ越して、分かるです。
仏光寺の家、京都市内は便利過ぎたです。京都駅には、バスに乗らんならんですが。買い物、松原の市場になら、歩いて5分かと。
百貨店の、大丸になら、歩いて、10分かの、高島屋でも、20分もあれば、着くかと。祇園まで、歩くは一寸、辛いけれどの、まあ、それでも、30分から、40分程度かなあと。阪急電鉄なら、大宮駅でも、烏丸駅でも、どっちでもと。
とりあえずは、どこに行くにも、交通費が少なくて済むです。何よりもの、時間が掛からんです。ついでになら、会社に、バイクで、10分、15分かと。
かと云うて、住むに、住めず。
槇島から、会社になら、最早の、桁が違うです。
車でなら、約1時間。経路、どこを取っても、大渋滞。それでも、1時間で済むと云えば、済むですが。
亀岡なら、矢っ張り、1時間は要するの、但しの、朝の早くに出ませんと、大渋滞で、指数関数的に時間を要するかと。
何よりも、知ってる人間が多いわと。
ソラ、知らんの人も居てるですが。知らんの意味が違うの、同じの学区なら、顔程度は承知の、同級生も多いしと。顔を知りの、どこの家かなら、承知してるしと。
高校、大学でもの、学友が、京都に来たのついでにと。簡単に来てくれるの場所でもありまして。現に、卒業してからも、何人もが、来てくれてたです。家を知ってるしと。
されどの、宇治、槇島であったり、亀岡では、ソは成らんです。一寸、寄るの場所では無いです。
オッとの、そんな事なら、学友、誰とは云うの、ケンイチ君、ヒロシ君の2人。槇島に引っ越した、明くるの正月かに、初詣で、伏見稲荷に行ったついでにと、寄ってくれたですが。その一度だけ。
更になら、槇島には、居たの年数少ないけれど。隣近所で、顔を知ってるとなれば、両隣と、斜め向かいの小母さんだけ。
家に向かって、右手。端の家の住人ならばの、大工やったかの、面白い兄ちゃん、でして。時には、何故か、電話を貸してと、入って来たり。その家にも、電話程度なら、あったですが。反対側のは、一寸ナの、引っ越してすぐにも、ステレオ事件で、夜の遅くに、玄関、ドンドンの、ウルサイと、イチャモンをと。
数年して。多分なら、引っ越しするの、1年前かに、結婚しやはったですが。その嫁が、変人でして。
確か、町内会で、溝掃除があったかの時なれどの、妊娠したはったが故に、手伝わんでも宜しいよと。冗談、皮肉で無くの、素直、本気で、云うてるのに、兎に角、手伝いたいと、云い張って。
溝蓋に手を掛け、嗚呼、重たい。こんな事、何でしんならんのやと。
あのなあと。
とは、云うてませんですが。何でて、町内行事で、上からの指示でして。重たいから、手伝おて戴かんでも、手は足りてるの、ご主人も出たはるのにと。
とは、思ただけの、そもそもが、そのご主人が何で、妊娠してるの一発分かるの嫁まで、出すの目的がと。イヤ、一世帯から、一名で結構でして。我が家にしたって、隣の兄ちゃんも、1人で出てまして。
この手のは、私、苦手でありまして。
妊娠承知で、出てもらわんとと、イケズ云うてるなら、問題なれどです。常識的、反って、気も使うし、迷惑やと。
とかとかの、最初の話に戻すの、栗東の詳しい場所までは、失念の、営業担当者が、車で、現地に連れて行ってくれまして。どこに集合したかは、忘れたですが。着いて、昼には、家族全員、どこかの、食堂にて、カレー・ライスをご馳走して戴いたかの、現地を方々見学の、買えソとなれば、一番に安いの場所で。只、問題は、高圧線が土地の真上を走ってまして。困ったなあと。
での、そこ程度しか、買えソな土地は無く。
困った、困ったで、戻ったですが。槇島の家にです。一緒には、現地案内の、担当者と、上司みたいなのが2人。3人もが、家に上がって、さあ、どするやと。
イヤ、ビックリしたです。家にまで、来るかと。一寸は考えさせて欲しいのにと。
ホナラの3人、口々に、あそこは、投資目的でも、買い得であると。自分に手持ち資金あらば、買うのと。等々、説得の。されどの、計算上、土地は買えても、建てるの資金がと。買うにしたって、借りられるかが、大問題にて、モ宜しいですと、断ったならです。
若手担当者が、ここまで来て、断られたら、我々の立場が無いと。フウンと。
営業はそんなモンと違うかと。商談が、万事、上手く進めば、苦労は要らんわと。
等と、エラソな発言してませんですが。先様の立場は知った事かの、その発言で、真剣に考えるの気が失せて。イヤ、ホントに結構の、この話は無かった事にと、決意を述べたならばの、ソラ、困ったの、我が上司によ報告出来んの、替わりに、伝えてくれと、電話を借りますの、電話一発。さあ、上司が出ました、断りの話をしてくださいと。へえの、本気かと。
