不可思議の世界NO.23

京都・亀岡の良く当たる占い師の話

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目次

不可思議NO.24

NO.260 桜散る散る、花吹雪の話(52) 悪い知らせの話

NO.259 桜散る散る、花吹雪の話(51) オバの話<ここから出して貰たんや>

NO.258 桜散る散る、花吹雪の話(50) 衝撃のオバの話

NO.257 桜散る散る、花吹雪の話(49) 「いそべ」での話

NO.256 桜散る散る、花吹雪の話(48) オバ来(きた)るの話(2)

NO.255 桜散る散る、花吹雪の話(47) オバ来(きた)るの話(1)

NO.254 桜散る散る、花吹雪の話(46) 河波忠兵衛の話

NO.253 桜散る散る、花吹雪の話(45) 仏壇新調の話

NO.252 桜散る散る、花吹雪の話(44) 常に凛、正しく、目標、英雄の話

NO.251 桜散る散る、花吹雪の話(43) 明星園の話

不可思議NO.22


NO.251 桜散る散る、花吹雪の話(43) 明星園の話

イヤ、諸般。
思うに、考えるにです。
明星園に息子共を伴えば、別室、面談室。との名称であったかは忘れたの、応接室に通されて。
実質的、ホームの内部には、行けませんとするのか。そこで用事は終わってしもて。そこから先に行くな。
とは、別段の云われてませんですが。

話等々、終われば、我々が、親父を部屋に送るも変でして。そこでして。
むしろ、親父が、玄関先まで、見送ってくれて。又来るしと。息子共に云わせて、親父、ニコリの、ンと。私が、ホナラ、サイナラと。
相成ってしまうですが。

概ね、この手の施設、老人ホームに来客、珍しく。大体が、2週間に1回も行けたら、ええ処なれどです。そら、くどいけれどの、諸般、日曜出勤もしてまして。オッとの、この当時なら、土曜日も休みになってたかも、分からんですが。
イヤ、余所様、面会者に遭遇した事が無く。
そらなあ、場所が、老人ホームで、病院に非ず。

病院なら、行けば、同部屋の患者の、家族なり、見舞客に良く遭遇するですが。こっちも、洗濯モノの回収等々。オッとの、母の入院の事を云うてるですが。ここ数年、ショッチュウでして。まともに、一年過ごした事が無く。
ででの、行くは、2日に1回なりで。サボっても、3日に1回なれどです。
親父が、明星園に入園の頃は、母も入院常習者でも無かったですが。これで、入院されててみい。大変ゾと。オトトの、諸般、入院の時期もあったなあと。母がです。骨折では無いですがと。


での、そんな事で、老人ホームには、そもそもが、家族の訪問、珍しく。身寄りの無いの老人居たはりまして。どの程度の割合か、までは知らんですが。
されどの、時には、催しがあったり。催しは、所謂の、慰問でして。イヤ、どんな慰問かは、覚えてませんですの、私なら、行った際、慰問したはっても、親父を連れ出したり、部屋の方に行ったりと。
元々の計画通りの事をしてたですが。息子共を伴わん時にはでして。

実は、そんな事で、家族が頻繁にも、多少の問題がと。
ソ云うたら、老人ホーム内にも、相応の人間関係もありまして。そらなあ、同じ構内、広くも無いの施設内で、同じの顔ぶれだけでして。毎日、毎日、同じの生活、周辺一緒。タマには、レクリエーションと称して、外出の事もあるですが。それでも、顔ぶれ一緒。

イヤイヤ、相応に、ひがみ、ねたみ、そねみに、やっかみ、ヤキモチ。下手したらの、いじめがあったりでして。
家族が行けば、ひがみ、ねたみ、そねみ、やっかみ、ヤキモチあって、いじめに繋がるの事もあるので無いかと。オッとの、そんな話は聞いてませんです。施設職員からは、最低限、月1回来て、面会をと、云われてたです。
どちみの、諸般、支払い等々にて、月1回は行かんならんですが。その1回でさえ、サボるの家族が多いらしく。ソラ、どしても、月1回、支払い強制ではありませんでして。支払い滞りの、出てけ。
とは、成らんですが。出るの先があれば、入所はしてへんわと。

よって、あくまでもの、我が推測なれどの、入所者の家族、兄弟姉妹、子ども達、子ども達とは、我々世代を指すですが。でさえが、明星園で、遭遇しやへんのに、孫まで、来る筈があらへんわの。孫世代が面会にショッチュウ来ててみいと。
先の、ひがみ、ねたみ、そねみ、やっかみ、ヤキモチあって当然の、下手したら、なれどの、イジメに遭遇の可能性がと。

モ一発、そらなあ、兄弟姉妹は知らんですが。家族の無い方が多いのにと。家族が無く、子ども無く。ましてやの、孫なんかと。人間故、見たら、嗚呼、可愛らしいなあ等々、喜色満面の表情、態度であってもやと。
その気持ちは事実であってもやと。ハタと、我が身を振り返れば、ソラ、寂しいかと。
とは、その当時は、分かって無いです。我が人生経験、まだまだ、短く、未熟、考え及ばんわと。


ナラバ、息子共を伴えば、何故に、面談室とするのか、応接室に入れられたと、想定してたかとなればの、単純明快、施設内を小さいのが走り回ったら、困るからかと。イヤ、本気で、ソ解釈をしてたです。
走り回って、年寄りにぶつかりでもしてみい。年寄り、足腰弱くの転けるかと。又、色んなモノがあったりでの、遊ばれたりして、子どもが転けて、怪我でもされたら、大変かと。
同様にしての、余所の年寄りが、抱っこでもしたがって。その気になって、抱っこしてみい。落とすぞと。云うても、4歳、5歳。又、更に、成長してては、抱っこする気には成らんけれどや。
冗談に非ずの、我が母、そんな調子の、我が身一つ、ままならぬに、曾孫を抱っこしたがって。


そんな次第の、斯くなるでの。
イヤイヤ、明星園の場合、当時の話なれどの、老人が居るの建屋、入り口から、長い廊下、50メートルはあったかの、進みまして。その先に皆様居たはるですが。
面談室なるは、その廊下の中程にありまして。何室かあったですが。
ついでになら、入り口から、入ってすぐの辺り。左手には、「霊安室」があったなあと。イヤ、何度か通てたら、分かるです。ちゃんと明記してあるです。


イヤ、何を隠そおの、親父が老人ホームに居てるは、申し訳無く。
反対に、母の身勝手さに、腹立たしく。ソラ、親父と同じの部屋で良いなら、万事、我が想定通り。イヤイヤ、同じの部屋処か、遂には、顔見るも嫌と云い出して。云うたら、亀岡なら、息子共、一緒の部屋で、親父、母別々の部屋にも出来るですが。
それさえを、嫌と。
対して、母、どこえでも、付いて来まして。イヤ、出たがりでもあるですが。片時も、離れるが嫌でして。

処がの、別途の話の、現在唯今、諸般の事情にての、亀岡の先、田舎の方の、田園地帯の、「ふないの里」なる、リハビリ・センターに入所してるですが。リハビリ・センター故に、老人ホームに非ずの、原則、入所3箇月なれどの、この、2月末<2012年>に、入所の、半年経って、まだ、居てるです。
イヤイヤ、当然の、老人ホームで無いを知ったのと、居心地が宜しいからで。

何故に、居心地が良いかとなればの、病院とは違うの、介護士が、沢山居てて、何を云うても、ハイハイと。呼べば、すぐに飛んで来てくれるしと。家なら、ソは行かんです。
只、問題は、現在、車椅子でして。とてもやないの、車椅子では、家では無理の、せめてもの、歩行器にして欲しいですが。果たして、楽し過ぎてて、どなるやと。この、10月、11月には、幾ら何でもの、居させて戴けずの、それこその、出てけと成る筈でして。
ソラ、くどいけれどの、老人ホームに非ずの、帰るの家があるです。

家族も、洗濯モノの回収、収納のため、週に2回は行かんならんわと。ではあっても、2回故、楽、楽、楽の、楽の。正直、楽に過ぎまして。或る意味、困ってるです。
帰って来たら、大変やでと。
一寸、本題から、ズレ過ぎたですがと。
(12/08/11)


NO.252 桜散る散る、花吹雪の話(44) 常に凛、正しく、目標、英雄の話

イヤ、息子共を伴いの話は、それくらいにしまして。

いきなりの、申すの、息子にとっての親父なるは、常に凛とし、正しく、目標でありの、英雄である。
正確には、であってもらわねばならぬです。

既載の通りの、別段にの、困った時、助けてはもろてえへんけれどや。英雄であるの場面も知らんけれどや。少なくともの、凛として、清く、正しくでなければならぬ。
あってもらわねばならんわと。