イヤイヤ、決意とするのか、断るは決断にて、電話を交代の、我が家に、3人様もに、押しかけられてと。いらんと返答してるのに、上司であるのアンタに電話で、説明せよと、強要されてねえと。
変な社員やねえと。習慣やねえと。部下が上司に、そんな話1つ、よ伝えられませんですかと。
との、そのままの文言では無いけれどの、的意味合いの話をしたなら、3人様、帰ったですが。
気が弱かったら、商談進めてしまうかと。
とは云え、一理はあっての、当時は、土地バブル全盛期。投資目的で、土地等々、マンション等々、買うの面々多くの、余計に、土地、家屋の値が上がったです。
での、その栗東の物件、思えば、投資とするのか、投機目的の物件の可能性がと。されどの、多分なら、周辺の良質な土地には次々の家が建ってるかもと。
(12/08/02)
NO.246 桜散る散る、花吹雪の話(38) 亀岡の話(1)
滋賀の栗東にまで、目を向け、足運んでるのにです。
亀岡は全然の気が付かず。
気が付いたきっかけなるは、後輩<ロームでの>が、亀岡のつつじヶ丘に家を買い。麻雀でもしに来ませんかと。オッとの、この時には、後輩とは部署が異なってたですが。それこその、滋賀、蒲生郡蒲生町<現、東近江市>の出身でして。へえと。
イヤ、モ1人の後輩と一緒に行ったです。結果、3人故に、3人打ちでやったかなあと。
記憶では、親父様も同居されてたのか。偶々、来ておられたのかは、定かに非ずの、幾らしたん。1千万円かなあ。へえの、12百万円かと。
イヤ、20坪の土地で、まあまあの造りでして。諸般、安いなあと。
借り入れ金額までは、失念の、後輩で、そこまで借りられるなら、可能かと。この段階で、目を向けたです。
目を向け、偶々の新聞のチラシで、建て売り物件が出てまして。
それが、現在の場所なれどの、正直には、冷やかし半分、本気半分。ドライブがてらに、見学にと。家族全員にて、出掛けたですが。
縁とは、こんなモンかの、とりあえずは、建築中でして。見て、一発の気にいって。
とするのか、長男が、喜んでねえ。
材木むき出し、危ないのに、階段を登りまして。オトトの、当時、長男、2歳で、二男1歳かと。二男は、先様、営業とするのか、担当の中年女性の、ネックレスを掴んだり、引っ張ったり。イヤイヤ、嫁はんに抱っこされて、その女性と諸般、話をしてたですが。
実は、この時に紹介されたは、現住所とは、違うかったですが。諸般、どことは、掲載、遠慮致すです。
とりあえずは、新築住宅なるは、ソラ、理想でして。
ソラソラ、出来れば、注文建築にしたいけれどや。それはモの、無理でして。ここでも、正直には、どかなあと。
されどの、息子共のはしゃぐの姿、嫁はんの表情なんかを見てたら、鋭意決断かと。決断しても、借り入れの問題、返済が可能かがあるけれどや。
イヤ、再度の、バブルの真っ最中での、後輩の、1千万円かなあの額よりは、場所は遠くで、値は高いわと。正直、1380万円であったかなあと。あったかなあと、ええ加減なれどの、書類を見て、調べる程の差はあらへんわと。
この額以前の、諸般、細工をしまして。
理由なるは、イザ、決まったとして、前回の如く、会社から、トラックを借りての、自分でと。
とは、出来ずの、仏光寺から、槇島に引っ越しの際なるは、荷物も少なかったけれどや。7年住んでたのか。その間には、結婚もしの、嫁入り道具も、増えてまして。子ども達の、オモチャ、衣類等々、相当になってるわの、もしかしての、親の分よりもと。加えての母のが、一杯でして。
だけで無くの、折角の新しいの家となればの、見合うの家具も調達しんならんやろし。照明器具等々もとなればの、その分の資金の確保もと。
何が云いたいかとなればの、その分、余計に。又、モ一発の問題の、貯金が無い。名実共の、所謂の、一銭もと。
そらなあ、槇島では、屋根瓦、風呂、洗面台に、トイレ等々、相当なる手を加えててねえ。二男の産まれるの年には、銀行で、借金までして、母の部屋のエアコンをと。
あるの訳があらへんわと。
但しの、槇島の家を下取りしてもらえるですの、その差額が、頭金替わりと相成るです。
での、押さえとして、20万円をと、云われてねえ。20万円は当たり前の大金でして。ローン等々、ダメとなれば、帰るですが。