での、明星園に行くに、諸般、昼食直前。或いは、昼食中の事もあったりでして。
昼食中なら、喰うのを手伝うは、晩年でして。
晩年の手前。
とは、表現難しいけれどの、要は、70代初期、中期。イヤ、親父は期せずしての、80歳<数え>の誕生日直前。一日前に他界してまして。

イヤイヤ、昼食直前になれば、皆様、食堂の前で、メシはまだかの、様子伺いされてまして。準備が整いの、12時にならねば、食堂には入れへんのやろねえ。
時たまなれどの、その中に親父の姿発見は、ソラ、ソラ、息子の立場からは、辛いゾと。簡単明瞭の、クソーとするのが、正直やと。見てられへんわと。
よって、職員にお断りをしまして。外食に行ったりしたですが。親父には、並ぶは辞めてくれと。きつく、小言を云うたりと。
その外食の話は別途にしまして。晩年の話で、結構でして。

職員とは、良く、話をしたです。聞いたです。
良く、聞いたは、年寄りの恋愛の話。
オッとの、歳が歳故、何ですがと。どこでも一緒の、この手の施設に、女性が圧倒的多数。大昔の美女多数。概ね、男性、大昔のイケメン少数の、1割、2割の、2割も居てるかなあの程度でして。昔年のイケメン、ハーレム状態。

お節介美女、何かと、イケメンの面倒見るが居てまして。美女なるは、その昔より、気が替わるも早いらしく。別途のイケメンにチョッカイ出したりの。
いやまあ、くどいけれどの、大昔の、美男、美女故、知れてるですが。それでも、諸般、快く思わんの面々が居たはるらしく。イヤ、女性、この場合、婆様間で問題らしく。イケズしたり、いやがらせをしたり、されたりがあるですて。へえと。

くれぐれもの、我が親父が対象の話では無いです。
当時、職員なるは、私と同年配辺りの面々多く。変な話、一番に頻繁の訪問者でもあったらしく。行けば、原則、誰様にも、挨拶してるですが。次第、次第、一寸したの、世間話をし出したり。親父の様子を尋ねたり。
そらなあ、職員には、ホンの、一寸でも、親父に目を向けて戴きたく。
オッとの、手土産等々、持参した事は無いですが。

モ一発、そらなあ。面会に行きの、職員に対しの、あっちむいて、ホイの顔さえ向けず。憮然、無愛想、親の敵でもを見るよな目つきでもしててみい。先様、人間、感情の動物故に、快くの思うの筈が無く。
一言、「柴田です。いつも、有り難う御座います。」
事実、いつもお世話になってる筈でして。別段にの、お愛想でも、おべんちゃらでもの、一切のと。素直な感謝の意を伝えるだけ。
モ一発、別段にの、日によりの、気分によりの、挨拶省略致しませんです。原則、いつも、一緒やわと。

イヤ、現在唯今、母の居るの、「ふないの里」でも、一緒やわと。
半年も、通ててみい。最低限、週1回。嫁はんと、私が1回ずつで、都合の、週2回なれどです。職員の顔程度、総ナメでして。ここは、職員の人数、多過ぎるですが。総ナメと云うてるは、母の関連の職員だけなれどです。リハビリ担当、施設の受付女性を含めての話なれどです。
イヤイヤ、ここは、先の通りの、老人ホームに非ずの、家族なりの、面会者多いわと。


オトトの、そんな事で、時には、「親父、何か面倒掛けてませんですか。」と、尋ねたり。
帰りしなにでも、顔見たら、「失礼します。親父を宜しく、お願い致します。」と、お暇方々、お願いしたりと。
云うたら、当たり前と違うかと。
あっち向いて、ホイの、あんた誰的顔されててみい。先様、人間、同類の感情の動物やと。何やアレと、不愉快に思われても仕方無く。単に、言葉にせぬだけでして。

そんなあからさまなる話を職員されませんですが。
精々が、新顔の出入り業者か、面会者か、分からんの事もと。
での、有り難い事には、親父、明星園では、特段の、特筆すべくの話無く。要は問題発言、問題行動も無く。何でもハイハイの、云うたら、扱い易くと。

中には、一々の、あの人が、この人が。あの職員が、この職員が。
同室のアイツがで、部屋を替えてくれ。入り口が良い。奥が良い。原則、2人部屋でして。
ショッチュウ、要求の、相当回数、部屋を替わったり、悪口云うたりの、下手したら、あの人、泥棒とかとかと。オッとの、紛失は良くあるの事らしく。対象者は概ね、分かってるよでして。園外に出るの事もあらへん故に、尋ねたならばの、借りてるだけと。

万事、バレバレなれどの、臆面も無く。
ででの、明星園では、相応の私物は持参されてまして。老人ホーム故で。中には、位牌を飾ってる人も居たはってねえ。
とととの、何を隠そおの、一時なれどの、親父と同室のが、ソレでして。
イヤ、一時とは、イツか、替わられたですが。

イヤ、部屋には、ベッドが2つ。奥には、畳の間、四畳半程のがありまして。棚が上下二段。原則、その棚に部屋の住人が私物を置いてまして。私物とは、衣類、本、その他諸々のと。
での、同室の相手様、その四畳半程の畳に、棚を置きの、ドンと位牌等々でして。正直、独占のし過ぎなれどの、親父は別段の気にせず故に。

オッとの、そんな意味ならばの、同室の方には、気を使うわと。それこその、ミカン1個、2個の話なれどのと。
親父が気兼ね無くの喰えさえしたらと。
さすれば、面会に行き、部屋に入っても、難しいの顔されずの、嗚呼、お父さんなあ。あっちの方と違うかなあと。云いつつの、探しに行ってくれやはったりの。正直、親父は最初に会おて、部屋に行くと、云うて、こっちに来てるけれどや。

嗚呼、ソですかの、有り難う御座います。
先様も、探しにと、云うて。部屋を退散の心配りでありまして。感謝、感謝。

そやけどなあ。悲しいかな。男の、私では、身の回りの細々、気が付かんわと。衣類が、下着が云々がと。
自分自身、自分の身なり、気にせぬ方でと。実は、親父も、気にせぬ方で。変な処が似たモンやと。
(12/08/12)


NO.253 桜散る散る、花吹雪の話(45) 仏壇新調の話

さての、「桜散る散る、花吹雪の話」を暫し、中断してたですが。
理由は、嫁はんの里帰り、掲載に寄るです。
<参考=「単なる雑談NO.80NO.81」恒例・四国の話>

での、この話、「桜散る散る、花吹雪の話」はどこまで、掲載してたかと。親父入所の、明星園の話やったなあと。

では、更に、話を進めまして。
何時であったか、まずは、仏壇を新調したです。
理由は、1つに、仏壇そのものが、ボロボロになってまして。焦げ跡があったり、桟が折れてたり。私に記憶は無いモノの、多分なら、犯人、自分かと。
モ1つには、我々が、こっちに引っ越し、新築の家に住む事になりまして。ご先祖様にも、新築の住み家をと。イヤ、その通りでして。

早速にも、万寿寺の親戚にと。イヤイヤ、万寿寺通り富小路に、親戚があって。祖母の末の妹宅でして。その万寿寺通りの寺町側。そして、寺町は、文字通りの、「寺」の通りでありましての、寺があれば、仏具屋もと。
オッとの、下手したら、電機屋街と思てるの面々多いですが。何の、何のの、仏具屋一杯あるです。

要は、その界隈近く故、万寿寺の親戚にどこか、ええ処を紹介して頂戴なと。ソラなあ、一見さんで、ふらりと、仏具屋、仏壇店に入って、物色したって、ド素人には、さっぱりやと。さっぱりとは、モノが値に合致してるかでして。
当然の親族故、冷やかしでは無いの、それまでには、文字通りの、寺町の仏具屋にも勉学のため、入って、見てるです。相場幾らかと。軽くの、100万円突破でして。この辺り、東本願寺派の仏壇なるは、金ぴかの、デカイので、高いです。
話簡単の、安い買い物に非ずのため、知り合いを通じて、買う方がと。値も吹っかけへんやろと。

ででの、ならばのと。
そこの長男さん、幾つくらい何やろねえ。私よりは、20歳程度年配かなあ。表現、異な話なれどの、当時、まだ、大叔母生存してまして。90代であったか。その一寸、手前かのと。
大叔母が、長男さんに、案内してやってと。ではと、一緒にと、案内され、歩いて、行ったの先が、松野商店<仏具製造>でして。
イヤ、すぐのそこの、数十歩。同じ町内会かと。イヤ、知らんわと。通り1つ、離れてまして。離れてても、この距離ならば、ばりばりの、幼友達かと。オイ、コラの水準かと。
イヤイヤ、当然の、安心致すです。

相応の値であれば、決めるで、案内頼んでまして。結果、相応の、軽くの、100万円突破なれどの、確かに、ド素人目にも、見聞の先の、同じくの、100万円突破のとでは、モノが違うよに見受けられ。
理由なるは、製造元でして。寺町筋に卸してるの店でして。店主、そのよに説明もし、長男さんも同様にと。つまる処、卸値でして。
での、当然の、その他、付属品は、サービスでして。
長男さんも、ここは、親戚やしなあ。安うしたってやと。その一言、よお、覚えてるです。

斯くなるでの、交渉事は、それだけに非ずの、旧の仏壇、新の仏壇の処理方法でして。
教えて戴くに、旧のは、しかるべくの、お寺さんに来て戴きまして。所謂の、魂抜き致すです。次には、新の仏壇に、魂入れで、以て、ご先祖様が、新の仏壇に入られますと。
結果、旧のは、魂抜かれたがため、ご先祖様、存在せずの、単なるの、只の、木工品。当店がそのまま、引き取りましての、処分させて戴くですと。費用、不要であると。へえと。
斯くしての、しかるべくのお寺さん等々、日が決まれば、当日にと。


その当日、如何にしたか。定かに覚えてませんの、多分なら、お寺さん<高圓寺>に来て戴き。時刻、合わせて、仏具屋が、新を持ち込み。まずは、旧のを、魂抜きして戴きまして。終われば、即の、移動。新のを、速やかに、組立。お寺さんに魂入れして戴きの、以て、お寺さんは並河駅に、お送りしの、戻って、諸般、仏具屋から、説明を聞きまして。
旧のを、お持ち帰りして戴いたかと。

イヤイヤ、相応に忙しい事でして。
その当日、母方の、伯父、黒門のが、来てくれてまして。お寺さんと一緒にと。云うたら、何やけれどの、魂抜き、魂入れ、してくれて。お寺さんも困らはったかも、分からんですが。何分の、伯父、聖護院派の山伏でして。
長い数珠持参でねえ。
当然の、お寺さんが、魂抜きの、読経されたの後で、読経し。魂入れの、読経されたの後で、読経してるですが。
<参考=「不可思議の世界NO.3」56.伯父貴が逝きよった(5) 空海と役行者>

<参考>にも、掲載してるですが。
亀岡の家に引っ越して、間無しにも来てくれて。魔除けの儀式、してくれたです。要は、印を結び、家の四方、周辺に、酒をまき。以て、邪気は家の中には、入らせんと。へえと。


仏壇の話と、東京のオバに何の関係がとなれば、大いに関係してるです。
仏壇を新調したなら、次なるは、墓石でして。
イヤイヤ、コレ又、安い買い物に非ず。仏壇と同程度の、値でして。
オッとの、墓石なら、あるけれどや。石の素材が悪いのか。年季のためか、方々、欠けて来てまして。又、墓の周辺、当時、新調ブームに相成っててねえ。
近隣の墓石が新調されの、背も高くにされて来てみい。立派な墓に囲まれの、ご先祖様の墓石、欠けだらけの、背も低くの、薄汚れも目立ってねえ。申し訳無いなあと。
この際、墓石も新調してしまおかと。

当時、我が家にも、勢いあったんやねえ。
引っ越して、一年か、二年経って、屋根瓦を上等のに、交換したり。仏壇を新調したり。そして、墓石を新調するかと。全部、100万円、軽くの突破。

要は、引っ越したのが、昭和55年<1980年>
墓石が、昭和59年<1984年>
この4年間に、100万円突破の事を次々とと。今、考えても、へえと、感心致すです。屋根瓦以外、ご先祖様の事でして。
オッとの、屋根瓦の件も触れるに致すです。
(12/08/25)


NO.254 桜散る散る、花吹雪の話(46) 河波忠兵衛の話

本日<8月25日>、恒例の墓参にと。
イヤ、大体は、月初めなれどの、先月行ったが、29日<日曜日>、お盆前なれどの、早めの、墓参をと、我が夫婦、長男一家、二男夫婦で、墓参したです。お盆には、嫁はんの里帰りで、四国故。
<参考=「単なる雑談NO.80NO.81」恒例・四国の話>

での、本日、嫁はんと2人だけ。
朝2番、9時頃家出て。下道、国道9号線でして。いつもは、「漢方外来」に通院のついでと云えば、失礼なれどの、ついでにでして。折角、京都に出てるし、その機会にと。
本来ならば、先週、18日の予定でしたが。12日から、14日まで、四国、香川に行ってまして。諸般、正直、疲れてしもて。その他、諸々、考えあっての、「漢方外来」通院、無期延期しよかと。とりあえずは、18日の予約は断りまして。次回は、予約してませんでして。
その他、諸々をば、正直云えば、効果有るのか、無いかもあって。漢方薬も、保険が利くものの、安くもあらへんしと。

特には、私の方なんか、耳鳴り症状一向に収まらず。そもそもが、左程には、期待してませんですが。結果、処方して戴いてるの薬、便秘薬やったりしまして。
嫁はんの方は、目の方なれどの、コレ又、利いてるのか、利いてえへんのかと。処方は、煎じ薬なれどの、飲めば、一応は目の調子もええみたいなれどの、ソかなあの疑問もあるらしく。

オッとの、そんな話は結構の、この時期、墓参もしんどいねえ。
太陽、ガンガン、外に居てるだけでも、汗ぽたぽたの、階段を登って、当家墓地に到着だけで、ひい、ふう、はあの、下着から、ポロシャツ。パンツなんか、汗びたびた。
顔から、腕から、そこら中から、汗、吹き出してまして。

墓掃除を終えの、仏花を供え、ロウソクに火を点け、線香を焚いた、段階で、汗拭きタオルもびたびた状態。
まあ、お勤めでして。仕方が無いわと。

での、墓の正面、左手には、建墓の年月、刻んであっての、昭和59年8月<1984年>でして。早、28年経ったのかと。
ならばの、息子共、6歳、7歳の頃でして。今更乍らの、フウンと。イヤ、正直、印象的、古くなってるの感無いです。当時のままでして。されどの、過月、墓磨きをして戴いたですが。水垢と思てたのが、欠けてまして。


オッとの、そんな話は結構の、墓石、新調の話の前に、「桜散る散る、花吹雪の話」の、オバとは無縁の、屋根瓦の交換の話をと。
イヤ、話簡単の、雨漏りの兆候ありまして。
実は、母方の、上のオジの長男<従兄弟>が結婚しまして。その相手の実家の稼業なるが、屋根瓦屋でして。これ又、奇遇な事に、老いの坂在住。
変な話、当時、通勤に、通過してまして。

イヤイヤ、瓦屋と聞けば、丁度宜しいです。伝(つて)が出来たになっての、ほならの、そこ様で、やってもらおかと。従兄弟の嫁を通じて、お願いしたです。要は、コレ又、親戚筋を通じての事でして。
やからと、値が安くもならんですが。軽くの、100万円突破の仕事での、諸般、安心して、やってもらえるですと。
事実、以来、30年程が経つのか、何とも無いの、瓦も相応に上等でして。その時、瓦職人、その方が、従兄弟の嫁父なれどの、曰くに、見て頂戴と。悪いけれどの、隣近所の瓦と、瓦が違うの、何が違うかとなればの、光沢がと。
光沢が違うは、焼き、塗りが違いの、欠け難く、割れ難く、雨露、良く弾き、風雪に耐えるですと。見て、フウンの確かに、素人目にも、光沢が全然の違うです。

ホナラの槇島の家の屋根瓦を直した時はどであったかは、そんな話、聞いてえへんし、知らんわと。

要は、変な話、槇島と、亀岡で、屋根瓦を交換しの。実は、トイレも、簡易くみ取り式から、水洗に替わりの、工事をして戴き。
風呂も、交換してまして。槇島では、木製のを、ステンレス製にしただけなれどの、亀岡では、ユニット式バスにしてるです。

オッとの、屋根瓦の話は、それだけでして。強いてなら、その年から、何年か、干支の瓦を戴いたですが。先様も高齢になられ、瓦職人、辞められたかと。


での、イヨイヨの、墓石の話。
昭和59年の事なれどの、当時、墓石、新調流行ったと申してるですが。原因の1つに、石匠、河波忠兵衛がテレビで、宣伝してまして。
謳い文句なるは、
「お墓のない人生は、はかない人生です、ぜひ 墓ある人生を」と。

これが、大いに影響の、更には、「東本願寺祖廟」には、「河波忠兵衛」の事務所がありまして。諸般、この際と、墓の新調のため、事務所に入ったです。いつもの墓参、月参りに行った際です。