云うたら、ボーナスの時期であったかの、そしたら、この話、6月なんやろねえ。追って、出しまして。話簡単の現金で出したは、この、20万円のみ。
オトトの、そんな次第の、斯くなるでの。
ここからが大変の、まずは、限度一杯、借金能力一杯。借りるを考えんならんの、とりあえずは、1380万円かの額では、その他の余裕資金、引っ越し費用等々出ませぬ故に、家屋の値を、1680万円かにしてもろた筈。
ややこしいけれどの、当時、自己資金、2割が最低での、さもなくばの、住宅金融公庫等々から、借りられませんでして。当然の、住宅金融公庫該当物件でして。
槇島のは、600万円の値が付いたかなあと。
そんな事は結構の、兎に角、借りられるかが、大問題。
槇島の家を買うの際には、会社に担当者が居てまして。これ又、会社での後輩なれどです。会社の後輩とは、そのままの、後輩社員でして。されどの、7年経った頃には、こいつ、退社してまして。且つは、その手の担当者が置いて無く。
どしたかとなればの、自分で、銀行回りしたです。イヤ、借りるの窓口なるは、大和銀行<現、りそな銀行>一つやったかと。
くどいけれどの、当時で、やっとの、土曜日半ドンになったかの頃かの、銀行に行くに、外出届けなり、半日有給なりを申請の上で、行かんならんのでして。
イヤ、行かんならんのなら、行かねばならぬわと。
建て売り業者はその辺り、一切の関知せずでして。相談なりの、アドバイス、協力程度はしてくれるですが。よって、家の価格を実際よりも、高いの見積書を作成させたりと。これは、業者の案でありの、協力でして。
さもなくばの、ド素人の私に分かるの筈が無く。見積金額の水増しをや。
どんな事になったかとなればの、借り入れ先なるは、住宅金融公庫<5.5%>、厚生年金基金<6%>、住宅ローン(大和ローン・現りそな)<7.8%>。
そして、<参考>にも掲載の、会社で、第一号になったの、財形基金融資<8.7%>までを、申し込み。
<参考=「単なる雑談NO.6」109.槇島のハナシ(14)>
イヤイヤ、当時の金利なるは、当世とは、比較にならずの高金利。
これを、モノによりの、20年、25年で返済なれどの、返済金額総額、軽くの、借り入れ金額の倍額やでと。
且つは、それ以前の、住宅金融公庫、厚生年金基金は、抽選でして。へえと。ハズレたら、アカンのかと。
ついでになら、財形基金融資なるは、先の通りの、申請第一号、我輩なれどの、申し込み用紙処か、規約さえもがあらへんでねえ。イヤ、当時の担当、先輩社員なれどの、作ってくれと。
実は、当時、従業員組合の、書記長をして、その辺り、制度を承知してたです。
オトトの、組合なるは、会社のお抱え組合やと。赤旗フルはしてませんです。
(12/08/04)
NO.247 桜散る散る、花吹雪の話(39) 亀岡の話(2)
イヤ、最初にここと、選定の家は、余所様が契約したい。
との事で、ホカのにしたですが。
イヤイヤ、別段にの、一切の、ごねてませんです。
云い出せば、その物件をば、押さえるがため。押さえるとは、ホカの商談断って、確保するの意であるは承知の、そのために、大金、20万円也を捻出、拠出したですが。
新たに、ここをとされたの、現住所なるも、嗚呼と。ここならと、気にいって。
そらなあ、今なら、様子も承知の、前の物件なるは、向かいにも家がありまして。裏手の事は、掲載せずの、強いてなら、その時は、大して考えもしてませんでして。兎に角、京都市内からは、遠いけれどの、家としたなら、その団地のなら、どれでもの、満足でして。
どしても、これでないとと、する程の強い気持ちは無かったです。
での、再度の、現在唯今、どちらを選ぶかと、尋ねられたなら、迷わず、こっちと宣言致すです。
多分なら、先様、銀行借り入れも万端の、ここで無ければと、営業担当を脅したとするのか、押されたかと。こっちは、買うと決めてから、相当なるの月数要してまして。
ソラ、原則、自分でやってまして。
先の通りの、住宅金融公庫、厚生年金基金のは、抽選での、嘘か、誠か、空耳かの、多分なら、不動産業者、銀行から聞いた筈の、確率30%やったかなあと。これが、両方合わせての事か、片方かの、片方で、30%なら、両方なら、9%やでと。
運任せもええ処の、おまけで、更には、財形基金融資と、所謂の銀行ローンの、4つでして。どれが欠けてもアカンのでして。
特には、財形基金融資は、制度が決まって無くて。
偶々とするのか、組合活動してまして。当然の、家をの気があったもあっての、積極的に進めてまして。勉強もしてまして。会社との労使交渉にて、是非にと、決めたのに、制度がまだとは、何事かと。