イヤ、事務所は当時、祖廟門前にプレハブ小屋があったですが。過年、墓地内、左手の端に移動したですが。イヤイヤ、祖廟門前には、その昔っからでして。移動は、多分ならばの、5年程の以前やったかなあと。
での、当時の場所、祖廟門前の事務所にと。入れば、云うたら、頭の一寸、禿げたオッサン。山本浩之アナウンサーみたいな風貌、体型のが出て来まして。オッとの、28年の昔で、40代半ばであったかと。
<注=山本浩之アナウンサー>
<消滅・削除・13/04/03>


云うたら、私よりは、軽くの年配でして。
とりあえずは、場所はどこ。どんな石、どんな形、正面には、何を彫る等々でして。結果的、概ねの金額をと、相成るですが。
場所は、墓地毎に番号あって。何番の何番と。云えば、墓地の大きさ判明致すです。
での、台があり、真ん中にドンの、花立て等々での、石材なるは、正直、一番の上等。長持ちするの黒御影石を選定。文字は、単純に、「南無阿弥陀仏」
オッとの、文字なるは、字体等々あっての、嫁はんが決めたですが。

兎に角、都合の、軽くの、100万円突破。まあ、ご先祖様のためです。まあ、ええかと。
何れは、我々も入らんならんわと。
での、このオッサン、生前に、建墓なるは、良い供養になるですと。フウンの、ソなれば、嬉しいですがと。
(12/08/26)


NO.255 桜散る散る、花吹雪の話(47) オバ来(きた)るの話(1)

昨日<8月25日>、町内会の、「夏祭り」でして。
福引きにだけ、参加させて戴いたですが。何故か、籤運の悪くで、何も当たらず。
イヤ、おかしいてねえ。その場に参加の人だけに当たるの籤なれどの、要は、箱には、町内会全員の苗字でも記入の札<紙>が入ってるのやろねえ。区長なりが、引いて、発表の、該当者が居てたら、景品をと、相成るですが。

これが、一人で、二度当たってるの方、多数居られてねえ。
そしたら、一度当たっても、元に戻すの方式なんやろかねえ。イヤ、細々、見えませんの、離れてまして。
オトトの、結果、最後まで、待ってたのに、さっぱりの当たらず。

真後ろに組長が居てまして。ハイと、参加賞ですと。ンと。そんなモノがあるですかと。参加賞と云われたならばの、確かに、受け取るの資格ありまして。
そやけどなあの、そんなモノ、受け取ってるの人があるのかと。

イヤイヤ、そらなあの、町内会の福引きでして。ティッシュ・ペーパー、一箱とか、キッチン・タオルとかとかでして。上の方なら、米10キロ、商品券、千円であったりのと。されどの、何にしても、ここで、当たったとなれば、5年、6年に1回程度やでと。

しかるにの、喉も渇きの、生ビール、200円也のを、一杯注文の、飲ませて戴いたです。本来なら、缶酎ハイが欲しかったですが。売り切れでして。仕方が無くの、生ビール。
での、参加賞と称するの、ゴミ袋。市が指定のゴミ出し用の袋なれどの、家のお土産として、持ち帰るの道中。完全に出来上がりの、呂律回らぬの、誰とは云わんのが、奥様と、誰やろねえ。両脇に抱えられての、退散でして。
そこまで、飲まんでもと。
思てるの我輩、一人で、帰ったモノの、久しぶりの生ビールで、帰ってから、暫くしてから、一寸だけ、気分がと。しんどかったですが。倒れたり、寝てしもたり、奇声を発するには、程遠く。
オッとの、左程に久しぶりに非ずの、過日、8月12日からの、嫁はんの里帰りにての、一寸だけビールを飲んだなあと。所詮は、缶ビール、1個が限度なれどです。


イヤイヤ、でででの、一寸だけ、話を戻しまして。
屋根瓦の話。
イヤ、電右衛門さんから、掲示板に投稿あっての、「瓦屋根の注意」
「屋根に物を乗せぬ事・乗らぬ事 アンテナ・太陽機器等、若し凍てや乗りで割れが在れば、直に予備瓦と交換しましょう。
何事も無ければシバケンさん寿命より長持ちは保障」

オッとの、ソ云えば、瓦の光沢の話をしてまして。確かに、悪いけれどの、隣近所とは、一寸違うの話を掲載したですが。したは、当時の、28年は昔の話での、現在唯今、どかと。昨夜、掲載中にも、確認したかったけれどの、夜に見ても、光沢分からんわと。
結果、投稿拝読の、嗚呼、見とかんとと。早速にも、外に出ての、瓦を見るに、当時の光沢の印象とは、数段の落ちてまして。されどの、近隣と比較をすれば、上等一発。

戻って、さての、文面作成するに、又、思い出しの、予備瓦の状態はと。
イヤ、我が家の横手、目立たぬの場所に、十数枚やろかなあ。当時から、そのままに保管してるですが。見に行けば、矢っ張り、ホコリ被りの、光沢消えてるですが。ホコリを洗い流せば、元の光沢がの水準でして。嗚呼、良かったなあと。

イヤ、実は、槇島では、屋根を直しの、ソーラーも設置したですが。
亀岡でも、ソーラー設置の予定はしてたですが。瓦屋の、従兄弟嫁の父から、その辺りの話も云われたです。

こっちから、尋ねたか、先様が、予めの警告かの、ソーラーなんか、トンでもと。載せるなら、載せるで、最初っから、そのよに、計画の、施工せねばならぬの、相応の手間、暇、費用掛かるですと。
それを、安直には、屋根そのものから、重量負荷掛かるですと。
聞いて、成る程のと、ソーラー計画、完全抹殺、相成ったです。


そんな次第の、斯くなるでの。
墓石新調決まりの、我々、何をどのよにと。先の、山本浩之アナウンサーの如きの、愛嬌あるの、担当者に尋ねたならばの、多分なら、旧のは、魂抜き等々、任せなさいと。
新しい墓になってからの、しかるべくの日、所謂の開眼供養、或いは、墓開きとも称するの、お寺様に、或いは、東本願寺寺務所に頼みの、読経してもらってくださいと。
とまでは、教えてくれたか、定かに非ずの、多分なら、こっちから、光圓寺に尋ねたの可能性がと。

イヤ、そんな事で、開眼供養したいですがと。如何様にしたら、宜しいですかと。
ならばの、どちらでも宜しいと。どちらとは、光圓寺から、行っても、東本願寺祖廟の僧侶でもと。フウンの、ホナラの、東本願寺祖廟寺務所で頼むかと。
イヤイヤ、寺務所で、良く、良くの張り紙見たなら、年会の読経、納骨の読経等々、目的に応じの、幾ら、幾らと、明記してあるです。そしたら、東本願寺祖廟で頼むにしまして。

での、墓開きは、しかるべくの、祝い事故、墓にご縁のある親族一同、集まって戴ければと。ご先祖様もお喜びになれれるかと。フウンの、そんな事なら、親族一同に声掛けるかと。
結果、オジ達、妹。そして、東京のオバに声を掛けるにしたです。
こんな次第の、墓を新調での、墓開きを致します故、時間が許せばと。

ででの、東京のオバも、そんな事ならと。来てくれるになって、へえと。
そらなあ、祖母の葬式<昭和46年・1971年>以来の、何年ぶりかと。昭和59年の話故、13年ブリでして。

オッとの、もしかしての、我が結婚式の時<1977年>にも、来てたよな、どやったかなあと。兎に角、バタバタしてての覚えてませんでして。結婚式が終われば、そのままに、京都駅から、新幹線にての、新婚旅行、伊豆に出てしもて。
来てたとしたなら、必ずの、従兄弟<長男>と、一緒での。結婚式当日、我が家に泊まってる筈なれどの、新婚旅行に出てしもてるが故に、まともには、話も出来ず、せず。


斯くしての、どっちにしても、墓開きの前々日より、我が家に来まして。しかも、珍しくも一人。イヤ、従前、一人は無かったですが。来る時には、長男と一緒でして。
多分なら、来たの当日、駅まで、迎えに行ってるかと。或いは、仕事で、無理なる時間帯に着くなら、母なりに。大抵ならば、嫁はんも、息子共も、迎えに行かせてる筈でして。
只、何故か、その辺り、記憶に無く。覚えてるは、来たら、如何様にするかの、歓待、熱烈歓迎の相談でして。
最大限の、出来る限りの事をと。
ソラ、タマの客人でして。東京からでして。
(12/08/27)


NO.256 桜散る散る、花吹雪の話(48) オバ来(きた)るの話(2)