とまでの、きつい話はしてませんの、早く作って頂戴ナと。担当先輩社員、総務の人なれどの、直談判したりして。
イヤ、はっきりとは、必死でして。
自分は、通勤大変なれどの、家族のための一点でして。
その時には、母曰くに、あそこに行けるなら、あの家に住めるならばの、何でもする。協力すると、確かに聞いたですが。
斯くなるでの、運任せの件もあったですが。やるべきはやってしまえの、やり出せば、止まりませんでして。
そして、運良くとするのか、抽選結果、2つ共の、合格通知も届いてねえ。
早速にも、親父を迎えにの、新しい家を見せてやると。
これが、イツであったか、10月頃かで、当時の愛車、グランド・ファミリアに、親父を乗せて。老いの坂のトンネルを潜れば、オッとの、何ともハヤの、凄い霧。朝、何時頃やろやったかなあの、既に、11時頃と思うですが。
噂には、聞いてたですが。亀岡は凄い霧がと。
思えば、この凄い霧は、中学の修学旅行であったかの、箱根を観光バスで通過の際の霧。前方何にも見えずの、驚嘆したですが。
そこまでは、酷くは無かったの、限り無くの、近く。道路くらいは見えてまして。おっかな、びっくりにて、「王子」の辺りかなあ。からは、霧も少なくなりの、前方見えて、ホっとしたを覚えてるですが。
そらなあ、槇島は狭く、亀岡の家なら、何とかなるかなあの気もあって。
問題児、母の存在があるですが。せめてもの、ここに、引っ越すの先は、予め、知ってもらうの、教えておきませんとと。
くどいけれどの、親でして。家族でして。親父でして。逐一の、話だけはしてるですが。又、当然の、こんな家やでの、新築やでの、自慢をしたいし、見て欲しいの気もあってと。
オッとの、その親父の感覚からしたなら、ロームの所在地、田舎でして。就職先が決まった時、田舎に通勤するのやなあと。イヤ、ホンマでして。
そもそもが、桂川を越えたら、田舎でして。ましてやの、西大路通りを突破したなら、ド田舎でして。そこから先、老いの坂を越えるとなればの、遠い、遠いの、気の遠くなる程の、異端の地。
そらなあ、自転車にも乗らん、乗れんかったんやと。
歩いて行けるの範囲にしか、行ってませんでして。とまでは、云い過ぎでもの、旅行一つしたで無し。精々が、比叡山の展望台。
大阪の梅田に妹が嫁いで、一度でも行ったかとなればの、そんな話、聞いてませんでして。云うたら、出不精もあったかと。斯く申すの私も出不精なれどです。親父程ではありませんでして。
<参考=「不可思議の世界NO.20」NO.222 桜散る散る、花吹雪の話(14) オジの結婚式の話>
云い出せば、私にしたって、似たよな感覚やと。
小学生時代であったかの、町内会からの、ハイキングで、保津峡にで。飯盒炊爨(はんごうすいさん)にと。
そして、高校卒業の直後であったか。同級生が一緒にと。親戚宅にと。バイクに乗せられ、行ったの先が、老いの坂を下ったそこの、王子橋の下の辺りと記憶の場所でして。
えらい遠い処に親戚がと。
その時、ニワトリ一羽、潰して戴きの、鳥鍋喰たですが。イヤイヤ、原型、全部入っててねえ。鶏冠、目玉、卵巣等々。目玉見て、喰えるかと。先様、美味しいえと、勧められたですが。アカンなあ。只でさえの、緊張しいが、尚更の緊張のと。
オトトのそんな話は結構の、その辺りから、更なるの、何キロあるやと。調べた事が無いけれどや。7キロ、8キロ先やろかと。
そこまで、行かん事には、我が甲斐性では、無理難題の時代でして。それでも、運任せの、ギリギリ一杯。
抽選に当たりの、先輩を動かしまして。オッとの、当時なら、全社員とまでは、自信は無いの、承知もしてまして。その先輩には、入社早々、競馬に連れられて。云うても、場外馬券場の、建仁寺なれどです。
話簡単の、大の競馬好きでして。
行ったはええけれどの、馬の名前も知らんのにと。これがと、助言をもろたの馬に幾ら賭けたか。結果、その馬、転倒、足骨折でして。ン千円からが、紙くず同然のパーと成り。結果の結果、競馬、馬券を買おたは、その1回のみと、成りに蹴り。
それで良かったわと。
変に、その最初の1回にての、下手に万馬券でも当たっててみい。人生狂てるの可能性大。当時に、万馬券があったかは知らんけれどや。
トトトのそんな事での、諸般、頼み易いの間柄でもありまして。云うたら、常平生からの、話もしの、挨拶は当然の、お付き合いもありの、話をし易かったんやと。
さもなくばの、先輩社員に、よねじ込まんですし。先様も、即の、よっしゃの、二の返事での、やってくれるモンかの。嫌われてたら、何年経っても、書き物出来上がってませんです。
下手したら、私が最初で、最後やったかもの事でして。
(12/08/05)
NO.248 桜散る散る、花吹雪の話(40) 諸般の経費の話
過日、日曜日<7月29日>、母を除くの全員にて、墓参したです。
長男一家は前日より戻ってまして。当日、一緒にと。
二男夫婦は現地集合にての、墓参の帰りは、二男の車に乗ったですが。
そらなあ、孫の、小さいのが3人。3つのチャイルド・シートでして。車は8人乗りなれどの、チャイルド・シート3つとなればの、7人はしんどいわと。
云うたら、真面目にチャイルド・シートで、小さい子を乗せてるのは少ないゾと。
妙齢の美人ママが、1歳、2歳の子を、抱っこして乗せてるのが、殆どでして。下手したら、3歳、4歳辺りのは、何もせずの、1人で座席に座ってたりで。モッと、下手したら、イケメン・パパが、膝に子どもを乗せて、運転してたりと。
美人ママも、イケメン・パパも、おつむの中は空っぽかと。
での、昼食は、孫共のリクエストで、マクドナルドに相成ったですが。ハッピー・セットのおまけのオモチャが目的でして。
但しの、これだけの人数<9人>では、まとまっては無理でして。私は二男夫婦と一緒にと。
そこで、嫁問うに、二男が帝王切開になったの理由はと。ソ云うたら、イツであったか、そんな話が出たですが。されどの、ンの、我がホーム・ページを読んでえへんなあと。
とは、云わずの、臍の緒がと。
首に巻き付いてたらしくと。安全見て、帝王切開にと。しかし、正直には、よお、分かったなあと。出るまで、男女が分からんの時代やでと。されどの、医者から、ソ云われて、構わへんし、そのままでと。
とは、親として、断じて、云えませんです。運悪くの、障害者にでもなれば、大変でして。
ででの、親父を亀岡に連れてったの話。
思えば、この時、親父68歳。
やったんやねえ。
イヤ、亀岡に引っ越したのは、32年前<1980年>の、年末でして。
親父に家を見せたは、引っ越し前でして。融資も決まり、諸般の事務的手続きだけの段階になったからかと。
兎に角、見せたいと。
宇治、明星園から、連れ出しまして。亀岡でして。話簡単の、宇治から、亀岡の、距離的、約45キロ程やろかねえ。普段、車になんか、乗ってえへんのに、親父はしんどかったやろなあと。
とは、今、思うですが。
当時は、自分中心でして。体力、気力的、頑丈なる時期でして。
親父の年齢、体力、気力を全然の考えて無かったですが。
イヤ、今、ハタと、気が付き、考えたならば、現在の我が年齢以上でして。車に乗ってるだけでも、大変やったかと。
イヤイヤ、色んな意味があったです。
母なら、どこに行くも一緒でして。方々に行ってるですが。親父は、比叡山以来、どこにも一緒に行った事が無く。又、常々、園の食事はと。冷えて、不味くてと。
聞く度、申し訳無いなあと。
よって、この機会に、連れ出し、新しい家を見せるのと。どこかで、一緒に食事を、昼食でもと。
そやけれどの、亀岡の事は知らんです。どんな店があって。どんなのがあるか、皆目でして。結果、どしたんかなあと。
正直には、宇多野病院に親父、入院以来。延長で、宇治、明星園に入園以来。一緒に食事をした事が無く。ましてやの、親父におごるとするのか、ご馳走するが初でして。ご馳走と云う程の事では無いの、単なるの、昼食なれどです。
イヤ、全然の思い出さんでして。
覚えてるは、老いの坂を突破の途端の霧だけかと。えらい霧やなあ。大体がなあ、亀岡は霧で有名なんやと。ソかと。そんな事、知らんかったです。
話の中身も、この程度の、ホンマに、どこで、何を喰たのかなあと。そもそもが、突破が、朝の11時頃でして。9時頃に迎えにで、時刻的にも、昼飯喰てる筈のと。云うても、当時、亀岡の事を知らんの以前の、食事処が少なかったかと。
国道筋で、目立ってたとなればの、矢田口の、「丹波路」と、亀岡消防署の隣辺りの、「しん愛」かと。オッとの、近くでなら、土田交差点の、「王将」もあったですが。
思うに、この3っつ程度しか、目に入って無い筈の、されどの、全くの、記憶に無く。イヤ、親父と何処に入ったかでして。可能性なら、「王将」「丹波路」では無く、「しん愛」かと。理由は、「丹波路」は、所謂の、入り難いの雰囲気、店構え。「王将」は、親父が好まんかと。