イヤねえ。
ども、私が京都駅に迎えに行ってる筈でして。云うたら、亀岡を知らんのオバを放っとくの訳が無いです。
イヤ、会話を覚えてまして。

久しぶりに、合う、オバ、まあ、喋ること、喋ること。
開口一番、「お墓のこと。タケオ、アリガトウ。長いこと、お参りも出来てないのよ。気になって、気になってねえ。
イイ機会を作ってくれて。アリガトウ。

タケオ<私の事>のは、幾つになったんや。
そうそう、あんたの二男が、<オバの長男の>長女と、オナジ歳よ。まだ、まだ、これからよねえ。お父さん、頑張ってチョウダイよ。

オバは、こんなに、シャベリやったかなあと、思うくらい、シャベリまくりの、家に付いても、よお、喋ってねえ。
京都はやっぱりええねえ。懐かしいねえ。2人<オジ達>も、元気にしてるかと、東京弁を京都弁のアクセントで喋ったり、京都弁になったりでして。

そおなの。
あっちでは、あっちのアクセント。
こっちに来ると、やっぱりねえ。根は京女よ。アクセントがねえ、そうナッチャウノよ。

久しぶりに合うと、何と表現したらええのかの、他界した祖母を彷彿させるです。
母娘故、当たり前なれどの、それにしても、昔は、似てるとは思いもしませんでしたですが。その分、オバが歳喰たになるのかと。

私にとっては、祖母、気が付いたときから、婆さんでして。そこから出発して、梅干しババアで終わってまして。
オバも、この時、私が、祖母を認識した辺りの年齢に達しての、63歳であったかと。
それは、一々の、表現出来ぬの程の、眼の付近、口振り、手振りの、喋り方まで、どおなったんやと、思うくらいの、そっくりになって来てまして。会う事、僅少の、どちらかとなれば、親族としたら、遠い存在のオバが、懐かしい祖母とだぶってしもてねえ。


そして、その日の夕食なるは、手巻き寿司がええかなあと。好きなモノを好きなだけ。食べてもろたらと、相成ってまして。

ででの、手巻き寿司のネタをで、近在とするのか、並河駅ソバの寿司屋に頼んでたです。寿司屋は、「誠寿司」
イヤイヤ、隠す事も無いの、単刀直入、寿司ネタだけ、5000円分をと。中身、まかすの、先様指定の時刻に取りに行ったです。
予め、包装されたの、ネタを取り出し、私に手渡すの際、寿司屋の親父曰くに、5000円分となれば、どんな量かと、思たはるかも、分からんけどなあ。にぎらんとなあ、ネタだけやったら、こんなモンですわ。これでも、勉強させて戴いてまっせ。原価でっせ。手間代戴いてまへんで。サービスですわ。ホンマでっせ。

これを、にぎったら、そうやなあ。三倍から五倍の値段はしまっせ。十倍取るとこもありまっせ。ホンマですわ。
こんなん、開業以来、初めてのサービスや。これまた、ホンマでっせ。
まあ、これからも、精々、ご贔屓にお願いしまっさ。ネタだけとか云わんと、にぎったヤツをやで。ナッ、たのんます。お客さんのご来店を、お待ちしてまっせ。ナア。

差し出された、ネタなるは、手の平に載るの程度で、フウンと。
確かに、舎利が無ければ、嵩張らんです。少ないなあと。

では、あっても、ネタはこれだけとは違うの、玉子焼きに、キュウリ、カイワレ、ソーセージに、鯖等々。別途、調達、準備もしてまして。

予定では、その明くるの日が、墓開きでの、一同揃いの墓参で、終われば、円山公園内、「いそべ」で、懐石料理をと、相成ってまして。
オッとの、その前に、オバの用事。従兄弟3番手の子が出来るですて。折角、京都に来たからには、腹帯、「わら天神」さんのをと。連れてってくれと。ハイ、承知と。イヤ、そんなに遠回りでも無いです。早めに出たら、良いだけでして。


オトトの、そんな話は結構の。
オバ一人で、産まれ故郷、京都えの旅。
実は、オバ婿殿既に、他界されてまして。何年経つのか、定かには、覚えてませんの。3年、5年かなあと。葬儀には声掛からずの、終わってから、斯くの、然と。
イヤ、気を使てくれたです。オバ婿殿の親族には、余りご縁無く。行っても知らんの人ばかりかと。よって、連絡受理にての、香典のみ、送ったよに記憶してるです。

での、歓待計画、明くる日には、保津川下りでもと。嵐山で、湯豆腐でも喰て戴きまして。同伴は、母と、息子共2人。軍資金は任せて頂戴の、私共夫婦は遠慮したです。そこまでの資金はなと


その日、夜、食事楽しいてねえ。保津川下りはどやったと。ンのよかったでの、初めてやしと。ソラなあ、変な話の、京都に在住のが、早々には、保津川下りに行ことは思わんです。遠く、離れた地方の川下りなら、イザ知らず。
表現替えたなら、私共にしたって、保津川下りなるに行ったは、昨年<2011年>でして。
義姉夫婦、初めての京都見物にての、保津川下りをしたい。
との事で、一緒したが故に、経験させて戴いたですが。そんな機会でも無ければ、早々にはと。
<参考=「単なる雑談NO.74」NO.1001 義姉夫婦の京都見物(12) 「保津川下り」の話>


オッとの、そんな次第の、我が家で、一番最初に保津川下りしたは、母と、息子共2人。
よかったえ、よかったえの、連発での。大人しいて、賢い子やなあと、息子共をほめっ放し。聞いてるの私め、ホンマかいなと。まあなあ、当時、6歳、7歳。丁度、分別付くの年頃になってたかと。
そして、従兄弟達の近況等々。孫娘の話等。
イヤ、我が息子共とホボの同年代の子が居てまして。娘3人。上か、下かが、双子でして。賑やかな事やろなあと。
イヤイヤ、従兄弟の嫁はんの顔知りませんでして。当然の、娘も知らんです。結婚した当時、2人して、京都に来たですが。どこであったか、ホテルに宿泊での、呼び出せば、ロビーに出て来たは、当人一人。
オッとの、電話でなら、何度も話をしてるですが。
要は、男3兄弟。全員別居のため、当時、オバ一人が住んでまして。

での、墓開きが済めば、その足で、大阪の婿殿親族宅に行くと云うてたですが。
そんな次第の、その日は、延々の、話尽きる事も無く。午前様にまではなってませんの、遅くまで、あや、こやと。まあ、すっかりの、関東人、関東弁になってまして。そらなあ、あっちに行って、当時で、30年程が経つのかと。

ででの、再度の歳の話の、当時、母、61歳。オバ、63歳かと。
イヤ、母の方が年下なれどの、長男の嫁故、呼称、姉でして。その母、現在唯今、89歳。

そんな事で、正直なる話、普通車に、大人4人、子ども2人、載せまして。本来的、12歳以下なら、子ども3人で、大人2人分になるですが。一寸だけ、定員オーバーなれどです。時候やわと。
その明くるの日、墓開きの日。
まずは、西大路の、「わら天神」にと。オバが3男坊の子どもの腹帯を授かりまして。そのまま、東本願寺祖廟にと。寺務所にて、親族一同、待ち合わせの、上と、下の、オジ夫婦と。上のオジの娘<従兄弟>も来てたのかなあと。
そして、妹夫婦で、我が親族一同と相成って。

寺務所には、しかるべくの、墓開きの読経。開眼供養をと、依頼しまして。
イヤイヤ、この手の依頼、当然の、この時、初めてでして。或る意味、御布施、ここでは、料金なるが、明確にての、結構なれどです。但し、来て戴けるは、修行中か、修行終わりたての、超の、若坊さん。

オッとの、での、行っといて下さいの、すぐにも、参りますのでと。ハイ、承知の、現地、新調の墓の処えと、向かいまして。新も、旧も、墓石、墓の場所は一緒なれどです。
行けば、まずは、墓掃除なれどの、当たり前に、新品故に、綺麗でねえ。
親族一同、口々に、立派になったなあ。オオキニと、礼を云うて戴きまして。フウンの、そんなにええ事したのかなあと。正直、よお、分かりませんです。単純には、欠けて、汚くなったの墓を新調しただけでして。
折りしもの、何度でもの、近隣、新調されまして。
云うたら、先の通りの、「河波忠兵衛」のテレビの宣伝大きくの影響してるかと。それまでは、祖廟前のプレハブ小屋は承知の、「河波忠兵衛」も承知の、テレビの宣伝にての、へえの、あそこはそんなに、有名やったのかと。一気、高評価の、出来れば、ここに頼みたいと。

そして、当時、戴いたのパンフレットには、我が墓地のソバの墓石が見本的紹介されてまして。
ででの、ついでの話の、我が墓地の近所には、北上弥太郎<嵐吉三郎>の墓があるです。この時では無いの、3年後であったかと。
<参考=「嵐吉三郎(北上弥太郎)」(歌舞伎俳優名鑑)>
<注=墓石には、「北上弥太郎」>
<消滅・削除・13/04/13>
(12/08/28)


NO.257 桜散る散る、花吹雪の話(49) 「いそべ」での話

この処、我が家の家電製品、ポンポンと。
壊れまして。
まずは、湯沸かし器、電子ポットが、いかれまして。この季節、お湯も余りに使いませぬ故、後回しにしよかと。置いといて。
思てたら、炊飯器の調子が悪く。炊けたご飯が、やや、ぱさぱさの、不味うてねえ。モ一寸我慢しよかと、云うてましたら。今度は居間の蛍光灯、プッツン。

蛍光灯はなあ、後回しにも出来ずの、グロー・ランプでも切れたかと。小物部品の引き出しを探したですが、あらへんでねえ。
次には、蛍光灯の蓋を外して、確認したなら、そもそもがの、グロー・ランプをはめ込むの場所が無くの、へえと。当世、グロー・ランプ不要かと。
従前、大晦日に接近で、蓋を外して、掃除をしてたですが。気が付かんかったなあと。

イヤ、諸般、嫁はんの知り合いを通じてなら、安くで、手に入るとの事で。明くる日にも、嫁はんと、近在の、「ミドリ電化」に見聞にと。
結果、Panasonicの、LEDシーリングライト。要は天井に取り付けるの照明器具。平たくなら、蛍光灯で結構でして。これにしよかと。イヤ、品番のみ、決めまして。
イヤイヤ、ミドリ電化で買うですが。知り合いを通じてでして。

での、ついでになら、炊飯器も見聞の、高いねえ。店員に聞けば、概ね、5万円見当のが、よお売れてるし、宜しいと。且つは、炊飯器は、値の高い分、宜しいと。商売上手やねえ。云い出せば、10万円突破のまでありまして。
昔日の、象印。タイガーは、云うたら、悪いけれどの、当世、余り、人気が無いですて。

ででの、炊飯器の炊き具合の差は、釜ですて。
上等は、陶器。そして、ソレ以下でも、銅製でと。尚かつの、銅の釜も、諸般工夫されてるですと。工夫の分、高くなるですて。へえと。

どっちにしても、モ暫く、炊きあがりの不味い炊飯器で、我慢、我慢。
兎に角の、最優先、居間の電気。照明でして。

早速にも、急ぐしと、昨日頼みの、本日届き。
イヤ、正直には、知り合いの水道工事屋はんでして。諸般、現在の仕事の関係にての、割引あって。その上、社員割引もあるですて。へえの、その本日。持って来てくれたは、若い衆、2人で、へえと。
イヤイヤ、当人が来てくれると思てたですが。
脚立も持って来てくれての、チョイ、チョイとは、行かんかったですが。ソラ、水道工事屋の若い衆でしての、初めてらしくの、ええのかなあと。イヤ、あとは、こっちで、やっとくしと。缶コーヒー、冷たいのを出しまして。
しかるにの、当世、LEDシーリングライトなるは、玉を替えるはしませんのやねえ。本体諸共の、そっくりの交換ですて。若い衆、古いのを、持ち帰ってくれて。おおきになあと。


そんな次第の、斯くなるでの。
居間で、パソコンをば、使えずでして。ならばの、別室、母の部屋が当面、空いてましての、そこで、パソコンやってたですが。アカンなあ。雰囲気、違えば、集中力が、持続しませんでして。
オッとの、この程度でも、或る程度は、集中してるわと。

正直になら、こっちの、掲載数段難しくの、大変ゾと。
掲示板の方は、ネタをば、提供して戴いたりでの、数段の楽、楽、楽の、楽チンでして。文面にしても、短文で済むです。反対には、余りに長文、投稿難しく。

でででの、そんな事で、話はどこまでしてたかと。
墓開きで、新調なった、墓石の処えと。一同揃て向かいまして。
その時であったか、オバ曰くに、「立派なものは出来ないけど、お父さんのお墓と、仏壇は出来たの。一安心よ。私もそこに入れて貰えるから。」と。
確かにねえ。
仏壇も、墓石も、安い買い物に非ず。我が家の場合、墓地がある故、そっちの心配しなくて済むですが。墓地もとならばの、更なるの出費。後年、諸般、尋ねた事があったですが。借地権だけで、コレ又、軽くの、100万円突破。詳しくは申さんの、東大谷祖廟の、当家の場所なるは、仏壇より、墓石よりも、一番に高いわと。云うたら、下、入り口に近い方がより高く。上に登れば、登る程に高く。当家のは、相応に登るですが。
かと云うて、倍もは違わんの、1割、2割かなあと。
登るとなれば、まだ、先の場所的、高い処もあるですが。

そんな話は結構の、しかるべくの、花、ローソクに線香等々、準備をしてたら、坊様到着の、読経と相成って。ではと、順々に、墓石にお参り致しまして。無事に、墓開きも終えまして。
一同、揃いの、「いそべ」えと。歩いて、降りたら、円山公園故に、そこでして。

「いそべ」の2階を借り切ってまして。後にも、先にもの、ここの2階を借り切っては、この時だけ。
多分ならばの、超簡単なるの、何か、挨拶でもしたのかなあと。せずには、会食始まらずの、当時は、飲酒運転、云々の話は無いけれどの、そんなに強くもあらへんの、コレ又、多分ならばの、ビールでもを、つぎに回ってたかなあと。

イヤイヤ、当然の柴田の身内だけ。
昔話に花満開。
当日の目玉、オバでして。その場での、最年長者でもありまして。

での、親父は呼んでは無いです。
何故に呼ばんかったか、定かには覚えてませんの、当然の墓新調。墓開きの件、オバ<親父の妹>が東京から、来るの話はしてるですが。


そんな次第の、斯くなるでの。
我が、ええ加減なるの記憶ならです。
当日に合わせての、女性にだけなれどの、韓国出張土産。但しの、韓国の土産では無いの、機内の免税品。多分ならばの、化粧品等々かと。買おて来てましての、この場で嫁はんを通じて、プレゼントしたかと。
当然の、各々より、供養の菓子類戴きましての。全部を家の数分、均等に別けまして。お持ち帰りをと。正直、変な話、これが好きでねえ。色んな菓子を戴けるしと。
更なるの、変な話の、この、均等別けをしてくれんの事、ありまして。あんなに沢山、戴いて、どするのやろなあと。

そらなあ、別けて頂戴。
とも、云えずの、家、家、地方、地方にての、考え方、慣わし、ありましてと。只、しぶちんやなあと。
私め、甘党故。余計にと。
(12/09/01)


NO.258 桜散る散る、花吹雪の話(50) 衝撃のオバの話

諸般諸々の、「いそべ」での、懐石、会席、談笑も、終わってしもて。お開き致しまして。

での、私の方は、東大谷祖廟の手前、藤田石材の空き地に車を駐めてまして。お開き即の、車を取りにで、「いそべ」のソバ。上の道路に回しまして。
云うたら、当時は、藤田石材の辺りが駐車場でして。現在の場所とは違うです。現在の駐車場なるは、円山音楽堂の真向かいでして。当時は、只の空き地やったかなあ。

ででの、車を道路に駐めて。
オジ連中にそしたらなあと。別れの挨拶等々の、「そしたら、タケチャン。姉さん頼むわなあ。」と。
「ワシ等は、久しぶりに、夫婦仲良く、円山公園でもブラついて、帰るわ。」と、妹一家を含め、皆仲良く、公園の中に消えてしもて。
当然の、オバは私の担当でして。二人のオジは運転免許を持ってませんでして。妹と、婿は持ってるですが。婿は、飲めるし、飲むし、車は辞めて、電車で来てまして。

挨拶も終わって、上の道路の、車に向かいの、全員、車に乗り込んだ辺りで、若き警察官登場の、ンの、私共に用事があるらしく。車から出て、何事かと、話を聞けば、オッとの、定員オーバーの件では無くの、警察官曰くの、駐車違反也ので、ンの、へえと。
確かに、上の道路は、駐停車禁止の、5分、10分では戻ってませんでして。別れぎわの、談笑、挨拶だけでも、15分は掛かってるかと。

にしても、困ったなあと。
イヤ、何を隠そおの、駐車違反そのものは、どて事無いの、ローム<勤めてた会社>では、無事故無違反で無ければ、会社の駐車場から、追い出されるになるです。1年更新にての、無事故無違反になるまではです。
話簡単の、次年度、1年間、車通勤出来なければ、大変でして。
交通違反の点数、罰金よりも、そっちが問題での、若き警察官に懇願の、見逃して頂戴なと。されどの、駐車違反の現実は替えられんの、見逃せんの、只、再度確認の、誰が運転してましたかと。
ンの、ソかの、嫁はんに、代行頼むと。
結果、その駐車違反なるを、嫁はんに被ってもらいの、正直なるの話、嫁はん、違反、その1回のみで、今だ、云われっ放し。
よって、余計にの、その一件。若き警察官とのやりとり等々、鮮明に記憶してるです。