オトトの、そんな事なら、土田の交差点の処には、当時、「ジャガー」があったですが。焼き肉屋でして。ご馳走云うても、焼き肉までは、考えてえへんわの、軽くの、気楽にと。
結果の結果、「しん愛」が一番に入り易く、無難かと。
当然の、食事をしたなら、そのまま、明星園に送り届けてるですが。
これが、きっかけとなりの、以来、可能な限り、行けば、連れ出し、明星園近辺の喫茶店なりに行ってたですが。喫茶店も、食事は出来まして。
オッとの、この手の話は、別途にしまして。
諸般の手続きには、まだまだ、やるべきがありまして。
兎に角、槇島の家の抵当権抹消をと。ソラ、住宅ローンを支払い真っ最中故、抵当権は、大和銀行<現、りそな銀行>でして。
この当時、担当者が意地悪なんか、銀行が強過ぎてたか。万事、無茶苦茶でして。
イヤ、抵当権抹消には、手数料がと。その額、20万円也と。へえと。要は、司法書士えの料金ですて。そんなモン、計算に入ってえへんですが。抵当権抹消しん事には、不動産屋に下取りに出せませんでして。
又、ローン借りるに、代理保証料をと。これ又、20万円とか、云われたり。
オッとの、代理保証なるは、槇島の時にも、やってるですが。生命保険も掛けさせられて。
云うたら、誰かを、連帯保証人として、立てたら良いけれどや。諸般、迷惑掛けるのもと。こっちも、あっちも、気が重いわと。しかるべくの、代理保証会社にしたですが。
諸般諸々、家具、引っ越し費用等々にての、槇島の家の、購入価格、下取りとの差額、霧散。
(12/08/06)
NO.249 桜散る散る、花吹雪の話(41) 家の神様に御礼の話
祖母はねえ。
一番に身近でして。
イヤ、甘くは無かったです。厳しかったです。
この日曜日、8月5日<日曜日>には、松原の光圓寺から、盆の読経に来て戴いたですが。若坊さんでして。初でして。
従前、その親父様に来て戴いてたですが。諸般、足の具合とするのか、歩行困難と成られまして。現在、歩行器ですて。元々が、過年、脳梗塞で、足元が一寸の傾向あったですが。歩行器では、亀岡まで、来られませんの、代行にて、その息子さんがと。
正直には、足の具合は承知の、来られるのも、帰られるのにも、心配する程でして。若坊さんになって、良かったなあと。
この、盆の読経。
祖母の代からの引き継ぎでして。変な話、親父は居て無くとも、母もで。私だけは、必ず、同席させられて。要は大抵ならばの、祖母と私の2人が、先代の坊様、若坊さんの祖父になるですが。お出迎えしたです。
オッとの、お出迎えそのものは、祖母なれどです。私は祖母からの指示で動くだけ。
兎に角、イツイツ、坊様が来られるからナと。通知されたら、諸事万端、余程の用事でも無ければ、お断りの、こちらが最優先に相成るです。
とは、云われてえへんけれどや。無言の圧力とするのか、問答無用の、最優先に扱うべきの、行事になってまして。例えば、忘れてしもて、友達の家に遊びにと。云うても、坊様が来られる日やでと。オッとの、ソかと。
少なくともの、その時には、家に居てなさいの意でして。確かに、小一時間。下手したら、一時間突破なれどの、居てな仕方が無いと。別段にの、友達の家に行くは、その後でも宜しく。急ぐの用事があれば、早々に引き上げてと。
での、墓参も、月参りであったかは、覚えて無いけれどの、現在、我々夫婦は月参りしてまして。先の通りの、盆には、坊様に読経は欠かしておらず。
イヤ、祖母のやってた事は、見よう見まねで、承知してまして。仏飯はご飯炊けば、一番に。欠けてる事はあるですが。一番茶かなあと。当世、ポットのお湯でやってたりで、ややこしく。省略させて戴いてるですが。
この辺り、母とは一緒に行った事が無く。ましてやの、親父がなあと。
変な具合でありまして。祖母の代と、一代飛びの、我が代が慣習化で。果たしての、息子共の代はどなるかと。
先日、先月末には、全員にての、墓参はしてるですが。月参りには、程遠く。
ましてやの、家に居てた時から、盆の読経の際、立ち会わせるをミスってたかと。イヤ、甘かったを大反省してるです。寝てたら、起こさずでして。しもたなあと。大体が、母も遅くで、そしたら、起こすは、我が役目になるのかと。
違うで。嫁はんやでと。嫁はんの責任にしとくです。事実故。
事程左様の、祖母も、息子、我が親父には、甘(あも)なっての、孫の私に教育したのかなあと。思わんの事も無いですが。
ならばの、こっちにしても、一代飛びの、孫にでもとなるですが。同居と違うがな。
息子共にしたって、私がどんな具合に駅まで、お出迎えしの、お送りしてるかを、知る筈も無く。その場に居てずの、見もしてへんのにと。
ソ云うたら、仏光寺では、歩いて来られた故、家で、お出迎え、お見送りしてたですが。
槇島では、盆の読経、飛んでたです。話簡単には、諸般、そんな余裕無かったかと。取り仕切り役の祖母、他界の直後でもあっての、手配、そのものを失念してたです。嗚呼、悪い事やったと。
ででの、一体、イツ、引っ越したのか。
定かには覚えてませんでして。
只、槇島に引っ越した時も、ソしたですが。
ソラ、大安吉日に引っ越したいですが。ソは行かんわと、身の回りの何か。例えば、肌着とか、衣類とか。梅干しであるとかの、長期保管、腐らぬ食材をば、大安吉日のしかるべくの日に、引っ越し先に置いておくと。
要は、代理引っ越しでして。
引っ越しは、我々だけで、やる訳にもの、引っ越し専門運送業者にしたですが。
大型トラック一台に満杯での、この小さな家に、こんなにあったかと。ビックリする程のと。そらなあ、最低限、嫁はんの嫁入り道具がありまして。母も対抗しての、諸般調達してたりで。息子共の衣類等々、相応にと。
ホンマやでの、まだ、1歳、2歳。赤ちゃんなれどの、衣装持ちでして。子ども用のタンスもあったかなあと。
道具、一通り、運び出したら、1階、6畳の間の畳の下の横棒が、グラグラ動いてたかと。タンス等々、置いてた故、重さで、収まる場所に収まってたの感でして。
そらなあ、槇島の家、そもそもが中古住宅での、築十ン年やったかと。築十ン年なら、まだまだ、保ってもらわんと、アカンですが。この槇島の団地は、造りがそんなになあと。宜しくは無いです。失礼乍らの、仏光寺の家、築100年と、大差が無かったかと。
イヤ、仏光寺の方が、柱もしっかりしてまして。床が動くの事も無く。只、天井から、雨漏りがと。屋根瓦がボロボロでと。襖等々も、破れカブレではあったですが。よって、張り直しの、或いは、外したりと。
それも、祖母と2人でやってたわと。
斯くなる次第の、斯くなるでの。
槇島の時代、東京のオバは無縁でして。
但しの、当家にとっては、私が結婚しの、妹も結婚しまして。息子共2人も、槇島で産まれまして。長男は、観音寺なれどです。云うたら、斜め向かいの小母さんの云う通り。所謂の家相の良い家であるに、間違い無く。
いやもお、引っ越しの際には、慌ただしく。
引っ越してからです。ハタと。
槇島の家に御礼をと。
イヤイヤ、後日、とは云え、引っ越した直後。まだ、鍵は持参の、行ったです。
幸いにして、鍵が交換されてえへんでねえ。入って、家の神様、トイレの神様にです。便器に顔突っ込みの、「有り難う御座いました。」
何の時か、そんなよな話を聞いたか、読んだのか。家の神様に御礼をと。
(12/08/08)
NO.250 桜散る散る、花吹雪の話(42) 長男2歳、失踪の話
での、引っ越した先、現在の家なれどの。
ソバとするのか、近くの交差点、土田(つった)の交差点なれどの、国道9号線の北側とするのか、我が家からなら、国道をば、渡った処に、「王将」と、「ジャガー」なる焼き肉の店がありまして。
「王将」なら、現在唯今でもあるですが。「ジャガー」は、過年、2年経つかなあの、道路拡幅計画かで、消えたですが。
イヤ、引っ越して直後、一遍、「ジャガー」にでも、行こかと。皆に話をしたですが。
何が原因かは、失念の、多分なら、長男が云う事を聞かんかったからかと。何を聞かんかったかまでは、覚えてませんですが。親父、私の事なれどの、激怒の、モ、行かんと。「ジャガー」にと。
での、その日の夕刻になっての、その長男、行方不明と相成りまして。
要は、家にも、家の外、近在を探しても、居てませんでして。
くれぐれもの、引っ越しての直後。歳も、2歳やでの、そんな遠方に、1人で行けるの筈が無く。迷子になったのかと。云うても、こっちも、近在の状況知らんわと。
困ったなあと。されどの、どするも、こするも、町内会の皆様に助けて戴くしか、仕方無く。
云うてもなあ。何度でも、申すの、引っ越しての直後でして。町内会の面々も、我が長男の顔を知らんわと。知らんでも、皆様、快くの、探してくれやはってねえ。当然の我々も一緒になって、探したですが。
変な話、町内会には、ドブ川もありまして。まさかの、落ちてえへんやろなあと。探すに、次第、次第に、日没、暗くなり出して。困った、困った、困ったなあと。
思てるの矢先に、誰とは云うの、長男と同じ名前の子。当時、中学生やったかの子が、一生懸命に探してくれて。「ジャガー」にカタカタがあったと。ンと。