イヤイヤ、ホンマやでの、当時、警察官、20歳そこそこでの、現在唯今なら、50歳程度。彼にしてみたら、一歩譲ったですが。こっちにしてみたら、ギクリの、冷や汗。嫁はんにしてみたら、自分と違うのにと。

斯くなる次第の、まだありまして。
私としたら、オバの兄、我が親父に会おてもらいたくの、オバにその旨、話をしたなら、イトもあっさりの、ええわ。
イヤ、当然の時間は掛かるですが。宇治、莵道、明星園に案内するのツモリがあったですが。返事を聞いて、へえの、ンと。
祖母他界、葬儀以来の、13年ブリになるかと。兄妹故、会いたい筈と思てたのが、想定外、意外なるの返答に、我が耳、疑おたですが。何で。とも、聞けず。タダタダの、衝撃でして。

聞くまでも無くの、我が親父、妹弟から、相当に嫌われてるなあと。尋常では無いなあと。

そらなあ、兄弟一同に揃いの、「いそべ」で、昔話に花咲くの。処がの、大体が、オバも、オジ達にしたって、兄さん、どしてるとは、一言も聞かず。オジ達、明星園に足向けた事も無く。そもそもがの、それ以前の、宇多野病院にすら、見舞いにも行かず。
ソ云うたら、オジ達、結核にての、一時的、入院の際も、親父は一度も見舞いに行かず。私なら、母であったり、祖母と一緒に行ってたですが。オバのその一言にて、フウンと。嫌われるも、親父も、兄弟に対し、冷たかったとも云えるかと。
とは、思たですが。されどの、我が親父でして。寂しいなあと。
では、あれどの、ええわの、返事で、無理矢理に案内も出来ず。


オッとの、での、オバ曰くに、万寿寺の、叔母<祖母の妹・当時90歳>に会いたいと。
その程度、容易い御用の、連絡もせずの、行ったです。連絡するまでも無く、兎に角、90歳。自由気ままに動けませんでして。別段にの、家族、居て無くても結構の、ホントに、挨拶だけ。顔だけ見られたら、ええしと。
オッとの、大叔母なら、顔だけみたらの話で、我が親父は、二の返事で、ええわかと。

とかとかの、そんな次第の、斯くなるでの、万寿寺の大叔母、当然の在宅での、そこの長男も在宅での。そら、自宅にての、木工されてまして。
名実共、ホンの、一目、一言挨拶だけで、ではと、長生きしてなあ。元気でなあと。すぐにも、お暇の、オバは、京都駅に送ってくれと。

ええ機会やしと。
夫の里であるの、大阪の親戚回り、挨拶しに行くとの事でして。
「これで、又、当分、サヨウナラやねえ。」
「こっちには、ダアレも居ないから、タケオも、遠慮することないし、イツでも泊まりに来てチョウダイ。」
更に、曰くの、そんな事で、親戚回りするからにしての、「イツになるか、分からへんけどなあ。もしかしたら、帰りにでも、も一遍、こっち<亀岡>に寄るかも知れへんけど、亀岡は遠いしなあ。」と。
要は、そんなことで、大阪から、直接、東京に帰るの意向でして。

とかを、大叔母、万寿寺をお暇しての、京都駅えの車中、云われの、駅にての、デハと、別れまして。
とまあ、正直、このオバと、こんな具合に、親しくの話をしたとするのか、会話そのものが、これが、初めてでして。


ででの、この夏。
夏期休暇も、その日が最終日での、明くる日より、出勤でして。

オトトの、この話。
当家、墓開きなるは、28年の昔<昭和59年>の、8月。暑い、暑いの日であったです。
「桜散る散る、花吹雪の話」とは、全くの、季節が違うですが。その明くるの日。へえと、我が目疑うの事が。
(12/09/02)


NO.259 桜散る散る、花吹雪の話(51) オバの話<ここから出して貰たんや>

イヤ、過日。
一週間程経つですが。
夜、風呂に入ろとしたなら、足元で、何やら動くの小さなモノ、視界に入り。ンと、見たなら、アリでして。オッとの、一匹、二匹に非ずの、十数匹で、モ一発の、ンと。
まだ、裸には成ってませんの、シャツを脱ぎかけ状態にて、嫁はんに、ティッシュ、ティッシュ。アリが、アリがと。
最初は、ティッシュで、潰してたですが。
居てる、居てるの、十数匹に非ずの、あっち、こっちに、現れまして。ティッシュで潰すは間に合わずの、指で、シラミ潰しに非ずの、アリ潰し。

にしても、発生源どこかと追跡とするのか。居てるの先を追跡すればの、キッチン、流しの下からでして。ンと。
ソ云うたら、過日、味醂がこぼれ、キッチンの下に流れたですが。原因、それかと。イヤ、当然の、僅かなる隙間に、新聞紙を差し込みの、相当に吸収させたですが。まだまだ、残余の味醂がと。
結果、その夜だけで、軽くの、百匹は潰したですが。流しの下から、要は、風呂の前経由の、勝手口。外でして。

この日より、三日間は、少数乍らの発見、潰したですが。以て、一件落着したかなあと。にしても、アリは凄いです。情報伝達能力がです。運動能力がです。あいつ等にしたら、凄い距離を動き回りまして。動くから、目立ちの、潰せるですが。


斯くなる次第の、斯くなるでの。
柴田の親戚一同、墓開きで、会しまして。無事に終わりの、オバも、京都駅に送り届けまして。
以て、我が家に帰れば、大きな行事も一件落着。以て、夏期休暇も終えの、明くる日には、通常通りの出勤でして。

駐車違反云々で、冷や汗かいたですが。嫁はんに違反代行してもらいの、兎に角、当日、我が愛車で、帰宅しまして。
ガレージに車を入れて、車から出て。ンと。
異なる光景、発見。

イヤイヤ、祖母が居てるのかと。オッとの、祖母は、13年の昔に他界してるですが。息子共2人を伴いまして。3人が玄関先に立ってまして。
当然の、祖母なら、幽霊なれどです。
良く見たらの、オバが居てるの、立ってるの、息子共に、
「さあ、お父さん、お帰りよ。お疲れ様です。お帰りなさいよ。」と。

息子共、オバ、異口同音に、「お帰りなさい。」と、云うてくれて。感涙致すです。ソレでなくとも、祖母の姿。イヤ、オバの姿見て、感涙してるのにと。

での、そんな事、云うてもろた事が無く。イヤ、無いとは申さんの、玄関先で、出迎えられたは初めてでの。
オトトの、ソレ以前の、冗談では無いの、大袈裟でも無くの、瞬時、祖母と思たは事実。ソレ程に酷似してまして。そらなあ、母娘故と、されれば、その通りの、似て無い筈は無いけれどや。
何故にオバが居てるかの不思議な現実以前の、懐かしくの思いで、暑くなりの、胸一杯の、涙流れて、困るの程のと。ホンマやでと。こんな場で、嘘八百、並べて、何の意味あるもんかと。

まあなあ、祖母の葬式の時、オバ婿殿の言葉もあったです。嫁<オバ>が、歳喰えば、喰う程に、お母さん<祖母>に良く似て来てと。
その時には、当たり前の話を、当たり前にしてる程度に聞いてたですが。オッとの、私にしてたの話に非ずの、親父や、オジ達にかと。

イヤ、同類の話ならばの、下のオジ嫁の葬儀の際にも、体現してるです。
当然の、この話よりも、後年での、上のオジの息子<従兄弟>と久しぶりに会おたですが。その際、瞬時、オジかと。オジは既に、他界なれどです。従前、似てるとは、露程も思て無かったの、従兄弟がビックリする程にその父、我がオジを彷彿させまして。
この時にも、涙が出る程に感動したですが。涙を見せるは出来ませぬ故、一寸、横向き、呼吸整えたりと。


この時、オバを見た時、その感動、最大値を示してたです。
云うたら、夜やしなあ。涙は見えませんの。されどの、言葉は発するが出来ませんのと。胸詰まってしもて。そらなあ、当時のオバの年齢なるが、私が祖母と一緒に行動、墓参等々してたの年代でして。

イヤ、にしても、何で、オバが居てるのかと。
大阪の、オジの親族を回るとしてたですが。何日掛けるか、分からんの、亀岡は遠いし、寄らへんかもと。云うたし、聞いたですが。ソの言葉で、これで、暫く、会えへんなあと。

オッとの、での、オバを、まともには、見ずの、見るが出来ずの、「ヒャー、えらい事、してくれやはって。タダイマです。」
ででの、「大阪の挨拶が、早いこと、終わったんやねえ。」

オバも、我が状態に気が付いたのか、付いてないのか、横向いて。
「オバちゃんはねえ。やっぱり、こっちがええわよ。ここから、出して貰たのやから。嫁に出たのよ。
また、お世話になるわねえ。」

イヤイヤ、重い言葉であります。
オバが、亀岡の家から、嫁に出たで無いけれどや。
京都の家からに決まってるですが。オッとの、果たしての、仏光寺か、綾小路<丸屋町>かがあるですが。時期的、仏光寺に決まってまして。
オバの言葉で、全容察知の、その件、以て、こっちからは、一言も触れず。

にしても、一晩どしたかと。
とも、聞かず。
とする以前の、私なんか、オバの話をば、只々、ウンウン、頷くだけが精一杯の、他家の事は知らんわと。元々が、年齢的、オバ婿の親が生存、他界さえ。兄弟、何人かも、皆目の知らんのに。聞いても、顔さえ知らんし、分からんわと。
オッとの、オバは、婿殿親族の話はしてませんです。


での、玄関を上がり、居間に入って、よおやくの、落ち着きの。
「何もよおしやへんけど、ゆっくりして下さい。」
「ありがとう。こっちで、ゆっくりしたいけど、これで、おばちゃんも、忙しいのよ。悪いけど、明日、帰るわよ。」
ケラケラ、笑って、そんな憎まれ口を云うのです。

考えてみたら、前の仏光寺の家にも、泊まってくれた事の無いの、オバでして。泊まるに、狭過ぎるもあったけれどや。亀岡も、云う程に広くも無いの、されどの、息子共もまだまだ、小さく、2人で、1つの部屋であったかの、一室空いてまして。
イヤ、オバは言葉通り、その明くる日には、東京に戻ったらしく。
(12/09/03)


NO.260 桜散る散る、花吹雪の話(52) 悪い知らせの話

ホントにねえ。
同じの親戚筋でも、こっちから、行くが多かったり。あっちから、こっちが、多かったり。余り、往来しやへんの先もあったりでして。
そんな事でなら、母方の場合、上のオジ宅とは、往来少なく。少ないだけで、こっちからは、行ったですが。あっちから、こっちえは、来た事あったかなあと。記憶に無いなあと。
下のオジ宅<黒門>とは、良くあったです。近いもあったですが。ソラ、中学校の通学路でして。
処がの、オバ宅には、殆ど、行った事が無く。あっちも、こっちに、来た事、数回かと。

柴田の方でなら、オジ達、仏光寺時代には、出入りしてたですが。多分なら、槇島には、一度も来て無いの筈でして。オッとの、ソ云えば、母方の下のオジも来た事無いなあと。
亀岡ともなればの、諸般あっての、一番に来てくれたは、母方、下のオジでして。こっちも、気楽に寄ってたですが。
当然の、気楽さからなら、柴田のオジ達でして。ソラなあ、一緒に暮らしたの期間があったです。

されどの、東京のオバとなれば、何分の、私が小学生時代、大阪から、東京に引っ越してしもて。以来、家に行ったとなればの、私が社会人になっての、講習会に行くのついでに寄っただけでして。寄っただけも、一泊してるですが。
従兄弟と夜長の話に夢中になりましてと。云うたら、私が泊まる事があったは、オバ宅だけかと。後は、京都故、泊まるの用無く。
<参考=「不可思議の世界NO.20」NO.224 桜散る散る、花吹雪の話(16) オバ宅に寄るの話>


「オバちゃんはねえ。やっぱり、こっちがええわよ。ここから、出して貰たのやから。嫁に出たのよ。
また、お世話になるわねえ。」

大阪の親族を何日か掛けて、回るの筈が、一日で戻ったオバの言葉、そのままでして。
イヤ、嬉しかったでと。
内実さっぱり、分からんでも、モ一度、戻ってくれて。又、会えたかと。
分からんでも、オバの旧姓、「柴田」でして。変な話、この時、初めて、ソやったんやと。「柴田」から、嫁に出て行かはったんやと。祖母は他界で、兄であるの、親父はここには、居てへんけれどの、親父には、明星園に会いに行ってくれへんかったのにと。


とかとかの、私の方は、明くるの日、出勤でして。ではと、ゆっくりしててなあと。朝、挨拶して、出てしもたですが。
帰っても、オバ、居てませんでして。予定通り、帰ったかと。

で、その昭和59年夏。8月の、墓開きの件はそれで終わったですが。
先の話を続けるわの、帰って、暫くしたら、オバが体調崩して、通院し出したの、一報。そして、更に、暫くしたら、入院したと。へえと。どしたのかと。
されどの、入院も、2週間で退院の報で、ソラ、よかったなあと。大した事が無くと。

処がの、次には、年明け、昭和60年<1985年>、矢っ張り、体調優れずの、病院にて、診てもらえば、入院を勧められたと。ではあれどの、心配無用と。
そこ、してる内、入院して、検査して貰たら、ども、肝臓に、ガンが出来てるらしいと、従兄弟<長男>から、入ってくるの情報、突如の、厳しくなってねえ。
イヤ、まだ、お見舞いして貰うことも無いと。

話簡単の、京都から、来たら、却って、変に気を回してしまうから、こっちから連絡するまで、静観して欲しい。との事でして。
イヤ、ソとは、聞いて無いの、ガンとは、本人には、教えて無いのよで。
従兄弟曰くの、まあなあ、早期発見やったら、治るやろと。
とは云え、従兄弟の声、話ぶり等々、心なしか元気がありませんと。

そらなあ、一報、一報、あるの都度、心配いらん。心配いらんと、云うてるも、聞くも、そのままを信じてたですが。ガンと聞けば。本人に知らせて無いとなればの、聞いたこっちが、心穏やかに非ず。
当世とは違うの、まだまだ、昭和の時代の話やわと。

云うたら、見掛け、小柄で、華奢なるの、オバなれどの、入院なんか、聞いた事無く。且つは、墓開きで、来た時なんか、元気、元気の、いつものオバでして。
只なあ、冷静沈着、この手の話、良く聞くわと。
遠方より、突然の来訪。しかも、親戚回り等々。云うたら、思い出巡りで、すぐにもの、他界の話をでして。まさかの、オバがなあと。

イヤイヤ、ガンと聞いたの、その瞬間より。ジっとは、してられませんでして。何か、出来るの事はと。云うても、見舞いには、まだ来るなと、釘刺されてて。

その当時<昭和60年>の頃。
「丸山ワクチン」が、何故に、認可されないのかと、マスコミで話題になってまして。又、ガンに対しては、まだ、これと云うよな、治療法無く。ガンは、死の宣告みたいなものでしたです。

折しもの、会社の先輩が、脳腫瘍で倒れ、主治医からは、余命、半年と云われたのが、大豆を原料にした粉末の健康食品にての、一命を取り留めた。そんな話を当人から聞いてましたです。
勿論、大豆だけでは無いですが。その先輩、体の右半分の自由を失い乍らも、会社に出勤出来るのまでになっててねえ。
云うても、通勤、往復タクシー。社内を移動するに、部下に体を支えて貰っての事でして。

ではありますが、私の出来ることと云えば、その健康食品でもを、手に入れ、送ることかと。
正直云うて、大豆の粉で、ガンが治ることを期待しての事で無く。単なるの、気休め程度なれどの、只々、オバを蝕むのガンとやらに、一撃でもを、加えの、少しでも、抵抗したいだけでして。
よって、その先輩に頼んで、大豆の健康食品をば、入手の、従兄弟に送り届けたです。

その数日後、従兄弟から、大豆を有り難う。病院に届けたでと。
されどの、加えての。
実は、モ、殆ど、食事が出来んよになったんやと。プリン程度なら口に入るけれど、それも、吐き出す事があると。

そして、遂にです。
「時間が許すなら、まだ、元気な内に、見舞いに来て欲しい。」
但し、大勢は困る。私と、母の2人にして欲しいと。要は、オジ達<弟>には、悪いけれどの、そっちは、そっちで、連絡すると。

「そか、行かして貰うわ。」
当然の、この話が、イツ、出てくるかと、電話の度、覚悟してはいたですが。
遂に、来てしもたと云うだけでの、返すの言葉、見つからずの、従兄弟とは、至って、言葉少なくの、話でしたです。ソラ、云うてるの当人、従兄弟も苦しいわと。

そやけど、まだ、元気て云うてるなあ。
オバさん、大丈夫やで。絶対に治る。
(12/09/04)