カタカタとは、子ども用の手押し車の事でして。長男も持ってまして。
<参考=「カタカタ」(ORENGE-BABY.COM)>
<消滅・削除・14/07/18>
<参考=「単なる雑談NO.8」152.夏祭りのハナシ(2) 長男、失踪のハナシ>
イヤ、先に嫁はんが情報知っての、「ジャガー」に行ったですが。
連れ帰って、ホっとしたですが。
聞けば、「ジャガー」なるは、1階、駐車場。2階が店でして。その階段の処に、カタカタがと。嫁はんが2階に上がれば、店の方に相手してもろてたらしく。嗚呼、良かったなあと。
とは、云うもののです。
先にチラと、云うたですが。我が家から、「ジャガー」なるは、まずは、国道9号線にまで、行かんならんですが。家を出て、どれ程かの、約500メートルかで、更には、国道9号線を渡るです。
交差点には、信号もあるけれどや。渡り方を承知してるのかと。ましてやの、カタカタの子どもで、2歳でして。この界隈、当時も、現在でもです。当時なら、多少は車も少なかったかも、分からんの、されどの、時刻が、時刻でして。
イヤイヤ、とりあえずは、無事に突破で、「ジャガー」に辿り着いてるですが。
兎角に、この長男、親を仰天させまして。
就職直後には、日産、スカイライン<中古車>で、九死に一生の事故しまして。イヤ、幸いにして、物損だけで済んだですが。車は大破。
<参考=「不可思議の世界NO.3」九死に一生
オッとの、先の通り。店の方にお世話になりましての、結果的、御礼にと、「ジャガー」に行く事に相成ったですが。そらなあ、相手してくれやはらへんかったら、どなってたかと。
とかとかの、この長男、諸般、強運でして。羨ましい程でして。概ね、好きなよにやってるかと。
斯くしての、「桜散る散る、花吹雪の話」
東京のオバの話に相当に、接近して来たですが。
モ少し、別途の話をと。
イヤ、親父の件でして。
幾ら、私自身が若いからと。
云うても、亀岡から、宇治、莵道、明星園には、可成りでして。出来れば、亀岡のしかるべくの施設にと、探したです。
当時、「亀岡園」であったか。探索にて、場所が違うみたいに思えるですが。30年の昔<1980年頃>には、亀岡駅の、北側辺りにあったよな記憶なれどの、「亀岡園」は、千代川の方になってまして。
場所が替わったのか。名称が違うのか。潰れたか、完全なるの、記憶違いかと。
何れにせよ、亀岡に引っ越したなら、亀岡の方が諸般、やり易いと、見学に行きまして。
こんな時になら、母も一緒の、中も見せて戴いたですが。正直、一寸なあと。私が気にいらんでねえ。
理由なるは、明星園と比較で、失礼乍らの、狭くて、汚くて。くどいけれどの、約30年の昔の話なれどです。これでは、可哀想と。辞めたです。
よって、そのままの、明星園なれどの、4歳、5歳くらいになった頃より、時たまには、爺様にもと。連れて行ってと。ソラなあ、孫の顔も知らんでは、可哀想でして。孫共も、爺様の姿形も知らんではナと。
明星園も、私1人の時には、勝手の行動の。息子共を伴えばの、面談室に案内して戴けまして。
イヤ、何でかは知らんですが。私なら、受付にて、こんにちはで。親父に面会をと、伝えたなら、ソですかで、チョン。
勝手に親父の部屋に行きまして。居てへんなら、食堂か、その他、適当なるの場所なれどです。オッとの、大体が、部屋に居てるの事は少なくて。適当なるの場所なれどです。
よって、めぼしいの場所を通過で、部屋の方に行ってたですが。
行けば、「来てくれたんか。」と。「ン、来たで。」と。
息子共を伴った時には、受付で、一寸、待てと云われまして。担当者が、しかるべくの、面談室にと、案内してくれて。
イヤ、そこで待てと。親父は、担当者が伴いの、面談室にと。人数分のお茶まで、出して戴きまして。何でやろねえ。理由は聞いた事も無くの、不明なれどです。小さな子は、中には入れてくれへんのかと、思たりも。にしても、その理由が分からんの、但しの、部屋は無制限では無くの、原則、1時間。
当然の、親父も喜色満面。
ではあっても、常に一緒と違うしなあ。息子共も、日本語が何とか、話が出来るかなあと程度でして。
特段の話をするでも無いですが。
ここだけの話。
時には、写真機持参で、孫と一緒の写真を撮ったりと。時には、孫と一緒の写真を撮るのフリして、親父だけを撮ったりと。
そらなあ、しかるべくの事態に、備えての、準備もしとかんとと。
(12/08/10)